今週の1枚(05.11.07)
ESSAY 232/奴隷根性、乞食根性(その2)
写真は、つい数日前に撮影した Brighton-Le-Sands の、気分はもう夏な風景。正面に見えているのがシドニー空港です。
奴隷=乞食=被害者根性という刺激的なフレーズのタイトルをつけてしまったのですが、前回に引き続いて第二回目です。
要は、「自分に関することは、自分の頭で考えて、自分の責任で決断して、自分で実行して、自分でケリをつける」という基本的なことが出来るかどうかです。子供じゃないんだったら、「自分のことは自分でやる」ってことが出来なければウソであり、いい年してこんなことも出来ずに、誰かの命令を待ったり、誰かに代わりにやってもらおうとする人間は、奴隷根性、乞食根性に染まっているといわれても仕方ないでしょう。
この一般論におおむね異論は無いだろうと思います。
だけど、この「自分のことは自分でやる原則」を現実に当てはめていくと、案外とこれが出来ていない。これではアカンのではないか、僕らはもっと自分自身のご主人様/マスターになるべきじゃないか?ってのが本稿の主題です。
まずは、自分らがいかにマスターとして振舞っていないか、「奴隷根性なんか無縁だよ、俺は頑張ってるよ」と自惚れていながらも、実は密かに奴隷根性に蝕まれているか、そのあたりを検証したいと思います。
政治に関して言えば、日本の場合は、どうしようもなく奴隷根性だと思います。「政府が悪い」と批判するのは良いのですが、「政府がやってくれない」という表現や発想をしている時点で既に奴隷であり、乞食でしょう。マスターだったら、「政府がやらないなら俺がやる」と思えってことです。
これはもう江戸時代から明治維新、戦後から現在に至るまで、一度たりとも市民革命を経験したことがない、大人になるための通過儀礼をまだ経ていない日本民族の宿業みたいなものですが、この国/社会の舵取りは、自分らではなく、別の人達、どっかにいる「上の人達」がやるもんだと決め込んでいるでしょう。ノン、ノンです。建前からいけば、「上の人」なんか居ない。もう徹底的に「そんな奴はいない」と思うこと、これが民主主義の原点だと思います。
ルソーあたりからやり直した方がいいと思うのですが、人間は生まれながらにして自由です。これはもう客観的事実としてそうです。気に食わない奴を殺してもいいし、欲しいものがあったら奪ってもいい。原理的に制約はない。それは、その辺を歩いている野良犬が自由であるように、草原のライオンがそうであるように、ゴキブリがそうであるように自由です。だってそうでしょ。なにか特定の行動をしようとしたら、いきなり神様が天から降りてきて「それはアカンぜよ」と妨害するとでもいうのか?孫悟空の頭の輪っかのような物があなたの頭を締め付けるとでもいうのか?何も起きない。だから自由。これが原則。自然的状態においては、人は無制限に自由です。原初的自由ってやつです。
でもそうなると、世界はマッドマックス的というか、北斗の拳的になり、強い奴がひたすら弱い奴を殺しまくり、略奪しまくる殺伐とした世の中になります。アナーキーな無政府状態になります。生まれながらに筋力に恵まれなかった奴の平均寿命は15歳とかメチャクチャな世の中になる。女性は凶暴な男どもに一生ひたすら犯され続けるだけの人生を送る。それでいいのか?いや、ちょっとヒドイんじゃないか。だったら、ルールを作りましょう、秩序を作りましょうということになり、皆が生まれながらに持っている自由を、少しづつ出し合って、制限して、法を作る。本当は人を殺すのも全然アリなんだけど、この際その自由は放棄しましょう。自分だってやたら殺されたくないし、やっぱり安心して夜は眠りたいし、人を殺すのはお互い止めようという話になります。同じく、人の物を盗るのも止めよう。他人の配偶者に手を出すのも止めよう、、、、と色々キマリが出来てきます。ここに社会が出来、自由の制限が起きる。大事なのは、自分の自由の放棄は、すべて自らの合意に基づくということです。社会契約論ですね。そこでのみんなの合意内容をまとめたものが「法」と呼ばれるものです。法とはすなわち皆の合意内容です。
この社会のキマリ、オキテは、常に皆が話し合って、全員の合意で決める。これが原則。生まれながらに支配階級とか王様みたいなのがいて、庶民は逆立ちしてもこいつらには勝てず、ひたすら彼らの命令に従って奴隷として生きていくしかない、、、のではなく、「自分(ら)のことは自分(ら)で全部決める」というのがこの社会の原則であり、これは民主主義という。しかし、5人や10人小グループだったら常に話し合って解決できるけど、1億人とかになったら全員で話し合うことなんか不可能です。一億人が全員集まる場所なんかありゃしない。そこで自分らの代表者を互選して、人数を絞り込んで、代表者同士で話し合ってもらうことにする。これが代表民主制、間接民主制ってやつです。
日本もまがりなりにこのシステムを採用しています。日本国民は一人残らず天皇の私物/所有物であり、天皇陛下が「死ね」と命令したら喜んで死ななければならないってシステムこそがベストであると思う人はいるかもしれないけど、マジョリティではなく、そういうシステムにはなってない。この日本に関するありとあらゆる法律、キマリ、システムは、全て自分の支配下にあるし、自分の責任でもある。他の日本人と同じ1億分の1の影響力しかもってないけど、1億分の2持ってる奴なんかいないんだから、条件はみな同じ。原理的にはそうです。だから、日本が良くないと思ったら、それを良い方向にもっていくのは他ならぬ自分であり、究極的な責任者は自分。政府というのは、皆が選んだ代表者グループにすぎない。こいつらがドン臭かったら、まずもって人選ミスであり、選出者である自分の責任である。
もちろん、これはオトギ話です。理想論も理想論、理想論過ぎて笑わずにはおれないようなオトギ話です。人は生まれながらにして能力の差があり、生れ落ちた環境の差がある。先天的にも後天的も徹底的に不平等である。事実、古今東西、西欧に近代市民社会が生まれるまでは、人類社会は、支配者と奴隷の不平等な階級社会でした。人間というのは、ほおっておけばそうなる。しかし、これをそのまま現実としてしまっていいのか?ここが選択の問題です。弱い奴は常に強い奴の奴隷になり、階級の下の者は上の者に死ぬまで支配されるということを未来永劫放置しておいていいのか?です。ここで、「良くない」という選択をしたら、あとはこのオトギ話を全力で実行するしかない。もとより楽な話ではありません。縁側に座ってお茶をすすりながら「そうなるといいな」と願っていても何にも変わらない。それは力による闘争であり、権利とは闘争であり、平等とは闘争であり、理想とは闘争である。激流に逆らって堰き止めるようなもので、ちょっとでも気を緩めたらたちまち流されてしまう。簡単にいえば、奴隷になりたくなかったら、戦え!ということです。
この「戦っている」人こそがマスターになり、戦ってない人、戦うことすら忘れてしまった人は奴隷となる。
「戦う」って具体的になにをどう戦うのよ?といえば、「誰かが自分のためにやってくれるとは思わないこと」です。「きっと、どこかのエライ人が、僕らのために何かをやってくれるだろう」なんて思うな、白馬の王子様なんか待つなってことです。そんなもん100万年待ってもやってこない。「どっかエライ人」って具体的に誰なのか調べなさい、白馬の王子様なんか待ってる暇があったら自分が白馬に乗って探しにいきなさい。
まあ、そうはいってもすぐには出来ないでしょう。小泉首相がダメだからといって、「じゃあ俺がやるわ」っていきなり首相になれるもんでもないです。政治家というのは、二世議員や三世議員が過半数を占める昨今、もはや歌舞伎のような家柄的職業になってきてますし、能力的性格的に政治家に向いている人もいれば向いていない人もいる。運やタイミングも左右するでしょう。だから、万人がすぐに出来るものでもない。だから、誰かに「よし、お前に任せる、やってみろ」と委託するという形になるでしょう。しかし、そうであったとしても委託は委託としてキチンとやらねばならない。人選や、委託がヘタクソだったら結果もボロボロになる。
新聞の世論調査を見てても、「小泉さんはなにかやってくれそう」みたいな受け止め方をされているようです。実際に本当にこう思ってる人がいるのかどうか知りませんが、有権者のインタビューや回答を見てても、よくこの言い回しが目に付きます。しかし、この言い方、もう、どうしようもなく奴隷的ですよね。「なにか」「やってくれ」「そう」だって。「なにか」って何よ?「やってくれ」じゃないくて「やらせる」んですよ。「そう」とかいう漠然とした希望じゃなくて、具体的にどのくらいの見通しがあるかですよ。そんな漠然とした「お任せ」は委託でも命令でも何でもない。飼われている犬が、「今度のご主人様はよくしてくれそう」とかいってるのと変わらんです。
こういう愚劣な回答例を、愚劣であると指摘することもせず、あたかも「皆さんそうしてらっしゃいます」と垂れ流すマスコミもマスコミだという気がします。もっとも、本気で皆がこういう奴隷的な発想で考えているのかどうか、そこは分からないですけどね。実際、前回の選挙で小泉自民党に投票した人の心理は、僕が思うに「あそこまで言うなら、とにかくやらせてみようじゃないか」ってことじゃないですかね。今の日本で必要なのは、とにかく現実に何かを変えること、変える方向性がどうのってレベル以前に、「とりあえず動くこと」であり、限られた選択肢の中で最も動く可能性が高そうなものに投票したってことじゃないですか。同時に、これまで動かなかったブレーキであるいわゆる「抵抗勢力」をとりあえず排除してみようじゃないか、それでどう変わるか見てみようじゃないかってことだと思うのですよ。「小泉さん、ビシッとして、スカッとして、なにかやってくれそうって感じ」みたいなアホアホ100%じゃないとは思います。そういうのもいるでしょうけど、そればっかじゃないでしょう。
具体的な政局話はともかく、自分が日本の最高責任者であり、政治家どもに「やらせてやってる」という具合に「思え」ってことです。とてもそんな風に思えないかもしれないけど、そう思え、と。そう思うことこそが「戦い」なのだと。これは一種の「信仰」みたいなもので、現実がどうのとかいうチャライ理屈はおいておいて、そう思うことが大事。
ところで、日本人はゴハンを大事にします。食べ物を残すことに罪悪感を覚え、お米を一粒でも残したら「汗水たらして作ってくれたお百姓さん」がどうしたこうしたって言うでしょう?いや、最近の若い奴はそんなことないとか言いますが、そうですよ。最近の若い子は食べ物のありがたみを知らないと僕自身が「最近の若い子」だった20年前から言われてましたけど、そんなに変わってないですよ。だから、ホームステイに行って、マズイ物を出されても、残せばいいのに(オーストラリアでは別に残しても悪いことではない)頑張って日本人は食べちゃうんですよ。変わってないですよ。世界的な傾向で言えばそうです。で、この「お百姓さんの」云々ですが、実際どれだけリアリティがあるのか疑問でしょ。お百姓さんが耕作してるところなんかリアルに見た人少ないだろうし、別にあらゆる職業の中で農業従事者だけが飛びぬけて貴いことをしてるわけでもないですよ。理屈を言えば幾らでもいえますよ。でもね、「そう思うことが大事」ってのあるでしょう?食べ物の大切さを知ること、他人の努力に思いをはせること、これらは人間として大事な美徳です。だから問答無用で「そう思え」と。政治も同じでしょ。「どっかのエライ人が勝手に好き放題やってる」と思うのではなく、幾ら現実がその通りであったとしても、「あくまでも俺らが主人、あいつらは使用人」って思えと。そう思うことが大事なのだと思います。
前回から話は奴隷根性、乞食根性という、根性の問題、性根の問題をやってるわけです。その人間の骨まで染み込んだ「ものの考え方のパターン」の問題です。だから、「思え」ってのは、大事な第一歩なんです。
政治の話はそのくらいにして、もっと身近なことですが、脱奴隷、めざせマスター(ご主人様)という観点からは、いったい自分がどれだけのことが出来るのか、自分でよく知っておくことが大事なステップになるでしょう。
奴隷の数ある特徴の一つは、まず頭から「自分には出来ない」と決めてかかってること、自分の能力に対する異常なまでの過小評価があると思います。これがけっこう諸悪の根源というか、ガンなんですよね。
人間というのは無限の可能性を秘めていますし、その気になったら相当のことが出来るようになります。ほとんど「奇跡」みたいな能力の爆発的向上も、わりと普通にあります。珍しい現象ではない。例えば、体格が貧弱で喧嘩にもならずいつもイジメられている中学生がいたとしますが、空手でもなんでも真剣に3ヶ月から半年修行したら、同年代の90%には勝てるようになるでしょう。格闘技というのは基礎体力と知識です。体力というのは腕力とか脚力という筋力もそうですが、柔軟性なんかもそうです。若いうちだったら面白いように筋肉もつくし、身体も柔らかくなります。するとどうなるかというと、まず反応速度が速くなるから相手の攻撃をかわせるようになるし、バランスが良くなるので攻撃をかわしたままの不自然な態勢からでもパンチを繰り出せるようになるし、筋力があるからその衝撃も大きくなる。つまりは一発KOということが出来るようになる。知識というのは、要するにワザですが、格闘技というのは、人間と人間がどういう位置関係になるとどういうことが出来るか、についての古代からの知識の集積です。相手のパンチや蹴りは届かないけど、自分のパンチは届くというポジションがあるわけです。そんなの無数にある。それを知ること。さらにどういうダンドリでそのポジションに自然にもっていくかのパターン、つまりは必勝パターンを知ること。それを磨くこと。
だからある程度本格的に格闘技を練習した人としてない人とでは、体力体格年齢が同じくらいだったら、歴然とした差が出てきます。ある程度強くなったら、自信が出てきますし、全身のオーラみたいなのが変わってきます。オドオドビクビクの「いじめてオーラ」みたいなのが無くなってくるからイジメられにくくなります。ただし、中途半端にトレーニングしたって強くはならんです。空手だったら空手で道場に通って、練習初日は足腰立たずに這って帰るみたいな感じでしょう。前歯の1−2本はへし折られ、鼻血ボトボト流すような練習をしないと強くならない。それに練習で殴られ慣れてくると、アドレナリンの分泌もよくなって痛みに鈍感になるし、殴られるのがそんなに怖くなくなる。だから、相手の動きが良く見えるようになり、さらに強くなる、と。それに練習に比べたら同級生レベルの喧嘩なんかレベルが低すぎて怖くもなくなるでしょう。
このようにわずか数ヶ月のことで人生がガラッと変わったりするわけです。こういう経験を一度でもした人は、何事に対しても「自分には出来ない」とは思わなくなるでしょう。「信じられないくらい自分は変わることが出来る、だって実際そうだったもん」という確信があるからです。それを大人になるまでの間に実体験として知っているかどうかです。「この程度のことくらいだったら自分に出来るんじゃないか」という自分の腕の長さ(リーチ)みたいなものを体得しているかどうかが大事でしょう。
ダサくてモテない人間がモテるようになるってのも、そんなに難しい話じゃないです。
「電車男」じゃないけど、もって生まれたイケメンじゃなくても、やり方一つで幾らでも変わります。実際、ハゲだろうが、デブだろうが、不細工だろうが、ガンガンにモテてる奴はいます。アキバ系のオタク青年がモテるようになるのは、それほど難しいことではない。外観それ自体だったら、パソコン一台買うくらいの財力があれば、1日で変わる。問題は精神面なんですよね。「俺にはそんなの向いてない」と思い込んだり、妙に保守的だったり、変な自己規定をしてるのですね。もう一回人格破壊くらいの感じで、自己認識を徹底的に変えたらいいです。「こんなのヤダ、チャラくて好きじゃない、こんなの俺じゃない」とか思わず、騙されたと思ってファッションを変えるといいです。Tシャツなんかどれでも同じだから3枚1000円のでいいじゃんとか妙に経済的に思わず、Tシャツ一枚に2−3万円くらい出すという価値観破壊ですね。
こんなの別に永遠にやらんでもいいんですよ。最初だけでいいです。なんで最初だけでいいかというと、最初にドカンにお金を投資して、ガラリと自分が変わって、自己認識を徹底的に変える部分に意味があるわけです。「俺はイケてるんだ」という自己認識です。この自覚があるのと無いのとでは、その人物の雰囲気やオーラはまるで違いますから。でもって、イケてる「ふりをする」のではダメで、心底そう思えるかどうかが勝負なんですな。だから一回バリバリにキメてみる。その場合、センスのいい友達なんかにイチから指導を仰ぐといいです。ここで大事なのは変に意地張って妙な折衷案にしないこと。中途半端くらいダサいものはないので。完璧になりきること。もう変装してるくらいに思うといいです。彼女がいるなら、彼女のイイナリになったらいいです。こういうのは自分でやっちゃダメなんですよね。他人の指導に100%従うのがコツ。もう一種の遊びだと割り切って、騙されたと思って。
最初は全然馴染まないし、「うわー、気持ち悪い、こんなのヤダ、軽薄そうでヤダ」とか思うかもしれないけど、段々馴染んでくるのですよ。よくリクルートスーツの学生さんたちが全く似合ってなかったりしますよね。新入社員も「スーツが板についてない」とか言われます。でも、段々板についてくるでしょう?あれ、なんでだと思います?客観的な体型なんか全然変わって無くてもそうなるでしょ?着てるものが寸分違わず同じものであっても段々似合ってくるでしょ?不思議だと思いませんか?大自然の物理法則に反しているのよね、そんなの。なぜこんな不思議な事態が起きるのか?というと、本人の精神がそれに馴染むかどうかだと思います。スーツを着慣れてきて自分自身の中での違和感がなくなってくると、自然とオーラも自然になるのでしょう。その違いでしょう。だってそうとしかいえないでしょ?客観的には変わってないんだから。
でも「オーラ」とかいうとオカルティックで拒否反応を示す人もいるから、もうちょい”科学的”に推測するとですね、こういうことだと思うのですよ。スーツを着慣れず違和感のある人は、身体の筋肉が妙な具合に緊張しているのでしょう。だから身体の動きが不自然にギクシャクするのですね。変な動きもするでしょうしね(やたら袖口を気にして引っ張るとか)。そして人間の観察眼というのは、ある面においては信じられないほど精密で、ほんのわずかな身体の動きのギクシャク感、滑らかさの差を微妙に感じ取るのだと思います。そうとは意識はしないけど、「なんか普通と違うな」というのは感じ取る。それが「似合ってない」という形に頭の中に翻訳されて認識されるのだと思います。まあ、本当かどうか知らんけど、多分そうじゃないかなと思いますね。
でもって、キメキメのカッコをしたあなたも、最初は同じく「似合ってない」です。でも、似合わせるか似合わせないかは、本人がそう思い込むかどうかです。最初は、例えば肌に慣れてない麻素材のゴワゴワした感じが好きになれないかもしれないし、ズボンの腰周りがなんか違和感があるかもしれない。だからモゾモゾ妙に身体を動かしたりするだろうけど、人間というのはすぐに新しい環境に慣れます。僕も、中学生に入って、初めて詰襟というものを着たときは、喉を締め付けられる息苦しさに、「こんなもんとてもじゃないけど着てられるか」と思ったもんですけど、すぐに慣れます。慣れてきたら、自然になってきます。自然になってきたら、不思議と似合ってくるのですね。ですので、しばらく騙されたと思ってそのファッションでやってると、段々板についてくるのですね。そうなると、ファッション面での引け目は不思議と感じなくなり、それがひいては「俺はイケてる」という自信になります。
だから要は自信なんですよね、結局。自信さえあれば、どんなもの着てても、どんな格好してても、「着こなして」しまったりできる。
人間というのは、本当に自信に満ちている人を馬鹿にするのは難しいです。これもね、なんか分かるんですよね。本当にナチュラルに自信があるのか、それとも単におっかなびっくり虚勢を張っているのかってのは、見たらけっこうわかる。そうと意識しなくても、「なんか違う」ってのはある。モテるかモテないかというのも、究極的には人間的魅力の有無であり、ナチュラルな自信のある人は、自然な力強さがあります。それがナチュラルであればあるほどそばに居る人がいい感じになります。それがひいては魅力になる。
ロックバンドのボーカルなんかもそうです。ステージにあがって客の前で「イェー!」とやるわけですが、日本人の癖に”イェー”とかいって、あれもよく考えてみたら結構間抜けなことやってるわけです。そのあたりがまだ馴染めない新人ボーカルは、どこかしら上ずってしまってサマにならない、なんか寒い。でも、芯からなりきってしまえばサマになるのですね。自信に満ちて堂々としているから説得力がある。あんなヘンなカッコしてても、妙にサマになっている。同じように気合の入ったニューハーフの人、ゲイバーのママとかは、ちょっと冷静に見ればかなり「変」なのだけど、本人の気合と確信が見る者を圧倒するわけです。気押されてしまうわけです。
何を延々書いているかというと、「自信が人を変える」という当たり前の話です。自信によって変わるのはまずもって本人ですが、本人に自信があれば周囲もそれに引きずられてしまう傾向があります。イジメられるかどうか、馬鹿にされるかどうか、イケてるかどうか、カッコいいかダサいかなどは、別に客観的な基準やフォーマットがあるわけではないです。最終的に○なのか×なのかは、見る人の主観なのですが、この主観もこれといった基準があるわけではない。直感です。本人のオーラが見る人を圧倒するかどうかです。圧倒されたらカッコよく見え、圧倒されなかったらダサく見える、それだけのことでしょう。モテない人、イジメられやすい人は、なにか他人をして馬鹿にさせるような、そういう感情を触発するようなオーラを振りまいているのだと思います。だから、ファッション雑誌を買いまくって研究してキメてみたとしても、本人の中に確信がなかったらやっぱりダメだったりするし、本人のナチュラルな確信があれば、別にハズレのカッコしててもそれが妙に個性として魅力的に見える。
だから、最初に自己破壊くらいの徹底的な改造をやって、「自分はイケてる」と思うことです。一回そこまでいけばいいのです。そのための投資であり、そのためのイメチェンであります。
それと奴隷根性とどういう関係にあるのかというと、奴隷がなんで奴隷になるのかというと、究極的なところで自信がないからです。自分の感性、自分の判断能力に自信がない、自分というものへの評価が低いから、他人の目が気になるし、他人に指示を与えてもらうのを待つようになる。
でも、過去の実績から自分に自信がある人は、「このくらいのことだったら私にも出来るはず」というリーチが長い。リーチが長い分、未知の物事でもまず自分でやってみようとする、トライし、チャレンジしようとする。まず自分でやってみて現実世界の手触りを確かめてみようとするし、その感触から大抵の物事は出来るように思う。そりゃいきなり今日明日に出来るとは思わないけど、時間をかけて順序正しくやっていけば辿り着けるだろうという感触を得る。だから何に対してもポジティブになれるし、自分の考えや判断に自信があるから、物の考え方もどんどん変わっていく。他人の命令や指示を待たなくなる。他人が何かしてくれるのを期待して待つようなこともなくなる。かくして奴隷根性から脱却していくのでしょう。
でも、最初に「自分はダメ」というのがある人は、根底のところで自分を信じていないから、未来の選択肢が極端に狭くなる。非常に狭いレンジで生きていくことなる。他人の目が気になるし、他人の動向が気になる。そんなに他人が気になるなら、いっそのこと最初から他人に命令を与えてくれた方が楽だと思うようになる。「こうしなさい」って言ってもらった方がずっと楽だと感じるようになる。
「自分はダメ、自分は弱者」と自己規定してしまったら、ある意味すごく楽です。自分でやらないから、自分に責任はないから、何が起こっても全部他人のせいに出来る。何もやらなかった人間だけが全てに対して批判者になれる。外野から好き勝手なことがいえる。とっても無責任で、とっても楽なポジションです。「だって、〜してくれなかったもん」という言い訳が許されると思ってるし、思ってるから堂々とそう言う。シンドイ努力も、辛気臭い根性も自分はやらなくて良いと思うし、面倒くさいことは何一つやらなくても良いと思う。全てを他人の命令に服するからこそ、全てを他人のせいに出来る。これが「奴隷の幸福」って言われているものでしょう。ゆえに、自らの主体性を放棄した奴隷は、乞食と化し、乞食は貰いが少ないのをあたかも理不尽な被害にあったかのように感じる。
日本の現状に関してある程度正確なデーターも集めず、自分で検討もせず、将来に対するビジョンも構想も持ちえず、自分なりの政策論も持たない奴隷は、「誰かエライ政治家の人がきっと僕らのためのやってくれるだろう」と思いつづけ、そして正しくも裏切られ続ける。それは当然の帰結なのだけど、あたかもそれが理不尽な被害であるかのように感じ、政治家を恨み、馬鹿にし、そして一般大衆を馬鹿にし、「ひどい時代に生まれてしまった」という。
しかし、奴隷は自分が奴隷であることを知るべきだ。奴隷は、それが奴隷であるが故に一個の人格として尊敬されることはついに無く、奴隷など生かすも殺すもご主人様の意のままであり、奴隷が一人抹殺されようが、世間はさざ波ひとつ立たない。奴隷がいかに理不尽は被害を訴えようが世間は耳を貸さず、いかに政治家を恨み、馬鹿にし、呪おうが、彼らは何の痛痒も感じない。彼らが、例えば消費税を20%にあげたら、奴隷は言われたとおり払うしかない。全く無力な奴隷に許された唯一の自由は、全てのことを他人のせいにし、甘え、イジケる自由である。しかし、いかにブーブー文句を言おうが、「国民の皆様には多大なご迷惑をかけ、、、」というおためごかしのフレーズを囁かれながら、しかしゴリゴリと押しつぶされるだけ。そうじゃないですかね。
何がイケナイのか?それは無力だからイケナイのだ。なぜ無力になるのか?それは真実無力だからではなく、無力であると自己規定しているからでしょう。自分で勝手に自己評価を下げ、自分の力を過小に評価しているからでしょう。では、なぜそんなに過小評価するのか、自分を卑下するのか。それは子供の頃からそう教育されてきたという点もあるだろうけど、そのなのハタチすぎたら免罪符にならない。自己卑下の原因は、その方が楽だからでしょう。自分が出来ると思ったら、自分でやらなきゃならなくなる。目の前の現実を受け止めて、辛気臭い努力もしなきゃいけないし、責任もひっかぶらないといけない。それが面倒くさいから、やらずに済ませようとするのではなかろうか。やらなくてもいい言い訳として、自分を無力であると規定しているのではないか。
僕個人は、その種の甘ったれた発想は嫌いだから、その種の甘えは受け付けません。却下!って感じ。でも、無意識的に自己評価が低かった人が、段々自己評価があがっていき、顔が自信で輝いていくのを見るのは嫌いじゃないです。というか、かなり好きです。特に海外生活に関する日本人の自己評価の低さは、目を覆わんばかりの惨状にあるといってもいいです。海外が初めてだろうが、英語がボチボチだろうが、実はかなりのことは出来ますよ。もちろん、楽にはいかないけど。出来たときの感動を思ったら、その程度の苦痛は屁でもないでしょう。自分の背中に翼が生えていることを初めて知るような歓喜がありますからね。こちらに来られる人は、ここで一発奮起して、「私は出来る!」という自己確信を得るキッカケにしてもらえたらなと思います。
文責:田村
★→APLaCのトップに戻る
バックナンバーはここ