今週の1枚(05.11.28)
ESSAY 235/上の世界
写真は、Wavertonの駅付近からCityを望遠で撮影。
唐突ですが、今週は「上の世界」の話をします。上の世界にいけない、上に行けない理由はいろいろあるとは思うのですが、最大の原因は、そもそも「上の世界があることを知らない」ということではないかと。
最初にお断りしておきますが、「上の世界」とか、そういう上下関係で物事を語るのはそんなに好きではありません。僕自身、「なにが”上”じゃい、ボケ」というメンタリティを強烈に持っています。人間社会なんか原っぱ一面に茂ってる雑草やタンポポのごとく横一面にずらっと並んでて、そこには個性の差はあれど上下の差はないというのが本来的な、そして真実の姿だとは思います。だから「上下」といっても、見る人が勝手に順位を振ってるだけの話で、そんなもんは幻想、お約束だと思ってますし、他人が作った「上下」概念に自分が振り回されたり、縛られたりするのはケッタクソ悪いです。大学入試で○大学は△大学よりも「上」という発想も、他人が勝手に言ってるだけの話で、別に僕やあなたがその通り思う必要はない。
にも関わらず、やっぱり上下とか、高低とか、深浅とか、狭広という概念を使いたくなる局面というのはあります。
例えば近所の空き地で野球やっててそこでスターになれたとしても、中学高校の野球部に入ればもっと上手な奴がゴロゴロいますし、地区大会で多少勝ち抜いても、準決勝くらいになってくるとバケモノみたいな連中が登場してきます。さらに、甲子園とかになると化物連中の巣窟になり、そいつらをねじ伏せて優勝しても、プロに入ったらまた一番下っ端で、さらに超巨大な連中がひしめきあっており、さらに大リーグに行くと、、という具合に世界は連なっています。この世界の連なり方、一つの世界の上にまた次元の違う世界が広がり、さらに、、ということを表現しようと思ったら、やっぱり「上」とか「下」とか表現するのが一番自然でしょう。
そういう意味での上下であり、レベルの高い/低い、奥の深い/浅いです。別に全人格的なレベルでの上下ではないし、士農工商みたいな社会的な身分でもないけど、一つの世界にはやっぱりレベルにあわせて高いサブ世界もあれば低いサブ世界もあり、それらが無数のレベルに水平的に積み重なってるってことです。
で、何かやるんだったら上にのぼった方がいいです。
こう書くと「そんなの当たり前じゃん」とか、「くだらない上昇志向だ」とかツッコミが入ると思うのですが、そのどちらでもないです。僕が上に行った方がいいよという理由は、純粋に「その方が面白いから」です。「上だから」行くんじゃないんですよ、面白いから行くんです。
いわゆる盲目的な上昇志向というのがありますが、あれは僕は好きにはなれない。だってビンボー臭いんだもん。そのあたりは、すごく昔に(97年5月)にシドニー雑記帳に「貧乏臭い人は、世の中をタテに見る」というタイトルで書いたので長々とは繰り返しません。要は、物凄い上昇志向の人って、えてして同時に物凄い欠落感が透けて見えてしまうので、そこが貧乏臭く僕には見えます。そんなに他人にエライって言って欲しいの?言われないと自分が成り立たないの?って。
そーゆーコンプレックスの代償作用とか、自己欠落感の補償とかじゃなくて、もっと話は単純で、好きで野球でやってたら燃えてきてしまって、「よーし、次は全国大会だ!」的な上昇感覚です。その昔のTVゲームで、一面をクリアしたらもっと難しい二面が出てくるのといっしょ。だから、「上がってる」というか「深みにハマってる」というか、「病膏肓に至る」というか、上がってるんだか下がってるんだか分からんのですが、とにかく今とは違う水平世界があって、そこにいくともっとエンジョイできそうだし、だからいってみようという、それだけの話です。ナチュラルなエスカレートです。
ただ、ここがややこしいのですが、僕のいう「面白さの階層世界」というのは、俗世間の階級世界とある程度やっぱりリンクしてるんですよね。仕事でも、時給700円のアルバイト仕事と、年収3000万円クラスの仕事とでは、見える風景は違うし、動かす規模も影響力も違うし、奥深さも違う。コンビニでレジを打ってるだけとの仕事と、日本の流通システムを根本変革を狙う仕事とはスケールも違うし、面白さは違うと思うのですよ。後者の場合、日本の法律それ自体を変えていこうとするし、そのために国会議員にも働きかけるし、日本の財界、官僚世界の主立つところに根回しもするでしょう。マスコミへの配慮や対策もするでしょう。日本社会そのものが自分のキャンバスになります。もちろん自分の力なんかビビたるもので、その一端を担ってるに過ぎないけど、それでも見えてる風景は違うし、展開もダイナミックで面白いでしょう。
僕自身、司法試験受験生時代は頑張ってバイトやってました。出版社の倉庫で返本の山の整理やら、出荷やら、倉庫専用のギザギザした鋸のような刃をした鎌(梱包を解いたりダンボールを切るのに便利!)を持って倉庫内を歩いてました。あれはあれで面白かったです。いい経験をしたと思ってます。ただ、弁護士になったらなったで、やっぱり見る風景は変わる。会う人のダイナミックレンジも議員先生から殺人犯まで広がるし、出張なんかでも旭川から沖縄まで行きました。どっかの誰かの隠し資産を調査するために鹿児島県の山奥のラブホテルまで行って犬に吠えられたり、医療過誤の関係で看護婦さん達の自主勉強会に参加したり、記者会見やったり、マンション反対の住民集会を仕切ったり、それはやっぱり広がるものがあります。
はたまた、世間的に偏差値が高いとか、名門と言われている大学や高校なんかも、同じようにリンクすると思います。確かにいわゆる「いい学校」の方が、来ている連中は一癖も二癖もあるような面白い人物が多いし、OBも含めてそういった多彩な人材が織りなすカルチャーというのは魅力的だったりもします。また、そういった学校の方が、下らない校則も少なく、自由な雰囲気があるし、笑えるような変テコで愉快な伝統なんかもあります。今もやってるのかどうか知りませんが、僕の高校は旧制中学のナンバースクール、東京府立七中だったので、くだらない伝統はありました。1年間の最後の授業になると、皆で奇声を発しながら先生をひっつかんで校庭の池に投げ込むという。これは恨みのこもった「お礼参り」ではなく、感謝の意味をこめてのことで、それなりに慕われている先生でないとやってもらえない。「池」をやられるのは先生としては一種の「誇り」なんです。同じように、今は当然廃れてしまった伝統だろうけど、作家の庄司薫氏の講演を聴いたとき、氏の出た頃の府立一中(日比谷高校)の黄金時代の伝統の話になりました。新学期になると校庭に先生生徒全員集まって、先生と生徒が問答をする。そして気に入った先生のクラスに入る。1日かかって生徒が先生を選ぶんですね。夕暮れになる頃には、校庭のあちこちで新クラスが結成されると。今はそんな暢気なことやってないでしょうが、古きよき時代の大らかな伝統です。
というわけで、世俗的なエライ・エラくないの階層性と、面白い/面白くないの階層性とは、かなりダブります。 世間的にそれなりにエラいところにいくと、やっぱりそれなりに面白くなる場合が多い、と。
しかし根本原理は違うのですよ。面白いかどうかでやってるのと、エライかどうかでやってるのとではやっぱり違う。それは、一般的には社会的ステイタスは高いものであっても、実際にやってる仕事の中身はクソ同然って場合もあるわけですよ。ひたすら天下りのための根回しと策謀だけを巡らせているとかさ。ひたすら腰巾着になり、操り人形になるだけとかさ。そんなの幾らでもある。階層性の二つの原理、つまり俗世的なステイタスと、純粋な面白さというがあるとしたら、この両者の関係は「つかず離れず」ってところでしょう。全く無関係ではないけど、べったり関係しているわけではない。ある程度ダブルけど、必ずしも同じではない。
早い話が、僕自身日本でやってた弁護士をやめて、徒手空拳でオーストラリアにやってくるという行動がそうです。社会的なステイタスでいえば限りなく「?」ですし、単純に年収でいえば当初なんか全く無収入ですからね、比較にならない。レベルダウンというよりは墜落です。でも、僕の頭の中では、オーストラリアに行く方が「上」なんですね。面白さの度合でいえば、絶対こっちの方が面白かろうと。実際、「うっひょー」というくらい面白かったし、今でも面白いです。だから、必ずしもべったりリンクしているわけではないのは、僕も体験的によくわかっています。
また、料理屋さんでもチェーン展開している上の方の社長さんと現場の板前さんがいたりするわけで、社会的ステイタスでは社長と平社員くらいの隔たりがあります。しかし、どっちが面白いか?というと、微妙でしょうねー。板さんには現場の喜びがあるんですね。それはどれだけ自分で納得のいく料理をしてるかによるだろうけど、自分で納得のいく仕事をして、それを目の前でお客さんが食べて「美味しい!」って幸せそうな顔をしてくれたら、これはうれしいだろうと思いますよ。「自分の力で他人を幸せにする」というのは人間の幸福の一つの原型ですもん。かなり強烈な充実感があるでしょう。それに引き換え社長さんは、周囲から社長社長とおだてられはするものの、やってることといえば金勘定とか、資金繰りとか。お世辞言われてるか、頭下げてるかどっちかという。加入チェーン店が増えたからといって、「だから何なの?」みたいに醒めてしまう瞬間もあると思うのですよ。「社長なんかやるもんじゃないよ」ってのは、社長経験のある人がよく言います。社長とか経営陣とかいうのは、上の高いところにいるように見えて、実は裏方なんじゃなんかって部分もあるわけです。社長さんもそりゃ収入はいいかもしれないけど、その代わり自宅から何から全財産を担保に取られますし、会社が潰れたら自分も潰れる。失業だけじゃ済みません。
昇進試験を受けたがらない第一線の刑事さんとか、管理職になりたがらない前線バリバリの新聞記者のデスクとかいう人々も同じことだと思います。ある意味では詰まらんのですよ、「上」にいっちゃうと。管理職なんかねー、管理するだけですからね。現場とオーナーの板挟みというか。ただ、エラくなれば権力ももたせてもらえるわけで、その権力を使って今まで歯ぎしりして悔しかった部分を叩き壊すなり、改めるなりも出来るわけで、それに面白さややり甲斐を感じるんだったらそれはそれでイイコトだとも思います。
というわけで、社会的ステイタスとしての「上」と、あなた個人の価値観による「上」の関係の話でした。かなりの程度リンクするけど、しない場合も結構あるよと。
「それがどうした?」「だから何なの?」と言われたら、こう続いていくと思います。一つの認識は、次なる方法論を導く。
まず、今自分の所属している水平世界が詰まらんな、限界あるなと思ったら上の水平世界に移るべきですが、「上ってどこにあるのよ?」と迷ったら、とりあえずは世俗的に上とされているところを目指すといいと思います。いわゆる名門とか、一流とか、格上とされているところを目指せと。受験生や就職活動をやってる人で、やりたいことがよく分からない、見つからないと思ってる人。どうやったら自分の人生が豊かにエキサィティングになるのか途方に暮れてる人。あるいは今の仕事が詰まらないとか、周囲の人間関係とかに行き詰まりを感じる人。とりあえず世間的に高いところといわれているところに上ってみなはれと。
上にのぼるとなんかイイコトあるのか?といわれたら、多少はあります。一つは見晴らしがいいから、先々のことを考えるにしても選択肢が増えます。その目的地に行くルートも見出しやすいでしょう。第二に、そこに来る連中は、やっぱりそれなりにやってきた連中だから、「面白くて、ヘンな奴ら」が多い。鼻持ちならないエリート臭を漂わせてるアホもいるかもしれないけど、それだけじゃない。やっぱり面白い連中が来る。彼らによって触発される部分というのは非常に大きい。
「見晴らしがいい」っていうのは見過ごされがちですが、わりと大事な要素です。例えば、あなたが東大の法学部の、それもトップグループに所属してたら、日本の見え方も変わってくるでしょう。ごく自然に「日本は俺が動かす」と思うでしょう。官僚になるにしても、どの分野を選ぶかについては、50年後の日本の未来像を描いて決めるでしょう。とりあえずこの社会の片隅に自分の居場所があればいいやって物の考え方ではなく、日本全土を一望に見渡すような視野を得るでしょう。そういう視野を得られるだけの環境は確かに整っているのですね。まあ、社会経験もなにもない若造が何を思ってもそれは知れてるっちゃ知れてるし、見えてるようで本当に見えてるか疑問だし、見えたからといって出来るかどうは別問題ですよ。だけど、それでもスケールの大きさ、視点の高度は勝ち取れます。
視野の広がり、スケールの広さって結構大切な要素で、視野が狭かったら最初から選択肢が見つからない。「都会に出る」か「地元で就職」くらいの選択肢しかなく、さらに地元就職を選んだとしても、県庁か農協、あるいは親戚のコネでどっかの土建屋の事務とかさ。それらも立派な仕事ですよ。決して蔑んではならない。でも、最初っからそれだけの選択肢しかないってのは問題でしょう。インドのカースト社会じゃあるまいし、これだけ豊かでこれだけ自由な日本にラッキーに生れ落ちて、それだけってのは寂しいでしょう。
あと「面白い奴が来る」というのも見逃せない要素で、やっぱり行くところに行けば面白い奴はいます。面白いどころか、半分狂人のような奴らもゴロゴロいます。親に言いなりになって医院の後を継ぐ為に東大の医学部に入ったら、権力志向バリバリの奴がいて、なんでそんなに権力が欲しいの?と聞いたら、「俺は絶対日本の医療界のてっぺんに立ってやる。そしてこのクソみたいな医療システムをぶっ壊してやる」と豪語したりします。たかだか18歳でよくお前そんなこと考えてるなーって感心したら、また別の友人が出てきて、「ド阿呆、上からの改革が成功した試しなんかあるかい、ワシは敢えて野に下り、民間医療のレベルから野火のように日本を変えたるわい」って奴もいたりする。本当にそんな奴がいるかどうかは知らんけど、いたらとりあえず面白いでしょ。「そういうのもアリなんか」って思うでしょ。全然アリじゃないかもしれないけどさ、痛快な人材ってのはいるわけですよ。
でもって、やっぱりそれなりに鍛えられるわけです。
一番最初に入る会社や職場は、何らかの意味で一流のところがいいっていいます。最初に覚えこまされた仕事のレベルが、その人の一生の仕事のレベルを規定するからです。料理人になるにしても、一流の料亭やレストランで修行したら、玉葱の刻み方一つでも徹底的に最高レベルであることを要求されるでしょう。料理の上手下手の大部分の要素は、手を抜くか抜かないかだけだと思いますが、手を抜かないやり方をキッチリたたきこまれます。そうなると自分の中の要求水準が自然と高くなりますし、技術者としての自分のレベルも高くなります。
別に料理人に限らずどんな仕事でもそうだと思うのですが、「これでいいや」と思ったらそこで成長は止まるし、そのレベルでしか仕事は出来なくなる。最初に仕込まれたものというのは、なんだかんだいって一生つきまといます。最初にショボイところに適当な仕事のやり方を覚えさせられたら、「そんなもんか」って思っちゃうんですよね。一生そのレベルでしか仕事ができなくなる。だから、自分自身の「性能」がそこで決まってしまい、自分自身の市場価値もまたそこで終わってしまう。だから、一生、その程度のレベルで終わってしまう。これはメチャクチャ怖いことです。もし、最初にショボイ仕事を覚えさせられたら、どっかで一念発起して上にあがって、ガビーンとなる体験をすべきでしょう。基準をリセットしなければならない。しかし、これがなかなか精神的に大変です。まだ20歳前後の若いうちだったらポンポン怒鳴られても、「はいっ、すんません!」っていえるけど、30歳過ぎると妙なエゴが出てくるから、それだけで屈辱に感じるし、ツライ。そんなしんどい思いなんかしなくていいじゃん?って話しになりがち。よほど克己心の強い人でないとしんどいでしょう。だから最初が肝心。
ただ、世俗的な上にのぼる場合、「高山病」にかからないように注意してくださいね。
高いところに登るのは、そこで良い見晴らしを得るためであり、何らかのヒントや触発を得るためのものであって、あくまで手段的なものであるということを忘れないように。高いところに登ることだけが自己目的化した場合、あとでしっぺ返しがくることもあります。一生かかって頂上に上ってみたら、そこは荒涼とした何もない世界だったとかいったら、俺の一生は何だったんだってことにもなりかねません。
また、高いトコロにのぼってると、自分がなんかエラいかのように錯覚して、人間ダメになりがちですので、この点も注意ですね。それって大きな車に乗ったらエラそうにブイブイ道路を走り、小さな車に乗ったら卑屈に走ってるのと同じです。高いトコロに上ってるだけの話で、自分の身体が巨大化したわけでもなんでもないです。自分の背中に翼が生えたわけでもない。勘違いしないように。
さらに、高いトコロに上ると見晴らしはいいですが、そこで得られるのはマクロな鳥瞰図であって、あくまでゼネラル・パースペクティブでしかない。高いトコロに上ってしまったが故にかえって見えなくなる物も沢山あります。ミクロとマクロとのバランスをよくすることです。どっちかに偏ってると、けっこうヤバいですよ。ミクロしか見えないと世界が狭くなって、ちょっとしたトラブルでも解決策が思いつかず自滅しちゃうけど、マクロしか見えないと、自分がスーパーマンになったつもりで屋上から飛び降りて死ぬパターンにもなります。恐いっす。
既に、自分自身、「うおおおお、これじゃあ!!」ってもんが見つかってる人は、大汗かいて高いところなんぞ上る必要はないです。時間の無駄ですから。高いトコロに上るのは、それなりに手間暇の掛かるものです。時間もかかればお金も掛かる。それだけの価値があるかどうかですね。
登山していてよく言うじゃないですか。「道に迷ったときは尾根に登れ」と。谷に下っていくと視界が狭まるから現在位置もよく見えない。だから尾根に登れ。そうすれば周囲の山も見えるし、大雑把な方向性もまた見える。高いトコロに上りましょうというのは、その程度の意味に過ぎません。
さて、以下は世俗的なステイタスとは関係ない話をします。純粋に、面白いかどうか、深いかどうかの世界の話です。
最近つくづくこれが一番恐いよなと思うのは、「上の世界があるということに気付かない」ことです。上の世界をミスってる人は、自分が何をミスってるのかすら気付かない。気付かなかったら、見えなかったら、上に行こうとはそもそも思わない。人生こんなもんかって思っちゃう。さらにこれの恐ろしいのは、別に上にいかなくたってそこそこ楽しいことです。充足しちゃう。楽しいから別にこれでいいじゃんって話になりがちなんです。
何でこんな具合に思うのかというと、日常的にワーホリさんなどのお世話をしているなかで「ああ、そういうことか」って段々分かってきたところがあるからです。ワーホリというのはある意味では人生の縮図で、その1年をどう使うかというのは、その人が一生をどう過ごすとかとかなりの程度パラレルだと思います。それなりのワーホリ一年を過ごす人の人生もまたそれなりだろうなって。
上の世界とか水平世界とか言いますけど、例えば、現地に来てワーホリさんや留学生の人間関係というのは、一番コアに同じ日本人同士のコミュニティがあると思います。これが一番楽。でも一番視野が狭く、浅いし、学ぶものも最も少ない。次に、日本人と双生児のように似通ってる韓国人との人間関係。日韓社会があります。日本人だけのシェアの次に来るのが日韓人だけのシェアってやつでしょう。韓国人が増えた分だけ世界は広がるんだけど、それでもまだ日韓だけの社会。次に、語学学校に通ってくるようなアジア人世界がきます。やっぱり、西欧人と比べてみたら、同じアジア人同士ほっとする部分ってあるのですね。付き合いやすいんですね。その次に、語学学校に来るような世界中の国の人達との世界が広がってます。こうやって広がっていくにしたがって、視野も広がるし、物の考え方も広がっていくし、それがひいては生きていく選択肢の広がりに連なっていきます。
でも、それでもまだ語学学校という範囲があり、本当に行くべきところは、その外周にあります。つまり、英語を学ぶ必要のないNZ人、アメリカ人、イギリス人などの連中。さらにオーストラリア人という地元社会。また英語ネィティブでなくても、語学学校に来ない他国の連中がいます。語学学校で幾ら国籍が豊富とかいってもせいぜい40カ国とまりだと思います。しかし、シドニーは200カ国から人が集まってます。シドニー現地の実際からしたら、語学学校内部の国籍やバラエティなんかほんの一部です。例えばアフガニスタンから亡命してきた人なんかは、語学学校にいってる金銭的余裕もないですからね。そういう人はAMESという政府がやってる移民のための英語学校にいったりします。ちなみにAMESの出身国籍構成は、世間の語学学校と全然違います。ロシア系やユダヤ系だけで1クラスあったりね。
このように広がっていく中で、世界というものを身体で実感しますし、ああ今自分もこの世界のイトナミに参加してるんだよなって感覚も持つでしょう。それまでは絶対的異物のように思ってた海外や世界を、自分の中に自然に取り込んでいけること、これは「生まれ変わり」といってもいいくらい自分が新しく変わっていくことで、深く、楽しいことです。そして、それが次のステップとして、世界に対するアプローチの仕方となってつながっていくでしょう。旅行程度だったらアレコレ情報調べてダンドリたてなくてもポンと行ってしまえるようにもなろうし、就職活動でも世界レベルで探そうかなって気にもなるでしょう。どうせ1年潰してオーストラリアまで来るなら、このくらいのレベルまでは行って欲しいなと思うのですが(もっともっとその上があるし)、なかなかそこまで行ける人は少ない。
というのは、仮に日本人同士ツルんで、100%日本人環境のなかで生活してたって、それなりに楽しいからです。楽ですしね。それに日本人同士っていっても、日本では到底知り合うこともないだろうキャリアの人とかエリアの人と知り合いますし、それなりに濃い人が来ますから、面白いです。で、その面白さに負けちゃうというか、それでも適当に面白いから、それでいいやってなりがちなんですね。もっと上に幾らでも世界が連なっているのを忘れてしまう。
また類は友を呼びますから、その世界にいると、どうしてもそのレベルの人ばっかりと付き合うようになる。ガンガン世界に向かって垂直上昇してるような人とは、住むエリアも生活態様も全然違うから、そもそも知り合わない、接点がないってことにもなります。逆にこの接点の無さが、ヒントの無さ、刺激の無さにつながるのでしょう。だから余計に「これでいいんじゃないの?皆そうしてるし」という感じになる。「皆」の範囲が最初から狭いんだけど、狭いところにいる人はそこが狭いことに気付かない。
学校選びなんかも同じことで、体験談とかで「すごく良かったです」とか書いてあったとしても、鵜呑みにしないほうがいいです。本当はもっと桁外れに楽しい世界もあったのかもしれないけど、書いてる人はそれを知らないから、自分のところが最高だと思う。まあ、ハッピーでいる人に敢えて妙なチャチャをいれてその至福感を壊すこともないですけど、冷静に見ることは必要でしょう。
だいたい学校なんかどんなところでも適当に楽しいです。同じような境遇(同じように英語が出来なくて日々困ってる)の連中が毎日毎日何時間も顔を突き合わせているのですから、そりゃ連帯感も出てくるだろうし、普通にやってりゃ親しくもなります。それでならないんだったら、たまたまクラスメートのめぐり合わせが悪かったのか、当の本人が依怙地だったり愛されにくい「難しいタイプ」だったりするだけでしょう。
だから「楽しかった」とか「良かった」とかいう抽象的な感想だけでは何も言ってないに等しく、問題はそれによって自分がどう成長したから、どう大きくなれたか、どう広がったかだと思います。それは言葉の端々にふとうかがわれることがあります。あと、その人が何を得たかではなく、その人が何を得なかったのかというのも観点の一つになると思います。ミスったものは、ミスった本人にはわかりませんからね。
というわけで、日々「なんだかなあ」って思ってる人は、上の世界を目指してください。「なんだかなあ」って思ってない人は、より強い理由で考えてください。おそらく何かをミスってるかもしれないから。
なんだよ、じゃあ猫も杓子も上に行けってことかい?と問われたら、はい、そのとおりです。ただし、上といっても別に出世主義になれとか、やたら上昇志向になれって言ってるわけじゃないですよ。わかると思うけど。
皆上に行った方がいいです。仮に上にいったからといっても、今とやってることは全く同じってこともあるわけです。でも、ひとつ上にいったら、同じことをやっていても全然やり方が違ってくる、深みが違ってきます。喜びも違ってくる。上に行くってのは、何も物理的に距離移動しなくてもいいです。身体が動かなくてもいい。精神が一次元上がるかどうかです。
例えば、恋人とか夫婦生活でも、大喧嘩して雨降って地が固まるみたいなこともあるわけです。映画なんかでよくあるけど、思わぬ事件に巻き込まれてとんでもない目に遭って、お互いの愛を再確認したみたいなこともあるわけです。二人して、今までとは違う地平にスポンと突き抜けることもあるわけですよ。そうなってしまえば、全く同じように日々暮らしていたとしても、気合の入り方が違ってくるでしょ。
僕が上にいけっていうのは、あくまで精神の遍歴です。物理的に移動することではなく、移動することによって何が見えて、それで考え方がどう変わるかです。旅行と一緒で、旅行って結果的に言えば最後には自宅に帰ってくるわけでしょ。最終的に帰ってくるなら最初から行かなきゃいいじゃないかって話にもなりますけど、そーゆーもんじゃないでしょ。最終的に何処に行きつくかではなく、移動することで何を得たか、どう気持ち良くなったのかでしょう。世界の果てまで冒険をしまくり、世界制覇を目指して阿修羅のように暴れまくり、散々やり尽くした挙句、辿り着いた境地が、市井の一市民として慎ましく日々を暮らすことだったりするのだと思います。多分そうなんじゃないかなって気がしますね。
ただ僕はまだそこまでの境地には達してないですね。まだまだ上があると思ってます。まだあるどころか、まだ始まってさえいないのかもしれない。段々分かってきたんですけど、人の一生程度の時間、平均的な人間の知能と精神力からしたら、一生かかって超特急で垂直上昇したとしても全然足りないじゃないかって。そこまでいける奴は、釈迦とかキリストとか1000年に一人レベルの超天才だけでしょ。僕ら凡人なんか、一生必死こいて登ったって、せいぜい5センチとかそんなもんじゃないですか?遠慮するこたあないよって思いますよ。
文責:田村
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