今週の1枚(05.10.31)
ESSAY 231/奴隷根性、乞食根性、被害者根性
写真は、WollstonecraftのBrennan Park
「失われた10年」という言葉があります。バブル崩壊後の日本の10年のことですが、この期間にやるべき事(EX不良債権処理とか)をしないうちにイタズラに時間を空費し、気が付いたら何もしないで10年経過してしまったという意味です。それは全くそのとおりだと思いますが、そもそも「失われた10年」と言ってる時点でもうダメなんじゃないかって指摘を、以前どこで読んだ記憶があります。
この10年は「失った」のであって、「失われた」のではないのだと。それは何もしなかった、する勇気のなかった自分らの責任、自分らの愚行であるにも関わらず、あたかも何かの天変地異であるかように、なにものかによって奪い去られた、失ったという、日本人独特の受け身のメンタリティこそが問題だと。自分がアホだから招いた不幸なのに、あたかも被害者であるかのように思う、この幼児的なメンタリティを矯正せず、「失われた」なんて甘ったれた表現を使ってる限り、次の10年も、そのまた次の10年も同じように失いつづけるであろうと。
この種の受け身のメンタリティは、僕ら日本人の中に色濃く残っていると思います。
もう一つ、こういう小話があります。タイタニック号が沈没するとき、救命ボートが足りず乗客全員を乗せることが出来ない。そこで船長は、出来るだけ女性や子供、老人を優先して乗せるように乗客を説得します。ここで各国別の説得方法というのがあり、その国民に対するそれぞれの殺し文句があります。たとえば、イギリス人に対しては「ジェントルマンだったら残りなさい」といい、アメリカ人に対しては「ここで残ればキミはヒーローになれる!」といい、ドイツ人に対しては「規則ですから」と言う。じゃあ、日本人に対する殺し文句は?なんだと思います?僕はここで大笑いしてしまったのですが、「皆さんそうしてらっしゃいます」というのが日本人への殺し文句だそうです。
うまいこと言うなーと笑ったのですが、「面白うてやがて悲しき」ですよね。ケラケラ笑った後に、「うーむ」と思っちゃいますよ。確かに日本人は規則よりも何よりも、周囲の人がどうやってるかが気になるし、それこそが強力な影響力を持ちます。
段々思ってきたのですが、上の二つの日本人の特徴というのは、根は一緒なんじゃないかと。
一言でいえば、「自分の頭で考え、自分の責任で決断し、自分の力で人生を生きていく力」が足りないということです。自分では何も考えず誰かに指図してもらうのを待ち、自分では責任を取りたがらず他人に決めてもらいたがるという習性。自分のことであっても他人に求める、教えてもらいたがる、それを鵜呑みにする、そしてそれが上手くいかないと、他人のせいにして自分は悪くない、可哀想な被害者だとする。
これをドギツイ一言で要約すれば、奴隷根性と乞食根性ですね。
キツ過ぎるかもしれないけど、事実なんだからしゃーないです。奴隷は楽です。自分で決めなくていいんだし、誰かのいうことに従っていればいいんだし。だから自分から何かをやろうとはしない。もちろんソフィスティケートされた現代のマーケティングとコピーライティング技術では、そんな「奴隷」なんて露骨な言い方はせんです。「あなたは○○してるだけ」みたいな、王侯貴族のような扱いであるかのように言いますよね。でも美辞麗句を取り去って、純粋に内容だけを要約すれば「俺の言うとおりに動け」ってことでしょ。そういう環境が生まれたときから満ち満ちていたら、そりゃ誰だって自分でやるのは面倒だから、全部誰かにやってもらおうとする。あれもやって、これもやってという”クレクレ君”になりますよ。正当なる対価を払うつもりがなく、一方的に他人に何かを要求する人、つまりは乞食でしょ。そして、やってくれないとスネる、恨む。「なんでやってくれないんだよ」「言われたとおりにやったらヒドイ目にあった、騙された」って恨みつらみになります。そして最終形態の被害者根性になるわけです。
いつぞや仕事で地元の語学学校に行ってそこの優秀なる日本人カウンセラーとお話をしてたら、そこの生徒らしき日本人がやってきました。180センチ以上の堂々たる男性なんだけど、何を言ったかというと、「○○さーん、俺の帰りの飛行機、リコンファームしておいてくれた?」って。阿呆か、こいつは?と思いましたね。リコンファームくらいてめーでやれっつーの、ましてや英語学校に通ってるんだからそれくらい出来るでしょうが。出来る出来ないではなく他人に頼むようなことかい?でもね、結局こういう図体ばっかりデカいけど頭の中は空っぽというブロントザウルスみたいな生き物が造られるわけでしょう。
「あはは」と笑ってる場合じゃないんですよ。今から書くけど、あなただってこの奴隷根性と乞食根性に知らないうちに染まってると思うし、かく言う僕自身だってそうだと思う。そういう精神の自立性を阻害する有毒ガスみたいなものが日本社会には伝統的にあるわけだし、僕らはそれを生まれたときからたっぷり吸ってきてしまっている。
これまでは奴隷だろうが乞食だろうが、豊かな日本社会はほぼ全員を救ってくれたわけです。まあまあそこそこ普通にやってれば、就職できるし、就職したら言われたとおりやる奴隷の方が都合いいですから万事上手くいくし、給料もそこそこ上がるし、老後はたっぷりと年金が出たわけですよね。それはそれで一つの生き方ですしね。でも、今は、そして将来はそう天下万民が救われるってもんでもないでしょう。そうなると一億総中流という巨大な湯船みたいなものはなくなり、新たな階級分化が始まります。インドのカーストなんか極端な例だけど、およそ階級のない社会というのは人類社会の中にないです。階級という制度化されたものはなくても階層はある。でも、その珍しい例外が、戦後日本の成長期に一時的に出現したのだけど、エントロピーの増大法則のようにまたカオスにもどって、階級や階層が出来るかもしれない。
今の日本は、上位15%の上流、中位45%の中流、下位40%の下流にわかれていると誰かがどっかの本で書いてました(出典は忘れました、インターネットでちらっと見ただけだから)。そして下位40%が問題なんですね。この新下層階級、例えば年収300万円以下とか経済的な指標は人によってあるようだけど、そういう経済的な問題ではなく、より深刻に人間性の部分で下層になる。「人間的に下級になる」という部分が怖いところで、どうなるかというと、「所詮、自分はこの程度の人間」という自己評価(セルフエスティーム)が非常に低くなる。前にも書きましたが、日本人のセルフエスティームは、他の先進諸国に比べると極端に低いそうです。もともと低い社会で、さらに低くなるのだから、かなりヤバいです。「そんなの俺になんか無理だよ」「私なんかには絶対無理」とか、大したことでもないのに思ってしまう。早い話が希望をもてなくなる。「希望格差社会」なんて言葉が日本で流行ってるそうですけど、それと似たようなもんです。
だけど、「希望格差」なんてイヤな言葉ですよね。「奴隷根性」よりはイヤさ度ではマシかもしれないけど、そういうことじゃないくて、この言葉自体が「失われた10年」と同じく一種の麻酔作用を持ってるのがイヤなんですよ。希望というのは、本来、純粋に主観的なものです。今、真実乞食であろうが浮浪者であろうが、「俺は将来天下を取ってやる」と思うのが希望ってもんでしょう。三国志なんかそればっかでしょ。ロックスターなんかほぼ全員このルートを通ってくるでしょ。この「希望格差社会」ってのは、要するにこのくらいのポジションいるキミの人生はこんなもんよということで、何のことはない偏差値輪切りの進路指導と一緒じゃん。希望というのは客観的状況によってついたり消えたりするものではない。それは「見通し」とかいうクールな知能面での話であり、希望というのはもっと熱いハートの領域です。客観的には「絶対無理!」って状況でも、それでもやりたい、絶対やりたいって思うのが希望。だから、本来そんなもんに格差がつくわけないのだ。つくとしたらその人の性格とかそういうった主観的な要素だけ。
そのあたりをちょっと思いつくまま考えてみましょう。
まず、奴隷であるかそうでないかは、情報に対するアプローチの差になって現れると思います。
現代は情報化社会であり、インターネットを駆使し、本屋や図書館にいけば、大抵の情報はゲットできます。しかし、僕も過去のエッセイで散々「情報なんかクソみたいなもんだ」って書いてますが、本当に役に立つ情報なんか殆どないです。とりわけ具体的行動において決定的に指針になりうるような情報は実に希少ですし、また本当に大事なものは情報という形では伝達しにくい。現場で実際に自分でやってみないと本当のことは分からない。つまり、@現場で、A実際に、B自分で、Cやってみるという4条件が必要なわけで、これをやらなきゃ分からないのであれば、結局事前に情報として流布されているものは何なんだ?ってことです。恋愛だって、実社会に出ることだって、結婚だって、車の運転だって、パソコンの使い方だって、現場で実際に自分がやってみないと本当のところは分からんでしょ?恋愛関係の書物を百万冊読もうが、恋愛体験談を100万人分聞こうが、そんなことより自分でやってみるのが一番よくわかる。やったことない人間は結局は分からない。
だから情報なんかその程度のものなんだけど、奴隷根性の染み付いている人ほど情報を渇望する傾向があり、自立心の高い人ほど情報から一定の距離をおくように思います。なぜか?理由は簡単だと思います。奴隷系の人は、情報を探しているようだけど、結局は「命令」を探しているかでしょう。「こうしろ」という。自分の頭で考え、自分の責任で決断することが出来ない(or不慣れorする気がない)人は、そのあたりの意思決定過程を全部他人にやってもらおうとします。それが情報という形になって出てくる。「マニュアル」なんかもそうです。
でも、自分の頭で考え、自分の責任で決断できる人は、自分で考えるための素材を求めるために情報を集めます。だから情報に正解が載ってなくても一向に構いません。大事なのは、その対象の状況や構造なんです。それをフラットにストレートに伝えてくれるものがあればそれでいい。また矛盾する情報、言ってる内容が食い違う情報が集まっても混乱しません。意見のズレは視点のズレであり、視点のズレはステレオ効果で物事を立体的に捉えるための好材料になるからです。
もっとも、実際問題、この差は微妙だったりします。自立的な人でもマニュアルは読むでしょうし、よく出来たマニュアルは非常に示唆的でもあります。ただ、同じマニュアルを読むにせよ、「なぜそうするのか?」という理由の部分に着目して読むでしょうし、読んだそばから自分なりにアレンジしたり、カスタマイズしていくでしょう。
この違いは数学の得意な人と不得意な人の違いに良く似ているのかもしれません。
数学が苦手な人は、とにかく公式を覚えようとします。だから公式を忘れたら一巻の終わり。でも数学の得意な人は、なぜそのような公式が導き出せるのかその過程に興味を抱き、その論理を理解します。公式を忘れたとしてもその場で導き出すことも出来ます。さらに優秀な人は、公式を導く発想そのものに着目し、より数学のなんたるかを体得していきます。数学が、自然科学ではなく、人文科学として位置付けられているのも、数学というものがこの世界の認識の一方法、ものの考え方そのものであり、一種の哲学だからでしょう。
そうはいっても日本社会では、奴隷系の発想が多いですよね。問答無用でとにかく言われたとおりにしろというパターンは、教育にせよ、職場にせよ、家庭にせよ多く見られます。もとよりその全てがダメだとは思いませんし、躾とか是非善悪の弁別とか、問答無用で叩き込まねばならないエリアもあります。しかし、バランスを失しているような気もします。また、商業レベル、つまり広告や販売戦略においても、この種の奴隷系は多いです。「オススメ」とか「イチオシ」商品に飛びつくのも、自分で考えるのが面倒だからでしょう。「あなたは○○しているだけ」「すべて○○にお任せください」というのも、消費者に優しいようでいて、「お前は言われたとおりにしていればいいんじゃ」ということでしょう。
もっとも、なんでもかんでも自分で資料を収集して分析検討しなきゃいけないってことではないです。どうでもいいことも多いし、面倒だからおまかせすることもありますし、おまかせした方がいい結果になる場合もあります。寿司屋のカウンターで「おまかせ」で握ってもらうとか、何にも分からんし、骨休みがメインだから楽なパックツアーにしようか、とか。話が専門的になればなるほどそうなる部分はあります。そういうのは別にいいんですけど、「そこまで意思決定過程を譲り渡していいの?」って疑問になる面も多々あります。
自分の領域でいえば、例えばこちらに留学するときも、「将来に日本に帰ったときに就職に有利なスキルを」という要望があります。日本語教師とか、児童英語教師とか、ナチュラルセラピー系とかね。でも、「日本でメシのタネになるか」どうかは、日本にいるあなたが調べるべきことじゃないんですかね。どこの学校も、卒業すれば一定の認定証をくれますけど、その証書がいったい日本の労働市場でどれだけの価値をもつのか、それはわからないです。そりゃある程度一般的なことはいえますし、各学校もそこは商売ですから「絶対、役に立ちますよ」って言いますよ。でも、本当にそうかどうかは、あなたが判断すべきでしょう。一般的に役に立つ立たないを言っていても無意味で、あなたが例えば四国の徳島に住んでおり、自宅近くで勤務を希望しているのだったら、自宅近くにそういう就職先があるかどうか自分で探すべきでしょう。児童英語教師の資格とやらを持ったとして、それで具体的にどこに勤務できるのか?です。だからそんなことは学校やエージェントに聞くのではなく(そんな全国各地の就職事情に精通してるところなんか何処にもないです)、自分で近所の子供用の英語塾や、私立公立の小学校に実際に足を運んだり、問い合わせたりして、採用基準はどうですか、オーストラリアでこういうコースを履修したら採用面では有利になりますかって聞いた方がよっぽど合理的でしょう。そこは他人に任せてはダメです。それは自己責任です。仮に就職に全く何の役にもたたなかったとしても、だからといって誰も責任とってくれるわけじゃないですからね。
キャリアプランなんか、絶対他人に任せたらアカンですよ。自分がどう生きていくか、まさに自己表現なんだから、自分そのものなんだから。そこの意思決定は、あなたがあなたであるためのサンクチュアリ、聖域でしょう。他人に譲り渡したらアカンと思いますね。
もちろん参考にするのはいいですよ。参考資料は幾らでも集めたらよろし。でも山と積まれた資料を、批判的に検討して、矛盾する情報相互をつつき合わせて立体的に理解していく作業は自分でやらないとダメです。そこを面倒くさがって、誰かの言われたとおりにやろうとする態度こそが、僕のいってる奴隷根性、ご主人様の命令を待ってる奴隷じゃないのってことです。
同じように、「皆さんそうしてらっしゃいます」に弱いのも、「皆どうしてますか?」と聞くのも、「今一番売れてます!」に弱いのも、同じように自分で意思決定するのがメンド臭いからでしょ。あるいは、自分で意思決定する重さに耐えられない、自分の意思決定を自分自身が信じていないからでしょう。他人の意見もそれなりに参考にはなりますが、参考にしすぎてはアカンです。もう論理的にそうですよ。なにが「論理的」かっていうと、どこの掲示板でも口コミでも、その情報が掲示されるにはそれなりの背景事情ってのがあるはずだからです。「ホームステイでこんなヒドイ目にあった」なんてのもそうですが、大体がネガティブ系が多い。それは一種の恨みつらみを吐き出す場所が欲しいという人間の心理があるからであり、ハッピーにやってる人は日本語の掲示板なんかわざわざ見てないでホストファミリーとパーティーやってます。いい情報も悪い情報も等しく俎上に乗せようと思ったら、ちゃんと心理学にも精通した質問事項を使って、ランダム調査を組織的にやらないとわからんです。このあたりはマーケティングリサーチを実際に仕事にしていた僕の友達の受け売りですけど、質問の仕方、言葉の選び方、順番によっていくらでも結果は変わってくる。しかもその結果をどう分析するかは、これまた分析者のさじ加減一つらしいです。調査のプロですらこれだけ大変な思いをしてることを、ちょろちょろインターネットで掲示板見たからといって何が分かるというのだ。
情報に対するアプローチの差は、結果に対するアプローチの差にも現われます。
「この世に正解がある」と何となく思ってる人は、やっぱり潜在的に奴隷系になりうる危険性があります。「どうしたらいいでしょうか」「ズバリ何をすべきでしょうか」みたいな問いかけがそうです。でもね、大事な物事ほど「正解」はないです。「結婚した方がいいかどうか」なんて「正解」はないですよ。「意見」や「趣味」はありますよ。人それぞれに意見はあるでしょう。でも、それは趣味とか意見であって「正解」ではない。そして趣味を他人に聞くのも愚かなことで、「プロ野球の球団でどこを応援したらいいですか?」と聞いてるようなもんです。
なにか人生の岐路に立ったとき、右に行ったら天国で左に行ったら地獄ってことは、実際の世の中ではマレです。右に行っても天国に行くかもしれないし地獄にいくかもしれないし、左に言っても同様。そんなもんわからんのですよ。結婚したら全員ハッピーになれるってものでもないし、結婚したら全員が不幸のどん底に叩き落されるわけでもない。やり方一つだし、運不運の要素も大きい。
でもなんかいきなり結論を押し付けるような、理由も説明も抜きに、「こうしよう」というのが多くないですか。あんまりそれが多いと段々と感覚も麻痺してきますよね。ワーホリの準備本、渡豪のための本なんかも、その種の「押し付け」が多いように感じます。まあ、執筆者は親切でいっているのだろうし、別に押し付けるつもりも、押し付けられている感覚もないのだろうけど、自分の頭で考えるクセは常に常につけるようにしておいたらいいと思います。
具体例をあげると、例えば、現地についたらすぐに「銀行口座を開設しよう」なんてのもそうです。「ほんとか?」って思いますよ。ワーホリとしてオーストラリアに到着したとたん自分の会社を作って事業を展開しようというなら銀行口座は必須でしょう。借金もしなきゃいけないかもしれないし、決済口座は必要でしょう。でも、ついてしばらくのワーホリさんだったら、銀行に用事があるとしてもその殆どが「引き出し」だけでしょう?最初に所持金を一気に預けておいて、あとでチビチビ引き出す、と。でも、引き出すだけなら、今の時代海外ATMで直接引き出せるワールドキャシュカードはあるし、クレジットでも支払いはできるし、TCでもいいです。代替手段はいくらでもある。バイト料が入ったときに入金するとか、小切手や送金で支払われるって場合もあるでしょう。でも、それはそのときに作れば足ります。実際、現地のジャパレスなんかでは現金手渡しなんてケースも多いでしょう。銀行送金支払いだとしても、手数料が安くなるので指定銀行の指定支店で作れって言われるかもしれない。それに、「オーストラリアに着いたらすぐ」とかいっても、銀行口座を開くには住所がいるんですけど、それをどこにするか?って問題もある。さらに、口座管理料だって取られるかもしれない。だから、僕の意見では、「必要になったら開けば?」って言ってます。なにがなんでも開設しなければならないものではない。実際、開設しないまま一年を終える人も多い。
でも、これは「○○しよう」という内容の現実適合性を云々することが問題ではなく、理屈抜きに「〜しよう」と言うこと、言われること、それを鵜呑みにすることを問題視してるわけです。仮に100%正しいことだとしても、「なぜか?」を理解しないと意味がないでしょ。
僕は、これは昔っから言ってますが(例えば初期の「手加減しません」とか)、このHPであれ、メールの相談であれ、対面してであれ、相手を対等な人間として扱いたいと思ってます。相手を馬鹿だという前提には立たないし、奴隷だとも、乞食だとも思わない。だから、聞かれたら幾らでも答えますけど、結論は言わない。「こうしろ」というのはよっぽどことがないと言わない。あなたが決断を下すそのための前提情報、Aをとるとこういうメリットデメリットがあり、Bを取るとこういうケースがありうるという説明はします。その理由、構造などについてはしつこく言います。でも、意思決定それ自体については、それはあなたの聖域だと思ってます。また、本来自分でやるべきことを依頼されても「自分でおやんなさい」って言います。上手くいこうがいくまいが、自分でやるってところに意味があるのだ。セックスに自信がないから僕に代わりにやってくれって人はいないでしょ?(^_^)。それと同じですよ。自分でやるためのノウハウやコツは山ほど伝授してあげるけど、やるのは自分。
あれこれ説明してくれるけど、結局どうすればいいのか分からない、難しすぎて分からないってのは言われますし、「そうだろうな」って思う部分もあります。でもそこで妥協しちゃうと、「キミは馬鹿だからどうせ分からんだろうから、俺の言うとおりにやっておけ」ってことになっちゃうでしょう?それだけは避けたいんですよね。なんだかんだいって、結局は消費者を馬鹿扱いしてる商法が山ほどあるこのご時世だからこそ、それはしたくないなと思うのです。分からなくても決めねばならないし、難しすぎても決めねばならない。無理を強いているようだけど、でもそれが現実社会なんですよね。分からなかったら考えるべきだし、考えても分からなかったらそこで直感でバクチを打つしかないんです。人生そんなことばっかりですよ。少しでもそういうことをやり慣れておいて、傷の浅いレベルで練習して、直観力や決断力を養っていくしかないし、それこそがハッピーになるための必須の基礎体力だと思います。またそれこそが自分の人生のマスターは自分であるということへの一歩なのだから。
それにですね、「馬鹿にしてもいい」という一線を超えると、自分のやってる仕事が本当に「金のため」ってことになっちゃうで、それはヤだなと思います。また、その一線を超えると、多分僕はサポートする人を尊敬できなくなりそうです。馬鹿にするようになしる、嫌いになるでしょう。そうなると歯止めもなくなっていきそうです。もう最初から馬鹿扱いしていいんだったら話は楽ですよ。もちろん馬鹿にしてる素振りは毛ほども見せないで、うまーく、やわらかーく、殺して差し上げますわ(^_^)。それが商売でしょって考え方もあるとは思いますけど、だったら僕は商売には向いてないですな。それに、それが商売だとは思わんです。
さて、この話続きます。とても一回で書ききれるような内容ではなかったようです。つづく。
文責:田村
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