今週の1枚(06.01.09)
ESSAY 241/ルーザーとストレス
写真は、クリスマス明けのバーゲンの風景。David JonesのCity店。BGMに生ピアノというのが良かったです。弾いてるオジサンがニコニコ楽しそうだったのがもっと良かったですね。スタンウェイのピアノがカッコよかった。
先週は、元旦に44度の酷暑になったと書きましたが、その次の日からずーっとしのぎやすい日々が続いております。一晩明けたら秋だったみたいに肌寒い日もあります。トレーナー着てて丁度いいって感じ。しかし、このままで終わるはずも無く、またぞろドカンと暑くなるでしょう。でも、延々続かないだけマシです。ちょっと辛抱したらコロッと変わってくれるのはイイです。
さて、話もコロッと変わって、日本人とストレスについて書きます。以前、エッセイ159番でタイトルもズバリ「ストレス」という文章を書きました。それと重複しない限度でまた付加します。
なんで書こうと思ったかというと、ひとつはニート/NEETやひきこもりの人のことをふと読む機会があり、あれはもう歴然とした病気であって、大変だなあと思ったこと。もう一つは、皇太子妃の雅子さんのことです。どちらもストレス過重でメンタルへルスが円満でなくなったという点で共通してます。雅子さんの場合も一種のひきこもりとも言えるわけですしね。で、思ったのは、なんでそんなになるまでストレスを溜め込んでしまうのかであり、どうしてそんなに日本人にストレスが多いのかです。
皇太子妃、プリンセスといえば、オーストラリアではデンマークの皇太子に見初められて結婚したオージーガールがいます。有名なのでご存知でしょうか、デンマークのフレデリック皇太子と、タスマニア出身の”普通のおねえさん”であったメアリーさんですが、シドニーオリンピックで知り合い、デートを重ねて2003年ゴールイン、2004年男児出産。このカップルですが、非常にカジュアルにつきあってるのですね。出会ったのはパブということは、要するに「飲み屋で知り合って」るわけですし、つきあってる間にボンダイビーチでビーチパーティーしたりと、友人宅(普通のフラット)に遊びに行ったりとか、かなり普通です。デンマーク王家といえばヨーロッパ最古の伝統を誇る王室ですから、それなりにSPのバリバリ警備はついていたのでしょうが、それにしてもかなり「普通」に物事が展開してますよね。日本じゃこうはいかないですよね。その例にならえば、日本の皇太子が、どっかの外国に行った際、どっかの飲み屋で地元の普通の女性をナンパして結婚したって良さそうなものなのだけど、そういうことはまず考えられない。なぜか?です。なんで、日本だとそういうことがありえないのか?
前回、「今年からエッセイもあんまり長くしないようにしよう」と書いたところですので、とっとと結論を急ぎますが、日本というのは他人のことをアレコレ言う人が多すぎ、逆に言えば他人のことを気にしすぎなのだと思います。よく「他人の目を気にする」といいます。これは他人から自分がどう映ってるかという受動的なものですが、「他人を見る、他人にかまう」という能動的な部分も半分あります。気にし+気にされ、やたら他人のことが気になって仕方がないし、そういう人達に囲まれているから他人の視線が気になる。合わせ鏡みたいな増幅作用があるのでしょう。
ニートやひきこもりにせよ、雅子さんにせよ、単純に客観的現状だけだったらここまで事態は重くならなかったでしょう。つまり、「なかなか仕事が見つからないなあ」とか、「皇室の仕事はこれでなかなか激務だわ」くらいで済んでたのでしょう。事態が悪化するのは、それに対してグチャグチャ言う外野がいることでしょう。「なにやってるんだ」みたいに非難がましく言う人間がいるのですね。実際には居なくても、居るように感じる、言われているように思う。
なにか物事を行うとき、多少の失敗はつきものです。Nobody is perfect.です。でも、失敗それ自体なら大した問題ではない。まだまだリカバー可能ですし、本人もメゲてない。しかし、その失敗によって「他人からどう言われるか」を想像すると、もう膝が震えるくらい気力が萎える。例えば、会社や学校に1時間遅刻したとします。遅刻それ自体だけだったら、1時間残業するなり、頑張って取り戻すなり出来ます。しかし、それで周囲や上司からアレコレ言われるのがイヤだというのは、あなただって経験あるんじゃないですか?失敗それ自体はいいんですよ。失敗について他人から言われるのがイヤなんですよ。
もちろん、上司や管理者、後見的地位にある人間としては、適時適切な苦言を呈したり、叱正するのは当たり前のことです。遠慮せんと叱ったらいいし、潔く叱られていたらいい。しかし、その度合が行き過ぎてしまい、ときとして「坊主憎けりゃ袈裟まで」式に暴走したり、サディスティックに陥ったり、別に叱責する役目でない人まで尻馬に乗ってアレコレいうから、話が鬱陶しくなる。で、尻馬に乗ってアレコレ言う人って誰かといえば、僕でありアナタです。自分自身です。僕らだって言ってるんでしょう。全ての人が被害者でもあり、加害者でもあるのでしょう。
では、なんでそんなに日本人は他人のことが気になるのか?他人のことに口出しするのが好きなのか?です。いーじゃん、他人のことなんかどうでも。他人が窮地に陥ってヘルプを求めているときは、知らんぷりするくせに、どうでもいいようなときにアレコレちょっかい出したり、エラそうに論評したりするのはもう止めようぜ、と誰もが思うけど、誰もやめない。何故か。
結論を急ぎます(^_^)。それは "loser"だからではないか。ルーザー、つまり敗北者、負け犬って意味です。
なんで藪から棒にこの単語が出てくるかというと、先日、レンタルDVDで「ザ・ファン」という映画を見たのですね。主役のロバート・デ・ニーロは、子供の頃から熱心な野球ファンだったのですが、それがいつしかストーカーの犯罪者に変貌していく話です。憧れの名選手とふとしたことから知り合ったデニーロは、照れもあってか「野球はそんなに興味ないよ」と心にもないことを言います。そうすると、その選手が調子を合わせるように、「それはいいよ。熱心な野球ファンってのは、ルーザーなんだよ」とふと口にしてしまいます。セリフをハッキリ覚えているわけではないですが、"You know, they are all losers. They are always excited about other people's plays. Where is your own life? They haven't got the one. Losers."みたいなことを言うわけですね。
言わんとする意味をかいつまんでいえば、自分の人生がイケてないからこそ(その代償のように)他人のプレイにあそこまで熱中できるんだろ、ってことです。自分の人生がしっかり充実していたら、そんな他人の事なんかに一喜一憂しなくなるだろう、と。
確かに、そういう部分ってあるだろうなーって思います。
いや、何も野球ファンやスポーツファンの全員がルーザーであり、自分の人生の敗残者だから、他人のプレイに熱狂するのだといってるのではないです。スポーツ観戦は健全な趣味だと思うし、実際見てて面白いし、スタンドでドンチャン騒ぐのもまあ非日常的なお祭りだし、長く見てれば自然と情が移ってひいきのチームや選手に一喜一憂もするでしょう。しかし、度を越してるファンになってくると、なんでそこまで?って僕も思います。
自分の日々の生活が充実してたら、例えば新しい恋人に出会って毎日がバラ色とか、待望のジュニアが誕生して名前を付けるのに頭が一杯とか、自分の起業したビジネスが軌道にのるかどうかの瀬戸際とか、そういうことしてたら他人の事なんかどうでもいいでしょう?そういうときは、他人のことも気にしないと同時に、他人の目もあんまり気にならないでしょう?公園でイチャイチャしてるカップルは、イチャイチャするのに忙しいから、他人の目なんかそれほど気にならないし、また他のカップルがどうイチャイチャしてるかなんか気にもならない。気にするのは、彼氏彼女のいないロンリーな人で、「ちくしょう、イチャイチャすんじゃねーよ」と毒づくわけだし、他のテーブルの幸せそうなカップルに視線がいってしまうのは、既に冷め切ってお義理のようにつきあってるカップルだったりします。そうじゃないですか?
ハッキリいって、僕は雅子さんや皇室がどうなろうと、日本でひきこもりやニートが増えようと、"that's not my business."であり、もっと言えば"I don't give a shit!"(俺の知ったこっちゃないね)です。そして、そう言ってもらうのが、彼らにとって最も大きな救済なんだろうなって気もするんですよ。皇室とか、どっかのオヤジやオバハンが偉そうになんだかんだ言ってるけど、余計なお世話ってケースが多い。「是非男児を産んでもらわきゃ」なんて時代錯誤なこといってる人もいるけど、だったらお前が産めよ、です。皇室のことは、憲法にものってるパブリックな事柄だからパブリックな限度で議論するのは別に全然構わない。例えば天皇制を廃止するとかしないとか。しかし、赤の他人の女性に「男を産め」とか余計なことをいう権利は誰にもない。それはたまたま地下鉄に乗り合わせた見知らぬ他人に「お前、今日はトイレにいくな」と命令されるようなものです。それがアンタの人生になんの関係があるのよ?Mind your business.
日本がなんでストレスフルなのかといえば、こういうルーザーが山盛りいるからでしょう。自分の人生だけみててもつまらないし、切ないし、淋しいから他人ことが気になって仕方がないって連中がいる。 やれ有名人が離婚したか、実は家庭内が修羅場だとか。日本の午前中のテレビ番組って、山ほど芸能番組が多いです。こっちもあることはあるけど、1チャンネルくらいだし、内容もそこまでウザウザしてない。
そういえば思い出したけど、学生時代、クラスに一人か二人は地獄耳みたいな奴がいて、やれ○組の○○がつきあってるとか別れたとか異様に詳しい。でも、そういう奴に限ってモテてなかったりするんだよね。同じことだと思います。
でもって、WORSE(さらに悪いことには)、他人のことをアレコレ言う奴の意見や内容というのが、また的外れだったり、スカタンだったりすることです。いくら余計なお世話であったとしても、的確だったり、本人のことを真剣に慮っているんだったらまだし救いがありますが、その逆が多い。他人の失敗をみて、結果論的にアレコレいうことなんか、どんな馬鹿にでも出来ます。受験に失敗した人に「勉強が足りなかった」と言うのは簡単だし、事業に失敗した人に「世の中ナメてたんじゃない?」というのも簡単です。でも、それって正しいのか?職場で失敗した人がたまたま女性だったら、「これだから女には任せられない」といい、若い人だったら「最近の若い奴は」といい、年輩だったら「最近のオヤジはつかえない」という。それって正しいの?稚拙な世界観と、愚劣な単純化。この世界の諸相の複雑な陰影を理解せず、人間存在の不可思議さにも思いを致さず、自分の好きなような理屈を強引に他人に押し付けてるだけじゃないか。ニートの人に対して、「甘ったれてる」「努力が足りない」とかいう精神論や根性論で片付けてしまう人もそうでしょう。日頃、根性論の押し付けに反発している人でも、なぜかこの問題になると古臭い精神論を持ち出してくる。そういう側面も確かにあるでしょうけど、それが全てなのか?
だいたいルーザーというのは、根っこに、自分は人生で理不尽にもスカをつかまされているという被害者意識や、ルサンチマン(恨み)があったり、成功した他者に対する羨望などがゴチャゴチャになってるから、なんにせよ他人に対して肯定的な理解を示そうとはしない。自分のダメだけど、他人もダメだから安心というか、なにがなんでも他人も馬鹿でダメであって欲しいってところがあるように思います。シンプルに言えば、自分が不幸で不運であると思っている人は、他人が嫌いになりがちです。イヤな人間は攻撃したい。常日頃からそう思ってるから、攻撃するキッカケさえあれば(攻撃しても反撃されない機会があれば)、攻撃しようとする。ネットの掲示板でよく罵倒合戦になりますが、あれも同じ心理なのでしょう。名刺交換して自分の身分を明らかにしたり、面と向かっては言えないこともネットでは言う。
こんな具合に、「スキあらば」と心の中でファイティングポーズを取ってる人々に囲まれてたら、そりゃあストレス溜まるでしょう。心がデコボコしてきても、不思議ではない。
さらに足早に結論を急ぎます(^_^)。Are you with me?
ここで僕が言いたいのは、個別具体的に誰が悪いとかそういうことではないです。僕が上に示したのは、そういう人間心理のパターンがあるということだけです。誰でもそのパターンにハマる時期はあるし、一旦ハマったら死ぬまでそのままってわけでもない。客観的にルーザーとウィナーが歴然とあるのではなく、自分がルーザーであるかのような気がするときは誰にでもあり、そうなると良くない連鎖が始まるってことです。
何がルーザーで何がウィナーかという基準なんか、実はこの世に存在しないと思います。すごく限られた局面でいえば、試験に合格したとか、デビューして売れるとか、賞を取ったとか、そういう基準はありますよ。でも、それが人生の全てではないし、本当に限定された局面でしかない。なにかに失敗して、ふと我にかえり、「俺はなんちゅう下らんことに熱中してたんだ」って思うことだってあるでしょう。エリート街道を驀進してたら、病に倒れて長期入院する羽目になり、出世競争から脱落した人がいたとします。その時点ではルーザー的に思うでしょう。でもその入院中に、献身的に看病してくれる家族の存在を改めて認識し、「ああ、俺は宝の山に囲まれていたんだ」ってことに気付く人だっているでしょう。そこで価値観が変わり、より豊かな人生を歩む転機になるってこともあるわけで、そうなればルーザーは一転してウィナーになります。
だから、極端な言い方をすれば、ルーザーといい、ウィナーというのも、全ては錯覚。思い過ごしですわ。このエッセイでしばしば引用してますが、哲学や論理学で「外延が大きくなれば内包は希薄になる」という命題があります。モノを考えるときに範囲を広げたら内実は薄くなる。逆に外延を狭めたら内容は濃くなる。その応用で、視野が狭くなれば狭くなるほど、思い込みは激しくなる傾向があると思います。一人の女性としかつきあったことのない人は、その一人の女性の特徴が全ての女性に共通する特徴だと思う。一人のオーストラリア人しか知らない人は、オーストラリア人って皆ああなんだと思う。一つの人生パターンしか知らない人は、それが全てだと思う。受験だとか、プロジェクトだとか、目の前の物事に没入してそれしか見えなくなってしまったら、その成否が生死を分かつほどの重要事項に感じられる。だから失敗したら自殺したりする。でも、視野が広い人は、数ある物事の一つでしかないから、多少ポシャッても大打撃を受けるわけではない。視野が広いってのは、例えばあなたが会社をクビになったとき、今こうしている瞬間にも、カリブ海で海賊やってる奴もいるし、モンゴルで遊牧してる奴もいるし、アフリカで国境なき医師団で頑張ってる奴もいるし、どっかの峠をドリフトで攻めてる奴もいるわけで、生き方のパターンなんか無限にあるってことを知ってるかどうかでしょう。そこがわかってたら、そうそうメゲないでしょう。しかし、視野が狭いと、それが全てだから、一つ上手くいかないともう一巻の終わりになってしまう。
この原理を仮にある程度正しいとするならば(本当はもう100行くらい検証したいところなんだけど、手短に(^_^))、そして、日本にルーザーが多くストレスフルだとするならば、こういうことが言えると思います。日本の場合、生きていく可能性のパターンが狭く、視野が狭くなりがちだから、どうしてもすぐにルーザーとかウィナーとか区別したがる傾向が強くなること。実際、ルーザーかどうかの基準なんかないんだけど、基準がないだけに他人を見て決めるという相対評価になりがちで、そこで自分よりも恵まれて成功している人を見ればどうしても自分がルーザーのように思いがちだし、自分よりもダメそうな人をみるとルーザーと決めてかかりがち。結果として、万人相互監視のバトルロイヤル的な「「場」ができてきて、それが何というか、”思念エネルギーの磁場”みたいになってしまって、センシティブな人からそれに被爆してヤラれてしまうと。めちゃくちゃ単純にいうとこういうことです。ふと、そういうことが頭に浮かんだので書いておきます。
だとしたら、抜本的解決はなにかといえば、ルーザーを減らせばいい。ルーザーだと勝手に自分で思いこんでる人を減らせばいい。勝手に他人をルーザーだと決めつける人を減らせばいい。そのためには、社会全体で視野を広げることでしょうね。例えば、成功と失敗の基準を数え切れないくらい多くすればいい。別の言い方をすれば、「俺はウィナーだとは思わないけど、ルーザーでもないよ。でもハッピーだと思うよ」「そもそも勝たないとハッピーになれないなんて誰が決めたんだ?」って人間を増やすこと。といっても、見知らぬ他人に「あなた、ハッピーになりなさい」なんて強制は出来ないから、とりあえず自分がそうなればいいんだろうなって思います。でも、いきなり「さあ、今日から俺はハッピーだ」なんて思えないだろうから(^_^)、さらにとりあえずの一歩としては他人のことを気にする度合を少しは減らす、他人のことに口出す機会を減らす、Mind your own business.ってあたりから始めていったらいいんじゃないかって思います。
ああ、駆け足だった。急ぎすぎてスカスカな気もします。でも、ここで補充していくと結局長くなってしまうのでこのあたりで止めておきます。
文責:田村
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