今週の1枚(05.11.21)
ESSAY 234/テロというウィルス
写真は、Leichhardt&Petersham。道はParramatta Rd。道路のこちら側がPetershamであちら側がLeichhardt。目の前のレストランはスイス料理専門店。この店も随分行ってないなー。相変わらず健在のようで。また行かねば。というか、レストラン情報もいい加減更新しなくては、、、
前回(JIHAD(ジハド) その背景と浸透〜パリからパラマッタまで)、フランス暴動とオーストラリアのテロ容疑者大量逮捕に関する現地の記事の翻訳を載せました。そして最後に紙数が尽きて、皆様に以下のような課題をお渡ししました。
課題その1:現在世界をおおっているテロリズムの現状について、知ってる範囲でよいから、わかりやすく説明せよ。
課題その2:今回のフランスの暴動とオーストラリアでのテロ容疑者の大量逮捕者の関連性について、つまり「パリからパラマッタだけどれだけ離れているか」について私見を論ぜよ。
課題その3:日本におけるテロに対する現状を論ぜよ。すなわち政府のテロへの取り組み方、日本の一般市民のテロに対する感覚など。そしてそれが世界の潮流とどう同じでどう違うのか、なぜ同じでなぜ違うのか、私見を論ぜよ。
皆にばっかり宿題を出してないで、今週はこれらの設問について僕なりの私見を書きます。
課題1:現在世界をおおっているテロリズムの現状について
表面的に記せば、アメリカを先鋒とするいわゆる西側諸国の価値観や経済文化活動に対して、異なる価値観を持つイスラム文化圏の人々のうち狂信的で過激なごく一部の人々が反発し、2001年9月11日のアメリカ、ニューヨークの貿易センタービルなどへの同時多発テロを発端として、戦争まがいのテロ行為を仕掛けている一連の動きが、現在時点の世界のテロの現状ということができるでしょう。
ここでの価値観対立は西欧的価値観VSイスラム的価値観であり、主たる登場人物は、アメリカのブッシュ大統領とイギリスのブレア首相を中核とした連合軍であり、さらに端役としてアメリカ追随姿勢を明確に打ち出しているオーストラリアのジョンハワード首相、さらに端役として”町内会の会費”みたいな感覚で自衛隊を派兵させた日本の小泉首相など、「おつきあい諸国」がいます。対するイスラム原理主義者勢力としては、抗戦組織アル・カイダの組織者ビン・ラディンや、アルカイダの各地組織、あるいはシンパ組織、あるいはドサクサにまぎれて暴れたいだけの単なる乱暴者や売名希望なんてのもおり、具体的になにがどうなっているのか明瞭には見えない。
この世界をあげての抗争事件(テロ勢力からはジハド”聖戦”と呼び、西欧社会は"War against terror”と呼ぶ)において、富裕な西欧勢力(というかアメリカ+イギリス)は、世界世論を牛耳れる立場にあることから、堂々と軍隊を送り込み爆撃や占領をする。直接的には911テロの報復として、打倒ビン・ラディンという流れになり、彼をかくまっていると言われているアフガニスタンに侵攻し、さらに大量破壊兵器を隠し持っている”世界平和に対する脅威国”であるイラクに侵攻し、イラクのサダム・フセインを拿捕している。このように西欧勢力は図体がデカいだけに、その動きは軍事行動という形になるか、あるいは自国内のテロ防止のための警察的活動になる。
これに対して、いわゆるアルカイダをはじめとするイスラム過激派の軍事行動は、軍事行動と呼べるだけの資金力も設備もないので、”一人一殺”的な個別ゲリラ行動に限定され、また敵軍の物理的破壊よりも敵国社会に精神的動揺をもたらす無差別テロ活動に出る。911の派手派手しいテロのあとの行動は、もっぱら二つの方向に大別される。一つは、戦場地イラクにおける反撃行動であり、これはテロというよりも、よりゲリラ的軍事的である。もう一つは、直接戦場になっていない諸国内で一般市民を対象とした攻撃、物理的ダメージよりも精神的ダメージ(恐怖)を植え付けることに主眼があるまさしくテロリズムと呼ぶべき一連の事件がある。著名な事件は、2004年3月のスペイン列車爆破テロ、2005年7月のロンドン同時爆破テロ。さらに日本ではあまり報道されないが、オーストラリアの至近距離にあるインドネシア、バリ島による再三にわたる爆破テロがある。
これらはここ数年新聞のトップを飾るテロ事件であるが、もちろんテロがこれに尽きるわけではない。これら一連のドンパチは、要約すればブッシュVSビン・ラディンのように、世界の桧舞台という陽の当るところでのセレブ的なテロ事件である。
テロリズム(テロ、テロル=Terror, Terrorism)とは、心理的恐怖心を引き起こすことにより、政治的主張や理想を達成する目的で行われる暴力行為のこと。またはその手段を指す。これは、何度も紹介しているインターネットの手作り百科事典であるウィキペディア/Wikipediaによる定義です。Wikipediaというのはアメリカのウィキメディア財団がやっているもので、インターネットを利用して皆で知識を持ち寄って百科事典を作ろうという草の根的な知識の結集です。日本語版もあります。かなり新しい情報までフォローされており、なかなかお値打ちです。鬱陶しい相互リンクや広告バナーが一切ないのもうれしいです。
Wikipediaをもとにテロについてお勉強をすると、テロというのは@政治的目的のために、A心理的恐怖心を引き起こす、B暴力行為という3条件があるらしく、またなにも反体制主義者の専売特許ではない。国家が恐怖政治を行うとき、それはテロになる。と言うよりも、もともとの語源がフランス革命のロベスピエールの恐怖政治に発しているのだから、国家が行うのがもっとも由緒正しいテロともいえる。反権力者側が行うテロを赤色テロ、権力者側が行うのが白色テロという、まるでワインのような区別もあるくらいである。もっとも、現在、赤色テロをもって「テロ」という場合が多い。
現在活動中のテロ組織は、アル・カイダのほかにも山ほどある。民族独立のためのロシアとドンパチやっているチェチェン独立派、北アイルランドの
IRA(アイルランド共和国軍暫定派) 、スペインのバスク地方のETA(バスク祖国と自由)、パレスチナのハマス、スリランカのタミル・イーラム解放のトラ (LTTE)、レバノンのヒズボラ、インドネシアのジェマ・イスラミア(JI)、フィリピンの新人民軍 などなど。今回世界的に話題になっているのはアル・カイダであり、オーストラリアではそれに加えて隣国インドネシアのジェマ・イズラミアが話題になってます。しかし、それらは数あるテロ組織のうちの一つに過ぎない。別にそれが全てでもない。
テロ(テロ対策)に関する現在から将来に関する問題点は、次の課題Aで述べます。
課題その2:今回のフランスの暴動とオーストラリアでのテロ容疑者の大量逮捕者の関連性について、つまり「パリからパラマッタだけどれだけ離れているか」について私見を論ぜよ。
テロのことを考え出すといつもこんがらがってきます。それは、「テロ」という言葉の多義性、あいまい性、恣意性に原因があります。
上に書いたようにテロというのは、@政治目的、A恐怖、B暴力の3条件がありますが、これはあまりにも広い定義です。暴力と恐怖で他人を従わせようとすることは、原理的にイケナイことです。一般にそういう行為は犯罪と呼ばれます。ナイフを突きつけて他人の財布を取るとか(強盗)、姦淫するとか(強姦)、ある場所に連れ去り押し込めるとか(略取・監禁)とか。これらはみな犯罪です。そこに政治目的が入ってきた場合、たとえば人質をとって刑務所の仲間の出獄を要求したりすると、テロと呼ばれるようになります。しかしですね、「俺たちに服従しろ、全面降伏しろ」という政治目的のために、大軍団を進めてガンガンに叩いて屈服させるのはテロではないのか?例えば、第二次大戦中に、アメリカが長崎、広島に原爆を叩き込み、「俺たちに従え」と無条件降伏を勧告するのは「テロ」ではないのか?あるいは、中国の天安門事件のように、政府に反対する学生たちを片端から血祭りにあげて恐怖を植え込んで政府に従わせるのは「テロ」ではないのか。戦時中の日本の特高警察、今の北朝鮮の政治体制なんかも「テロ」ではないのか。そもそも、僕らの日常の法律、特に刑法などで、「人を殺すと死刑になるぞ」と恐怖心をあたえて人々の行動を縛るのは「テロ」ではないのか?
このように原理的に詰めて考えていくと、テロって何なんだかようわからんのですよ、僕には。
一般には、恐怖とか不安とかいう生ぬるい心理レベルではなく、もっと明白で圧倒的な暴力を行使するのはテロではないといわれます。暴力そのもので相手を屈服させる行為そのもの、そしてそれが国家間のものであれば「戦争」と呼ばれ、国家内部で国家がそれをするときは「治安維持」と呼ばれます。この場合、圧倒的な武力がありますから、それで相手がビビろうが恐怖を感じようがお構いなしです。もう物理的に屈服させてしまう。
そこまで強大な武力を持ってない場合、むしろ相手の方が強大な武力を持ってる場合、「闇討ち」のように神出鬼没に相手に小規模の打撃を与えて去るという戦術が取られます。ゲリラですね。ベトナム戦争のゲリラ、第二次大戦のパリのパルチザンなんかもそうです。でも、これはまだ武力対武力の問題です。しかし、一つのアタックの効果を百倍にも千倍にも増幅させるために、相手社会に恐怖心というと心理的動揺を誘うテクニックが使えます。この心理的効果をメインにもってきた戦術をテロというのでしょう。
この心理的影響力を利用した暴力、1の暴力で1000の効果を狙うという、よりソフィスティケイトされ、より「燃費のいい」暴力。これが「テロ」なのでしょう。暴力と恐怖だったら、恐怖の方がメインにくる。この「洗練された暴力」は、古来より国家権力のお手の物です。逆らう勢力を武力を持って攻め滅ぼすのはまだ戦争レベルだけど、降伏しても許さず皆殺しにする。さらに、一般大衆を恐怖で縛り付けておくために、見せしめにむごたらしい公開処刑をしたりします。隣組的に市民相互でチクらせたりします。国家というものは、理想的に言えば、紳士的合意にもとづいて成り立つべきものですが、実際はもっと露骨な剥き出しの暴力です。
余談になりますが、このあたりは政治学とかやってると出てくる面白いところですが、他人(国民)を従わせるために、国家というのは色々涙ぐましい努力をします。デッチあげでもなんでも大義名分や正義を名乗る。自らの正当性をあらゆる神話や権威を用いて飾り立てる。九州のクマソやハヤトを屈服させ日本統一を果そうとした大和朝廷が大急ぎで日本書紀とか古事記とかを編纂したように、中世ヨーロッパで教会権力と結託して王権神授説を唱えたり、都合のいい「おはなし」を作ります。次に、というか同時並行的に暴力(武力、警察力)を使って人々を従わせます。さらに、いちいちブン殴ったり殺したりしてたら、数では圧倒的に被支配者の方が多いから疲れますよね。だからテロを使う。一罰百戒的に恐怖で従わせようとします。これって、国家に限らずどんな組織にもあります。自分たちこそ正義であるという価値原理を示し、いざというときに勝てるだけの武力を備え、そして一罰百戒でルールを守らせるという。校則で縛り上げ、退学の恐怖で生徒を統治しようというどっかの学校なんかもそうでしょう。リストラの恐怖をチラつかせて、サービス残業を強いているどっかの会社もそうでしょう。
それはいい悪いを超越して、絶対少数者が絶対多数者を支配するためのテクニックとして古来から使われてきたものです。そんでもって、あれこれ試行錯誤している結果、もっとも効率いい統治方法は、「皆に心から納得してもらう」ことであるということなり、なんのことはない「いい政治」をするしかないんだって話になっていくのですね。長期的にはそうなんですね。孔子あたりが言ってるのもそれでしょう。仁政。日本の戦国大名も、やたら馬に乗って刀を振り回してるだけではなく、その日常業務の殆どは今の日本の市役所とか税務署とか裁判所だったりします。武田信玄の信玄堤のように治水工事というインフラ整備をやり、領民相互の揉め事を仲裁し(司法)、年貢を取り立て(徴税)、楽市楽座で商業を新興させ(経済活性化政策)、見所のある若者を家来に取り立て(人材活用システム)、喧嘩ばっかりしてればいいってもんではない。いい加減な政治をしてると領民が逃げたりして米が入ってこないから、自国が弱体化し、その挙句隣の国に攻め滅ばされるという。そういう意味では北朝鮮なんかいい見本ですよね。「偉大なる首領様」という「おはなし」を作って信じ込ませ、軍事国家のまま強大な武力を手放さず、人々をテロで支配し、でも基本的には「皆を幸せにするいい政治」じゃないから長期的にはジリ貧になるという。
というわけでテロというのは基本的に国家の専売特許だったのでしょう。それが、反国家、反体制勢力のツールとして大々的に知られるようになったのは戦後のことだと思います。なんでそうなったかというと色んな理由はあるのですが、一つはマスコミというものが発達したからでしょう。ある事件が起きて、それが一気に社会全体に情報として広がらなかったらテロにならないですからね。どっかで爆破テロがあったとしても、全然報道されなかったら意味がない。昔の封建社会は、辻々に高札に立てたり、お触れを出したり、権力側が情報流通を握っていたから、反政府勢力がテロを起こしても、もみ消されてしまう。表現の自由のないところでは、テロ一つろくすっぽ出来ない。情報が流通しなけば、恐怖も増幅しませんもん。
逆に言えば、インターネットが定着しだしてまだ僅か数年の現代、そして将来は、テロリストにとっては格好の条件になっていくと思われます。いわゆる劇場型犯罪として、一つの事件が次々に波紋を呼んで広がっていってくれますから。テロというのは、単品ではきわめてショボイ暴力を、人間の心理という”化学反応”を通じて増幅させる点に意味があります。その意味では一種の物理攻撃ではなく、精神攻撃なのでしょう。それが政治状況に影響を与え、政治を動かしていく。高度に情報化され、一般大衆が主権者である民主社会ほど、そしてその社会が裕福で優雅であるほど、テロがその効果を発揮する場はないでしょう。
テロというのは、食事中に蝿が一匹ブンブン飛び回ってるようなものだと思います。僕らの食卓で蝿が飛んでても、「うるさいなー」くらいですが、宮中晩餐会とか、そこまでいかなくてもお見合いの席上とかで飛び回られたらその雰囲気の破壊効果は大きくなります。逆に、野原のピクニックでおにぎり食べてるときに飛び回られても、自宅の食卓ほどには気にならない。これが戦場で糧食をとっているときだったら、ハエごとき誰も気にしない。ハエそれ自体は1センチにも満たない小さな物体であり、多少衛生的に難があるからといって直ちに疾病や死に至る危険もない。大したことではない。しかし、その環境の違いで、受け取る心理的な影響力は大きな差があります。だから、内戦が相次ぐ第三世界でバスがテロで爆破されても誰も大して気にしない。北朝鮮でどっかの工場が吹き飛ばされても、もしかしたら単なる管理ミスで処理されて、誰もテロだと気付かないかもしれない。本当は中国の奥地あたりでガンガンテロが行われてるかもしれないけど、当局がもみ消したり、単なる事故として報道され、周囲も「まあ、中国だからなー」的に受け止められて終わりってことになってるかもしれない。効果ないんですよね。
その意味で、テロというのは、たかがバス一台爆破されただけでピーピー大騒ぎする、平和ボケして精神的にヒヨワないわゆる先進諸国において、しかもネット社会による情報の爆発的拡大により、流言やデマなどで恐怖効果が何倍、何十倍にも増大する現在から未来にかけて、非常に効果的な戦術と言えます。これはいい悪いの問題ではなく、テロというものが成り立つだけの土壌が以前にも増して肥沃になってきているという事実認識です。
さて、「パリからパラマッタまで」ですが、フランスの暴動騒ぎは、前回の記事でもおわかりのように、あれはテロではないし、イスラム教系のテロ組織が糸を引いていたものでもないです。暴力的ではあるし、社会的政治的意思もあるのだけど、基本的にはプロテスト、抗議行動でしょう。あんなに犯人たちが堂々と犯行を犯し、逃げもしないで群れ集って気勢を上げているようなテロはない。
ただ、親和性はある。これも記事に指摘されていたように、どうして人々はテロ組織に入ってくのか?という原点において関連している。
現在の生活や現在の社会に満足していたら、人はテロなどに走らない。まず社会構造全体になんらかの不満があり、この構造全体を直さないと、つまりは政治状況を変えないと、自分達の生活は変わらないという意識が生じます。もっとも現状に100%満足している人なんかいないでしょうから、大なり小なり誰しも現在の政治状況を変えないと自分の未来は良くならないという意識をもっているでしょう。ただ、普通は、それを変革するために平和的な手段で行います。つまり、議論して他人を説得したり、自分が立候補したり、政党をつくったり、ある政党を応援したり、NPOを組織したりボランティアをやったり街頭署名を集めたり、ときとしてデモもやるでしょう。これらは、民主政治においては望ましい活動であるし、こういう現状変革勢力が絶えず存在し、絶えず拮抗しているからこそ、民主政治はよりよく機能するともいえます。
しかし、通り一遍の手段では到底解決するとは思われない場合、ルールにのっとってやっていてもダメであり、そもそもルール自体が敵側の都合のように作られていると感じられる場合、非合法手段で社会を変えようとします。それがいわゆる革命であり、クーデターなり内戦であり戦争であったりします。フランス革命にせよ、アメリカの独立戦争、ロシア革命、日本の明治維新などなど、どこの国でもそれに類する政治的な非合法活動はありました。それは最初は旧勢力から犯罪者、テロ呼ばわりされますが、革命が成功してしまえば、テロリストは一転して英雄になります。成功しなかった人々は犯罪者、テロ呼ばわりされたままになる。
このように人間というのは現状に満足しなければそれを変えようとする。通常手段でそれが果されないときは、武力、暴力に訴えてでもそれを貫こうとします。それが犯罪行為なのか英雄行為なのかは、見方の違いであり、成功したかしないかであり、歴史書を誰が書くかの問題でもあります。
だから思うに、「なぜテロが悪いのか?」と正面切って問われた場合、人は答えに窮するでしょう。その人が誠実にもの考えれば考えるほど、答えがなくなる。テロが悪いのは「人殺しだから」という明確な理由があります。だとしたら、戦争行為も全て悪にしなければならず、悪のための軍備も犯罪行為(凶器準備集合罪の大規模なもの)にしなければならない。となると「戦争はいいけど、テロはだめ」という根拠はあるのか?ということになります。一応、国際法上「戦争法」と呼ばれるジャンルがあり、宣戦布告で始まり、捕虜は殺さないとか、赤十字組織は爆撃しないとか、非戦闘要員である一般市民は殺さないとか、戦争には戦争なりの仁義があることなってます。それを破ると戦争犯罪になる。しかし、それをキッチリ守ってる品行方性な戦争など実際には少ない。早い話が、アメリカ軍の日本への原爆投下、大阪東京の空襲は、非戦闘要員への無差別爆撃であり、戦争法違反の戦争犯罪じゃないのか?って話もあります。そもそも、アメリカがインディアンを虐殺して、イギリスがオーストラリアのアボリジニを虐殺して、明治政府がアイヌ民族を虐殺したのは、戦争以前のただのジェノサイドじゃないか、そこのトコロはどうなんだ?って話もあります。原理的に100%スジを通すならば、アメリカ国民はネィティブアメリカン(インディアン)を除いて全員国外退去すべきだし、オーストラリアについてもアボリジニ以外は全員退去、日本も北海道からはアイヌ民族以外は全員退去すべきでしょう。スジを通すならそうなる。
「しかし、そこまでは、、、」というのが現実のところでしょう?だからご都合主義っていえばご都合主義なんですよ。
暴力や強制力を用いて他人を自分の意思に従わせるのはいかなる意味でも良くない、というのもスジの通った綺麗な理屈ですが、暴力とは言わないまでも「やんわりとした脅し」だったら、誰もが日常生活で感じているし、誰もが他人に対して大なり小なりやっている。どこで線を引くかというとか、必ずしも明瞭ではない。
西欧人権思想では、「抵抗権」という概念があり、自分の納得できない政治権力には抵抗する権利があるとされます。だとしたら、テロというのは、その本質において抵抗権の行使であるから異議申立て自体に非はなく、あるとしたら抵抗権の行使方法がよろしくないという点に求められるのでしょう。より平和的で、より犠牲の少ない方法を用いるべきだ、と。だから、テロだから問答無用に全てイケナイとか、テロをしてまで訴えようとする主張に一切耳を貸さなくてもいいということではないでしょう。主張は主張として聞くが、やり方がおかしい、無意味に暴力的であると。
しかし、そんなこと言ってても現実にはテロは生じる。そして、テロリストを冷血非道だとか、犯罪者だとかいって非難してても、それで彼らが「ああ、そうだよね、僕らが間違ってたよね」と改心するとも思えない。でも、テロの被害にあって無辜の市民が殺されるというは事態は起きてはならないことであるし、放置もできない。そしてその対策は?となると、テロ組織の取り締まりという警察的治安維持的、あるいは国際謀略的な対応が当面のところメインになります。
そんなチマチマ対症療法みたいなことをやっても意味がない、元から断たねばならないのだといって、大軍団を組織して一気にこれを壊滅させようとして失敗しているのがブッシュ政権なのでしょう。テロの温床だからといって、アフガニスタンを攻め、イラクを占領したけど、テロは減ったかというと益々増えている。アフガンもイラクも旧政権はお世辞にも民主的な政権ではないし、正すべき点は多々あるだろうし、これを機会にそこの人々がよりよい暮らしを迎えてくれれば、やったことは全く無意味ではなかろうし、僕も評価します。しかし、テロを撲滅するという初期の目的に関して言えば、あんまり効果がないというよりも、はっきりいって逆効果に近い。前回の記事にも紹介してあったように、イラクの戦場は、参戦するために駆けつけてきた世界中のテロリスト達&テロリスト志望の連中の訓練学校になり、ネットワークと相互親睦を深めるシンポジウムの会場みたいになってしまった。
つまり大兵力をもって一気に叩き潰すという具合には行かない。「大砲で蚊は殺せない」というようなもので、軍事力が意味を持つのは、相手もまとまった軍事力を持っている場合だけです。相手が分散して、少数に、ミクロ的になってしまったら、対応もミクロ的にならざるをえない。だから、軍隊というよりも警察レベルの話になるでしょう。
テロというのはある意味では害虫や病原体のようなものです。一気にミサイルを叩き込んでもなくならない。どんどん拡散し、伝染していく。害虫駆除や疫病対策をしようと思えば、徹底的な検疫体制を整えることで、そのため空港や入出国が厳しくなります。それだけではなく、現在オーストラリアで議論になっているように、イギリスで否決されてブレアが一敗地にまみれたように、対テロリスト法案で、治安防止をガンガンにやっていこうという話になります。しかし、害虫駆除の農薬や殺虫剤が、人体にもやがて深刻な影響を与えるように、こういうやり方では副作用が強い。テロリスト対策のために、国家そのものが原点的な意味でのテロ国家になってしまったらもともこもない。これが今日的議論の難しいところでしょう
アル・カイダは、それまでのバスク勢力とかIRAとかパレスチナと違っている点があります。それはエリアに縛られず、具体的に明確な政治課題もなく、確固たる組織も持たないということです。IRAだったら北アイルランドの解放という地域的に限定された具体的な政治目的があります。だから、北アイルランドに関心のない人や利害関係のない人には広がらない。しかし、アル・カイダというのは、アラビア語で直訳すれば「ザ・基地」と言ってるだけの話で、これといった組織がない。あるのは理念と方法論。「あの傲慢なアメリカをはじめとする西洋的価値観を無理やり押し付けられ、服従を強いられているイスラム教徒よ、立ち上がれ」くらいのことです。あとは911テロの成功など華々しい戦果というカリスマ実績、そして切れば血が出るような実戦的なマニュアル。
アル・カイダというのは組織ではなく、思想であり、もっといえば「マニュアル」なのだと思います。「これでキミも今日からテロリストだ!(とはいわずジハドの栄誉ある戦士っていうだろうけど)」入門キット一式みたいなものなのじゃないか。ここにきて、テロ組織は、その組織性から自由になり、エリアにも拘束されなくなり、国境や民族を越えて広く世界に流通するようになった。テロの本質である害虫性や疫病性がさらに進んで、コンピューターのウィルスみたいになったのだと思います。よりミクロに、より抽象的に、いわば情報そのものになったため、誰でも気楽に参加できるようになった。ここが現代的な特徴だと思います。
さて、どんな社会にも現在の体制に不満を持つ人間はいる。他人事ではなく、僕も、あなたもそうでしょう。ただ、その不満の度合いが激しく、生半可なやり方では自分の未来が開けないと感じた人は、現在の体制をぶっ壊そうと思うだろう。しかし、一個人は無力であり、無力な個人な徒手空拳で何をどう反抗しても、パーソナルな「ご乱心」レベルで話は終わる。つまり家庭内で暴力を振るったり、学校で先生を殴って退学食らったり、尾崎豊が「夜の校舎窓ガラス壊して廻った」ように。しかし、ツッパリ君になったり、暴走族になったり、分かりやすく陽性な反発に出る人間は未だ良いです。反発だろううが反抗だろうが、一般社会との接点はあり、先輩がいて後輩がいて、やがて豊かに成長する可能性があるからです。もとヤンキーでヤンチャだった人に限って、早くして結婚したり、普通の大卒の人間よりも真剣に仕事をする人がいたりするように。
ところが外界との接点を失い、あるいは自ら断ち切って自閉的になり、ひたすらこの世を恨むようになった人間もいる。彼らはじっと部屋に篭ってたりします。それだけだったら社会に害はないが、その恨みのエネルギーに何らかの方向性や方法論が与えられたらどうなるか?テロというウィルスが入り込んできたらどうなるか?それは最初は「おお、そういうやり方もあるんだ」という形で始まり、連絡方法から爆弾製造までテロマニュアルが伝わっていたらどうなるか。
フランスでの暴動は、もっぱらイスラム系の若者によって起こされましたが、彼らはフランス生まれのフランス育ちであり、頭の中身はフランス人だった。だから、フランス的で西欧的な、(ライオット(暴動)という暴力的なものではあっても)堂々としたストリート・プロテストという方法論で通した。まだ救いはある。しかし、頭の中身がフランス人でありながら、ルックスや育ちや民族で差別されているやるせない現状に彼らは怒った(そりゃ怒るわな)。その怒りが、陽性に爆発し、西欧流に表現されているうちは未だ良いが、そのうちの一部は不満を内部に鬱屈させたままアルカイダのリクルートに乗るかもしれない。あるいは、「いま、アルカイダが一番クール」という一種のファッションのように伝播され、アルカイダでもなんでもないのだけど、そうであるかのように振舞うかもしれない。だって、ネオナチがあるんだから、ネオ・アルカイダがあっても不思議じゃないと思いますよ。
アルカイダという組織、テロという行為の現代的な恐さというのは、前述したようにウィルスという情報そのものになってきている点にあると思います。今は、イスラム文化圏VSアメリカ主義みたいな形になっているけど、別にイスラム教徒でなくてもよくなるかもしれない。
また、コンピューターウィルスに感染するみたいに、テロ的方法論に洗脳される人は、何も不満を抱えてくすぶっている若者であるとは限らない。今回のオーストラリアでの大量逮捕のように、奥さんと子供のいるエンジニアであったり、TV俳優であったり、生活的にも社会的にも困っていない人であるかもしれない。そうなると、外見だけでは誰がテロリストになるかどうかなんかもう分からない。一見成功した人生を歩んでいるようでも、心の底にこの社会に対する深い恨みを抱えている人だっている。いや、心の底のなんらかのトラウマがその人を掻き立て、社会的に成功させるってこともある。いくら社会的に成功してようが、全ての人がその成功にしがみつくというものはない。あっさりそれを捨てることが意外と難しくないことは、僕は自分自身の経験からも言える。
イスラム系の人々が沢山いて、より疎外され差別されていたフランスで派手な暴動になり、イスラム系住人割合がそれほど多くなく、またそれほど露骨に差別されているわけでもないオーストラリアに潜在的にテロ要員がいたという事実は皮肉なことです。この現象をどう考えたらよいのか?不満のはけ口の方向性が"整って”いるかいないかの違いかもしれません。ヨーロッパでは都市周辺にエスニックスラムともいうべきゲットーがあり、もうエリアまるごと差別されるような状況があるからこそ、逆に反抗をしようとする人は仲間に事欠かなかったし、暴力的反抗という一つの水路付けがあった。しかし、オーストラリアでは、それほど顕著なゲットーがあるわけでもなく、皆で固まってワイワイ暴動を起こすという具合にはならない。だから不満のはけ口が”整備”されていなかった。だからこそ、一人ひとりが怒りを内面化させ、テロという飛躍が起きたのかもしれません。
オーストラリアでも暴動は起きてます。ここ数年でも、レッドファーンの暴動、マッコーリーフィールドの暴動があります。前者はアボリジニ系の若者が、後者は普通の白人系オージーの若者の暴動です。暴動といっても警官隊と小競り合いをしたり、投石をしたりといった程度ですが、数日続きました。これは日頃から鬱積を感じている仲間が沢山おり、なにかの発火点でそれが皆と一緒に爆発したという点では共通してますし、暴力的な不満の表明という意味でも同じです。仲間が沢山いたらそうなるのでしょう。日本でも、現体制に不満を持つ人達は沢山います。偏差値教育で落ちこぼれと差別されて人達が暴走族などのサブカルチャーを作るとか、暴力団に加入するとか、そこでは不満の方向性が明確にあり、その反社会的な存在も明確です。だから社会としても対処しやすい。しかし、そういう水路付けがなく、一人で悶々と苦しんでいると、突飛でテロ的な通り魔的な、理解に苦しむ犯罪に出たりするでしょう。
テロというものが、不良少年達の羨望を集める「クールな組織」になったり、あるいは一人で悶々と悩んでいる孤独な少年の「起死回生的マニュアル」になったりしたとき、テロは、本来もっているウィルス性を存分に発揮するのではないか。僕の懸念はそこにあります。
さて、そうなってきた場合、テロ防止には何をなすべきかでありますが、前回の記事のオーストラリア連邦警察のKeelty長官がすごく正しい指摘をしています。もう一度彼の言ってることを引用します。
オーストラリア連邦警察長官のKeelty氏は言う、テロのリスクを減らすためには、オーストラリアもまた彼自身率いる警察も、非常に注意深くならねばならない。「思想に殉じて路傍に果てていく人とそうでない人との差は何かというと、彼らが我々をどう審判するか、ということなんです。どれだけ我々が公平で、価値のある社会を作っていると(彼らが)思うか。言い古されたコトワザですが、”暴力によって暴力を止めることは出来ない”。そのとおりなんです。我々がなすべきチャレンジは、社会全体としてどう彼らに応えていくか=破壊すべきではない素晴らしい社会だと彼らをして思わしめるか、なんです」。
「警察はなにもパナセイア(万能薬)ではないです。もっともっと他に考えるべき領域はあります。我々は、このようなテロ活動のリアル・ドライバー(テロ行為をなさしめている真の原因)を見つめ、自分の考えを表現するにあたってテロという方法を選択するという意思をいかに減らしていくか、だと思います」。
要するに、「いい社会」を作るしかないんですな。「ああ、こんな素晴らしい社会をテロで壊してはいけないな」って思う人を増やすしかない。超理想論のようでも、本当にこれしかないんだと思う。こういった超理想論を、テロ対策の最前線に立ってる人や、テロ専門家が進んで述べているという現実があるわけです。テロについて詳しく知っている人ほどそう言う。まずこの認識をもつべきなのでしょう。
テロというのは、「どっか頭のネジが狂ったテロリスト達が行う狂気の犯罪だ」くらいの認識では追いつかない。むしろ、あなたも僕ももしかしたら将来テロリストになるかもしれないくらいの感覚で対処した方がいいのでしょう。つまり、平和的な手段でこの世を変えることが出来ると思えること、破壊するにはあまりにも惜しい良い社会であると思えること。そう思えるって言っても、実際そうでなければそう思えませんから、現実にそういう社会を作っていくしかないのでしょう。
パリとパラマッタはどのくらい離れているかといえば、全然離れていないと思います。基本的には同じ。そしてそれは東京だって大阪だって同じでしょう。なぜなら、現状に不満をもつ人が、その不満解消の方法論としてテロを思いつくかどうか、やるかどうかってことですから。今は未だこのテロウィルスはイスラム教とかアラブ社会とかいう”属性”を持ってますが、かつてレーニンが点した共産主義の暴力革命というテロリズムの火が、日本の過激派まで飛び火したように、抽象的な発想や方法論、マニュアルとなっていけば、民族、宗教、国家の壁を越えて伝播しうるのです。
とかなんとか書いてたら課題3まで書くスペースがなくなってしまいました。日本においてはどうか?です。
ちょっと覚え書き的に書いておきますが、私見によれば日本のテロ対応策はお寒い状況だと思います。といっても日本の警察庁警備警察(公安、外事警察)の能力を低く見積もるつもりはないです。ただ、おエライさんの認識、組織全体の認識として、オーストラリアのKeeltly長官のような発想をもてるかどうかです。日本の警察庁長官がインタビューに答えたとしても、ああいう答えはしないんじゃないかな。社会が悪くなり、不当にワリを食っていると思う人が増えれば増えるほど反発係数は高まり、うちテロに走る人も出てくるかもしれない。だから、テロ=アルカイダ=イスラム教徒=アラブ系の濃い顔立ちをした人くらいの幼稚な発想ではなく、日本生まれの日本育ちの純正100%日本人で、それなりに地位も収入もある人が、実はテロリストでしたみたいな話もあるかもしれない。でも、警察庁長官が「結局はいい日本を作っていくしかないんです」って答えるかしらね?多分、「警察の威信にかけても〜」とかそういう答え方をするんじゃないかしら?警察庁長官個人の哲学としてはもっと深い人間的省察があるのかもしれないけど、お役所的回答としてすぐに「警察の威信」とか言うでしょ、あそこは。こういう組織に、突然変異を遂げてますます進化していくウィルスのようなテロを柔軟に理解できて、対処できるかな?って懸念はちょっとあります。
それに日本はテロに馴染みやすいようにも思います。自分がテロリストになるという攻撃面でも、テロ被害があったときの波紋の大きさという被害面でも。なんせ、日本というのは、世界ではじめてカミカゼ・アッタク/特攻隊という自爆攻撃を思いついた国なんですよ。自爆攻撃だったらウチが元祖です。それに、民族的対立もなく、絶対的な社会の不平等もなく、また経済的にも豊かであるにも関わらず、自国民が自国民にテロをしかけている珍しい国でもあります。オウムのサリン事件などがそうです。こんな国、滅多にないよ。それに、一見普通の人が、いきなり狂ったように無差別殺人や通り魔的犯行をするという、個人の内面に想像しがたい屈折を抱えている国でもあります。それにこれから階級分化していき、若い人の貧民化がはじまったら何がどうなるかわからんって部分もあります。
が、一番の問題は、日本人がテロというものを、「どっか遠い外国の濃い顔立ちの人がやってる恐ろしいこと」くらいにしか思ってないことでしょう。それって、結構怖いです。ただ、逆にそこに神経過敏になりすぎて魔女狩りみたいになったらそれも怖いです。いずれにせよ、精神攻撃には弱い国民性があるので。そのかわり物理攻撃に強いのですけど。でも、まあ、世界最大のテロってなにか?っていったら、「地震」じゃないの?って気もしますし、地震の恐怖に24時間晒されている日本人は、意外に恐怖に強いかもしれません。大地震に比べたら爆破テロなんか屁みたいなものですもんね。
そのあたり考えていくと面白いと思いますが、あなたはどう思いますか?
文責:田村
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