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今週の1枚(04.06.07)
ESSAY 159/ストレス
車を運転していたら、後ろから急追してきた車にあおられ、鬱陶しいので車線を譲るといきなり猛スピードで抜き去っていく、、、「なんだ、あのヤロー」「あぶないやっちゃな」と不愉快になるでしょう。こういうときにイラついた気持ちを静める特効薬のようなモノの考え方があります。「あの車の運転手はトイレに行きたかったんだ」と思うと腹も立たなくなる、というやつですが、聞いたことある人もいるでしょう。
結構、これって効きますよ。その車が猛スピードで走っていけばいくほど、「おー、よっぽど切迫してるんだなー」「ほとんど漏れそうなんだろうなー」「かなりヤバいところまでいってんだろうなー」とか思って笑えてきますから。
なんの話かというとストレス処理の話です。
日本人、ストレス溜まってるといいます。本当に溜まっているのかどうか分からないのだけど、アネクドータル・エビデンス(anecdotal
evidence = たまたま見聞したエピソードなどから勝手に推論すること)的には多少思い当たることもあります。
日本人だったらキレてるような状況でもオーストラリア人は呑気に構えてイライラしないこと=いずれもこのエッセイで過去に紹介したようなことばかりですが=は、結構沢山あります。例えば、車の運転でいえば横から合流してくる車を意地悪しないで入れてあげたり、駐車場での車庫入れでも前の車がかなりモタモタしていても平然と待ってたりします。そのため十数台数珠繋ぎになっても、誰もあんまり文句は言わない。エレベータなんかでも、「閉」ボタンがないものも普通にありますけど、ドアが自然に閉まるまで皆も平然と待ってたり(最近のものは閉ボタンがついているのが多くなったけど)、エレベーターの出入口に今エレベーターがどのあたりを通過中かをまったく表示しないものがあったり。ああ、もっといい例でしたら、僕らのようなヘタクソな英語で要領悪く説明していても辛抱強く聞いてくれたりします。そうそう、ストレスで胃がやられるといいますし、日本では胃腸薬が氾濫していますが、こちらでは胃腸薬はほとんどありません。無いことはないのだろうけど、市販薬のレベルではあんまり見ないです。
一言でいえば気が長いというか、のんびりしてます。こののんびり屋さんの傾向が裏目にでると、やれデリバリーが約束の時間に来た試しがないとか、電車が平気で遅れるとか、ホームステイ先にいってみると留守だったりとか、、、そういう出来事もあって、日本人はよくカリカリさせられるのですが、ともあれ時間感覚がゆったりしてるなあと思うことはよくあります。
こういうのは、そもそもストレスを感じていないので、「ストレスに強い」という言い方は適切ではないのかもしれませんし、ストレス耐性といってもいろんなレベルがあるのでしょう。ストレスというのは、自分にとって好ましからざる状況に置かれて、欲求不満状況に陥ることだと思いますが、ストレスに対する抵抗力は、@ストライクゾーンが広いので好ましからざる状況というのが少ない、A好ましくない状況だとしても、直ちに欲求不満に陥らない、B欲求不満に陥ってもそれを我慢する精神力が強いなどの各層に分かれているように思います。@は好き嫌いの少なさ、Aは気にしない度、Bは忍耐力だとしたら、日本人というのは、オーストラリア人に比べて、@Aの部分でストレスを多く発生させ、Bの我慢強さでしのいでいるという感じがします。我慢だけってのもしんどそうなので、そもそも@A部分を鍛えたらどうなのよ?というのが本稿のテーマです。
かくいう僕も、日本人の中でもかなりイラチ(関西弁でいうセッカチ)な方ですし、万事ビシッとダンドリが整わないと腹が立つ方ではあります。歩くのも速いし(日本で歩いていて殆ど抜かされた経験がない、大阪でですらそう)、エレベーターの閉ボタンを押すタイミングは誰よりも早い方です。僕から見たら、日本人の大多数は「のんびり」「ちんたら」動いているような気がします。それでも、そんなにストレス溜まりまくってどうしようもないってことは少なかったです。もちろん、仕事のことやら、受験のことやら、ストレスはありますし、そんなのは当然だとしても、他人の言動や立居振舞が気に食わなくて仕方がないってことは、もしかしたら平均的な日本人よりも少ないのかもしれないなという気がしました。
なんでそう思ったのかというと、最近のAERAという雑誌に、「最近であった不愉快な体験」という読者アンケートのコーナーを読んだからです。読者からいろいろと「最近遭遇した不愉快の実例」が挙がっているのですが、読んでみると「それってそんなに不愉快か?」と首をかしげるものが多かったです。やれ「前を歩く人の傘の持ち方が危ない」とか、「歩きタバコをしてる」とか、「マンションのよそのベランダでタバコを吸われてイヤだ」とか、「公衆の面前で抱き合ってキスしてる」とか、「野良猫に餌をあげる住人がいる=野良猫が増えて糞尿の悪臭で迷惑」とか、「夜中に隣家が風呂に入り、大声で歌うのがうるさい」とか、、、、そんなに腹立つかね?傘の持ち方が危ない人は確かにいるけど、そんなのかわせるくらいの運動神経はあるでしょ?誰が抱き合ってキスしていようが、どうでもいいでしょ。野良猫に餌をあげるのは美談ではないのか。何をそんなに怒っているのだ?と。
ところで僕は典型的なB型ですので、A型日本社会には最初から(ほとんど物心ついてから)、「なんか違うな」という違和感を抱いています。あんまりそれが日常的なので、別になんとも思いませんが、自分と他人は違うものという、自他の峻別がほかのA型的な人よりも強いのだろうなという自覚はあります。他人は自分と違っていて当たり前、自分は他人と違っていて当然。だから、自分ではしないだろうことを他人がしていても、だからといって特に何も思いません。「世の中にはそういう奴もいるべ」と思う。興味もないし、腹も立たない。そうそう他人の(芸能人とかも含む)噂話とかゴシップとかには、終始一貫興味ないです。誰が誰と結婚し、離婚しようが、そんなことに興味を感じたり、貴重な自分の時間を費やして喋ってる人とかみると、心底その精神構造がわからないです。他人のことでそんなに興奮できるなんて、なんて博愛的な人なんだろうと感動する、というのは嘘ですが、「まあ、いろんな人がいるべ」と思ってます。
この「俺は俺」と、どっかでスコーンと抜けている部分が、ストレスを感じにくくさせている原因の一つなのではないかと思います。他人に自分と同じような期待もしませんから、裏切られたとも思わないし、イライラもしない。自分は確かに速く歩くし、閉ボタンも押すけど、誰もが自分と同じだとは思ってない。ゆっくり歩くのが好きな奴もいるだろうしね。人それぞれでしょうと。
この点からいきなり演繹していくと、、個人主義で多民族社会の住人の方が、集団主義で単一民族社会の人よりも、他者に多くを期待しないし、自分の基準が即社会の基準になるわけではないというのを皮膚感覚で知っているだろうから、自分とは違う流儀で他人が動いてられても、そんなに苛立ちを感じないだろうなとは思います。逆にいえば、日本人により多くストレスが溜まっているとしたら、それは単一的なモノの考え方、全=個、個=全という自他の密着度が高いというか、境界が曖昧というか、そういう特質に基づいているのかもしれません。「私だったらやらないことを、この人はやっているから腹が立つ」という。自分の基準が社会の基準であり、それに従わない人がいると、それを個性だとは思えず、反社会的であるかように思えてしまう。もちろん殺人とか窃盗とか犯罪に属することはともかくとしても、一般的なマナーのレベル、それも「人それぞれでしょ」レベルのものすらも自分の基準をあてはめてしまえば、そりゃストレスは溜まるでしょう。
人の数だけ差異はあるのであり、その違いこそがこの世の楽しさ、面白さの源泉であるというものの考え方を、オーストラリア風に言えば"Celebrate Diversity (差異を祝福する)"です。このフレーズは定型文句のように非常によく使われます。嘘だと思ったら、”celebrate diversity australia”でGoogleあたりの検索エンジンで検索してみたらいいです。今やってみたら7万3900件ヒットしました。
自分と他者との違いにおいて、片やストレスを感じ、片や祝福を感じる。もちろんそんなデジタルに右にいったり、左にいったり180度感性が違うって事はないけど、それでもものの考え方によってストレスは減らせるんじゃないかって気はします。
さらに発展させていくと、同じ日本社会でも、単一文化に属している人と、多文化に属している人がいると思います。また、それは年齢や、育ち、経験などによっても変化します。これによってもストレスの感じ方に差が出てくるのかもしれません。
いろんな世代、文化の人々にもまれていると、おのずとストライクゾーンというものが広がっていくでしょう。ストライクゾーンそのものが広がれば、自然と不快に思う回数も減ります。ストライクゾーンを広げるというのは、好きなものごとを増やすことであり、好きなものを増やすということは、見知らぬものの良さを理解することであり、さらにそのためには好奇心とチャレンジ精神がいるでしょう。食わず嫌いをせずに、好き/嫌いの判断をする前になんでも自分でやってみる。カラオケが大嫌いだと言ってる人に限って、一回ハマったら病み付きになるように、人の好き嫌いなんかアテになりません。そしてカラオケが嫌いなうちは、他人のカラオケの音を「騒音」だと感じ、不愉快に感じるでしょう。しかし、ひとたび好きになってしまうと、「おお、やってるなあ」ってウキウキ聞こえてくるでしょう。ストレスを減らしたいのだったら、好きなものを増やすことでしょう。
この世には無限なくらい趣味嗜好があります。「なんで、こんなもの?」と思うような妙な趣味もあるわけですが、それにハマってる人がいるということは、どこかしら魅力はあるのでしょう。若いうちは、好き嫌いの鮮烈さがすなわち自分の個性の鮮烈さだと一人よがりに誤解して自己陶酔しちゃったりしますが、段々そういう無駄な力が抜けてきますと、嫌いなモノの数だけ人生の楽しみを損しているように思えてきます。「あれも、やってみりゃ楽しいんだろうなあ」って。そうやって好きなものを増やしていけば、自ずと不快感も減るでしょう。
また、「人それぞれ」ということが自然と身についてくれば、自分とは異なる他人の言動にいちいち目くじら立てたり、腹をたてたりすることもないでしょう。どうも自分には理解できないけど、あれで楽しいって人がいるんだから、まあいいやって。人間なんかくだらないものが好きですからね。自分だって、下らなければ下らないほど盛り上がったりしますもんね。説明不能、論理破綻の面白さってのはあります。これも、年食ってくると自然とわかってきたりする部分もあります。上述のように僕は早足ですが、若いときはチャッチャ歩くのが好きで、前をゆっくり歩いてられるとやっぱりイライラするものはありました。今でもイライラすることはあるけど、減りましたよね。なんか「ああやって、ゆっくり歩くのってカッコいいよな」みたいに思えてくる部分もあったりするんですよね。
ところで、多文化的に視野が広がってくると、また別な意味でストレスが減ってくる面もあります。視界が広くなると、自分の立ち位置が見えてきて、妙なリキみがなくなって、楽になるということです。
多くの人は、実社会に出るまでの学生時分は、大体似たような年齢で、(地域的にも、世代的にも)似たような文化圏の人々の間で暮らしてますから、自分の常識や感覚が、周囲のそれと大きく食い違うということは少ないでしょう。しかし、ひとたび社会に出たら、同じ年の奴なんか滅多に出くわさないようになりますし、付き合う人々のバリエーションも爆発的に増えます。そのせいでしょうか、若いときは、他人と自分との差異、それもかなり微細な差異に悩んだりしますよね。10年も経てば何に悩んだのか忘れてしまうような、些細な事柄に一喜一憂します。やれ発育が早いの、遅いのにはじまって、クラスの皆とちょっとでも趣味が違うといきなり落ち込んだり、「お前らにはわからん」と孤高を気取ったりします。これまで経験してきた人間のダイナミックレンジが狭ければ狭いほど、自他の境界はミクロ的になりますし、どーでもいいようなことが異様に気になったりします。それが、ストレスにつながります。
学校時分に、周囲の連中と音楽の趣味が合わず、「俺って変わってるのかな」と違和感を抱いていたとしても、同じJポップでAが好きとかBが好きとかいうレベルだとしたら、そんなの実社会レベルでみたら微細な差です。社会に出たら、いきなりおっちゃんおばちゃんの演歌カラオケの世界にほうりこまれて、「銀座の恋の物語」とかデュエットさせられるわけですからね。さらに世界に出たら、日本の曲なんか誰も知りませんわ。これだけダイナミックにドカーンと違ってしまうと、逆にそんなに悩まなくなります。
同じように社会に出ても、似たもの同士の職場環境よりは、日替わり、時間変わりで色々な人々と接する、まるで人間博覧会のような毎日を送っている方が逆にストレスはたまらないでしょう。比較的閉鎖的な生活環境、周囲は全員公務員とか、教師とか、専業主婦とか、皇室なんか最たるものだと思いますが、周囲と自我とのシンクロ率が高ければ高いほどストレスが溜まりやすくなるという面はあると思います。もちろん、似たもの同士の方が気楽って側面もあるでしょうから一概には言えないのですが、十人十色でスタンダードというものがあまりない環境の方が楽だとは思います。
ですので、もしストレスで煮詰まってるなあって思ったら、せっせと「異人種」の人々と接するといいでしょう。大学で就職活動がうまくいかない等と「些細な」(あえてこう言い切っちゃうけど)ことに悶々としてるくらいだったら、バイトでも旅でもして、いろんな人に会ったらいいんじゃなかろうか。僕も司法試験受験時代、就職を決めてくる同学年の連中を尻目に、わざと単位を残して留年し、一日十数時間も勉強してたわけですが、こんな生活まともにやってたら煮詰まるだけだと、風通しはよくしようと思いました。意識的にそうしたというよりも、なんとなく本能的、無意識的に、全然関係ない社会との接点を増やしたように思います。彼女の存在なんかも大きいですが、それだけではなく下宿屋のおばあちゃんと立ち話することや(京都だったのでこれがバリバリの共産党支持だったりするわけですね)、昔のバンド仲間とギターの新技の話をしたり、バイト先の労組で頑張ってるおっちゃんとか、定年退職後運転手やってるおっちゃんの孫の自慢話とか。下宿の近所の民家同然の渋いしもた屋の定食屋の常連のおばあちゃんとかもいい味してましたよね。なにをやったんだか知らないけど、どうも昔刑務所に入ってたらしく、なかなか人生の重みを感じさせてくれました。カラカラ笑いながら、スパーっと煙草とかふかしたりして、妙にカッコ良かったですね。
こういう全然違う人々を沢山みるのはいいことだと思いますよ。特に若いうちには。この社会の広がりというものが、なんとなく皮膚感覚でわかってきますし、自分がいかに狭い世界にいるのかが良く分かる。それまでは全世界と思ってたものが、実は大海のなかの点に過ぎないというのが実感として分かると、「なーんだ」という気になります。司法試験ばっかりやってると、落ちたらもうこの世の終わりだ、地獄だみたいに思いつめがちなのですが、そんなもんこの世の終わりでもなんでもないです。もし、終わりだったとしたら、この人達はなんなのよ?という。受かろうが落ちようが、本質的には別に大差ないのだな、この人々の大きな海にいることに何の変わりもないのだな、「生きる」ということの大きな意味からしてみればほんのちょっぴり軌道が変わる程度のことに過ぎないのだなということが分かれば、別に怖くもなくなるし、ストレスも減ります。「ま、好きなことやらせてもらいますわ」と肩の力が抜けていきます。ああ、だから弁護士やめるときも、別に勿体無いとも何も思わなかったんでしょうね。自分としてはそんなに変化があるとは思ってないですし、それは日本を離れてより広い世界に行けば行くほどそう思います。
あと気づいたのですが、ストレスに対するアクションを起こすかどうかって違いもあると思います。
オーストラリアでもどんな事に遭遇してもヘラヘラ笑って喜んでるわけではないです。当然、他人の言動が気に食わないことはあります。そんなもん人間なんだから当り前です。ただ、その後の態度が多少違う。事態を改善させるために気軽に動きますよね。つまり見知らぬ他人に対してでも、平気で口頭で注意を促します。不愉快気に眉をひそめて終わりってケースもありますけど、日本に比べればあんまり遠慮しない。そして、他者に注意する以上、なぜそれが宜しくないのか論理的に説明しなければならないです。「常識でしょ」とか「俺の美意識に反する」というのは理由になりませんから。傘ピュンピュン振り回している人がいたら、それを止めさせるために、「子供が後ろを歩いていた場合、傘の先端が突き刺さって負傷するかもしれず、危険だからやめてくれ」と。他者に取り返しのつかない迷惑を及ぼしかねないことを考えれば、それはあなたの個性や流儀の自由を超えているのではないか、私はそう思うのだが、という言い方をするでしょう。何度もいうけど、人によりけりって部分はありますよ。でも、こういう論理的なものの言い方はよく聞きます。"Because,,"で理由を言うというのは、ほとんど居酒屋の突き出しのように自動的にくっついてきます。
というわけで、他者の言動を不愉快に思うのであれば、それを是正するためにアクションを起こすべきでしょう。内心で不快に思ってたって客観的には事態はなんら改善されないんだから。でも、同じ日本人としてわかるけど、あんまり他人に注意するってことはやりたくないですよね。逆恨みされたり、逆ギレされたりするとイヤだしね。だから、言わずに我慢する。だから余計にストレスが溜まる。言うときはかなり気合を入れて、思い詰めていうから、声も尖るし、剣呑な感じなり、それが相手に伝わるから相手もまた神経を逆撫でされ、腹が立つという。最初からもうちょいニコニコ笑って、気軽に注意すれば、相手もそんなに怒りはしないと思うのだけど。だから悪循環ですよね。
ここ数十年スパンで考えると、どんどん妙な感じになってきたような気もします。昔はもっと他人に気楽に話し掛けていたのではないかなと。僕も知らない人からも注意されたりしたし、子供時代はこっぴどく怒られもしました。「二丁目のカミナリオヤジ」みたいな存在は普通にいたけど、今はもう絶滅したのでしょうか。でも、「叱られ慣れる」というのは、人間の資質として大事なものだと思います。子供の頃から適当にゴツンとやられてないと、「実は俺ってアホなのかも、大したことないのかも」というごくナチュラルな客観性が失われ、妙にひ弱なプライドばっかり肥大化して、逆ギレを起こすかもしれませんからね。「叱られ上手」は大事なことです。上手に叱られれば、傷つかないし、他人もあれこれ叱ってくれます。ありがたいことなんですけどね。人間なんか馬鹿だから、適当に叱られてないと、すぐにイビツに醜くなってしまいます。叱られるのが下手だと、教育的栄養分が豊富な「叱られる」というリアクションではなく、イヤミを言われるとか、栄養分の低い、それどころか毒素みたいなものを投げつけられるようになるし。
それと、これも過去に触れましたが、オーストラリアの人というか西欧人(あるいは他の地球人一般)は、日本人ほど他人と対決することを恐れないように思います。注意して、言い返されたら、また言い返す。だから、街角で大声で言い争ったりしています。つい先日ですが、シドニーのシティで、走りゆく路線バスを全力で追いかけていく紳士がいました。バスに自分の車をぶつけられたのか、泥水でもはねられたのか、何か言いたいことがあったのでしょう。結構立派な身なりをした紳士でしたが、もう車道を全力疾走して、渋滞でつかまっていたバスに追いつき、運転席のあたりを外側からバンバン叩いて、大声でなにか言ってました。聞き取れなかったけど、いざとなったらああいう行動を取るという覚悟みたいなものが、自然と備わっているのだなと。戦うとなったら徹底的に戦うという、「とことんやったろか?」というエネルギーの違いはあると思います。あれだけの対決エネルギーが普段から充電されていれば、気楽に他人に注意も出来るでしょう。
そこまでの対決エネルギーがないと、なかなか注意も出来ない。だからぐっと不愉快なのを我慢する。我慢するから付け上がる馬鹿も、逆切れする阿呆も増える。だから余計に言えなくなる。溜まる。その場合良くないのは、「坊主憎けりゃ袈裟まで」で、文句をいおうとして言えなかった相手の特徴が拡大していくことです。電車の中でウォークマンをシャカシャカさせている奴を不愉快に思ったら、この次は電車の中でウォークマンをしている人(別に音量を上げておらず許容限度内の人であっても)全てが腹立たしくなり、さらには電車の中でなくてもウォークマンをしている人全てが憎らしくなり、「あれは一種の自閉症だ」「音楽聴きながらなんかやるなんて分裂症の始まりだ」という具合に拡散していく。かくして万人が万人に対して憎悪を放射することになり、一日外に出ていたらこれらの憎悪オーラを浴びて疲れてしまう。疲労とストレスが溜まるから眠りも浅くなり、体調も悪くなり、体力が落ちる。だから、また「とことん対決しよう」という潜在エネルギーも乏しくなり、そして今日もまた不愉快な思いは裡(うち)にこもる、と。悪循環ですね。
不快感や憎悪、ストレスというのは、貯金と同じで溜めればそれだけ利息がつくもののようです。出来るだけその場でポンポンと言えたら、溜まるものも溜まらずに済むのでしょう。出来るだけ腹にためないで、いつもニコニコ現金払いで、その場で解消するようにするといいのでしょう。とはいっても言うは易しで、なかなか実行しにくいです。ましてや車内暴力みたいな逆ギレにあったらと思うと、ビビッちゃいますよね。だから、何も、最初から「トコトンやったろうかい」と根性キメてやることもないです。そんなの無理だから。パワーがなければテクニックで勝負です。いわゆるカドの立たない「モノの言い方」ってやつです。
人にものを注意するときは、あんまり自分で溜め込まないうちに言ったほうがいいです。これまでの「積年の恨み」みたいな気分でモノを言うと、どうしたって言葉は重く、シリアスになりますし、相手に対する不快感や憎悪がにじみ出てきてしまいがちです。注意された人間が逆ギレするのも、注意される内容そのものよりも、そういった憎悪の放射というか不快感が反射伝染するというのがメインの理由のように思います。誰だって完璧ではないので、僕もあなたも他人から注意されることはあるでしょう。例えば、ゴミの分別回収でつい誤ったゴミ箱に入れてしまったりしたときに、「ちょっと、あんた!」「おい、お前!」みたいな呼び止められ方をしたら不快じゃないですか?「なにやってんだ、この馬鹿は」とばかりに、相手から強烈な侮蔑や憎悪の念を放射されたら、誰だって不愉快です。それは相手の言ってることがいかに正当であったとしても、です。いや、むしろ言ってることが正当であればあるほど不快でしょう。なぜなら、それは「ちっぽけな正義をタテに居丈高になる醜い人間」「自分が絶対正しいと思ってる鼻持ちならない人間」そのもののように感じられるからでしょう。自分も悪いとは思うが、ここまでエラソげに振舞われたくはないね、って気分になるでしょう。
注意するときは、自分は正しいと思うときほど、慎重に礼儀とレスペクトを忘れないようにした方がいいと思います。注意された人間の顔が立つように、です。あなただって、「おい、こら!」と呼び止められるよりも、「あのー、すみません、お間違えじゃないですか?」と言われた方が、「あ、これは、すみませんでした」と素直になれるんじゃないですか?相手の非を指摘するというのは、相手のチャックが開いてたり、下着が露出してるのを指摘するようなもので、言う方も恐縮するくらいの感じがいいと思います。だから、思うに、相手のことを嫌いになる前に注意しちゃう方がいいです。ギリギリまで我慢しない方がいいです。我慢しちゃうと、どうしても”積年の恨み”系になって、たった今やった行為が10程度の非なのに対し、つい過去の分も加算して30も40も文句言っちゃうから、言われた側としても「なんでそこまで言われないとアカンのか」という気になります。
相手が悪いのになんでそこまでヘコヘコせなならんのか?と思うかもしれないけど、誰だってミスはあるし、訂正や改善のチャンスは一回くらい与えられてもいいと思います。最初の一回目くらいは、対等にレスペクトしてあげたっていいじゃないですか。怒ったり、喧嘩したりするのは、相手が言われても改善しなかったときで遅くはないです。ほら、孔子のおっさんも言ってるじゃないですか、「過ちて改めざる、これを過ちという」と。一発目のミスはいいんですよ、誰だってやるんだから。言っても改めないのが問題なのだと。
一見してヤクザ風なのが他人に迷惑になるようなことをしてたり、悪いと分かっていながら世間に挑戦するようにやってる連中、言っても聞かなさそうな連中というのはいます。それはもう最初から無視してたらいいです。注意してどうなるものでもないし、注意することは、すなわち喧嘩を売るときですですから。喧嘩を売るんだったら勝てるように売る。つまりいきなり警察や管理者に通報するとかです。直接言うのは、あなたが口や腕力で勝てるときだけでいいです。そうじゃなかったら、ガンガン、チクったらよろし。なんせそうやって他人に不快感を待ち散らすのが、彼らの自己実現なんだから、関わっても喜ばすだけです。でも、半数かそれ以上は、普通の人がついやってしまってる場合だと思いますから、あれこれ逡巡する前にとっとと注意したらいいと思う。
いきなりは無理かもしれないし、見知らぬ第三者に言えといっても難しいかもしれない。だったら、出来る範囲でやればいいです。家族、友人、同僚のレベルでも、あんまり腹に溜めないうちに言えるようにしておいた方がいいでしょう。僕も、メールでも、ちょっとカチンときたら、すかさず言うように努めてます。あと、日本の場合、何だか知らんけど、立場的に絶対的に許されるみたいなカルチャーがあります。これも過去に述べたけど、商売上の客は傍若無人でも許されるとか、上司だったら全人格的に許されるみたいな妙なカルチャーがあるんだけど、これは悪いカルチャーだと思うから改めた方がいいと思う。対等な人間として許されない振る舞いが、「客」だというだけで許されるようなことは、基本的にはありえないと思いますからね。
まあ、ね、「物言えば唇寒し」というフレーズもありますし、あんまり思ったとおり口にしてたら何かと世間は渡っていけないって面はあると思います。それは分かりますよ。ただ、「物言わぬは、腹ふくるるわざなり」という徒然草の一節もあるでしょう。そのへんのバランスだと思いますし、僕が思うに、言わずに毒素を体内に溜め込んでいる弊害の方が、馬鹿正直に言うことによって損をする弊害を上回っているような感じがします。
それに、いざ他人に注意するんだと思えば、自分でも言う内容を吟味するでしょ。吟味すれば、半分くらいは、「あ、これは相手が悪いというよりも、俺の八つ当たりみたいなものか」ってのが自然と分かりますよ。「イチャイチャしてんじゃねーよ」みたいなのは、単なる嫉妬でしかない場合が多いですし、他人の幸福を素直に祝福してあげる気持ちになれない自分の心になんか問題があるんじゃないかってことに気づくでしょう。つまり、相手が悪いのではなく、悪いのは自分。ストレスを消化しきれずに、そのはけ口を第三者に求めている自分。自分がムシャクシャしているときは、この世の全てが呪わしく見えるものですしね。
ストレスというお題で、適当に思いつくまま書いてきましたが、書いていて気づいたのですが、かなりの部分は「自分次第」だという気がします。ストレスなんか感じなくてもいいような局面でも、わざわざ自分からストレスを感じるように仕向けているって部分も大いにあるだろうし、自分自身の心の中が乱雑だから、それが外界に投射されて不愉快に映るってこともあるでしょう。
あと、ストレスというのは一種の感情エネルギーですから、エネルギー不滅の法則で、無視しようとしても形を変えて溜まったりします。産業廃棄物みたいなものですね。だったら、逆に開き直って、腐敗ガスを利用して電力を起こすように、ストレスという感情エネルギーをエネルギー転換させて有用にもっていく方法もあると思います。つまり方向性を与えてやる。
例えば、今ある生活環境全てがイヤだという、けっこうツライ状況があったとします。友人関係もイヤだし、仕事も合ってない、やってて苦痛である、住んでいるエリアも嫌いだし、なによりもそんな環境でヘコヘコしている自分がイヤだと。そりゃあストレス溜まるでしょう。ストレス溜まってるんだったら、それを起爆剤に総取っかえプロジェクトを起動させたらいいじゃないですか。「絶対ここから抜け出してやる」と。貧民スラムから、ボクシングの世界チャンピオンやサッカーのスター選手が生まれてくるように、別に、世界チャンピオンになれって言ってるんじゃないです。今の日本の状況だったら、そこまで頑張らなくても、仕事と住むところの二点くらいだったら、そうそう死ぬほど困難ってことはないでしょう?それはいろんな状況はあるから一概に言えないにしても、本気でやったら出来ることも結構あると思います。そして、仕事と住居の二点を変えたら、自分の生活環境なんか殆ど360度全部変わります。
別に総取替えするのが唯一の道ではないですが、言いたいのは、転んでもただでは起きないというか、エネルギーを拡散させて無駄遣いしないで、一点に凝集して有効利用できないかってことです。他人からブタ呼ばわりされた屈辱を起爆剤にしてですね、鬼のようにダイエットに励んで、生涯最高レベルに美しくなって、それで人生変わっちゃうことだってありますからね。
もしそういった爆発的な行動力が出てこないのであれば、「ああ、俺はまだまだストレスが足りないな」「もっとストレスを溜めねば」と、逆にストレスを求めるようになるかもしれません。で、いざ探すとなったら、意外とストレスというのは転がってないもので、「ああ、このくらいの不快感だったらまだまだ役不足だな」「なかなか生きのいいストレスってないもんだな」って気分になるかもしれません。で、非常に不愉快な体験をしたら、「おーし、めっけ!」って嬉しくなったりしてね(^^*)。
馬鹿なこと言ってますけど、要するにものの考え方一つなんじゃないですかね。
文責:田村
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