ESSAY 248/「本当に美味しいもの」を食べてください
写真は、City南部のWentwroth Aveの昼下がり
第245回から引き続き書いてます。
産業革命以来の大量生産→物財の豊富な流通→人々の幸福という人類の正義のパターンみたいなものが、1970年以降、環境や資源の破壊という巨大な反作用が知られるにつれて薄らいでいき、人類の歴史は、ふたたび中世と同じく、主観的なものがハバをきかす主観社会に向かっているのではないかという話をしています。
感情/好き嫌い/精神という主観世界は、物財のような客観性を持ちません。
物財的客観性というのは、例えば、メザシと味噌汁だけだった夕食がスキヤキになるとか、見ているTVが14型から液晶50型になるとか、ボロのマンションから豪華な一戸建てに引っ越すなど、とても分かりやすいです。物的にヴァージョンアップすれば、とりあえず幸福感もあります。汚臭の漂うドブ川の横にある4畳半一間のアパートに住んで、朝から晩まで働いて月給20万以下という生活から、庭に玉砂利を敷いた御殿に住み、週末は映画スターも集まるようなパーティーで遊んだり、クルーザーでシャンペンを空けるような生活になれば、まあ、誰だってハッピー度が上がったように思うでしょう。
しかし、主観世界というのは、そんなに分かりやすくはないです。豪奢な生活よりも、草深い庵で読経三昧の生活をする方が自分的には素晴らしいと思う人もいるでしょうし、黒魔術に凝って給料全部注ぎ込んで悪魔的な祭壇を自宅に作ったりする人もいるでしょう。要するに本人が「良い」と思えばそれでいいわけですし、何が好きかなんてのは、それこそタテ食う虫も好き好きですから、基準がないです。非常にあいまいなものであり、個人の自由度も高いかわりに、「海図(チャート)なき航海」のような不安定さがつきまといます。そうなると、「とにかく出世すればいいんだ」「金持ちになればいいんだ」という分かりやすい物財的羅針盤を見失って、人生における指針を見失う人も出てくるでしょう。「何をしていいいのか分からない」「働くことが無条件に素晴らしいことだとは思えない」「何をやっても面白いと思えない」ということで、とりあえずのヒマツブシ的快楽や自分の世界に閉じこもる人も出てくるでしょう。また、そういう個人が増えることで、社会全体の透明度が曇ってくるような局面もあるでしょう。
これらの現象は、バブルが弾けて目が醒めた1990年代以降の日本社会において既にあちこちに見られているでしょう。そして又、明確な指針を見失って不安に陥ってしまった人が、その反動のようにクッキリとしたモノサシを求めるという第二段階の現象も出てくるでしょう。例えば、精神的価値指針が見つからないので、再び強引に物財的な指針に回帰するため、やたら金持ちになったり有名になるのを人生の目標にするとか。でもこれって、多くの場合、代替的に無理やりに目標として掲げていたりしますから、高度成長の頃のような無邪気な力強さが無かったりします。その昔は、「オフクロに腹いっぱい白いメシを食わせてやりたい」など、純朴な原動力があったし、その願望は骨髄まで染み込んでいたでしょう。しかし、今は「さしあたってやることが見つからないので、とりあえず金かな」という、無理やりのゲーム設定みたいな不自然さがあるのではないでしょうか。戦後成長した松下の「水道哲学」などには、「敗戦でメチャクチャになった日本国民の生活を豊かにするんじゃあ!」というユートピア願望に近いくらい素朴なバックボーンがあったわけですが、ホリエモンのライブドアなどの急成長などは、「なんでそんなに金が欲しいの?」というと、ただ単純に自我が肥大していってるだけみたいなアーティフィシャルで実体感に乏しい部分があります。いまさら物財の豊かさに人生の意義を見出そうとしても結構虚しいんだけど、「でもそれっきゃないじゃん」みたいな感じ。
また、社会が無気力になったり、無秩序になっていくことに苛立ちを募らせる人々が、「昔は良かった」的に、昔の家父長的なビシッとした日本人の倫理秩序の回復というアナクロな提唱をしたり、ナショナリスティックな「強い」言動を展開し、「徴兵制を復活し、軟弱なニートみたいな連中の性根をビシビシ叩き直したらいいんだ」みたいな放言に走ったりもするでしょう。ちなみに僕としては、そーゆー問題じゃないだろって思いますけど。なぜなら戦前の日本の軍国主義は、明治以来の富国強兵という文字通り物財主義の権化みたいなところから出発していたわけです。西欧列強の植民地になって奴隷化されたくない、強くなければ幸せになれない、そのために戦う必要があるときは戦おうという必然性があったわけでしょ。少なくとも明治維新から日露戦争くらいまでの間は。そういう物財的合理性に裏打ちされての軍備強化、挙国一致であり、「皆で幸せになるために戦う」という文脈があった。でも、今のは「ビシッとして気持ちいいから戦う」みたいな感じであり、いわばファッション軍国主義でしょ。全然違うと思います。
さて、物財というわかりやすい指針が薄らいだ今日(というか、これから数百年の人類の歴史的段階)においては、誰しも自分なりの分かりやすい指針が欲しいでしょう。しかし最適工業化社会で物財豊富化という大波に乗ってれば、誰でも自動的に幸福になれた時代ではないので、それぞれが自分なりに工夫を凝らして、自分なりの人生の意義を発見しないとならない。
でも、これってシンドイ話だと思います。
いわば好き嫌いで決めればいいんだから楽といえば楽かもしれないけど、好き嫌いといってもそんなにパキパキ好き嫌いが出てくるものでもないです。また、「俺はこれだ!」というものがある人は、どんな時代でもそんなに迷わない。物財中心の時代にあっても、物財なんかよりも自分の主観価値の方が強い人は幾らでもいたし、それなりの人生を突き進んできています。例えば、農業の機械化や政府の減反政策が盛んな時代から、先駆的に有機農法にこだわってやっていた人もいました。それは時代を先取りしてるわけですけど、その当時は「時代に逆行している」といって馬鹿にされたでしょう。儲けも殆ど無かったでしょう。でも、己れの信念という強い指針があった。大学病院のエリートコースに乗ってた人でも、「日本の医療はこれでいいのか」と思って、出世を放棄し、進んで過疎医療に取り組んでいった人も沢山います。
だから思うのですが、これが正しい、これをやりたいって強く思えるものをもってる個々人は、時代がどうなろうとあんまり関係ないのでしょう。物財社会においてすら、主観的価値を貫いていける。だから、社会が主観社会になったからといっても何も変わらない。むしろ、昔よりも奇人変人扱いされる度合が減り、理解者が増えるという追い風状態ですらあるでしょう。ゆえに、前回の最後に書いたように、自分なりの確固とした価値観、人生を賭けても悔いないしと思える圧倒的な「好き嫌い」を持ってる人こそが、これからの時代の真の「エリート」になるでしょう。
しかし、まあ、誰もがそんなに強いわけではない。そんなに強烈な好き嫌いがあるわけでもない。それどころか、そういう「信念の人」みたいな人物を見て、「いったい何を食ったらあんな風になれるんだろうか?」と思っちゃったりするでしょう。そこまで強い好き嫌いがない自分は、東西南北どっちに向かって歩いていっていいのか途方に暮れたりもするでしょう。そして、そういう人が、社会の90%以上を占めると思います。これまでは、「とりあえずいい大学入って、サラリーマンになって、、」と漠然と考えていた層は、その「とりあえず」が無くなっちゃって、逆に「そんなことしても、あんまり意味ないかも。。」と思えてきちゃうわけですから、そら大変ですよ。
これも既に触れましたが、物財主義の工業化社会を効率的に達成しようと思ったら、皆が個性的に生きてくれない方が都合がいいです。誰もが周囲をうかがって、右だということなるとナダレをうって、砂塵を巻き上げて皆が右に走るくらいの方がいい。なぜなら、規格大量生産を支える大量消費をしてくれるからです。日本の奇跡の復興は、このような「皆が競って同じモノを買う」社会によって支えられてきたわけだし、意識的か無意識的か国家もそれを助長した。世界でも珍しいTV局のキー局システムを開発し、書籍の流通は日販/東販に限定し、情報は東京発に統一し、また地方が文化施設を作るときも歌舞伎座のようなディープな地方独自の文化の発展を支えるようなものは作らさず、何でもできるけど何にも出来ない、歌舞伎もオペラも本格的に上演できない”多目的ホール”ばっかり作らさせた。戦後日本の発展は、日本人の「主体性」というものを犠牲にして成り立ってきたともいえます。もともと単一民族、島国根性で主体性を強く表現することを嫌う文化だった日本で、さらにゴリゴリ主体性を削られてしまったわけです。産業革命200年の物財社会の最後の打ち上げパーティのようなバブル経済が崩壊し、日本人が方角を見失って立ち尽くすのは、ある意味では当然過ぎるほど当然でしょう。「失われた10年」どころか、「失われた300年」になりかねない。なぜなら、好き嫌い、それも人生を賭けて、イノチを賭けての好き嫌いというものほど、個々人の主体性を強烈に求めるものはないからです。主体性を殺すことで最大効率の工業化社会を築いてきた日本が、いま何よりも主体性や個性が強く問われる主観的な世の中になって、逆に大きなディスアドバンテージを抱えることになったのは皮肉というか、帳尻が合ってるというか。
では、遅まきながらも(って数百年単位の話をしてるから全然遅くはないけど)、個々人の好き嫌いを開発するにはどうしたらいいか、です。個人の主体性や自由な発想を称揚し、面白いことをやってくれる人々がウンカのごとく出現する社会。そういった人々が、「なるほどこういう素敵な生き方もあったのか」という生き方モデルを次々に示し、強力な一元的な指針はないけど、目移りするくらい美味しそうな指針がたくさんある社会。そういう楽しくて力強い社会にしていくにはどうしたらいいか。
それにはまず教育だと思うのですが、教育といっても別に子供達の専売特許ではない。僕らも、あるいは80歳になっても教育は必要です。言ってみれば人間なんか死ぬまで馬鹿ですから、常に学ばねばならない。学ぶとか、教育とかいうと堅苦しいから、セルフプロデュースとかトレーニングとかいってもいいです。「好き嫌い」を養う教育、信念を育てる教育、強いけれども凝り固まらず、しなやかでバランスのとれた、レベルの高い主観を育成するにはどうしたらいいか?
僕は、これってそんなに難しい話ではないと思います。いや、難しく考えれば、いくらでも難しく考えることが出来るのだけど、そこまで難しく考えなくてもとりあえず答えは出てくるような気がします。なにかといえば、「たくさん感動しろ」ってことだと思います。
どうして僕らの中に好き嫌いが生まれてくるのか、それが嵩じて信念のような価値観が生まれてくるのか、よーく考えるとキッカケは結構些細なことだったりします。一番分かりやすい食べ物の好き嫌い、特に「嫌い」の方ですが、特にアレルギー体質とかいうのを別にすれば、「たまたますごく不味いものを食べてしまった」「本当に美味しいものを食べたことがない」ってあたりに原因があったりするでしょう?そういうのって、本当に美味しい物を食べたら、「うそっ、○○ってこんなに美味しいものだったのか」ってなるでしょう。僕がここで言っている「感動」というのは、そういった些細なことも含みます。感動とは、「ココロを動かされる体験」ですから、別に巨人の星みたいにガーンと背景が暗転して、涙をボロボロこぼしながら「俺はいま猛烈に感動している」って大袈裟なものでなくてもいいですよ。「ふーん」「へー」くらいでもいい。一つ一つは小さくても、それがココロを耕すことになり、感動の土壌が豊かになっていく。
好き嫌いも、「この世界はこうなっている」という認識=世界観の一部です。ある物事を好ましいキャラクターとして認識すれば好きになるし、そうでなければ嫌いになる。そして認識というのは、体験/知覚が積み重なって学習効果に達した場合に生じます。また各学習が全体に体系的に構築されることによってその人の世界観が形成されます。って、こんな抽象的に言っていても分かりにくいですよね。
例えば、「男性観」というのがありますが、物心ついてからあんまり人格的に尊敬できるような素敵な男性が周囲に居らず、イヤな面ばっかり見せられてきたら(体験/知覚)、「男なんかこういう生き物なのか」という学習効果になるでしょう。父親はいつもむっつり不機嫌で、母親と喧嘩ばっかりしている。学校の教師はやたら威張り散らすだけで、くだらない価値観を押し付けようとする。クラスメートの男性はニキビ面して下品なジョークばっかり言ってるカスばかり。電車に乗れば痴漢されるし、洗濯物を干せば盗まれるし、町を歩けば卑猥なひやかしを受ける。で、嫌いになる。「男なんか」って思う。周囲の友達と話をすると、皆似たり寄ったりの感覚を抱いているのがわかったりします。これらの体験/認識/学習が積み重なって、「この世の中はしょーもない男ばっかり」「男なんか下品なケダモノ」という世界観になっていったりするのでしょう。しかし、一方では子供の頃から少女マンガや小説や映画に登場する「素晴らしい男性と素敵な恋に落ちる」という疑似体験を繰り返し叩き込まれているから、そういう世界観もまた脳内には存在する。でもって現実との烈しいギャップに悩み、ちぐはぐな世界観のカオスの中で迷宮に入る。「どっかにいい男、いないかしら」と思う。
男性サイドの女性観も似たり寄ったりだったりします。周囲の女性を見ててもそんなに人間的に尊敬できそうもない。クラスの女子はアイドルの話ばっか、近所のオバサンは噂話ばっか。母親は父親への愚痴か「勉強しろ」しか言わない。電車の中でちょっとダサい男をみたら聞こえよがしに嘲笑する女子高生、うだつのあがらない男性に対しては露骨に軽蔑する井戸端会議のオバハン。人間性に対する深い理解もなそうとせず、ひたすら見てくれやステイタスばかりにこだわる。「女ってなんて愚劣な生き物か」と思う。そのくせ体力最盛期の思春期では火山のような性欲の処理に困り、結局「女はキライだけど、女は死ぬほど欲しい」というジレンマに陥る。
既にオトナになっているアナタにはわかるでしょうが、誰しもこういった迷宮を通り抜け、より多くの体験を積み、視界がひろがり、バランスの取れた広大な地平線にたどりつく。人間性の美点というのは、裏庭にひっそり咲いている朝顔のように通例目立たないところにあったりするし、それなりの洞察力がないとモノなんか見えないことも知る。また自分のことを省みれば分かるように、愚かな妄想世界に遊んでるのも自分ならば、高尚なことをシリアスに考えているのも自分であり、必死でなにかに取り組んでいるのも自分ならば、つい怠けてゴロゴロしているのも自分。ひとりの人間の人間性のハバというのは、揚子江よりもアマゾン川よりも広い。誰しもトイレに行くように、どんな人間にも汚い部分はある。自分にだってある。それが段々許せるようになるし、許せるようになるともっとモノがよく見えるようになる。ただのスケベオヤジでしかなかった上司が、実は裏では左遷覚悟で上にたてついて、「あいつにもう一回チャンスを与えてやってください、責任は私がとります」と必死に部下をかばったりしていることも見えるようになってくる。「なんで離婚しないの?」と不思議だった両親が、「お父さんもね、あれでなかなかいい所があるのよ」と実は心の深いところで理解しあって、許しあっていることも知る。
要するに、「本当に美味しいものを食べたことがない」人間が、それを嫌いになるのは当たり前だってことですね。そして、それを好きになるためには、本当に美味しいものを食べろってことです。
ちなみに半分余談ですが「サラリーマン」というのも正当に理解されていない対象でしょう。社会経験もない学生までの段階で見聞するサラリーマンというのは、疲れきって電車に揺られている冴えないオッサンであり、没個性的なスーツ&ネクタイ姿でスポーツ新聞のエロ記事を読みふけってる不潔な中年男だったりします。これだけ見てたら、そんなに好ましい人間像ではないですから、サラリーマンが好き!って感じにはならない。そして皆がそう思ってるから、「サラリーマン」という日本語自体に、「ただのサラリーマンですよ」という言い方に見られるような微妙に蔑視的なニュアンスが入ってきたりします。しかし、これは高校時代の自分に対して言うわけですけど、てめーみたいなガキンチョに何が分かるというのだ。サラリーマンを本当に知りたかったら、仕事をしてるところを見なければならない。でも、コドモはそんな所に入り込めないから見られない、わからない。ビジネスというのは、ときとして人が殺されたりするくらいシビアな局面もあるのだけど、大学入試ごときでピーピー泣いてるガキにはそれがわからない。また、たとえ仕事的に大した事をしてなくても、それどころか屈辱的なことをやらされていたとしても、家族を守るためにじっと堪えているのかもしれない。その大きな誠意と愛情もまたわからない。そういった肝心なところを見ず、単に一番疲れて無能力状態になってる外観だけ見て、「サラリーマンだけにはなりたくない」とほざくわけですね。そのくせ、口を開けば「人間は外観じゃないんだ」と知った風な口をきくという。外観(それも断片)で決め付けているのはお前じゃん(俺だが)!って(^_^)。
というわけで、「本当に美味しいもの」をとりあえず食べてごらんなさい。それでもキライだったらそれはそれであなたの嗜好だからOKだけど、ろくすっぽ食べもせず、知りもしないで好き嫌いを決めてたら、まあ大体はキライなものが多くなるような気もします。そうなるとキライなものの方が世の中多くなる。というかキライなもので埋め尽くされてしまい、こんな環境では到底「楽しい」なんてポジティブな心理にはならない。だから、ますます試食しようとしなくなる。本当に美味しいものに触れる機会も減ってくる。だから味覚(=洞察力)が発達せず、どうなるかというと、人口甘味料にまぶされた「ジャンクフード」に走る。この場合のジャンクフードって何かというと、商業広告であり、商品であり、消費です。映像撮影とコピーライティングそしてマーケティングの技巧の粋を尽くした商業広告は、それはそれは魅惑的に作られています。色あせた灰色の日常からしたら、楽しそうな色がついているのは結局「商品」だけじゃないかって感じになり、感動をお金で買おうとするようになる。またお金を出さなければ楽しいことなんかこの世にないのだって感じにもなる。あとはセックス系。とりあえず気持ちいいですからね。かくして不況にも関わらず人々の渇望感を煽るような鮮やかな広告と消費社会がなおも続き、エロ産業もなおも存続する。そしてその刹那的な快楽を維持するためには小金が欲しい、だから一攫千金を夢見る。ジャンクメールの広告内容なんか見ててもこればっかりでしょ。エロ系、出会い系、そして「自宅で高収入」ばっかり。
主観社会における勝ち組/負け組というのは、好循環か悪循環かってことだと思います。本当に美味しいものを食べたことがある人は、もっと他にも美味しいものがあるんじゃないかって思う。たまたま不味いものを食べても、「これはたまたまであって、本当はもっと美味しいはずだ」とも思う。物事を肯定的に見るようになるから、アクティブになり、手数も多くなる。根っこが肯定的だから多少の失敗やイヤなことでもメゲなくなる。打たれ強くなる。その結果、沢山の経験を積むようになる。これらの経験がよりバランスの取れた世界観を育み、洞察力や直感を鋭敏にするから、皮膚感覚で面白いものを探すセンスが良くなる。行動に移す際の要領もよくなる。だからますます多くの体験をし、好きなものが増えてくる。好循環です。負け組の悪循環ってのは、この正反対です。
前述の異性観が向上していくのも、同じような過程をたどるでしょう。女というものを心の底では軽蔑しながら、ただカラダが欲しいだけでアタックしてても、よほどルックスに恵まれてでもいない限り、中々うまくいかない。そりゃそうだよね、オーラが出てるもん。自分のことを本当に認めてくれている人か、そうでないかは、結構分かるもんです。なんとかデートにこぎつけてもコトを焦るから、ただの「がっついている猿」のようにしか見られない。だからフラれる。畜生と思う。でも、逸る心を押さえながら、欠伸のでるような恋愛映画を一緒に見させられながら、それでも自分の持っていない感性世界を相手が持っていることは分かる。「ふむ?」と思う、ちょっとは理解しようかなと思う。中身で相手を見ようとしはじめる、そして今までの自分が持ってなかった価値観を知る。自分の価値観からみてたら理解不能な行動も、相手の価値観においては実に理路整然とつじつまがあっていることも知る。「ああ、なるほど」と思う。つまり段々分かってくる。分かってくるだけではなく、そのなかから「これは美点だな」と思える部分を自分の中に取り込んでいくようになる。モテる男性は、自分の中に女性性を飼ってる人だと言われますが、要するに女性のことがある程度感覚的に理解できるし、理解できれば「正しい行動」もとれる。自分のメジャーな価値観に思いっきり衝突しない限り、許せたり、折れたりできるようになる。これがいわゆる「包容力」ってやつでしょう。いうたら女にモテたかったら、ちゃんと女性をレスペクトしろってことだし、レスペクトするためには理解してないとならない。
でもこの育つ過程でコケちゃうと、「カッコつけてないで、ヤラせろ、コノヤロー」的な態度になって失敗する。強引に成功させようとすると、強姦罪で実刑判決を受けたりする。実際の女性との間の、気の遠くなるような面倒くさく、まどろっこしい「手続」にうんざりしちゃうから、手続きなしの風俗やエロDVD/ゲームで間に合わせようとする。あるいは同じく手続きのないロリコン方向にいくとか。そんなことばっかやってるから、現実の女性に相対したとき、どうしていいのかわからない。修行を積むべき時期にちゃんと修行してないから、技術と精神が伴わず失敗する。だからますます引きこもる。悪循環ですねー。これは女性についても全く同じだと思います。「いい男いないわねー、ちょっといいと思ったら皆もう結婚してるんだから」ってのはよく聞く話ですが、これは考え方が根本的に間違ってると思いますね。いい男を探すのではなく、いい男になりそうな素材を探していい男に教育するんだと思います。そして、いい男が既に結婚しているのではなく、結婚して奥さんに鍛えられているから、その人はいい男になってるんじゃないでしょうか?いい男ってのは、どっかの女性たちの「作品」なんでしょうね。
人生なんかこの「面倒な手続き」の嵐です。手を伸ばしてかっぱらってしまえるものでも、必死に働いて貯金して、正規に購入する。この気が遠くなるような迂回の手続きこそが人生そのものだったりします。そこを鬱陶しがってたら何にも出来ない。出来合いのファーストフードばっかり探していても、そこには本物は無いですよ。本当に美味しいものは食べられないよ。そして、手続きがいかに鬱陶しく、面倒しく見えようとも、実際にやってみたら、実は鬱陶しくも、面倒くさくもないです。本当に美味しいものというのは、その過程にこそあるのだ。それまで絶対弾けなかった難しい曲をギターで弾きこなせるようなったときの喜び、柔道の技が綺麗に決まったときの快感、難しい裁判で勝訴することができたときの充実感、なんでもそうですけどそれまでの過程があるからこそ楽しいです。何の練習もせずにある日起きたら弾けるようになっていたって、そんなに楽しくないですよ。生命をかけてエベレストに登ってる登山家に、そんなに頂上に行きたいならヘリコプターで連れて行ってやるよと言ってるようなもので、それじゃ意味ないんですよ。
ギターを練習しているとき、どうしても弾けないフレーズがあります。「あーもー」と舌打ちしながら何十回何百回と繰り返します。すると、あるときツルリンと弾けちゃう瞬間があるのですね。「およ?」と思いますよね。で、また再現しようとしても出来ない。「あれ、今、どうやったんだろう?」と自分でもわからない。また繰り返す。でも出来ない。また「あーもー」と思う。それでもしつこくやってると、また「およ?」と弾けちゃうときが出てくる。それが二度三度と出てくるにつれ、段々コツというのものが身体に染み込んでくる。「あーもー!」「およ?」の無限の繰り返しのあとに、「なるほど!」というステップにくる。なんとなく分かったような気がする。「そっかそっか」と分かって、でもまだ自由自在にはいかない。このように一歩一歩登っていきますが、この一歩一歩の小さな飛躍が楽しいんですよ。
乗れなかった自転車に乗れるようになったときの「やったぜ!」的な歓喜も、実はよく思い出してみると、細かなステップがあったりします。一瞬乗れたような気がするときもあるし、5メートルくらい、「お、お、おおー!」とか言いながら進んでいってガシャンとコケてたりしてたでしょ?「あーもー」「なるほど」の繰り返しの末、最後にマジックモーメントが来るのですね。奇跡の瞬間。でも、その最後の瞬間だけが楽しいのではなく、実は全体の過程すべてが「楽しい」わけです。やってる最中はツライだけだけど、そういったぬか喜びような小さな感動が積み重なって、やがて大きな感動になる。ジグソーパズルの最後の1ピースをはめこんだときに「やった」と思うけど、それってトンネル完成のときのテープカットみたいな儀式的なものに過ぎない。だから、この滑った転んだの「手続き」にこそ、果実はみのっていたりします。なんか道徳の教科書みたいで気が引けるけど、でも、本当にそうなんだから仕方ないです。
というわけで、主観世界を生き抜くための、豊かな好き嫌い、豊かな主観を獲得するためには、手間を惜しまず数多くの感動を体験しろってことだと思います。人間というのは一つ感動するたびに心が耕され、それがまた次の感動を促すのでしょう。どんなことでも感動すれば、人間というのは多少は気分がいいものです。気分がいいと自然とポジティブになるから、同じモノを見るにしても肯定的に見ようとする。否定的に見てたら素晴らしいものなんか何一つ見えない。マラソンのTV中継で必死に走る選手たちを見てても、否定的に見てたら、「けっ、このクソ暑いのにご苦労さんだね。ばっかじゃないの?」って感じになるでしょう。でも肯定的に見てると、「うわあ、大変そうだなあ」「でも大したもんだよなあ」「なんとか完走させてあげたいな」とランナーに感情移入していきますし、ゴールまで見てると、「おお」と感動したりするでしょ。でもって、「ああ、スポーツっていいかもな。俺もちょっと走ってみようかな」と次の行動につながり、そして、、、という具合に連鎖していく。雪だるまのシンみたいなもので、最初に小さくてもいいからなんか感動しないと転がっていかないです。
また、「へー」「ふーん」という程度の些細な感動でも、「へー」って思った分だけ世界が広がります。広がった分ステレオに、立体的にモノが見えるようになる。つまりちょっとは賢くなるし、洞察力もつく。例えば、悪戦苦闘して手作り豆腐の店をやってる人の話をきくと、朝の3時に起きるとか、豆腐になるまでの技巧とか、国産の良い大豆や天然ニガリを探す旅なんかが分かる。それを聞いても「へー」なんだけど、「そうか仕事っていうのはこういうのもアリなんだ」「町の豆腐屋なんかしょぼいと思ってけど結構すごいんだ」って広がっていくでしょ。賢くなる。賢くなるとさらに応用がきく。それまでしょーもない商売のように思えていた色んな仕事も、実はグレートなんじゃないかって思うようになる。商店街のはずれにひっそりと営業している古本屋さんも、それまでは地味でしょーもない商売だと思ってたけど、実はあれでスゴイことやってんじゃないかって気にもなる。大体、古本屋を開業しようとして、いったいどこから売り物の古本を仕入れてくるのかよく分からない。客から古書を買い入れるにしても、これまで日本で出版された点数なんか数百万点あるはずで、それでこの本の価値はどのくらいとか、いちいちどうやって調べるのか。「ああ、これは小野 清一郎の『犯罪構成要件の理論』ね、昭和28年、、、おお、初版本だね。これは名著だよね。有斐閣から『20世紀の名著50選』として復刻されているよね」とか、なんでそんなに知ってるの?どこで勉強するの?という。自分には到底想像もできないような広い世界があるんじゃないかってのも透けて見えるようになってくる。
かくして本物の世の中が見えるようになってくれば、また感動のネタはいくらでも転がってたりします。この繰り返しで、「おお、これじゃあ」ってのが出てくるのだと思います。というわけで、まずは本当に美味しいものを食べて感動しなはれ、話はそれからだってことでした。
文責:田村