今週の1枚(06.03.20)
ESSAY 251/エッセイと個体発生
写真は、何を逆立ちしてるんだ?と思われるでしょうが、この週末にダーリングハーバーで開催されたカポエラ・ブラジルフェスティバルの風景です。中々面白かったですよ。カポエラというのは知ってる人も多いでしょうが、足技主体のブラジルの格闘技で、手を鎖でつながれた黒人奴隷の闘争を源とするらしいです。ブレイクダンスの源流でもあります。これを主催しているのがシドニーにあるカポエラの学校で、そこの校長さんとおぼしき人が、司会はするわ、太鼓は叩くわ、かなり凝った劇を演出するわで頑張ってました。週一回のカポエラ教室、8週ビギナーコースで150ドルだそうです。いかがですか?
わりとまとまった内容の回が続きましたので、今日はちょっと抜いていきましょう。まだこの時点では何を書くか全く決めていません。何も決めずに適当に書きはじめてしまおうってことです。
「創作の秘密」というほど大袈裟なものではないですが、「いつもどうやって書いてるんですか?」と聞かれることがママあります。どうやって書いてるんでしょうねー。もう251回目ですもんね。我ながら「よくやるよな」って思います。これ、以前にも書いたと思うのですが、最初に「これを書きたい」ってネタがあるときは楽なんですね。以前に16回連続で「英語の勉強の方法論」シリーズをやりましたけど、あのときは楽だったです。書くべき内容が頭に入ってるときは、あとは文章化していけばいいだけですから、書く作業は面倒ですけど、書けばいいだけです。
でも、書くべき内容が決まってないときは苦しいです。ネタ探しに本を読んだり、インターネットを流してみたり。それで、「お、これでいこ!」って見つかるときはいいですけど、適当に面白いけど一本にはならんなって場合が多いです。一回20行くらいで終わる個人ブログなら十分題材になるだろうけど、一回200行とか300行のボリュームになるほどには育っていかない。まあ、面白いけど「それがどうした?」「それだけの話だよな」って自分でツッコミを入れてしまったりします。で、ボツ。
逆に、何かのキッカケで「お!」と思うことがあり、これは一本に育つなって感触もあるのですが、それを文章化していく作業に四苦八苦するときもあります。はじめは頭の中をちらっとかすめるだけです。視界の隅でカラスで飛んでいくくらいの感じ。それをパシッと捕まえて、「あーでもない」と考えていって、「要するにこういうことだろ」と結晶化する作業があるのですが、これに手こずる場合があります。このエッセイの一回目の「ガビーンの構造」なんか、比較的スッといった方です。これが楽にいったので、味をしめて、「なんだ、簡単じゃん」とか思ってエッセイを始めてしまったのが運のツキだったりするのですが。
自分の心の動きとかで、「ああ、こういうことってあるよな」って新発見したりするとそれがネタになるわけですが、それが適当なボリュームで収まるものだったら結晶化作業も楽です。しかし、最初は指先でつまみ上げる程度の断片であったものが、「どういうことなんだろう」と考えて発掘していくうちに、実は途方もなく巨大なものだったりして、どうにも収拾がつかなくなることもあります。裏庭で庭いじりをしていて、シャベルの先にカチンと当る物がある。「なんだ、これ?」と思って掘っていったら、全長30メートルの恐竜ブロントザウルスの化石だった、みたいな。「人間ってなあに?」「要するに経済って何よ?」「文化ってどういうこと?」などの巨大なテーマに連なっていって、「どひゃー」となってしまう。こうなると苦しいです。適当なところで切り上げないと終わるわけないのですが、その「適当なところ」って何処よ?ってのがまた難しい。あんまり小片に分けてしまうと面白くもなんともないし、かといって広げすぎると論文みたいになっちゃうし。
「論文」という単語で思うのですが、結構まとまって書いてますし、内容が難しいときもあるから、論文っぽく感じられる人もいるかと思います。でも、論文じゃあないです。そんな高尚なものを書いているつもりはないです。ただの雑文。まあ、英語では論文のことをエッセイ(essay)というので、この両者を区別すること自体、余り意味のないことかもしれません。ただ、日本語のニュアンスにあくまでこだわれば、僕の書いているのは、論文ではなくエッセイです。随筆というか、もっとくだけた雑文。
何が違うのよ?というと、僕の感覚では、論文というのは、学術論文のようにその内容に普遍性、一貫性、論理性、正確性がないとダメです。学問というのは、皆でよってたかって巨大な万里の長城を築いているようなものだと思うのですね。で、皆がそれぞれ自分で焼いたレンガを持ち寄ってきて積んでいく。このレンガが学術論文なのでしょう。レンガがイビツな形をしてたり、脆かったりしたら壁自体が崩れてしまうわけで、レンガのクォリティにはそれなりに厳しい制約があります。いわば人類の英知の集合体に参加できるだけの資格をクリアしてないと、それは論文たる名に価しないとおもうわけです。世界中の何処に出しても恥かしくなく、他の天才たちが自分の仕事を無条件に信じてその上に研究を続けていってもOKなもの。独りよがりの思い込みで書いたりしないこと、可能な限り正確であること、世界の誰が読んでも「こうとしか理解のしようがない」というくらい一義明晰なもの。ああも読める、こうも読めるなんてのはダメ。だから論文というのは、それだけのクオリティを求められますが、でも同時に、別に面白くなくてもいいわけです。文体表現がユニークだとか、比喩が奇抜だとか、論理展開がアクロバットで面白いとか、そういうのは要らない。
まあ、こんな厳格な意味での「論文」は、大学の紀要とか学術専門誌に発表するくらいしかないでしょうし、英語でも"essay"ではなく、"disertation"" memoir""reserch"などの言葉を使うようです。このレベルの「論文」を比較の対象に持ってきて、僕のこのエッセイは「それとは違う」とか言ってみても、「そんなこたあわかってるよ」と言われるでしょう。でも、そういったレベルの高低という意味だけではないです。大学生の卒論レベルや、小学生の夏休みの研究発表ほどにも論文っぽくすらありません。もっと本質的なところで論文じゃないです。
論文というのは、Aという事実なり、認識なり、つまりまとまった意味を持つ情報を、他者に伝達するところに本質があると思います。ああ、「まとまった意味を持つ情報の伝達」というだけだったら、時刻表なんかも入っちゃうな。それだけじゃなくて、えっと、「ある特定の人(集団)の知的作業の結果として」とでも入れておきましょうか。ああ、でも、列車のダイヤを組むという作業は「知的作業」といえなくもないか。むむ、定義というのは難しいですね。まあ、そのあたりの厳密さはうっちゃっておいて、「Aということを伝えたい」というのが核心にあるのが論文だと思うのですが、僕のエッセイは伝えることに意味があるわけではないです。
第一に「読んでて面白いこと」です。面白くなかったらダメ。逆に内容が何にもなかったとしても、面白かったらOKです。料理本でも調理方法という情報を伝達する場合、「鍋が沸騰したら、醤油1カップを入れます」と書きます。でも、エッセイの場合、「やっとのことで鍋が煮立ってきたら、ここぞとばかり醤油のボトルをひっつかんでドボドボと中にブチ込みます」みたいな書き方をしますよね。「ボトルをひっつかんで」とか「ドボドボ」とかは、情報の伝達という意味では「余計なこと」ですから無い方がいいけど、エッセイというのは面白くなければならないのでそれが「大事なこと」です。1カップという量でも、「醤油1カップというと結構な量である。でも入れちゃうのである。”げ、嘘、こんなに?”と不安になるくらい醤油を入れるのである」みたいに書くわけですな。論文ではこういうことをやってはイケナイとされます。エッセイはそういうことをしなくちゃダメ。
第二に、ここがポイントなんですが、なにかのインパクトやフックがないとダメ。そして読み手の頭の中になんらかの化学変化を生じさせないとダメ。A地点からB地点への情報の伝達という物理的なデリバリー作業ではなく、ポトンと薬剤を一滴垂らしたら、色が変わるとか凝固を始めるとか、そういう化学変化。何を言ってるかというと、エッセイを読んで、それまで考えもしなかった思考パターンがはじまるとか、こうだと思ってたことが「あれ?」となるとか、世界の見え方がちょっぴり変わってくるとか、読み手の頭や心をちょびっと揺さぶること。それさえ果せたら、別に僕の書いたことなんか綺麗サッパリ忘れてもらっていいです。
ただ、この場合、「主張」「提唱」といった具合にまとまり過ぎるのもイヤなんですよね。「僕の考え方に賛同しなさい」みたいな。読み終わったあと「こうしなさい」と針路を示さないで、あなたの頭の中を揺らすだけ揺らしたら、「あとは勝手に自分でやってよね」と突き放しちゃうのが好きなんですね。これは趣味なんですけど。いろんなものを見たり読んだりした後、それを頭の中でどう再構成するかとか、どう位置付けるかとか、そういうのは個々人のサンクチュアリ(聖域)だと思うから、そこまで踏み込みたくはない、踏み込んではいけないという。
こういう”主張的”な文章も、書こうと思ったら書けます。というよりも、弁護士時代に散々書いてきました。裁判における対審構造では、当事者というのはとにかく「主張」しないと始まらないわけです。だから、訴状だろうが、準備書面だろうが、弁論要旨だろうが、主張!主張!主張のオンパレードです。「これはどう考えてもAでしょう?Aとしか考えられないじゃないですか?Aでしょ?ね?だからAという判決を書こうよ」という。まあ、こういった当事者の主張に「それもそうだよね」と簡単に洗脳されて、そのとおり判決書いてくれる裁判官なんか一人もいないですけど、それでも「Aと言えないこともないのではなかろうか?中々難しい問題ですよね。これだから人生は面白い」みたいな書き方してたらダメなわけです。でも、まあ、その種の「主張」は、もう人の一生分くらいやっちゃったから、もういいです。
まあ、常にそういう具合に書いているわけではないですけど、そうあったらいいなと思ってます。理想なのは、読み終わったら確実の頭の中で何かが変わっているのだけど、何が変わったのか自分では分からないくらいの感じ。また、僕の書いた内容も、読み終わったらすぐにどっかに流れていって
頭の中に何にも残らないくらいなのがいいです。化学反応ってのはそういうものだと思いますから。
だから、論文とは全然違うと思ってます。
論文と全然視点が違うということからさらに言うと、余談や寄り道が異様に多いという点もあります。「ちなみに」とか「ところで」ってやつですね。論旨明快な文章を書こうと思ったら、こんな寄り道は話がこんがらがるからカットすべきですし、この余談をなくしたらもっとスッキリ読みやすくなるでしょう。でも、この余談がイイんだと思ってます。化学反応というのは、どこで起きるかわからないですからね。僕も他人の文章を読んだとき、本論はすっかり忘れてしまったけど、余談部分だけ鮮明に覚えていたりすることがよくあります。だから、余談を思いついたら、基本的に書いちゃうことにしてます。話が多少ジグザグになろうとも、そこにフックされる人もいるだろうし。
それに頭がリフレッシュされる機能もあります。授業中、先生がいきなり全然関係ない話を始めたりしますが、そうなるとホッと一息つけますし、またその関係ない話だけ頭に残ったりします。こういう脱線を嫌いな人もいるだろうけど、僕は好きです。脱線すればするほど面白かったりします。「あれ、何の話だっけ?」みたいなやつ。
そういえば、って書いてるそばから脱線しますけど、授業中に先生が関係ない脱線話をするのを喜ばない生徒なんかいるのだろうか?って気もします。「先生、もっと真面目に授業をやってください」とか「先生、ボクタチ受験が迫ってるんです」とか、本当にそんなこと言ってる生徒なんか実在するのでしょうか。僕自身はライブで見たことは一度もないです。高校のときも、それなりの進学校だったはずですけど、教師の脱線話を喜ばない奴はいなかったように記憶してます。そして、また、この脱線話ってよく覚えているんですよ。授業の本論はすっかり忘れてしまっても、余談だけはしっかり覚えているという。ある先生は自分の大学時代の失恋話や部活の話をしてくれたし、ある先生は狭山事件の話を延々二コマ潰して話してくれました(もう余談の域を越えてますけど)。個人的に嫌いな先生であっても、余談だけは覚えているというのもあります。
でも、そういう話は単に面白かったというレベルを超えて、自分の中に栄養として蓄積しました。当時は「あはは」で聞いてたけど、今から思うとあれはかなりいい「勉強」になってたんだというのが分かります。大体、指導要領カリキュラムに追われている筈の教師が、それでも敢えて雑談をするというのは、その先生のなかで「このことは話しておきたい」って思うものがあるからでしょう。全部が全部ってことはないにせよ、教師個人の中で、なんらかの引っかかり(フック)があるから、余談をするのだと思います。大の大人がそれだけ思うってことは、これはもう結構栄養があって美味しい話なんだろうと思いますよ。それに、自分が子供の頃って、オトナが生身で何を考えているのかってのは、意外と知る機会がないです。「勉強しなさい」的な話は沢山聞くけど、「俺も若い頃はバカやってて」という述懐風の、イチ個人としての生の感想というのは、やっぱりすごい参考になりますよ。「参考になるなあ」と思って聞いているわけではないですけど、結果的にすごく役に立ったという。
これは別に教師でなくても、会社の上司でも同僚でも部下でも誰でもそうですけど、「はー、なるほど、そういう風に考えるんだ」ってのは、あとあと自分の中で栄養になります。同じことを延々繰り返されたら閉口しますし、内容がショボかったり愚痴めいている話は単純に詰まらないですけど、そうでなければ他人の自慢話は、僕はウェルカムです。はい、自慢してください。ヘタな本とか読んでるよりよっぽど面白いし、勉強になる。他人の話は面白いです。「また、自慢話か」とイヤがってないで、面白がれって言いたいですね。
余談の余談ですが、その昔大阪で異業種交流会やってるとき、月イチペースで順番に仲間を講師にしたてあげ、会場を借りて、2時間好きに喋ってもらってました。「え?俺が?別に話すような面白いこと何にもないですよ、平凡なサラリーマンだし」って誰もが最初は尻込みするのですけど、「2時間!独演会!ワンマンショー」とブチあげて無理やりにでもしゃべらせると、結構皆さんノってきてよく喋るんです。そして、これが非常に面白いんですね。自称普通の人の普通の日常くらいエキサイティングなものはないです。本人はあまりに当たり前だから、こんな話がネタになるとは思ってないけど、業種が変わればすごく面白いんですよ。そして、多くの場合、その方が有名人を講師で招くよりも役に立ちます。すごい特殊な人生を歩んできた人の特殊な体験談は、それはそれとして話としては面白いです。でも、「普通の人の普通の日常」という、日頃あんまり気にしない領域が、実はこんなにも奥が深く、広がりがあるのだということを知る方が、僕らの日常において、はたまたビジネスにおいても、とても役立ちます。僕らは知ってるつもりでも、身の回りのことを実は全然知らないですからね。
、、、と余談が続きました。余談がまた美味しいので、情報伝達を第一目的とはしないエッセイの場合、余談を切り捨てることはせずに、わりと大切に書こうと思ってます。もっとも、そうはいっても、そこにも自ずと限界はありましてですね、あんまり脱線が多すぎると何の話だったか本当に混乱してしまってツライし、不快感が高くなるので、「まあ、このくらいかな」というところで切り上げて本論に戻ります。ある程度首尾一貫してないと、忍耐力が持たないし。
とか何とか書いてるうちに結構埋まってきました。書き始めたら何とかなるもんです。
もう少しスペースがあるので、創作についてちょっと書きます。
創作に関する筒井康隆氏の文章を読んだことがあります。たしか、小松左京氏の小説に筒井氏が解説を書いていたくだりだと思います。筒井氏は、創作のプロセス、つまり着想/アイデアを得て、ふくらましていく過程ですが、僕の記憶が正しかったら、「系統発生型」と「個体発生型」に分け、且つ小松氏の著作は系統発生型で、自分(筒井氏)の場合は個体発生タイプだと論じていました。
系統発生型というのは、あるテーマを思いつき、そのテーマに沿ってアイデアなり材料なりを出していき、その材料をもとに小説を書いていくという方法です。確かに、小松左京氏の小説はその傾向があると思います。この方法論でやっていけるためには、まず膨大な知識と世界観が必要です。SFというのは無邪気に荒唐無稽なことを書いていればいいという甘いものではなく、全ジャンルにまたがる該博な知識と、その知識をモトに世界を構築できるだけの強力な腕力が必要です。例えば、「日本沈没」という古典的な名著がありますが、あれも「地震で日本が海に沈んだら面白いだろうな」というテーマなり着想があって、そこから実際にリアルに沈ませていくのでしょう。でも、日本を沈没させるのは容易なことじゃないですよ。まず地震によって大規模な地盤沈下が起きるとしても、地震学に関する造詣が深くなかったら話になりません。また、実際に小説にしていく過程では、気象庁の観測所や大学の地震研究所などが日本全国のどこにあって、どのくらいの規模であって、何人くらい勤務していて、どういう外観で、働いている人の日常生活はどんな感じで、どういう専門用語をつかって会話をするのかというデテールがわかってないと一行も書けないです。さらに、徐々に沈みつつある段階で、日本の経済はどういう動きになるのか、株価はどうなるのか、そうなった場合、政界や財界はどう動くのか、具体的にどの役職にあるどういう人物が、どういう日常生活において、どういう行動を取るのか、これもまた目に見えるようにデテールを知らなければなりません。国際関係や、アメリカはどういう態度に出るのか、その場合どの部局の誰が日本側の誰にどういう形でどういう話をするのか、そのあたりも詳細に書き込む必要があります。あなたはこれら全てについてビシッと書き込む自信がありますか?小説家というのはバケモンだなって思うのはそういうときです。
これに対して個体発生型というのは、テーマから入るのではなく、なんかビビッとくるようなシーン、情景、セリフ、状況、キャラクターがまず頭に芽生えて、それを最も効果的に演出するにはどういうストーリー展開、どういう状況設定にすればいいのか逆算し、物語を作り上げていく方法論です。テーマなどというもは、書いてる最中に向こうから歩いてやってくるし、タイトルも書き終わる頃になると天から降ってくるようなものだという。
こうして並べてみると、個体発生型の方が、なにやらイレギュラーで、トリッキーでとっつきにくそうに思いますが、実際に、僕らが何らかの創作を行う場合、あるいは創作意欲を掻き立てられる場合というのは、こっちの方が多いような気がします。僕自身そんなに創作をした経験は多くないのですが、それでも子供の頃にマンガを描いてたり、大学の頃ギター片手に作曲の真似事なんぞをしてましたけど、やっぱりよく考えると個体発生型です。自分的にグッとくるシーンやフレーズがまず芽生えるんですよね。そのシーンにまず自分自身が感動して、「あ、このシーン、書きたい」って思うのですね。あなたの場合もそうじゃないですか?
そういった、まず自分が感動する「クる情景」というのは、意外とラストシーンが多いような気がします。ストーリーなんか何にも考えてないのに、とにかくラストシーンだけやたらクリアに出来てしまうという。映画監督なんかも、まずラストシーンが先に確固として出来上がるとかいう話がありますし、漫画家のインタビューでも「ラストシーンはもう決まっています」という発言があったりしますよね。本当かどうか全然知りませんけど、名画の「シェーン」なんかラストシーンから先に始まったような気もしますね。「シェーン、カムバック」という声とともに大自然の中に馬に乗った孤独な男が去っていくという。まずそこから先に思いついて、「ああ、いいなあ」と思った創作者が、じゃあ去る前にはそれなりにドラマがないといけないから、それなりのドラマを作りましょって感じじゃないかって。
ちょっと前に夢を見まして、これがまた感動の大作という夢で、あまりの感動のために寝ながら涙が出ましたもんね。夢を見ながら、「おお、俺はなんというすごいストーリーを思いついてしまったんだ、これは人類史に残るくらいの大傑作になる」と真剣に思いましたもんね。これをこの世に産み落とすために俺は生まれてきたのかまで思いましたもんね。でも、起きてしばらくしたら、きれいサッパリ忘れてしまいました。なんてこったい。でも、そのときも一番感動したのはラストシーンでした。どういうラストシーンだったのかすら忘れましたけど、感動の質は覚えてます。この宇宙に生命が存在するというのは、なるほどこういう訳だったのかと、問答無用でわかってしまう、宇宙の真理がわかってしまうという感動です。いやあ、また、そんな夢、みてみたいものです。
しかし、そんな「感動の大作」でなくても、ちょっとした「お、いいな」って断片が先に見つかるのでしょうね。マンガを描く人って、その前提段階でノートの余白に落書きをしたりするところから始まりますよね。最初は好きなマンガの主人公の似顔絵くらいなんだけど、段々凝ってきて全身像でポーズを入れるとか、他のキャラもまぜてシーンとして描くようになります。このとき、どういうシーンを描くかが、いわゆる「お、いいな」と本人的にビビっとくるシーンなのでしょう。だから、個体発生というのは、実は結構素朴でオーソドックスな方法論なのかもしれません。それに、そんなことを言えば、シーン一つで完結している絵画なんかモロにそれですよね。絵画にはストーリーを語るスペースも、クライマックスもラストシーンもありません。単純に一枚の絵だけに全てを凝縮させないといけない。そのとき「こういう絵を描きたい」と思うのでしょうが、それこそが創作の原点のような気もします。
さて、そろそろ店仕舞いしなければなりません。あー、どうもとっ散らかったエッセイになってしまいましたが、また一応頭とお尻をくっつけて首尾一貫している風を装うことにしましょう。
冒頭に論文型とエッセイ型の違いを書きましたが、この系統発生型が論文型になじみ、個体発生型がエッセイ型に近しいのでしょう。まず、ピピッとくるサムシングをみつけて、それを一本にふくらませていく作業というのは、作家がグッとくるシーンを思いついて、それを生かすためにストーリーを紡いでいく作業に似ているような気がします。エッセイには勿論スートーリーや登場人物といった要素はありませんが、一つの断片を膨らませていくという部分では非常に近いでしょう。そして、思ったほどあんまり膨らまなくてボツになったり、本人も収拾がつかなくなるくらい膨らみすぎちゃったりするというのも、似てるのではないかと思います。
ここで「似てるからどうだというのだ?」と問い詰められても困ります。だからどうってことはないです。だからー、そんなことを伝達したくて書いてるんじゃないってば。読んでる過程で、「ふーん」「へー」という化学反応が起きてくれたらいいわけです。化学反応、起きましたか?って、起きたことも気付いて欲しくないわけですし、読み終わったら水のようにきれいに流れていって欲しいです。でも、小さいけど静かに何かが変わっているというのが理想なんですけどね。ま、あくまで理想ですけど。
文責:田村
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