今週の1枚(05.08.15)
写真は、日曜の昼下がりのCremorne Point. お見苦しい足まで敢えて写したのは、この方が臨場感があって面白いかなと思っただけです。自分がこの場でくつろいでいるような感覚をお楽しみください。
三寒四温で行きつ戻りつを繰り返しながら、日毎春めいてくるシドニーですが、日本では盛夏。考えてみたらお盆の真っ最中だったのですね。これをUPする15日(月)は終戦記念日だし。
そう言えば今年は終戦60周年ですね。
「そう言えば」というくらい、こちらではあまり話題になってません。10年前の50周年のときは結構新聞でもTVでも特集記事が組まれてましたが、今年はそういう感じではないです。というか、早くも51周年の時点でやたら静かで「えらい去年と違うな」と思ったものです。10年前のときは、結構キビシかったですね。なんせ、オーストラリアで第二次大戦を語るということは、要するに日本軍がいかに残虐だったか、日本をいかにして打ち負かしたかということであり、その種の話が延々続くわけです。タイメン鉄道でどれだけのオーストラリア捕虜が殺されたとか、ダーウィンにどれだけ爆撃を受けたかとか、あまり日本では放映されることない記録映像が続きました。なんせ、ずっと昔は終戦記念日ではなく、VJ (Victory over Japan) Dayといってたくらいですから、なかなか居心地悪いものがありました。もっとも町を歩いてても全然普通でしたし、特に生卵ぶつけられたり、面罵されたりって経験はないです。まあ、ありていにいって、50周年のときはネタ枯れのマスコミが楽チンな記念記事を特集しただけって気もしますね。
ただ、静かになったところで、無かったことになるわけではないです。「新しい教科書」やらで国内的に「無かったこと」にしたところで、世界は忘れてくれない。「戦後60年も経って」と思う人もいるかもしれないけど、60年ぽっちじゃダメでしょう。1000年くらいは言われるでしょう。なぜなら他の国も似たようなことしてるわけだし、似たように恨まれてますからね。アメリカがインディアンを虐殺して成り立った国だと言うことは、あと1000年は語り継がれるでしょうし、アフリカから黒人奴隷を連れてきてひどいことをしたというのも言われつづけるでしょう。オーストラリアもアボリジニを殺しまくって国が成り立ったというのは言われつづけるだろうし、イギリスがアイルランドに行ってきた数百年の圧制は北アイルランド問題として今尚燃えているし、中東のユダヤVSイスラムVSキリスト教の争いは2000年経っても未だに終息の気配はない。細かにいえるほど知らないけど、アフリカ各地で血で血を洗う内戦が絶えないのも、部族間の圧制と恨みが原点でしょう。
日本人はなんでも水に流してサッパリする国民性だといいますが、これも嘘だと思いますよ。だって明治維新のときの薩摩も長州も、260年前の「関ケ原の恨みを晴らす」という感情的原点がありましたもんね。その薩長にとことんイジメられた会津藩、つまり福島県は、未だに山口県(長州)に敵愾心を持ってる人も多いと聞きます。なかなかマイクを向けてもらえないからその声も聞こえてこないアイヌ民族や琉球民族だって言いたいことはあるでしょう。
大体、現在この地球上の生存している人類そのものが、なんらかの形で征服民族の末裔なのでしょう。「心から平和を愛する民」というのは、何万年も前に部族ごと征服され、虐殺され、消滅してしまっているのかもしれない。私利私欲にかられて、こういった心優しい人々を殺しまくった連中の子孫がすなわち我々なのでしょう。誰も他人のことは言えないんじゃないかなって気もします。
しかしながら、こういう認識が、語らなくてもいい、忘れてしまっていい、無かったことにしましょうよという話につながっていくなら、それは違うと思いますね。強者が弱者を食い物にするような事態が人類史的に普遍的な現象だとしても、それを肯定するか否定するかは別問題ですから。僕は否定しますよ、そういうデスマッチ的な弱肉強食は。もしそれを認めるならば、ある日、暴力団だの暴徒連中が集団であなたの家を襲って、あなたやあなたの家族を強姦し、虐殺し、あるいは拉致して奴隷にしたとしても、正義は彼らにある、やられる奴が悪いんだって考えを肯定することになるけど、僕はそれを肯定したくないです。あなただってしたくないでしょ。皆がやってようがなんだろうが、悪いことは悪いことでしょ。
だから、自分も含めて、誰がどういう悪いことをしたかはキッチリ覚えておかねばならないと思います。人間は馬鹿だから、何度でも同じ過ちを繰り返します。車を運転していてヒヤッとした思いをした直後はソロソロと安全運転するけど、月日がたてば喉もと過ぎれば熱さを忘れるで、また無茶な運転をするようになる。誰だってそうだと思いますよ。
事故というのは、そんなに滅多におきるものではないです。何万時間も運転していて、そのなかのほんの0.1秒の気の緩みが事故につながるわけでしょ。99.999999%は事なきにいたっていても、ほんの一瞬のことで事故は起きる。そして起きてしまえば、自分が一生車椅子にしばりつけられたりするし、他人を傷つけたり殺そうものなら一生重い十字架を背負います。同じように犯罪も、そして犯罪の究極形態としての戦争も、99.99%は平和にやってるんだと思うのですよ。ただ、ほんの0.1%以下の確率で何かが起き、起きてしまったことはあまりに重大だという。カッとなって殺しちゃったという殺人犯も、別に殺人を犯す一瞬前までは普通の人です。ただ、一度そういうことをすると、ドミノの白が黒に一気に変わるように、全人生が真黒であったかのように言われる。戦争だって同じことでしょう。全人類の歴史は殺し合いの歴史だというのも、ある種誇張した言い方で、実際の時間の経過を見てたら圧倒的大多数の時間は牧歌的な平和な時間だと思うのですよ。ユダヤ人を虐殺したナチスの兵士だって、その人の個人史でいえば、村に住む羊飼いで、村娘の前に出ると真っ赤になって何もいえなくなってしまう純朴な青年ハンスだったのかもしれないし、ベルリンのアパートに住むピアニストになることを夢見ていたミカエルだったりするわけでしょ。
犯罪や戦争は、交通事故ほど一瞬ではなく、それなりに「準備」がいるのでもう少しタイムスパンが長いですけど、でも長い歴史からみたら、一瞬みたいに「魔がさした」みたいなことはあるわけです。一旦歯車が悪い方向に噛み合ってしまったら、図体がデカいだけに容易に軌道修正ができなくなる。印刷位置の設定に失敗したプリンターみたいなもので、「あ、あ、あ、間違えた」と思って停止ボタンを押しても、プリンターはすぐには止まらず、粛々と役に立たない紙を印刷しつづけるように。巨大な艦船や高速で走る列車は、いかに急ブレーキをかけようとも、完全に止まるまで数百メートルから数キロの制動距離を必要とするように。ものがデカければデカいほど、手前手前にブレーキをかけねばならない。そのブレーキという意味で、ことあるごとに「ワシらはアホやねん、かつてアホやったし、今後もアホに戻るかしらん」と確認しておく必要があるのでしょう。
その意味で、平和なときから「またアホなことやらかすかもしらんよ」ということは自戒しておいて良いでしょうし、同じようにアホな他人が調子に乗ってたら「調子に乗ったらアカンのとちゃう?」って言ってやる必要はあるのでしょう。
ただ、「言うは易し行うは難し」で、なっかなかそんな具合にはいかんです。
いくら自分らが悪かったといっても、他人から「お前らは殺人者だ、クソだ、ゴミだ、ゴキブリだ」と指差して言われたらムカっ腹も立ちますよね。それに平和なときに事故のことを想像しろというのもかなり難しい。どうしたってキレイゴトのように聞こえたり、手垢にまみれた空疎な念仏のように聞こえたりもします。
前者で言えば、ちょっと前の中国での反日デモだったり、やたら事あるごとに中国・韓国の指導者から文句言われることだったりで、なにもそこまで居丈高にならんでもいいだろうって反発感情も起きるわけですね。こういう態度に対しては冷静に対処するしかないと思ってます。冷静に対処って何よ?っていったら、「あんまり相手にしない」ってことです。こっちまでムキになって「日本は悪くない」とやってたって不毛だということです。過ちは過ちとしてしっかり認識し、それを誰にでも分かる形で表現し、しかも過ちを認めることでむしろ尊厳を高めるような感じにもっていくってことです。
第二次大戦のことは、日本人が「もう60年も昔」とかいってたって始まらないです。さっき述べたように、あと1000年は言われつづけると覚悟した方がいいです。あと1000年言われつづけるんだとしたら、禍根は早めに断っておいた方がいい。つまり、付け入る隙を与えない方がいい。
それは例えば靖国神社です。広島や長崎の平和記念碑、あるいは沖縄のひめゆりの塔に日本の政治家が公人として参列しても誰も文句は言わない。でも靖国だと文句をいわれる。なぜか?というと、そもそも「神社」でしょ、政教分離の憲法20条に反しているんじゃないのという素朴な疑問があります。これって素朴なだけに説得的に反論するのは難しいですよ。宗教行為習俗論(クリスマスのように本来宗教的な行為も単なる慣習になり宗教色が脱色される現象)とかいっても分かりにくいよね。日本国政府が、自分たちの決めた日本国憲法に反したことをしてるというのは、日本は自分が決めたことも自分で守れないのかって話になり、「付け入る隙」になる。まあ、日本国憲法は「自分達で決めた」ものじゃないという論理はあるけど、じゃあ新しい憲法を作りましょうといっても、やっぱり政教分離条項を入れるだろうし、まさかそこに「靖国神社は別格」と明文で書くこともできないでしょうから話は同じでしょ。
第二に、神社神道というのは日本の戦争中の精神的バックボーンだったわけです。「日本は神の国で、現人神(あらひとがみ)として天皇陛下はおわしまして、国民は皆神の子(赤子=せきし)であり、神の為に死んだ子は神の社(やしろ)に戻り祭られる」という宗教原理があったわけです。戦時中の日本が狂気に染まっていたとしたら、このコンセプトこそが「狂気の素」であり、その狂気の素をあらわしているのが靖国神社だ、というのは歴史的認識として正しいでしょう。そりゃ個々の国民が必ずしもそんなにマジに信じてはいなかったのは、戦後手のひらを返すように変わったことからも明らかだけど、一応政治的にはそのように徹底されたのは事実です。その狂気の素のご本尊を今尚温存し、あまつさえ総理大臣が参拝するということは、日本はあの頃から本質的には何も変わってないんじゃないかって批判になるわけですね。
でもって、悔しいことにこの批判は結構当ってるんですわね。たしかに未だにそう思ってる人はいます。それどろか隠然たるパワーを持って日本の権力構造の一部を確実に支配しています。彼らの力で当選している政治家は、だから参拝をやめられない。彼らの頭の中身は、たしかに戦時中とそんなに変わってないかもしらんし、悪いことをしたという反省もそんなにないかもしれない。もっとも、そう思う人間がいても、これは構わんです。思想良心の自由ですからね。戦時中の日本の唯一の誤りは、戦争に負けたことだけで、あとは全部正しかったって、そう思う人がいても不思議じゃない、ある種自然な発想ですよ。ただ、そういう人間が日本国民の中にいるというだけだったら問題にはならんけど、一国の首相がそれをやるというのは、やっぱり「付け入る隙」になると思いますね。現になってるし。
余談ですけど、だいたいなんで戦後に靖国神社を残したのかよう分からんです。別に靖国なんてぶっ壊しても本家本元の皇居、そのさらに本元の京都の御所、神社的にいっても明治神宮、伊勢神宮、出雲大社と錚々たるHQ(本社)が残ってるんだから支障なさそうなものなのに。それに、当時のマッカーサーだったら出来ないことはなかったろうに。天皇その人すら処刑することが出来たマッカーサーが、なんで残したんだろうね?いっくらでもやりようはあったと思うのですよ。代々木あたりに広島と同じ平和記念館を建て、靖国と分離させる。また靖国は潰して、靖国に合祀されているという英霊は、神道的な作法でどっか別の伊勢神宮にでも移せばよかったのです。他にもいろんなやり方はあったと思います。それなのに靖国という超わかりやすい、つまり超付け込まれやすいモノを残したのは、これは「禍根」だと思います。天皇が人間宣言をすれば、この宗教原理コンセプトの根本がガラガラと崩壊し、理論的にはガラクタになるからそれで十分だと思ったのでしょうか。
なにがそんなに「禍根」かというと、土台や立地が悪すぎるってことです。
靖国支持者の人の言い分もわかるのですよ。国のためを思い、というかありていに言えば故郷を思い、両親を思い、恋人を思って死んでいった若い兵士達がいるわけで、彼らもまた一種の犠牲者だし、他国からは鬼呼ばわりされたとしても、同民族やその子孫くらいは彼らの真情や無念さを祭ってあげてもいいと思います。ましてや我が子を戦場で失った家族の思いは、人の情としてわかるし、これはこれでおろそかにすべきではないです。その思いは、他者に非難される筋合いじゃないでしょう。だから靖国容認論者はそこを論じるのでしょう。
そのこと自体は世界に通用する論理だと思います。が、足場が悪いのですよ。その心情を寄りかからせる土台が、狂気の素のような靖国神社になっちゃってるから、物凄く誤解される。ネオナチ的な連中のご本尊も、素朴に肉親の(あるいは一個の人間としての)情として追悼の意を表す場所も同じってのはマズイ。区別がつかなくなるし、ハタから見たらミソもクソもごっちゃになってしまっている。
さらに良くないのは、他国がそれを非難すると、その非難がこの肉親の素朴な情にまで及んでいるかのように思いますよね。仮に他国側にその意思がなかったとしても(あったとしてもそこまでは国際社会の建前上言えないでしょう)、言われたこちらとしては、そこまで文句を言うか?と逆に反発するものを感じるわけですよ。話はどんどんこじれる。
でもって、ここが戦場になるわけですが、戦場として選ぶべきは、なによりも立地です。地の利を得ないと勝てるものも勝てない。「戦い」とか「勝つ」とか何の話かというと、さっきも言ったように1000年恨みは消えないという前提からすれば、今後ことあるごとに他国に「戦争カード」を使われては溜まらんわけですよ。例えば将来に日本企業が中国でバンバン稼いで中国企業を圧迫するとします。中国政府としても日本企業が目の上のたんこぶになるってことはあるでしょう。その場合、日本企業の足を引っ張るために、例の反日デモを裏から炊きつけ、工場を破壊したり、活動できなくしたろうかみたいな汚い手を使わないとも限らんのですね。これは中国だからってことじゃなく、政治経済の現実として、何処の国でもその程度の汚い手は使うでしょうからね。そうなった場合、またぞろ戦争カードを出されて、話を曖昧にさせられたら溜まらんのです。これがあと1000年続くとしたらますます溜まらんわけです。だから、そうさせないように、付け入る隙を与えないように、クレバーに要所要所をシメていくしかないです。それはすなわちもう一つの「戦い」であり、それに勝たないと意味がないと。
でもって、靖国を足場や土台にして戦ってても、存在それ自体が「狂気の素」という場所でやってたら、明らかに不利です。世界中の誰にも非難されない、非難させない、日本人の言い分や心情もまたあるわけです。それを守り、表現するためにも、妙な難クセは排除しなければならない。そのためには、難癖を難癖だと明瞭に浮かび上がらせないとならない。それなりの舞台設定はいる。ここで靖国を戦場にしたら、世界的に見ても、中国や韓国が文句いうのも「一理ある」と言う具合に見えてしまうんですな。実際どうしようもなく一理あるんだもん。これはマズイよと。
戦後の日本が世界からどう見えているかは、今の僕らがオウム真理教をどうみているかに似てます。
彼らの中の、おそらく圧倒的大多数は真面目に人生を考え、誠実に生きようとした人達だったのでしょう。ただ、麻原とその側近連中が暴走し、サリン事件を引き起こした。これも戦時中の日本に似てます。というか、組織が狂うときというのは、大なり小なりそういうもんだと思います。サリン事件が起き、公判が粛々と進められ、一件落着です。さてここで、オウム真理教が未だにそのまま温存されて活動してたらどう思います?あんな組織つぶしてしまえって思う人もいるでしょう。これが敗戦国の扱いですわね。ドイツのように東西分裂させられたり、国をつぶされたりします。日本は幸いなことに絶妙な東西パランスの上にあったのでつぶされずに済んだ(悲惨なのはとばっちりを食った韓国で南北に分離させられた)。
そのオウムが(今はアレフでしたっけ)、「完全に生まれ変わりました」という宣言とともに日々の活動を再開している。まあ、そこまではいいでしょう。でも、そこでですね、未だに麻原の大きな写真を本尊に掲げて皆で拝んでいたらどう思います?「何にも変わってないんじゃないか?」って思うんじゃないですか?靖国はコレなんですよ。はたから見るとそう見えるんだわ。だから、マズイ、マズイよって言うわけです。オウムの人々にも言い分はあろうかと思うのですよ。自分たちは真面目にやろうと思ってただけだし、真剣に生きようとしていただけだって。麻原その他のおかげで、自分たちの本来的な誠実さまで根こそぎ否定されてはたまらんって。でも彼らの言い分に耳を傾けようという気になるかどうかですけど、麻原の写真を飾ってたら耳を傾ける気にもならんでしょ?「口先だけじゃん」って思ったりしませんか。
さらに、またサティアンみたいなのを建てて、サリンを作ってたとします。「またやるんじゃないか」って気がしますよね。これが今の自衛隊ですね。「いや、今度のサリンは防衛のみに使うわけで、前回のように無差別に地下鉄に撒いたりしません。しかし、我々には敵が多いので、襲い掛かられたりすることもないとは言えないから、そのときのためにサリンを用意しているだけです。別段他意はありません」って説明されてもねえ、「他意あるじゃん」って思うでしょう。
というわけで「マエ(前科)がある」と、なにをやっても言っても疑われるんですね。だから、戦争なんてやるもんじゃないんです。もっと正確に言えば、負ける戦争はやるべきではない。一回負けたら1000年祟るんだから。
ですので、今からでも遅くはないから靖国とは別に平和慰霊塔でも東京に建てるべきでしょう。実際、そう建言している国会議員はけっこういると聞きます。
あと、新しい教科書とかそのあたりの動きも、結果的には「付け入る隙」を与えているだけって気もします。
日本が悪かったとか悪くなかったとか、ある意味どうでもいいことだと思ってます。どこの国でも、叩けばホコリが出るんだから。悪いって言ってたら、誰も彼も皆悪いですわ。必要なのは正確に何があったのかを知ることだと思います。
ナショナリズムって国内や身内でワイワイ言ってたって意味ないです。自分が海外に出て、ひとりぼっちで、世界中の人に囲まれたとき、そのときどれだけ堂々と言えるかが大事であり、もっと大事なことはそこで他の人々を「なるほど」と思わせられるかどうかです。そうでないと現実を変えられないわけでしょ。現実を変えようともせずに、仲間内でワイワイ言ってたって、負け犬の遠吠えにしか聞こえないんです。じゃあ勝てばいいのかって、強大な軍事力を持って、巨大な国家的自己中を貫いたら貫いたで、今度は世界から嫌われる。今のアメリカがそうです。
新しい教科書の真意が、日本人に誇りを持たせ、胸を張って世界に誇れるようになることだとすれば、僕もその趣旨は賛成ですよ。でも、そのための方法論で言うなら、まず英語で書けって言いたいですね。日本語で喋ったって誰もわからんのだもん。世界中の誰もが納得するような表現と行動を取らないと意味がない。そして、そこでモノを言うのは、「こんなに悪くない」という事実を積み上げることではなく、被害国でも舌を巻くくらい「これだけのことをした」としっかり知ってることだと思います。そういう人間が言うことでないと誰も耳を傾けないよ。そのうえで「でもね」と続けるから、人は聞くのだ。
そんでもって、直接その当時の時代に生きてなかった僕らの世代が個人的に謝る必要はないと思ってます。だって自分は何もしてないんだもん。僕らに出来るのは、過去の事実から何を学んだかであり、その学んだ事実を実践に移しているかです。それは誰だって同じことでしょう。もし学ぶ機会がありつつも学ばなかったら、そして学びつつも実行に移してなかったら、それは非難されてもしょうがないですよ。
だから、ちゃんとよく知って、よく考えて、そのうえでバランスの取れた意見を持つってのが(それを英語で的確に表現できることも含め)、最強の武器になると思います。実際、あなたが海外に出たとき、それが一番武器になりますよ。教えるならそれを教えた方がいい。
それと中国で反日デモで旗振ってる若い連中とか、日本や世界のネオナチ君達ですが、あーゆーのはほっておいたらよろしいと思います。どこの社会にも馬鹿はいますから。フーリガンといっしょ。
大体、ナショナリズムに乗ってしまうのは、何処の社会でも、あんまり自分に自信が持てなくて、実際にも社会に居場所がない人が多いです。人はどこかの集団に所属したいっていう本能があるし、出来れば誇りうる集団に属したいという欲望があります。「栄光の巨人軍」に入りたいと星飛雄馬が思ったように、有名大学に入りたいとか、一流企業に入りたいとか、名門チームに入りたいとか。もっとも、あふれるほど自信がある人は、そういう欲望は希薄でしょう。どの集団よりも、どの世俗的な権威よりも、自分の方が上だと思ってるから、わざわざそんな集団に入って「栄光の自分」を薄めたくないでしょう。
逆に自信があんまりない人、また世間的に誇れるようなモノも持ってない人にとって、手っ取り早く誇り高くなれ、お手軽に栄光の集団に所属できるもの、それが国とか民族とかいうものだったりします。あれは楽チンだもんね。日本だったら日本人に生まれればいいだけだし、中国人だったら中国人に生まれればいいだけだもん。それだけで、「栄光の○○」になれ、「栄誉ある○○」に所属できる。そこで、耳に快い自画自賛演説を聞きながら、盛り上がって拳を振り上げればいいんでしょ。ドラッグだよね。
だから、あーゆーのって、何処の社会でもそうだけど、「ほかに何にもない人」がなりやすいです。そして、その集団の中では、過激であればあるほど尊敬されるから、「日本人は皆殺しにしろ」「黒人は全員ブタ箱に叩き込め」と過激なことを言って、エスカレート合戦になる。で、「行動」ってなにかというと、集団で弱いものを襲うだけ。日本レストランに投石したり、朝鮮人学校のチマチョゴリを剃刀で切ってみたり、アメリカの韓国人のスーパーを襲ってみたり、、、。どんどん過激になって、その分だけ自分の人生を滅ぼしていくという意味では、これもドラッグと同じ。
全員が全員、栄冠を手にすることが出来ない以上、恵まれない境遇に不満を持つ人はどうしても出てくるし、そのうちの一部がお手軽な「ドラッグ」に走ってしまうのも、これもまた当然の話でしょう。だから、こういうアホはどこの社会にも常に存在していて、いること自体は別に驚きでもなんでもないです。
ただねー、こういう現象をアホの一言で片付けていいのかって気もします。最近借りてきたDVDで見た映画で”Higher Learnig""Chamber"というのがありまして、そこでも人種間の問題がシリアスに語られてました。前者は結構駄作っぽかったけど、それでもアメリカの大学内部で、ちょっと「なんだかなあ」って思ってるだけの学生が、極端な白人至上主義者の集団や、黒人集団に取り込まれていってどんどんバランスを失していく過程が描かれていて興味深かったです。「こういうことなんだろうなあ」と。その昔、田舎から出てきた純朴の青年が都会の大学に入って、過激派集団に勧誘され、だんだん過激派になっていってしまうってのも同じことであり、高潔な理想を持ってた若い官僚が周囲に取り込まれてただのイヤなエリート野郎になっていってしまうのも同じことなんでしょう。
つまり、単にアホが旗振ってるだけだったら、まあ話は簡単と言うか、警察がちゃんと取り締まれればいいってことなんだけど、一種の病原体みたいに、ちょっと毎日が「なんだかなあ」って人は、免疫体制も弱ってるから、結構こういったことに取り込まれていってしまうのでしょうね。そして、それが左翼過激派になって部屋で爆弾を作るようになるか、右翼の街宣車で迷彩服を着て乗り込んでいるか、あるいはどっかの新興宗教で集団生活をしてるかなんか、「たまたま誰に出会うか」だけの偶然なんだろうなって。誰かが書いてましたが、全共闘華やかなりし時代に、大学に入ったばかりの新入生が数あるセクトのうちに何処に所属するようになるかというのは、どこのセクトの連中と一番最初に鍋を囲むかだけの違いだと。
もうひとつのChmaberという作品は、もっと根が深くて、アメリカ南部の親子三代にわたってのゴリゴリのKKKを描いたものです。KKK(クー・クラックス・クラン)って、目だけ穴をあけているとんがりフードをかぶった見るからに不気味な集団ですが、結構未だにやってるのですね。今日の地元シドニーの新聞の国際欄でも、もとKKK員が保釈になったというニュースを載せてましたから、全然歴史の遺物ではないのですね。親子三代のKKKに囲まれて育った人間が、いったいどんな人生を選択できるというのだ?という問いかけは重いです。
ああ、アメリカも病んでるなあって思いつつも、こういう映画がひきも切らずに撮られ続け、こういった差別主義者や差別的行為に対する立法措置や現実の行動が連綿として行われつづけていることから、病んではいるんだけど戦っているんだなあってのも分かります。その意味ではエライ国だとは思います。
というわけで「付け入る隙」はなるべく与えない方がいいだろうって話でした。
いくら万全に構えていても、何だかんだ難癖をつける奴はいるから意味がない、柄のないところに柄をすげて文句を言うバカタレはいるし、そのバカタレを国家利益のために利用する指導者だっているじゃないかっていう指摘はあるでしょう。そうですよ、それはそのとおりだと思う。でも、それは我々の日常生活でも同じでしょ。別に珍しいことでもなんでもないし、いまさら嘆くようなことでもないでしょう。
そういったバカタレは別に相手にしなくてもいいんですよ。相手にすべきは「レフリー」です。まったく関係ない第三国や国際社会がどう見るかです。彼らこそがレフリーなんだから。ジンバブエの人や、ジャマイカの人や、スリランカの人からみて、「や、日本はよくやってると思うぜ」って分かってもらえるかどうか、それが大事なんだと思います。
例えば、日本の教科書問題で中国でドンパチとデモが繰り広げられているときに、オーストラリアの新聞のひとこまマンガに、中国の教科書を風刺したのがありました。マンガの中に出てくる中国の教科書では、天安門広場の虐殺、チベットの侵略、人権問題、、、、こういった項目を全部抹消していたりするわけで、その趣旨は「お前(中国)だってどーせ嘘っぱちの教科書つくってんだろ?他人のこと言えるのかよ?」ということです。見てないようで、世間(世界)はちゃんと見てるってことです。
だからやることキッチリやってたらそれでいいんだろうなって思うわけです。ただ、日本がキッチリやってるかといえば、世界はまだまだそうは見てないですよ。なんだかんだ逃げ回ろうとしているって印象を与えてます。「もういいじゃないか」ってのは加害者の口から言っても説得力ないし、言えば言うほど泥沼に陥る。「もう、いいじゃないか」っていうセリフを、第三者的レフリーの口からどう言わせるか、そこがポイントなのだろうと思います。
文責:田村
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