今週の1枚(05.07.18)
ESSAY 216/トシをとってからわかること(その2) 〜領空侵犯のススメ
写真は、The Gap/South Head に向かう路上から、Watson's Bayやシドニーハーバーを望む。
トシをとってから段々わかってきたことを前回から書いてます。
世間で言われているほど世代の差というものは無んじゃないか、それでも「世代の殻」みたいなものは厳然として残っているんじゃないかって話をしました。もう少しこのあたりのことを書きます。
日本社会には、インドのカーストもびっくりというくらい大小さまざまなコード、暗黙のオキテが張り巡らされている、というのは以前も書きました( ESSAY 134/ 日本帰省記 (その3))。その不文律の中で「年齢」というのは大きな柱になっています。若い人は若い人なりに、中年や老年はそれなりに「かくあるべし」というオキテがある。若いのにそのオキテを守らなかったら、やれ「ジジ臭い、ババ臭い」と馬鹿にされ、年長者が守らないと「若作り」「年寄りの冷や水」とおちょくられるという。実際にはこんな大雑把なものではなく、イマドキの女子高生だったらスカート丈はこのくらい短くないと友達から仲間ハズレにされるとか、20歳過ぎたら「もうこれは着れないなー」とか言ってるという。
鬱陶しいですよね、こんなの。誰が決めたの?って皆さん思ってるでしょうけど、どうしても縛られてしまう。単一民族、単一文化社会ならではの完璧に近い相互監視システムが縦横無尽に張り巡らされている日本社会では、電車一本乗るにしても「周囲の目」というものを気にしなくてはならない。別にどういう実害があるわけではないのだけど、「笑われているんじゃないか」「ヒソヒソ陰口を叩かれてるんじゃないか」と気になってしまいます。実際にはそんな誰も気にしてないのだけど、本人が一番気にしてしまう。「社会は自分の心の中にある」という言葉がありますが、なるほどそうかもしれません。ともあれ、年齢世代の「領空侵犯」をすると、スクランブル警報が鳴って、周囲からいっせいに迎撃される、、、わけではないけど、自分でそう思ってしまう。だから、踏み出せない。
年齢/世代における区分けでも、ある程度実質に即した合理的なものもあります。
社会が未発達な段階になるほど、その役割分担やロールモデルは、バリバリ合理的であり、切れば血が出る実戦性にあふれていたのでしょう。筋力に勝る男性が力仕事や戦闘作業をするとか、子孫を残すのが最優先課題だから、女の子は初潮がきたら即結婚、出産するとか、男の子は元服という成人式があり、髪型も、名前すらも変え、初陣に臨んだりします。なぜそんなに厳格なルールがあるかというと、そうしないと部族が生き残っていけないからでしょう。戦闘能力において弱かったらあっという間に侵略されるし、子供は「可愛い愛玩具」ではなく「貴重な労働力」だったから、埋めよ増やせよとボンボコ作らねばならない。新生児死亡率が非常に高いから、5人産んでも3人は死ぬ。そういう社会ではカッコイイとか流行とかそんな悠長なこと言ってるヒマはない。迷信みたいなものも沢山あったでしょうが、あれもサンプルデーターが極端に少ない中で、必死になってもっとも合理的な仮説を考え出したというのが出発点でしょう。
ところが世の中豊かになるにつれ、あんまり意味のないオキテ、かつては意味があったけど今では形骸化しているオキテが沢山出てきます。なんでなんでしょうね?やっぱり、豊かになって余暇時間が増えると、人間いろんなことを考えるのでしょう。そしてヒマにまかせて考えるんだったら、より合理性や美的センスを突き詰めればよさそうなものなのに、しょーもない方向に流れるものも多い。どーでもいいようなことに一喜一憂するようになる。
今の日本をざっと見渡してみると、ちょっと前に比べれば驚くほど皆さん老けなくなったし、年取ってもけっこう元気です。また、終身雇用が崩壊し(”崩壊”というほどガラガラって感じではなく、海の荒波に岸壁が侵食されるような感じだろうけど)、「○○才になったらこれ」という明確な指標が昔ほどなくなってきています。企業の中途採用は多いし、晩婚少子化だし。その昔「22歳の別れ」という曲がヒットしましたが、今となっては「22歳で当然のように結婚という人生選択をする」というあの歌詞世界を理解するためには、源氏物語のように注釈が必要ですよね。というわけで、今日の状況をクールに見れば見るほど、年齢世代的な不文律は無くなってきています。年相応に合理的な行動パターンが残っているのは、18歳以下の子供と、85歳以上の老齢者くらいじゃなかろうか。それとて、不登校児などの増加で「15歳になったら高校、18歳になったら大学入試」というパターンも昔ほど通用しないでしょう。
これだけ年齢世代の壁がボーダーレス化しているのだから、旧来の壁を越えて皆さん活発に行き来をするかというと、あんまりそうでもない。どっちかというと、不活発になる傾向があるような気がします。例えば、大人になったら仕事をするとか、結婚するとか、所帯を持つとか、これまでのロールモデルがあったわけですけど、ニートだの、結婚難民だのいって「やらない方向」に進んでいるように思います。どっちの方向にせよ、年齢世代の暗黙のオキテは徐々に薄くなっているのでしょうが、どうせボーダレスになるななら元気で楽しい方がいいよねって思うのだけど、あんまりそうはならない。なんでやろね?
ともあれ、「○○歳になったらコレ」というのは、昔ほど合理的根拠がなくなってきているし、自由になっています。そうなったらそうなったで、その社会が健康であればあるほど、実態に合わせた再構成、再定義、再発明、英語でいえば、reconstruction, redefinition、reinvention などが行われるでしょう。
ちょっと前のこちらの新聞に、”Big Boys"という特集記事がありました。大きな子供、つまり大人たちがガンガン派手に遊んでいるという記事です。とりわけベビーブーマーズ(団塊の世代のようなもの)が、そろそろリタイア時期を迎え、昔ほど肉体は老化しないし、お金もあるし、経験もあるわ、50-60歳くらいのおっちゃん達が真っ赤なポルシェのオープンカーやハーレーでぶっ飛ばしたり、ムキになってサーフィンやったり、コンピュータープログラミングやネットにハマったり、クルージングしたりしてるわけです。若い世代の連中より、質量ともにもっと豪快に遊びまわっている、ちょっと前までの「年をとったらバックヤードでガーデニング」というパターンが変わってきてるぞという社会傾向の変化をフィーチャーしてました。
こういう読むだけで元気になるような変化が日本の社会にあるかというと、あんまりマスコミには出てこないですよね。せいぜい「大人買い」とかそんなんでしょうか。しかし、まあ、実際にはあるんだと思いますよ、日本にも。50代でヘビメタやってる奴だって、絶対いると思うぞ。俺だって、45歳でライトハンド奏法やって、「あー、くそ、ヘタになった」といって舌打ちしてるぞ。だから、実は沢山いるんだと思います。70歳でハッカーやってる奴だっていると思うぞ。
でも、せっかく壁が薄くなったんだから、どの世代もガンガン「領空侵犯」すればいいと思うのですよね。小学生で「盆栽同好会」があってもいいと思うし、60代でどんどん合コンやればいんです。若い世代が結婚しないなら、上の世代がすりゃいいんです。離婚率もあがってるんだから、年長シングルもいっぱいいるでしょうしね。
経済や景気だって、未だに若い世代が消費の中心みたいになってるけど、実際そうなんだろうけど、もっとおっちゃんやジーさんがブイブイ言うようになってきたら、経済の中心が変わってくると思います。もっとも、僅かづつではあるけど、既に変わってきてるなってのは感じます。音楽でも、未だにクィーンだのツェッペリンだのが売れてるし、売れるからこそあちこちで復刻版だのボックスセットが出されています。コミックでもそうですよね。出版だって「大人のドリル」みたいに大人本が出されるし。広告見てても、ヤマハの楽器で50代くらいをターゲットにしたものも目立つし。この傾向はさらに強くなるだろうなって思います。だって、今の若い人お金持ってないもん。経済というのは残酷なもので、金もってない人間はチヤホヤせんのだ。
シルバー産業とか15年前から言われていますが、商品によりけりだとは思うけど、シルバーをシルバーぽく捉えても売れないんだろうなって気もします。やっぱ、リディフィニション/再定義して、今の60歳を強引に25歳くらいに設定しなおした方がいいんじゃないかと。「60歳からのオープンカー」とかさ。実際、オーストラリアで走ってると、オープンカーに乗ってるのは高齢者がわりと多いです。 また、それがカッコいいんだわ、銀髪なびかせてブラックメタリックのBMWの2シーターとか乗ってられると。あれはガキが乗っててもサマにならん乗り物なんだなって思いましたね。
まあ、現実問題、社会保障システムや経済状況の違う日本の中高年に、同じようにオープンカー乗って遊び狂えっていっても無理なのもよーくわかってます。住宅ローンあるししねー、年金アテにならないしねー、子供もいつまでたっても巣立ちしないしねー、巣立ちされちゃったら淋しいねー。今すぐ直ちに全て変えろなんてのは無理です。でも、徐々に変えていくことは出来るでしょう。とりあえず子供に金をかけない。18歳になるまではビシッと面倒もみるし、言うこともきかすけど、18歳になったら無視。大学行きたかったら勝手に学費稼いで勝手にいけ、どこで野垂れ死んでもそれがお前の器なんだよって。今日を境にいきなりそんなこと言えないだろうけど、まだ小さい頃からそういって聞かせていたら実現は出来るでしょう。「18歳で完全自立」って目標立てられちゃう方が子供的にはむしろ嬉しいとは思いますけどね。15歳くらいで秒読み態勢に入るから、かなり真剣に世の中のことを知ろうとするでしょうし、それって単純に面白いですし。少なくとも、上位半分の能力のある子に対しては、背伸びをさせてやるのが一番のプレゼントだと思います。自分の経験から言っても。まあ、僕は子供に恵まれなかったのでなんだかんだ言えないですけどね
でも、余談ですけど、僕が今日本で20歳だったら、「これから先、面白くなりそうだな」と思うと思いますよ。
若いうちは乱を好むし、もって生まれた財産家柄その他のバッグランドが無い圧倒的大多数の人間にとっては、世の中が乱れてくれないとうまく動きにくいですもんね。終身雇用が崩壊したら、「一生同じ所にいなくてもいいんだろ」って「自由」という意味に解釈するだろうし、この少子化傾向が続けば将来的に日本の住宅資産は絶対余るから殆ど相続で家がゲットでき、ローンに追われることもない。せいぜいがリフォーム予算程度。ものすごいアドバンテージですよね。今と同じように働いて住宅ローン組んで一軒買ったら、合計二軒持てる事になり、一軒は家作に廻して家賃収入。年金なんざコケてもそれで大体なんとかなるだろう。そして、40年後の日本はグローバル化がとんでもなく伸展してるだろうから、優秀な外国人を賃借人として住まわせよう、その頃は外国人の方が金持ちかもしれんしな。そのためには自分が英語とか海外に習熟しておく必要があるから1年くらいワーホリいって鍛えてこよう。そうそう若いうちに日本以外にどっかの国で永住権をゲットしておくのもいいだろう。日本国がコケるかもしれんから”保険”だけはかけておかねば。ところで今の60歳は老けずに結構ピンシャンしてるから、多分医療技術が伸展した40年後の自分はもっとピンシャンしてるだろう。真っ白なキャンバスが50年分くらい用意されている。十分遊べる。ハッピーリタイヤメントで中高年になってから本格的にガンガン遊ぶためには、早いこと結婚して子供作って、18歳になってから巣立たせなきゃなー。おお、忙しいぜ、やることいっぱいあるぜ、「やあ、いい時代に生まれたもんだぜ」って思うんじゃないかな?今、この瞬間にも、日本の20歳で、本当に自分の「力」に自信を持ってる奴だったら、「おっしゃ!」と思ってると思います。賢いから口には出さないかもしれんけど。そう思えないで、「イヤな時代に生まれてしまった」と思ってる奴は、本当の意味で自信がないのかもしれない。
世代の殻の話に戻ります。
とりあえず今日から出来ることとしては、「世代/年代を言い訳にしない」ってことだと思います。
やっぱり人間というのは小狡いところがあるから、自分に有利に働くものは手放さない。年代世代の壁でも、それが自分の有利に働くことのだったら、それをタテにとって怠けようとする。そういった傾向は誰にでもあり、もちろん僕にもあります。しかし、まずはそれを少しづつ止めようじゃないか、と。
若い世代のうちは、「まだ若いんだからそんなことしなくてもいい、考えなくてもいい」「そんなことまで責任とらなくてもいい」と思う。また、やろうと思っても、やらせてくれない面もあるでしょう。逆に年をとってくると、「もう若くないから出来ない」という物事が増えてきて、そのうち「若くないんだからやらなくてもいい」という具合になっていきます。こうして誰も彼もが「やらない方向」に進んでいったら、世の中不活発になる一方です。どんどんやればいいし、周囲にやらせてあげればいいと思います。
特に自分が年をとってきて思うのは、別に年をとったからといって何かをしなくて良くなるわけではないということ。別に年齢によって免責が与えられるものではないだろうということです。もちろん肉体的な加齢現象によって、若いときに出来たことが出来なくなるということはあります。これは厳然としてあるし、思ってた以上にヘビーなことでもあります(これについてはまた書きます)。しかし、現役パリパリのスポーツ選手ならともかく、そういったことって、そんなに多くはないです。
「若い人に頑張ってもらわなきゃ」「まだ若いんだから」っていって、自分たちはコタツに入って、若い連中を外の雪かきに追い出すような言い方がありますよね。褒めてるんだか、けなしてるんだか分からないような、一種の「ほめ殺し」みたいなレトリックがありますが、あれもあんまり使わない方がいいんじゃないかって思います。若い連中にしてみれば、あるときは「若さ」を理由に「しろ」と言われ、あるときは若さを理由に「するな」と言われるわけで、腹が立つもあるでしょう。もちろん一定の合理性がある場合もありますが、手前勝手に恣意的に使ってる場合もまたあると思います。
やっぱりそういうのって良くないと思うし、何が良くないって自分自身に対して良くないと思う。結局自分を甘やかす方向にいくわけですから。だからといって、若い連中にやらさず、「○○ちゃんはおコタに入ってればいいのよ、外は寒いから」とかいって、自分たちばっかりが苦労することもない。これは過保護になってしまう。理想的には、両者ともコタツから出てきて、一緒に雪かきすればいいんですよ。
あのー、ここで雪かきって言ってるのは比喩ですよ。別に雪かきだけの話ではないです。わかってると思うけど。
それは例えば、新しいテクノロジーが出てきたときの取り組み方であったりします。いつまでたってもOA機器が使えないのも情けないし、「いや、もう、若い連中の最近のアレにはついていけんわ」なんて言わないで、若い奴が出来るんだったら、俺なんかもっと出来るはずって思っていいと思うのですよ。出来ないわけないんだから。勿論、人によって向き不向きはありますけど、その比率は、20代と40代でそんなに違う筈ないですよ。
でも、年齢を理由に面倒くさいことをやらずに済ませようとすると精神的にどんどん老けていきます。「心は年をとらない」といいますが、でも、実際には心は肉体よりも早く年をとることができます。「もうそんなトシじゃないや」みたいに。30歳になっても、40になっても、全てを投げ打ってゼロから再出発することは出来ます。日本の全国地図を作った伊能忠敬という有名な江戸時代の人がいますけど、あの人、その事業を趣味でやったわけですし、それをやり始めたのは隠居してからです。50歳過ぎてから、当時の年齢としてはっもう死んでもおかしくない歳の頃から、日本全国を徒歩で踏破して測量して全国地図を作ってますからね。やる気があったらいくつになってもできます。
そういう気合でトシをとってくると、これが結構忙しいんですよ。なぜかというと、昔出来たことは今も出来ないと腹がたつし、昔覚えた技術をさびさせないようにメンテしなきゃいけない。技術なんか年とともに増えていくから、メンテだけでも追いつかなくなります。忙しいけど、精神的には老化しない。メンテというのは技術だけではなく、いわゆる学識経験なんかもそうです。かつてそう理解したことが、今は事情が変わっているのではないか、どこが変わって、どこが変わってないかを再検証することです。さらにこれまで積み上げた技術と認識をベースに、より新しい境地、高いレベルに進んでいかねばならないので、ほんとメンテとチャレンジで忙しくなければウソです。
簡単に言えば、年を取るにしたがって、A地点からB地点に移動するのではなく、同心円的に広がっていくと考えればいいんですよ。陣地が増えていくって。そう思わずに、もうB地点までいったから、A地点のことはやらなくてもいいもんねって思うのが、「世代の殻」なのでしょう。
これは若い連中にも同じことが言えます。
僕はまだA地点だからB地点のことはしなくていいもんねってのは、もう既に「逃げ」です。職場の中高年がメール設定に四苦八苦しているのを見て馬鹿にしている人だって、公定歩合とグリーンスパンの動向という話、所得税改正で控除枠の変動とかいう話になると、「わたしはそんなの知らなくてもいいもんね」という態度に出たりします。これ、同じことですよ。他人のことを笑う資格はないね。
いずれにせよ、「私はしなくてもいいの」と自分に免責を認める度に老いが始まり、深まるといいっていいと思います。
もちろん、加齢現象や、向き不向きというのはあるけど、それ以外でなにかから逃げたり、自分を諦めることが、「老化」の実体だと思います。だから、暦数年齢的には高齢でも老化してない人もいるし、十代で早くも老けこんでる人もいる。若年寄ってやつですね。
さて、うーん、実はあと僕のエディター表示で100行以上すでに書いているのですが(現時点で232行)、今回はこのくらいにしておきましょうかね。今ごろの日本は暑いだろうから、長文読んでる精神力がないかもしれんし。
文責:田村
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