今週の1枚(06.01.16)
ESSAY 242/ニートと「ウチ・ソト」の世界
写真は、この正月に遊びにいってきたSouthern Highlandのベリーファーム(イチゴ農園)のブラックベリー。はるか昔のコンテンツですが、Southern Highlandを紹介したコーナーがあり、このベリーファームはSutton Forestに書いてます。かなり久しぶりに行ったのですが、ちゃんと健在でした。ただ、時期的にブラックベリーしかないのと、オーストラリアのアウトバック名物のハエが大変でありました。ブラックベリーは、この写真で言えば、右上の房の中央のように真黒になったらOKです。赤いうちは酸っぱい。手製のブラックベリージャムにして食べてます。なかなか美味。
今年から 「エッセイ短め」をモットーにやっておりますが、今回はニートについて書きたいと思います。でも、こんなのどうやっても簡潔にまとめられそうもないですね。まあ、でも、まとまらなかったら、それはそのときの話ということで、とりあえず見切り発車でいってみましょう。これはエッセイであって論文ではないのだという言い訳を先に置きつつ。
以前、少子化について述べたのと同じことですが、ニートもまた日本だけの問題ではないです。先進諸国では多かれ少なかれ似たような現象があるようで、どだいニート、つまり "Not in Employment, Education or Training"って言葉自体が英語であり、日本人が自分たちで思いついたとは考えにくい。外国から輸入した概念でしょう。もともとはイギリスらしいですけど。
ただ、本家イギリスではニートという言葉はそんなに流行っておらず、もっぱらこの「ニート」という言葉は、日本人が日本人独特の思い入れをたっぷり染み込ませた「日本語」になってるように思います。その証拠に、"neet"でGoogleのWEB全体検索してみても(日本語ページに限定しなくても)、あがってくるのは日本語のサイトが殆どです。また、外国の場合、おおむね社会科学や行政レベルでの固い議論のサイトで取り上げられているのに対して、日本語サイトは普通のそこらへんの兄ちゃん姉ちゃんのブログレベルが多い。つまり、日本においては、このニートという言葉や問題は、普通の人々の間において広範に愛され、多く語られているってことになります。
まず、なんで?って思うのですね。なんでニートが日本人のフェバリットな話題なの?って。
ニートがいかに多くなろうが高々推計64万人かそこらでしょ。人口1億2700万人からすれば0.5%に過ぎない。200人に一人。200人に一人っていえば、アナタ、学年に一人か二人くらいじゃないの?学年に一人、ちょっと皆と変わった奴がいたとしても、そんなの普通じゃん。まあ、日本全人口ではなく若者人口に対する割合と考えればその比率は上がるでしょう。それでも、「職に就いておらず、学校等の教育機関に所属せず、就労に向けた活動をしていない15〜34歳の未婚の者」というNEET本来の定義から、15-34歳の人口3366万人(国勢調査による)で割り出してみると、それでも1.9%に過ぎない。100人に2人。学年に1−2人が5−6人になる程度。クラスに一人いるかいないかくらい。絶対少数であり、こんなの全然「みんなの問題」じゃない。
一方、もっぱら固いサイトで見受けられる問題としては、例えば「直間比率」があります。これは国の税金に関する言葉で、直接税(所得税など)と間接税(消費税や酒税など)との比率をどうするかという問題で、消費税を上げて所得税を減税するか、所得税を上げて消費税を減らすかなどという形で諸外国でも(もちろん日本でも)議論されています。こっちの方がはるかに我々の日常生活に直結する問題であり、国民全員で考えなければならない問題なのにも関わらず、普通のブログレベルではあんまり誰も書いてない。そもそも「直間比率」って言葉を知らない奴が多い。僕が日々お世話してるワーホリさんなんかに聞いても、ほとんど誰も知らない。でも、ヨーロピアンとかそのへんの連中はよく知ってますよ。僕も語学学校時代、「日本の直間比率はなぜ直接税優先体系なのか」というネタで議論したのを覚えてます。実際、日本の消費税率って西欧に比べたら低すぎますもん。5%でしょう?あっちでは10%、20%は当たり前だし、オーストラリアでも初めて消費税(GST)が導入されたとき、いきなり10%からはじまったもん。なんで日本人は消費税にここまで抵抗感があるのか?です。彼らからしたら不思議にみえるし、それを「なんで?」って聞かれるわけです。世界の大卒の知的レベルってそんなもんですので、こっちにくるならちゃんと準備しておくとよろし。
もっと議論しなければならないはずの税制体系についてはシカトしながら、ほとんど無視しても構わないくらいの絶対少数のニートについては、誰も彼もが一家言ありそうで、まずもって、このあたりの風景が、非常に日本的だなあって思います。ニートの問題は、日本人のどっかの琴線に触れるんでしょうね。これだけ皆うれしそうに議論してるんだから。じゃあ、どの琴線に触れるのでしょう?
とりあえずすぐに思いつく琴線は、「働かざるもの食うべからず」という勤労の美徳です。日本人にはこれが強い。仕事もせんとチンタラしてる奴に生きていく資格は無い!みたいなメンタリティですね。
もっとも、英語でもワーク・エシック /work ethicって似たような概念も言葉もあります。「一生懸命働く人は尊敬されるべきだ」というコンセンサスも強固にあります。"hard-working American"なんて言葉もよく出てくる。「ジャップの車が入ってきてハードワーキングのアメリカ人の職を奪った」「不法移民が真面目に働く人々を路頭に迷わせた」みたいな感じで。日本人からしたら、「お前ら、仕事って言葉知ってる?」って言いたくなるような西欧諸国ですら、レベルは低いのかもしれないけど、それでもハードワーキングは価値あること、素晴らしいこと、尊敬されるべきこととされてます。あっちでも働いている人はカッコよく、働いてない奴はカッコ悪いって大雑把な傾向はある。パートやカジュアルな仕事ではない、いわゆる日本でいうところの「正社員」みたいな仕事を”decent job”と表現するあたりにも、その感覚は現われているでしょう。逆に、失業保険にすがりついているだけの者は、ドール・ブラジャー(dole bludger)と呼ばれ、社会的に非難される傾向があるし、work for the doleのように、失業保険の給付を受けるためには、指定の社会奉仕義務(コミュニティサービス)を果さねばならなかったり、その受給資格は制限される傾向にある。
だとしたら、働いている人に比べて働いていない人が肩身の狭い思いをするのは、なにも日本の専売特許ではないということになります。また、ずーっと前のコンテンツですが、若年失業率の高さが、若者、特に男性にとって「一人前の男になるチャンス」を失わせ、一生そのコンプレックスを抱えて生きていくことになる問題が、1998年のオーストラリアの新聞の特集記事にもなってます(「Marginal Men / 片隅に追いやられる男たち」参照) 。
ただ日本と違うのは、これらの問題は広く社会構造の歪みの問題としてマクロに捉えられ、働いていない人が努力が足りないとか甘えてるとか、そういった人格非難はそれほどなされないことです。日本の場合は、何が問題かといえば、「こんなに甘ったれた奴がいる」「チンタラやってる腑抜けみたいなアホンダラがいる」という人間の問題になる傾向があるように思います。日本人は、なにか、そういう人間が同じ社会に生きていることが許せないみたいですね。まあ、オーストラリア人でも許せんと思ってる部分はあるだろうけど、その「許せない度」は日本人の方が強い。
ニートについて多くの人がブログなどで語っているのは、また語ろうという気分になるのは、社会問題を論じるというよりは、単純に人間類型の好悪という至って感情的な部分が原点になっているからだろうと思われます。キライな奴は、やっぱりことあるごとにクソミソに言いたいとか、キライな奴を非難するととりあえず気持ちいいからなのでしょう(^_^)。また、ニートを擁護というか、「ニートで何が悪いの?」という論調も、鏡像反射みたいなもので、「働くのは当たり前」「働いてない奴は二流市民」であるかにように嵩にかかって言う人々の、手前勝手な正義や価値観の押し付けに反発してのものでしょう。カウンターパワーというか、「俺はオマエなんかキライだよ」「こっちこそオマエなんかキライだよ」という感じね。
ここではニートの是非は論じません。ただ、日本の場合、どうしてそんなに「他人の生きざま」が気になるのかということです。
いや「他人の生きざま」が気になるのではなく、これはパブリックな問題なのだ、若年層が働かなくなれば税収が伸び悩み、またろくすっぽ税金も払わない連中をどうして俺らが養ってやらないとならないのか、という日本社会の発展阻害論や社会的不公平論ももっともらしく語られはします。でも本気でそんなこと心配してるのかしらね?それが語る原動力なのかしらね?ニートの人だって税金は払いますよ。物買って食べないと死んじゃうんだから、少なくとも食糧に関する消費税は払ってるでしょう(誰が-親が-負担するかはともかく)。すなわち間接税。直間比率の話に逆戻りしますが、日本人って税金=直接税って思いすぎ。それに、税金税金って騒ぐ人に限って、本人もろくすっぽ所得税払ってなかったりしますもんね。そもそも自分の税額知らない人が殆どでしょう?昨年幾ら払ったか即答できます?
それにたかだか64万人かそこらがちょっとばっかり働いたからって、そんなに税収は伸びやせんです。仮に年収500万円だとしても、給与所得控除が20%ですか?それに種々の所得控除をさっぴいた課税所得になると300万ちょいくらいでしょ。課税所得330万円以下の税率なんか10%ですもんね。330万だとしても、所得税33万に県民税、市民税あわせても50万円前後じゃなかったでしょうか?64万人が全員100万円税金を払ったとしてもトータル6400億円ですか。それだけ見てれば大した額だけど、今の日本の赤字額は700兆ともそれ以上とも言われてるわけで、焼け石に水って気もしないでもない。それに昨日までニートだった人がいきなり年収800万とか稼げないでしょう。いいとこバイトやパートで頑張って月20万、年間240万、給与所得控除30%で168万、仮に所得控除がゼロだとしても税額総額25万かそこらでしょ。これだけでいきなり4分の1の1600億円です。それにニートというのは学校にいったり職業訓練をしてない場合、家事手伝いもしてない場合をも含むので、ニートを脱したからといって、全員が全員が働いて所得を得るわけではない。そんなこんなでいいとこ1000億円かそこらって規模の話じゃないかって気もしますが、どうでしょう?日本の税収(国&自治体)は80兆円以上(99年度は84兆らしい)。うち1000億円なんか800分の1程度の歳入欠損であり、シカトして良いとは言わないが、大騒ぎするほどのダメージか?という気はします。
また、もし働かない人々のせいで社会成長が阻害されるのだったら、今、猛烈に人手不足になってる筈でしょう?バブルの頃の就職状況みたいに、各企業ともとにかく人が欲しくて仕方がない、お願いだから働いてくれって。でも、いまだにリストラ話は聞くし、空いたポストはアウトソーシングやら、派遣社員やパートで間に合わそうとする。多少の人々が働かなくても別に企業は困ってないのではなかろうか?よう知らんけど。それに足りなくなったら、優秀な外国人は幾らでもいるでしょう。日本語ベラベラの外国人、そのへんの日本人よりもはるかに実務能力に優れた外国人なんか掃いて捨てるほどいる。
でも、ニートに関して、こういう議論ってあんまり見たことないです。僕も全然不勉強だとは思うのだけど、その人々が実際どういう実害を招来するか、台風や地震みたいに推定被害額が○兆円かどうかって具体的な話にはなってるような気がしないのですけどね。だから、結局、「健全たるべき日本社会に不健全な一団が出現した」って部分がまずもって問題視されているような気がするのですよ。「正しくない生き方をしている人達がいる」と。なんとかいうか、そういう人々の「存在それ自体が違法」というか。
でも、なんでそんなに「他人がちゃんと生きてない」と気になるのかしら?他人事じゃないですか。
このあたりに日本らしいツイスト(ひねり)が入ってるのでしょう。日本人である僕らにとって、他人事は純然たる他人事ではないのでしょう。日本人のメンタリティは個人と全体の関係が曖昧とか、アイデンティティが個として完結してないとかよく言われますが、僕らにとって日本社会は、延長された自我の一部でもあるでしょう。それは帰属集団を持つ人間の場合、多かれ少なかれ誰にでも見られる傾向ではあるけれど、単一民族単一文化(ではないけどそう言ってもいいくらい)の我々は、自分の個性と、日本社会とがある程度共通していてくれないと心理的に不安になるのかもしれません。僕ら日本人は、全体の中の個人として、全体の傾向やプレッシャーによって個人の生き方や価値観に影響を受けると言われているけど、その逆もまたしかりで、自分の好きなように社会もまた合わせようとするのかもしれない。だから、自分の理解できない出来事が日本社会に発生すると、アイデンティティクライシスといったら大袈裟だけど、「なんでじゃあ」「理解できない」って反発や拒否反応が強く出るんじゃなかろうか。
多民族国家の場合、自分の理解できない奴が社会に存在していることは当然の前提です。自分と意見の違う奴、キライな奴、そして全く理解不能な奴、そういう奴がいて当たり前であり、「なんでいるんじゃあ」って拒否反応は少ない。変な例えですけど、ハエとかゴキブリを好きな人は少ないでしょうが、居ると鬱陶しい、出来れば居ないで居て欲しい、居たら叩き殺してやりたいと思っていたとしても、ハエやゴキブリが存在すること自体を否定する人はいないでしょう。だっているんだもん、厳然として。厳然としているものを、「いるのが間違いだ」とかウダウダ文句いっても始まらない。
社会の中で理解できない人、あまり社会全体にプラスになりそうも無い人、それどころか害悪を及ぼしそうな人、いわゆる困ったちゃんが存在することは、もう所与の前提であり、そういう人たちに、「なんでオマエみたいな奴がいるんだ」と嘆いたり、怒ったりしても時間の無駄。そういった存在によるダメージをいかに軽減することが出来るか、あるいはそういった存在をいかに減らすことが出来るか、そういう話になります。ゴキブリ対策は、ゴキブリに「キミももうゴキブリなんかやめなさい」と説教することではなく、清潔を心がけるとか、殺虫剤を撒くとか、そういう話です。
別にニートの人々をゴキブリと同一視して敢えて貶めようという意図はないのですが、問題の取り上げ方として、あくまでマクロやシステムの問題として考えていく西欧的なアプローチと、あくまで個々人の人格の問題として、「なんでオマエは俺と同じじゃないのだ」という捉え方をする違いがあるということを言いたいわけです。ちなみにオーストラリアに死刑制度がなく、それを望む声も大きくないのは、このあたりの発想に関連しているのかもしれません。「なぜこういう悲劇は起きてしまったのか」「どうしたら次の悲劇を防げるのか」というシステムの問題として捉えようとする傾向が強いから、個々の犯罪者に対する復讐や応報ばかりに心が集中しないからでしょう。
えーと、もうちょっと書いてもいいかな?まだ長すぎないですよね(^_^)。
NEETについては、よく言われていますが、4つのタイプがあるそうです。もともとは、独立行政法人である労働政策研究・研修機構副統括研究員の小杉礼子氏によるものですが、Tヤンキー型=反社会的で享楽的。「今が楽しければいい」というタイプ、Uひきこもり型=社会との関係を築けず、こもってしまうタイプ、V立ちすくみ型=就職を前に考え込んでしまい、行き詰ってしまうタイプ、Wつまずき型=いったんは就職したものの早々に辞め、自信を喪失したタイプとされています。実際にはヤンキー型は少なく、あとの3パターン、社会の中に入っていきたいけど入っていけないパターンが多いようです。
つまりは、ビビっちゃったり、くじけちゃったり、こもっちゃったりしてるような場合ですが、いわゆる「ひきこもり」で常々思うのは、世界的に見れば日本人そのものが堂々たる”ひきこもり民族” だよなあってことです。海外にいる日本人、たとえばオーストラリアの場合、駐在でこようが、ワーホリでこようが、現地や周囲の日本人社会のなかにひきこもって、日本人同士つるんでおしまいってパターンが多いです。現地にいる人間としては、そういう傾向を一概に馬鹿にする気はないし、自分だってどれだけエラそうにいえるのかとも思います。また日本という文化&言語引力圏を離脱するにはどれだけの努力と精神力が必要かというのも身に染みてわかります。観光とか友好親善レベルだったらニコニコしてたらいいけど、暮らすとなったらメンチ切て喧嘩もしなきゃいけないし、大変ですよね。だから、ひきこもりたくなる気持ちはわかるし、そういった日本人のための「日本語でどうぞ」的なビジネスもまた多い。シドニーには、日本人のためのマンガ喫茶まであるくらいですからね。いわばひきこもり産業みたいなものです。
それに個々人のレベルではなく、国家社会レベルでも、日本くらいの経済力と人口(世界第十位)があったら、もっともっと世界をリードしててもいいような気がします。人口や経済力だけでいえばイギリスやフランスに勝ってるんだから、これらの国と同じくらい世界に対してプレゼンス(存在感)をもってもいいでしょう。いつまでもソニーやトヨタじゃないでしょう。また、社会レベルでも、日本人はほとんど外に出て移民しません。はるか昔に、ハワイや南米に国策として送り込まれた以外は、僕らみたいな「変わり者」くらいしか海外に住まいを移そうとは思わない。「そんな狭いところにひきこもってないで、もっと外に出ておいで。外は楽しいよ」ってのは、常々言いたいことだし、それが言いたいからこのHPだって立ち上げたようなものですが、あんまり来ませんねえ。
ひきこもりって何で生じるかといえば、単純な話、外部環境が楽しくなければ誰だって外に出て行くのはイヤですよ。冬の寒い日に温かいコタツにはいってしまったら、雪のちらつく屋外に出ていきたくない。原理はそれだけのことでしょう。
聞いた話ですが、心理学で、自=他の境界線や、延長自我とかいう概念があるらしいです。「自我/自分」とは何か?ですが、まず自分の肉体や髪の毛なんかは「自分」でしょう。自分の服や愛用の品も「わたしの○○」という意味で自我の延長になる。「自分の部屋」に帰ると誰だってほっとします。ドライにいえば自分の肉体以外は全部「外界/他者の世界」なんだから、自分の部屋だろうがなんだろうが同じなんだけど、そうは感じない。自宅の部屋だけでなく、たまたま数泊するだけのホテルの部屋でさえ、「自分の部屋」だとほっとする。荷物をまとめてチェックアウトしたとたん、よそよそしい「他人の空間」に戻る。このように、自我というものは同心円的に広がっていき、「ここまでは自分の領域、ここからは他者の領域」「ここまではウチ、ここからはソト」という境界があります。私の会社とか、私の友達集団、私の町、私の国と広がります。
これは、動物の生存本能みたいなものなんでしょうね。野生動物にも、飼い猫にもテリトリーという意識はあり、より勝手がわかっていて生命の危険の少ないところになるほど安心するというのは、しごく当然のことだと思います。「外に出て行く」というのは何かというと、自他の境界線を越えることなのでしょう。どう考えても、「自分の○○」と言えない世界、純然たる「外地」に入っていくこと、「周囲は全員敵かもしれない」というところに入っていくことです。それは例えば、ひとりぼっちで海外の町に立っていることです。右も左も分からず、どこを見ても「お馴染みのもの」が何一つ存在しない世界にいくことでしょう。あるいは、見知らぬ部族の宴会に招かれて一人ぼっちで参加するようなことなのかもしれない。「ソト」ってのは、本質的にそういうことだと思います。
この「ソト」が嫌いな人は多いです。そりゃおっかないもんね、何されるかわかったもんじゃないよね、不安だよね、キライで当然だって気もします。しかし、人間には好奇心があり、なんと形容したらいいのか分からないけど「あの山の向こうにいってみたい」「もっと遠くへ」という外への願望やエネルギーもまたあります。「ソト」の世界の、背中がスース−するような感覚がたまらなく好きって人もいます。
思うのですけど、ニートの人であれ、ひきこもりであれ、要するにこのソトの世界のスース−する快感をあんまり知らないか、好きではないのでしょう。でもって、それは程度の差こそあれ、多くの日本人に共通する特徴でしょう。どのレベルで「ウチ」と感じ「ソト」と感じるか、自分の部屋以外全部「ソト」と感じる人、自分の生まれ育った町以外全部「ソト」と感じる人、自分の長年勤めた会社や気心の知れた友達以外は全部「ソト」と感じる人、そして日本社会以外全部「ソト」と感じる人、、、。程度問題っていえば、程度問題です。日本社会全体を自我の延長と感じたい人が多いのは、上述の「他人の生きざまが気になる」感性と表裏一体なのでしょう。日本社会そのものをどっかしら「オレの部屋」的に思おうという傾向が強いから、自分の部屋にイヤな奴がいると腹が立つのと同じく、日本社会にイヤな奴がいると腹が立つという。
人間には、新しい興奮はないかもしれないけど勝手知ったる自分の世界で安心していたい安心願望エネルギーがあり、これに対して、多少危険はあるかもしれないけど新しい刺激に身をおいてみたいという冒険願望エネルギーがあり、どんな人にも「安心VS冒険」という対立する両指向のレシピ−(配合比率)があるのでしょう。そして、前者(安心願望)の方にハカリが傾く人は、本質的にひきこもり系なんだろうと思います。そしてそれは個々人のキャラクターや趣味の問題であり、別に悪いことではない。
でも一番言いたいのは、これらのウチソト感覚なんか、ほんとのこといえばぜーんぶ錯覚じゃないの?ってことです。いやそう思えたりするのは純然たる事実ですよ。しかし、ソトの世界もしばらく居て勝手が分かってきたら「ウチ」になります。子供の頃親戚の家に連れて行かれて、最初は勝手がわからないから借りてきた猫みたいに大人しくして、「早く帰りたいなあ」とか苦痛だったのに、2時間もしてると勝手がわかってきて、親戚の子供と大騒ぎして楽しくなっている。で、「まだ帰りたくない」とかゴネる。オーストラリアに最初に来たときは純粋な「外地」だったのに、いざ日本に帰る頃になるとまるで故郷を出るみたいな淋しさを感じる。自分の町から滅多に出たことない人は隣町でも「外地」に感じるでしょうけど、一旦海外旅行をして日本に帰ってきて、関西空港の灯りが飛行機の窓から見えてきたら、「ああ、帰ってきた」とほっとするでしょう。それまでの日常感覚でいえば、見知らぬ土地の見知らぬ空港ですら「ウチ」に思える。めちゃくちゃ相対的なんですよね。「錯覚」というのはそういうことです。
だから、あんまり固定的に囚われないほうがいいんだろうなって思います。極論をすれば、素っ裸の自分の肉体以外は全て「ソト」と思い、生きるということはソトに出るということだと思うか、あるいは180度違ってこの地球全体が「ウチ」なのだと思っていれば話はスッキリするような気もします。
文責:田村
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