今週の1枚(06.04.10)
ESSAY 254/「座持ちの良さ」と「ソーシャル(social)」という概念
写真は、Rose Bayの高台の住宅地からシドニーハーバーを望む。手前のゴミ箱や路駐車両がなんとなく庶民感をかもし出していますが、実は”超”がつく高級住宅エリア。だって、道路からこう見えるということは、このあたりの家だったら、窓からも同じように見えているってことですもんね。この眺望は安くないですよ。
今これを欠いているのは日曜日の朝です。爽やかな秋空。穏やかな陽射し。ああ、遊びに行きたい、でもエッセイ書かなきゃならない。もう何年も続いてる週末の風景です。チャッチャと書いて自由をわが手に!と思うのですけど、こういうときに限ってネタが思いつかない。日本とオーストラリアの新聞などをネットでパラパラと見ても、あんまりこれといって面白そうなネタがないです。まあ、2週続いた「海外で説明するJAPAN」シリーズもいいのですけど、あんまり続くと飽きるだろうし。というわけで、「なんか書いてるうちに思いつくだろ」というノリでやっていきます。
しかし、「なんか書いてるうち」っていっても、はて、何を書こう?こういうとき、落語家とか、「えー、しかしナンですねえ、、、」などといってスッと話に入っていきます。あれもスゴイですよね。普通そんなにホイホイ思いつかないですよ。まあ、落語の場合はマクラとか最初から考えてある話題があるのでしょうが、多分あの人たちの場合、何も準備してなくても、その場で喋れと言われたらなんか面白いこと喋るのでしょうね。あのあたりのコツというのはどんなもんなんでしょうか。
「座持ちがいい」という日本語がありますが、何かかんか安全無害で、その場の雰囲気に合った、適度に面白い話題を瞬間的に思いついて延々展開していける人のことです。座がシラ〜っとせずに済むわけで、気まずい席などでは重宝しますね。営業マンとか、商売人といわれる人たちもそうです。
ただ、これはもって生まれた性格や才能もあるのでしょうが、多くの場合は後から獲得した技術なのでしょう。大体年齢とともに上手になる傾向があるようです。こういうのは若いうちは苦手ですよね。人前に出てもブスーっとしている。子供なんか特にそうです。「○○ちゃん、大きくなったわねー」「・・・」「今幾つ?」「8歳」「学校はどう?面白い」「・・別に・・・まあまあ」って、そんな感じですよね。それが徐々に如才なく答えるようになっていき、社会に出て営業畑などを歩かされると、自分から話を振ったりするようになります。
学生時代に部活やコンパで盛り上ってる人が、即こういった座持ちのいい人になれるかっていうと、そういうもんでもないでしょう。あれは仲間内の気安い雰囲気ですし、話題もセンスも殆どが共通している連中での話ですから難易度としては楽だと思います。テーブルを囲む面々が、上場企業の部長さんと、前科三犯の極道と、下町の工場主と、日本に来ているベトナムの留学生と、新潟の酒倉の杜氏さんだったら、接点がまるでないから何を話したらいいのか戸惑うと思うのですね。座持ちのいい人は、このメンツであっても「共通の話題」を瞬時に思いつき、誰も傷つけず、誰もが参加できて、誰もが面白いように展開していけるのでしょう。これはもう技術だと思います。
そういえば、その昔米米クラブというバンドを率いていたカールスモーキー石井(石井竜也)という人がいて、その人のインタビューの載ってる雑誌の編集後記に、インタビュー時のこぼれ話が書いてありました。インタビューや撮影などの時間待ちの間、たまたま同席したカメラマンやメイクの人、編集者達が黙然と座ってると、石井氏はいじらしいほど気を使って座持ちを良くすると。横に座ってるメイクの人に、「あのー、お生まれはどちらですか?ああ、九州?いいですねえー、九州。あ、でもこの間の台風はすごかったですよね。大丈夫でした?ご実家の方は?いやあ、台風というとですね思い出すのは、、」とか、一人で話を振って場を盛り上げようとするらしいです。見かねた編集者が「石井さん。あなたこの中で一番のスターで大物なんだから、そんなヘコヘコしなくたっていいんですよ。ドンと構えていればいいんですよ」と言っても、「あ、いや、なんかこう気になっちゃうんですよね、シーンとしてると」と言い、しばらくは黙ってるんだけど、やがて「ああ、お茶冷えちゃいましたよね、新しいのいれましょうか?」とか始まるという。
このエピソード読んだ僕は、単純に「ああ、いい人なんだな」と好感を持ってましました。実際この人ルックスいいわ、多方面にわたる才能あるわ(日展にも二科展にも入賞してるし)、インタビュー読んでもかなり知能指数の高い人だということは分かりますが、それより何より座持ちを良くするためにヘコヘコしちゃうってところに惹かれますね。サービス精神とかエンターテイメントとかいうよりも、根が優しいのでしょう。
「男は黙って」系の無口な人もカッコいいし、口下手な人は愛らしいし、無愛想な人も不器用なだけだと思えば許せます。だけど、こういう座持ちのいい人も、実はエライもんだなと素直に思えるようになりました。昔は、このテのやたら愛想がいいというか、ヘコヘコしてるタイプのことを、ネガティブに見る傾向がありました。どことなく胡散臭いというか、卑屈な小物感があるし、ただのお喋りというか、どっか信用できないかのようなイメージもなきにしもあらず。勿論ただ卑屈なだけとか、逆に尊大なだけとか、下世話なおしゃべりってのもあります。沢山あるかもしれない。でも、必ずしもそーゆーことだけではないな、と。純真素朴に人のことを考えて座持ちをよくしようという人だっているし、結構皆さん気を使って努力をしているんだなあってのがわかってきたわけですね。
逆に、ブスッとしてればカッコいいんだ、クールに見えるんだってことでやってる奴は、逆に「あ、コドモね。カッコ悪いね」って思うようにもなりました。誰だって、なじみの薄い人たちと一緒にいれば気詰まりだし、シーンと静寂が支配してたら気が張って不快でしょう。皆がなごやかに過ごそうと努めているときに、一人だけブスッとしてたら雰囲気が暗くなります。他愛のないことでも話していれば気もまぎれるし、退屈しのぎにもなるし、なにより意味なく気を高めていても無駄だし、心身への影響という意味ではマイナスですらあります。だから、自然にリラックスする方向に共同で働きかけてもいいんじゃないんですかね。
無論たまたま列車で同席したとか、基本的には単体バラバラである状況であってもとにかく何か喋れってを言ってるわけじゃないですよ。なにかの集まりなどで同席する必然性があるような場合、ブスーっと沈黙してるよりは、適度な会話で場を和らげようと思うのは人間として自然なことでしょうって言ってるだけです。違うかな?
「いや、俺はそんなことはないぞ。静かにしてる方が好きだぞ」という人もいるでしょう。それはあなたの好みだから否定はしません。しかし、あなたがそこに居ることによって、周囲の人に対して何らかの影響は与えているのは事実でしょう。ブスッとした奴が同じテーブルにいるだけで、他の人は気分悪いわけですし、あなただって逆の立場だったら気分は良くないでしょう。パブリックの場に存在する以上、パブリックのオキテというものはある。「いや、俺のことなんか気にしてくれなくていいよ」と言うかもしれないけど、じゃあ、あなたの隣に変なカッコしたおっさん(例えば意味なくカブトをつけてるとか、赤フンドシ一丁とか)にずーっと立ってたらイヤでしょ。あなたがホームで電車を待ってても、道を歩いてても、ずっと横をついてこられたらイヤでしょう。「なんだよ、お前は」と怒って、「いや、ワタシのことは気にしてくれなくてもいいです」って答えられても、「そうか、気にしなくてもいいのか」とは納得できんでしょう。人間一人、同じ空間に存在してるってのは、それなりの影響力があるわけであり、一人前の人間だったらその影響力について多少は責任をもてということです。「俺のことは気にしてくれなくていいよ」と言うだけでは責任をとったことにはならない。
といって、常にヘラヘラお喋りしてろっていうわけじゃないです。人間誰しも気分が悪いときもあろうし、心配事でそれどころではないときもあろうし、生来的に口ベタや不器用な人もいるだろうし、本当に一人でいたいときもあるでしょう。別に無理をしろって言うつもりはない。同席している人がちゃんとしたオトナだったら、そのあたりは見抜きますし、そっとしておいてくれるでしょう。でも世間には、多少自分の状態がよくなくても、他人への悪影響は極力減らそうする人もいます。というか、それが普通でしょう。別にやたらと喋る必要なんかなく、険しい表情をちょっと緩めるだけ、ギスギス尖ったオーラを春風のように丸みを持たせるだけでいいです。「無口なんだけど、感じのいい人」というのは世の中に沢山いますもんね。
というわけで「仏頂面してる方がクールに見える」とか、「うざったい世間話なんかできるかよ」「そんなの興味ねーよ」とか思ってる奴は、やっぱコドモだと思いますよ。だってさ、クールに見られたいとかいうのは、要するに自分の見栄しか考えてないわけじゃん。他人のことなんか全然考えてない自己チュ-と言われても仕方ないでしょ。あと、世間話に興味があるとかないとかいうのも、これも自分の知識や興味の範囲が狭いだけって場合もあるでしょう。最先端のガン治療の話と、アフガン情勢と、バラの育て方と、企業会計の連結財務諸表の読み方とを同時に展開できるだけの知識も教養もないし、それを習得することを怠ってきたわけでしょ。別にそれは悪いことではないけど、未熟っちゃ未熟ですよね。だからコドモだと。
まあ、そうは言っても、興味のもてない話や他人の自慢話を延々聞かされるのもツライものです。下品な話とか、一方的な見解を押し付けられるのもイヤなもんです。また、話題によっては、座の雰囲気をブチ壊しても問題提起をしなければならないときもあるでしょうし、なあなあで済ませてはいけない場合もあるでしょう。
だから、とにかく何でもいいから愛想笑いをしておけってことでもないし、黙ってりゃそれでいいというものでもない。もちろん見境無しに喧嘩を吹っかければいいというものでもない。どこにその基準はあるのかといえば、「そんなのオトナだったら分かるでしょ?」って感じなんだけど、強いて言えば、利他的にやってるのか、利己的にやってるのかってことでしょうか。自分がいい気分になりたいというのが主たる理由で、他人の都合も感情も考えずに語ったり、仏頂面をするのがダメパターンで、他人をちょっとでも気分よくしてあげようという無償の好意で喋ったり、引いたりするのがOKパターンなのでしょう。
まあ、こう書いてしまうとクソ当たり前なことなんだけど。でも、そのクソ当たり前のことが出来てるか?っていうと、結構怪しい。大体僕自身そんなにエラそうに言えるタイプではなく、あまりにしょーもない話を聞かされるとむかっ腹が立ってくるし、「これは聞き逃せんぞ」と思うとその場でズケズケ言っちゃう方かもしれない。また、自分自身がついつい喋りすぎてしまうキライがあるのは重々承知してます。ほんと、「しっかりしろよ、俺」って感じなんだけど、それでも馬鹿は馬鹿なりに進歩はしたいと思っとります。思ってるだけじゃダメなんだけど。
オーストラリアの人々はそのへんの所をどう考えているのか?というと、正直あんまりよく分からないですが、キーワードとして思いつくのは、「ソーシャル(social)」という言葉です。「社交的」って訳になるんだけど、日本語で「社交的」というと、なんかビシッと盛装して社交ダンスでも踊ってるかのような、あるいは赤ら顔の太ったおっさんが扇子を広げて「いやいやいや〜」と大声で乱入してくるようなイメージがあったりしますけど(ないか?)、本来的な意味はそういう絵に画いたような情景ではなく、初対面の人とも気さくに付き合えることであり、より突っ込んで言えば、「相手を思いやりつつ適度なコミュニケーションがフレキシブルに取れる」ってことだと思います。
こっちのパーティーとかにいくと時々疲れるのですけど、まあ皆さんよく喋るわけです。で、特に仲良しグループが固まるって感じでもなく、手当たり次第に誰とでも会話をしてるのですね。こっちのパーティーって、ホームパーティーであっても、相互に全然知らない人ばっかり集まり、どうかするとホストすら知らない人も混じってたりします。ほぼ全員初対面みたいなケースも多いのですが、それでも気さくに会話の花が咲いている。最初のころは何を喋っているのかさっぱり分からかったけど、段々聞き取れるにしたがって、非常にしょーもないというか他愛のない話だったりすることが分かってきます。そんなに熱中して喋らなければならないような話題じゃないでしょ?って話ですね。
ただ、この「他愛のない話」ってのがミソなんだろうって思うのですね。よくパーティの席上では政治と宗教の話はするなって言いますけど、この種の話はやっぱりその人の心の核心に関わってる場合が多く、それゆえ話がシリアスな方向に流れていったり、険悪なムードになってしまったりする可能性が高かったりするからまずいのでしょう。相手が敬虔な信者だったら、宗教について迂闊に冗談っぽいコメントはできないでしょう。親兄弟をテロで殺された人に、テロのジョークは言えないでしょう。そして相手が何を信じて、どういう政治的立場にあるのかも分からんわけです。地雷原を歩くようなものです。だから、避けた方が無難なのでしょう。
だとしたら、会話というのは限りなく薄っぺらに、無内容になっていくじゃないか、ズシッと実のある話は出来ないじゃないかって思うでしょう?そうなんですよね、日本人的には幾らパーティーといってももうちょっと内容のある話をしてもいいんじゃないかって気もするのですが、それを敢えてしないところが「ソーシャル」たる所以なのかもしれません。無内容であること、他愛のない話題であることをもって尊しとするという。
何故か?というと、根っこにあるのはおそらく西欧人の個人主義ってやつだと僕は思ったりするわけです。人は皆バラバラなんです。完全に自分と波長が合う人なんか、そうそういるわけがないし、そんなものを他人に期待してはいけない。そこを過度に期待することは、その他人を束縛することになる。「人それぞれ」って意識は、日本人にも勿論ありますけど、その意識の深さが日本人が水深30メートルだとしたら、彼らは100メートルくらい深く思ってるんじゃないか。それがどう繋がるかというと、自分が面白い話だと思っても、相手は全然面白くないかもしれないし、それどころか深く傷つけてしまうかもしれない。自分の胸中をブチ撒けたり、正直に思ってることを何でも語るのは、すごく楽しいことであり、カタルシスもあるのだけど、リスクも大きい。そのリスクを考えると、あたりさわりのない、毒にも薬にもならないことを喋ってる方が無難なのでしょう。
これは日本でも基本は同じで、例えば、家族っていいもんだな、私はお父さんが大好きでとか、子供が今度5歳になって可愛い盛りでとか話しますよね。でも、それを聞いている人々のなかで、早くして両親を亡くして親の愛を知らない人もいるかもしれないし、なんらかの疾病で子供が欲しくてもできない身体になってる人もいるかもしれない。そういう人たちにとっては、その種の話題で盛り上がられるのはツライと思いますよ。大学入試に落ちた人の横で、自分の合格体験談をベラベラ得意げに喋ってる奴は馬鹿ですが、そこまで分かりやすくなくても、似たようなことはやってしまうリスクは誰でも負ってるのでしょう。それを考えると、話題選びというのは難しくなりますし、コメントだって気遣いに満ちたものになるでしょう。
単一民族、集団主義的な日本人ですら、その程度の心遣いをするのですから、多民族国家で、宗教の違いで戦争になるのが当たり前、同民族同市民であっても人の生き方は千差万別である社会においては、何をどう話してもどっかで差し障りが出てくるのでしょう。それをどこまでイヤというほど知ってるかどうかです。自分と他人は違うんだ、もう徹底的に違うんだ、自分が面白くても、それで傷つく他人はいるんだってことをリアルにしってるかどうかです。そこをリアルに認識すればするほど、迂闊なことはいえないです。
余談ながら、「迂闊なことは言えない」という意識が強いからこそ、"politically correct"って概念があるのでしょう。この概念は、ずっと昔に書き始めて挫折してる((-_-;))オーストラリアの現代用語の基礎知識でポーリンハンソンの項目で解説しました。興味のある人は、こちらをどうぞ。
しかし、何も言えずに押し黙っていては、雰囲気は気まずくなるし、下手をすれば険悪になります。そこで、毒にも薬にもならないけど、適当に面白く、誰が聞いても笑えるような話題と話術は、社会に生きて行くための必須技術になっていくのでしょう。それをもって「ソーシャル」というんじゃないかと。そして、こっちの人って大抵話が上手ですね。英語だからそう聞こえるだけかなと最初は思ったけど、冷静に考えても、ツカミ→引っ張り→盛り上げ→オチ、というエンターテイメントのツボを結構心得てたりすると思います。逆に、エンターティメントにならないような愚痴とか不幸自慢は嫌う傾向があるようです。
じゃあ、こっちの連中は一生そうやって内容空疎な話をしながら死んでいくのか?というと、そんなことはないです。気のあった友達同士、仲良しグループのパーティだってあるわけだしね。シリアスな話をしたかったら、シンポジウムとか市民団体とかコミュニティに会合とか幾らでも場面はあるし、政治的なフットワークも軽いです。そういう場面では、ソーシャルではなく、ディベートになるし、結構ガンガン言います。また、他者との距離感が日本人のそれよりも遠いからでしょうか、それだけに親密な人間集団、すなわちファミリーというものを大事にします。そして、心にたまったストレスの発散、他人が聞いたら弱音とか愚痴になるようなことは、カウンセリングなどの場があるわけです。つまり機能分散してるのでしょう。日本社会の場合、そのあたりあんまり分散してなくて、会社帰りの一杯で、愚痴も弱音も政治的議論も馬鹿話も全部やります。だから、逆に「ソーシャル」という概念が中々わかりにくいのかもしれませんし、僕にしたって分かってるのかどうか怪しいもんです。
さて、ここまで書いてきて繋がってきたのですが、「えー、しかし、ナンですねえ」という座持ちを良くするための罪もない歓談というのは、つまりは英語でいうところの「ソーシャル」という概念に相当するのでしょう。そして、そういう座談芸みたいものを、僕がだんだん理解し、評価するようになっていったのも、この種のソーシャル的態度のベースにある「他者に対するオトナの思いやり」というものが分かるようになったからなのでしょう。逆に言えば、そのあたりを日本社会で理解してないと、外国にでていったときに「ソーシャル」という人々のコミュニケーションスキルも理解できないでしょう。これは、英会話などを勉強するにあたり、一番最初に覚えておくべきことなのかもしれません。
文責:田村
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