今週の1枚(05.07.11)
ESSAY 215/トシをとってわかること 〜世代の殻
写真は、シドニー空港、国内線搭乗口の風景。これだけ見てるとどこの空港かわからないですけど、ドーンとベジマイトの広告があるので、オーストラリアであることが丸分かりです。しかし、トラベルパック用のベジマイト、、、そこまでしてまで持っていって食べたいか?って気もしますが、食べたいんでしょうね。
僕は今年で45歳になります。すごいですね。自分でも全然実感がないです。「うそぉ?」って感じしかしません。まあ、客観的に見ればただのオッサンなんだろうけど、主観的には高校の頃から大した違いはないです。年齢的、時間的な”移動感覚”がない。自分が20歳頃の思ってた45歳というのは、はるか彼方にある「ここではない別の場所」だったのですが、いざ自分がそうなってみると、その場所に来ているという実感がない。45歳にもなれば、「俺の若いにときには〜」とかいうセリフも口癖になったり、板についてたりするんじゃないかと思ってたのですが、そんなセリフがなかなか思いつかない。「若いとき」と今とが違うという気もしない。なんなんでしょうね。
単に若作りしてるだけじゃないかって話もあるんですけど、冷静に考えてみると、そんな意識も少ないように思います。なぜなら、どっちかというと僕は早く年を取りたいと思ってた方ですし、弁護士なんて仕事をやってたら、これはもう年とってる方が絶対有利ですからね。同じこと言っても説得力があるし。「くそお、もっと老けて見えないかな」とか思ってたもん。それに、若さに対する過剰な信奉のあるロリコン社会日本を離れて十年以上、若さ=馬鹿さとすらみなすこちらの社会の感覚が、本来の自分の感覚に妙にマッチしていて心地いいから、別に若く見られたいとか、年とったらみっともないとも思わないです。むしろ、「くそお、童顔のアジア人がなんか言っててもイマイチ迫力ないんだよな」とか、若かろうクセに彫りが深くてやたら哲学的な風貌をしているインド系の人などと見比べてみて思ったりします。
だから若さにしがみついている気はないし、むしろ若さからは距離をおきたいなと思ってるくらいなのですが、この移動感覚や時間経過感覚の無さはどうしたことでしょう。この調子で行けば、60歳になっても80歳になってもそんなに年齢移動感覚がないままかもしれないし、もしかしたら、死んだあとも同じようなことを考えているかもしれません。「え、死ぬってこういうことだったの?なんかあんまり変わらんような、、」と戸惑っているかも。
僕がこう思うということは、今この瞬間に同じように思ってる日本人や世界の人がゴマンといるのでしょうね。あなたはどうですか?昔思ってた年齢感覚と、今の年齢とでミスマッチを起こしてませんか?「あれ?どっかで年齢数え間違ってないか?」とか釈然としない気分を抱いていませんか。
しかし、今ひとつ馴染めない本人の主観はさておき、客観的には加齢現象というのは否が応でも生じます。社会的にも、肉体的も。社会的には、とりあえず「周囲に年下が増える」といった現象が生じ、肉体的にはいわゆる「身体が言うことを聞かなくなる」というトホホな現象として現れます。
あのー、思うのですが、僕と同年代のおっちゃん、おばちゃん、あるいはさらに上の世代は、もっと「本当のところ」を積極的にガンガン発言すべきじゃないかと。日本社会というのは、自分の個性を素直に表現するというよりは、「周囲から期待されている人間像を演じる」社会なので、今の45歳の自分をそのまま表現するよりは、「45歳の人間はこういうもの」というペルソナを演じてしまいがちでしょう。「ワタシはもうトシだから」とかね。でも、もう、そういう Bullshit はやめませんか。
なぜかというと、「周囲から期待されている45歳像」、もっと正確に言えば、周囲から期待されていると「自分が思っている」わけですが、それって昔ながらの年齢像でしょう?それが既にズレているのですね。実体にマッチしていない。それは自分が一番よくわかってるわけです。大体、そういう人間像というのは、人生50年時代の認識だったりして、古いんですよね。今の人間、栄養状態もいいから、なかなか老けません。平均寿命も延びているんだし。そのあたりの話は、老後を制する者は天下を制する?で書いたから長々繰り返しませんが、要旨を言えば、「人間50年」というのは何も織田信長の遠い昔の話ではなく、ついこないだまでそうでした。昭和20年代の日本人男性の平均寿命は50歳半ばだったのです。それがわずか40年かそこらで1.5倍に寿命が延びているわけです。だから、暦数年齢の3分の2くらい(今の年齢の33%引き)くらいに考えて丁度いいし、そのくらいにするとあなたも納得しやすいでしょう。例えば、今45歳だったら、昔のイメージにおける30歳、今30歳の人は昔のイメージの20歳なのだと思うと、結構しっくりきませんか。実際、精神年齢的にはそんなもんだと思いますよ。
ですので、僕は「若作りをしよう」とか、「若い気分のままでいよう」というスローガンを言ってるのではなく、「より実体に合致させよう」といってるわけです。オーストラリアのワーホリ年齢だって数年前から25歳から30歳に引き上げられたけど、これも要するに「若い人」概念を実態に即してアジャストしなおしてるとも言えるでしょう。
今の日本は多少増えてきたとは言いつつも、まだまだ「大人」の世代の発言が少ないし、本当のところを述べているとも思いにくい。つまり「トシをとるって実際にはこういうことだよ」ということを次の世代に伝えていないように思います。僕にも伝わってないからこそ、「あれ、なんか思ってたのと違うな」という違和感にさいなまれるわけです。
自分がトシをとってくると、トシをとるというのは、つまりはこういうことだよと体験的に伝えられるようになりますし、伝えるべきでしょう。世間で一般に言われているのと随分違う点も多々あると思います。
また、自分がトシをとってくると、いわゆる「大人」に対してタメ口きけるようになりますし(だって自分が大人なんだから)、上の世代に対してもモノが言いやすくなります。その昔さんざん食らった「若造になにが分かる?」攻撃も、「もう若造じゃないもんね」と結構しのげるようになります。それまで上に見上げていた世間というのがだんだん水平に降りてきているから言いやすい。また、それだけ世間が見えるようになってきてるから、「ははあ、そういうことだったのか」という部分も多々あります。でもって、そういった発言があちこちであるかというと、あんまり見当たらないです。なんかもっともらしいことをいうと、説教タレのオヤジみたいに見られるのではないかっていう恐れもあるかもしれないけど、だから、もう、そんな古めかしい「期待される人間像」なんか捨てたらいいです。誰も期待してないんだから。とはいっても、そうそう捨てきれるものではないでしょうから、比較的捨てやすい(誰も期待してないことが明白な)僕が言います。シロとかクロとかではない、グレー領域の豊かなグラディエーションについて。
まず僕個人の実感していえば、そんなに言うほど世代の差というのはないと思います。やれ新人類だ、団塊ジュニアだ、バブル世代だと色々言われますし、西欧でもジェネレーションXだのなんだの言われますが、その種の違いは無いことはないけど、そんなにメジャーな差だとは思いません。ましてや人間としての組成に差があるとも思えない。
なんか世代が違うと「人間として全く理解不能」みたいな表現がなされがちですが、それは育ってきた環境が違っていれば、ものの考え方も行動パターンも違って当たり前でしょう。立場が違えば、モノの見え方もまた違う。人間というか、生物というのは、外界に適応しようとする本能があるから、外部からの刺激(インプット)がAよりもBが多ければ、アウトプット(世界観や行動)もまたB系にシフトするだけのことでしょう。f(X)=aY+b という関数みたいなものでしょう。
なんでそんなに割り切って思うえるのかといえば、僕のこれまでの仕事の特殊性だと思うのですが、弁護士時代にせよ、そして今にせよ、僕がお相手するのは、非日常的な体験をされる方(生まれて初めて裁判をするとか、海外生活をするとか)です。その人にとっては今まで積み上げた社会経験が使えず、全く新しい体験をされるわけです。未知の領域に進んでいくのですから誰でも恐いし、緊張もするのですが、そこでの反応に、世代的な差というのは殆どないです。誰だって生まれて初めて不慣れな英語で電話してシェアを探すのはビビるものですし、知らない場所に一人ぼっちで行って帰ってくるのは緊張するものです。でも、10代の人も、30代の人も、50-60歳代の人も、それに対するビビり方、挑戦や克服の仕方、自信のつけかたというものに、そんなに差はないです。もちろん人によって反応は様々だけど、それはその人の個性や性格による部分によるものが多く、世代的なパターンというのは全くといっていいほどありません。法廷の証人席に座ったとき、異様に緊張してほとんど錯乱状態になっちゃう人がいますが、これも世代差というものはないです。個人差ですね。
たまたま同じ週に僕のゲストルームに10代の人と50代の人が泊まることがありますが、年齢世代を超えて、皆さんいい友達になります。なぜかというと、環境や状況がまったく同じだからです。置かれているシチュエーションや、今なすべき課題が同じだから、考えることも同じで、話題も関心も同じ。「え、もう一人でシティまで行って帰ってきたんですか?すげー、やるなあ」「え、シェア探しのアポ取ったのですか?どうでした、電話、わかりました?」「いや、もう、全然ダメですよー」とか、話が盛り上がるのですね。
これ、日本にいたらこうはいかないだろうなと思います。日本国内は、それぞれの年代世代にそれぞれの席次というか、ポジションというか交換不能の居場所みたいなのがあるし、「こう振舞いなさい」というルールがあったりしますから、なかなか視点や発想が同じになることはないですからね。でも、一旦そういったお約束を取っ払ってしまえば、つまりお約束が消滅する海外にきてしまえば、一個の人間に戻れます。それに、日本人同士だったら、まだしも暗黙のルールがあったりしますが(例えば炊事は女性の方が積極的にやるとか、上の世代になるほど家事にあまり動かないとか)、外国人の中に放り込まれたらそんな暗黙のルールなんか全く通用しません。それに、いろんな国の人の中でポツンと存在してたら、10代も60代もひっくるめてジャパニーズとしてしか扱われませんからね。僕らが日本にいるインド人について、本国でのカーストの差なんか全然気にせずに「インド人」と一括りにして扱うのと同じです。
このように、実験室みたいなピュアな環境で見比べていれば、一個の人間として世代の差というのは殆ど無い、あったとしても取るに足らないという気がします。世代の差は、個々人の資性にあるのではなく、社会の側にあるのですね。社会のお約束として、この世代の人はこう振舞え、この世代の人はこうというそれぞれのポジショニングがあり、それゆえ見え方も違えば、発想も変わってくるだけだと思います。そういうピュアな状況でモノをいうのは、世代ではなく、個人としての資質や性格です。楽天的な人、勇気のある人、愚痴っぽい人、心配性な人、、、、という個性の差です。異世代間の差よりも、同世代間の個性の差の方が何倍も大きいです。
また、「世代の差」よりも「時代の差」の方が大きいだろうとも思います。
昭和30年代の日本人がタイムスリップして今の時代に紛れ込んできたら、違和感を抱くと思いますよ。「なんだ、こいつら」って思うでしょう。昭和30年代だったら、日本人のボキャブラリに「公害」も「自然破壊」もありません。工場の煙突から煙がでてるのを「復興の象徴」として好ましく眺めていたでしょう。同じように「情報」という言葉も全然ポピュラーではないし、「ストレス」という英単語もほとんど知られてなかった。ましてや、「インターネット」「癒し」や「携帯」なんて想像もしてない。第一コンピュター自体がそんなに一般的では無かったです。情報、ストレス、自然、癒し、、、これらの言葉は、現代日本社会のキーワードみたいなもので、これらの言葉を使わずに「日本の今」を語るのは難しいです。しかし、それらの言葉や概念が、当時の日本人の頭には全くインプットされていないわけです。ゼロ。「ストレス?なにそれ?」って感じでしょう。だからものの考え方なんか全然違うでしょう。
じゃあ、昭和30年代に生まれていた人、その頃に既に大人だった人は、今も尚その感性のままでいるかというと、そんなことないです。時代の流れとともに、せーので皆さん学んでいく(というか堕落していくというか、そこらは見方ひとつですが)わけです。その時点の感性をそのまま保存しようと思ったら、その時点で日本を離れてしまうしかないでしょう。昭和30年代の日本人を知りたかったら、昭和30年代に日本を離れて、それからほとんど日本に帰っていない人と話すといいです。実際、ブラジル移民の人々は昔の日本を保存していますし、オーストラリアでも現地に長いこと暮らしている日本人は昔の感性をキープしていると思います。
僕自身、既に11年の歳月が流れていますから、僕の日本人感性はバブルが栄えて、そして弾けて修羅場になって、神戸で地震が起きて、サリンが撒かれた時点で止まってます。平成初期ですね。その後の日本の経過は、インターネットその他、常に日本から産地直送状態でやってこられる方々と日々接することで一応知識としてはフォローはしてますが、もう自分の血肉にはなってませんね。だから、年をへるごとに、日本との距離感が広がってるのは感じます。この10年、金利ゼロのまま、世の中がゆっくりしっかり腐っていくような、でもこれといった有効な対策も動きも見えないまま、ひたすらまったりとした日本の現場感覚は僕にはわからない。ただ、たまに日本に帰ったとき、「なんか時間が止まってる気がするな」「ここだけ自転速度が遅いような気がする」という皮膚感覚を微妙に感じますけど、そのくらいです。
今の日本は、安心とか安全とか、人生や生活に何らかのギャランティーを求める傾向が年々強まっていると思います。ギャランティーを求めるけど、その安心の基礎があちこちで崩壊したり、ヒビ割れたりする事件が相次いでいます。犯罪発生率が高くなったり、年金がいよいよアテにならなくなったり、企業のリストラは常態化し、職の保証は益々なくなったり。だからといって、ギャランティを求めず激しく生きようとするかというとそうではなく、ますますギャランティを求める、でも果たされない。不安だ。神経が病む。癒されたいみたいな悪循環。
でも昔の日本人はそんなにギャランティなんか求めなかったし、求めても空しいこともまた良く知ってたと思います。終身雇用とかいうのも、そういう風習は結果的にそうなっただけで、やってる最中は誰も終身雇用だなんて思ってなかったでしょう。なんせ、会社自体(というか日本自体)がいつ潰れるかわからんという危機感は常にあったでしょうからね。ワーホリさんの気質でも、年々現地サポートを気にする度合が高まってるように思います。ここ数年でもそういう傾向を感じます。僕もサポートっていってるけど、よく読んでもらえばわかるけど、いかにサポートなくして一本立ちできるようにするかという点に主眼をおいてます。軍隊キャンプの鬼軍曹みたいなもんです。海外に来る以上、それなりに覚悟して来いっていうのが原則。あなたがロイヤルファミリーで24時間SP警護を受けているVIPでない限り、いくらサポートなんていったって気休めでしかないです。僕の言う「サポート」は、代わりに何でもやってあげるサポートではなく、「一人でやらんかい」とお尻を蹴っ飛ばす逆サポートです。でもそれが一番役に立つんだから。
他人なり、システムなり、社会なりに、何かをやってもらおうというディペンダント(依存性)は、年々強くなっているだろうし、その依存性への反発も年々強くなっているようにも思います(イケてない自分を鍛えたい願望)。昔の日本人にはそんな傾向は薄かったでしょう。昭和30年代だったらそんなこと考えてる人は少ないだろうし、これが昭和20年の戦後の混乱期、さらに戦時中ともなれば、何時死んでも不思議ではない状況だったわけです。でも、それですら、幕末明治の日本人からしたら「甘っちょろくなりやがって」と馬鹿にされたわけだろうし、明治の人間だって戦国時代の日本人からしたら「甘い」と言われるでしょう。
何がいいたいかというと、「最近の若い人は根性がない」という話ではないです。その逆です。
根性がないのは若い人だけではない。上の世代も若い人と同じくらい、あるいはもっと根性がないです。もし、本当に根性があるなら、なんでいい年こいてゾロゾロとパックツアーで海外旅行してるのだ。あれだけハードな時代を生き抜いて、それなりに経験も積んで来てだろうから、一人で行きなはれ、他人なんか頼るんじゃねーって気もしますね。かつて根性があった人間が、その根性を失うのは非常にたやすいことです。「これでいいや」と思った瞬間、守りに入った瞬間、てきめんに弱くなりますから。
だから、世代の差ではなく、時代の差だろうと思うのです。
時代の差とは何かというと、結局は「環境の差」ですよね。全てが環境に還元されていくのでしょう。そして環境の差というのは、突き詰めて考えれば、「インプットが変わればアウトプットも変わる」というシンプルな生物の適応本能なのだと思うわけです。
昭和30年代の日本人の方が根性があったかもしれないけど、別にあの頃の人が頑張って根性をつけようと思って努力したわけでもなんでもなく、普通に生きてたら普通に大変だったから普通に根性がついただけのことだと思います。「昔のワーホリはサポートなんか頼らず自力で切り開いていた」とかいっても、当時はそんなもの無かったんだから別に自慢にもならんですよ。11年前に僕が来たときもそんなもん無かったし、インターネットも情報もろくすっぽなかったです。でも、だから大変だったというよりは、「だからラッキーだった」という思いの方が強いですね。そういうものに引っ張られないで済んだからです。
その基準は時代によって、環境によって違うでしょう。そういう意味では、世代の差や時代の差、さらに民族文化の差も環境に還元されていくでしょう。おそらく、戦国時代や幕末の日本人を連れてきて、彼と一番話が合うのは、同じ民族であっても現在の日本人ではなく、アフガニスタンとかイラクの人だと思います。自分の家族や友達が当たり前のように日々殺されていくという日常、そういう環境、インプットに置かれたら、世界観とか価値観というアウトプットもまたそれなりに変わるでしょう。
自分が年をとってきて思うのは、「最近の若い奴は」というエジプト王朝の昔からある世代論に逃げたらアカンのじゃないかってことです。
今の若い人がダメだとしたら、ダメにしたのはほかならぬ自分達なんだから、若い人を責めるのはある意味では天に向かって唾する行為と言えなくもないです。なぜなら、僕らや上の世代そのものが、若い人にとっては「環境」なんですから。少なくとも環境の一部を構成している。いやー、これまで「親の世代」というと、ずいぶん遠い年上の世代のように思ってましたけど、いつの間にか自分と似たような年代になってきましたから、結構平気でタメに批判できるようになってきましたので言いますけど。
でも、こんなの親だけの責任じゃないですよ。親の影響なんか半分以下だと思います。それは例えば、日本人カップルがオーストラリアで子供を産んで、その子が将来的に日本語を喋るか英語を喋るかというと、やっぱり英語ですもんね。国内だって両親が関西人で家で関西弁喋ってたとしても、住んでるところが東京だったらその子は東京弁になるでしょ。その子がひきこもって親としか接しないならともかく、学校で、街角で、沢山の人と接し、その影響、その「環境」で育つわけです。親は、最も強い影響力をもつ個人ではあるけど、全体としては一部に過ぎない。だから、親だけ責めるのは片手落ちです。子供はいろんなところで色んな人を見て、「ああ、そうすればいいのか」と思うし、それを真似する。まさにそれこそが環境適応本能でしょう。
僕だって見知らぬ外国に住みはじめて、もう一回子供から始めてるようなものだから、自覚的に分かるのですが、やっぱり周囲のオージーがAをしたら、「そうかAか」と思って自分もそうするし、Bをしたら自分もそうする。こちらのドライバーは、横断歩道に人がいたら、信号がなくても必ず車を停めますが、最初は「へー、ちゃんと停まってくれるんだ」と感心しますが、自然と自分が運転するときになったら自分もまた停まるようになります。それは「法律だから」とかいうことではなく、「みんなそうしているから」です。逆に、公園などでは犬を連れてきてはダメよという立て札が立ってるのに、結構皆さん平気で破って犬をつれてくるのですね。それを見てたら、「そうか別に気にしなくてもいいのか」って思いますし、自分でもそう振舞うでしょうね。海外に住むといいですよ。子供時代を追体験しますから、子供の気持がわかるというか、自分の子供時代をリアルに思い出しますよ。
若いときは誰しも「大人なんかクソだ」と思うでしょう。それは洋の東西を問わずそうでしょう。Don't trust over thirty(30歳以上の人間を信じるな)というロックの金言があるくらいですもんね。
でもって、若いときの自分が「クソだ」と思ったことも、あとになって考えると二つのケースがあると思います。一つは、単に自分が若くて馬鹿だったから「大人の凄味」を理解できずに表面的に見てクソだと思ってたケース、第二はやっぱり本当にクソだったケースです。ここで僕が思うのは、前者のケースに関しては、やはりキッチリ「クソだと思うお前がクソなんだよ」というのを分かりやすく伝えるべきなんだろうなってことと、後者のケースに関しては謙虚に反省すべき部分もあろうし、同世代に対し「しまっていこうぜ」と注意喚起すべき部分もあるだろうということです。
ゼネラルに思うのは、「世代の殻」ってのがあるんじゃないかということです。
僕もあなたも赤ん坊から老人まで全て体験するわけですから、他の世代、年代だろうが基本的に他人事なんてことは一つもないはずです。ましてや冒頭で書いたように、45歳というデジタルな数字の違和感、年齢的距離感の実感の乏しさを考えてみれば、あなたが今座っているその場所に、前菜→スープ→メインディッシュ→デザートという感じで、勝手に年代・世代が運ばれてくることでしょう。
若い世代の人は、いずれ就職するし、また部下も出来るし、重要な取引を任されるし、結婚や、出産や、育児に追われるでしょう。こんなのは、まさに matter of time で、「時間の問題」です。メインディッシュやデザートが運ばれてくるように、時間の問題。そこで、「まだ若いからそんなこと考えなくていいや」って思うことが、「世代の殻」だと僕は思うのですね。
ただし、ただしです。「将来についてもキチン考えて」という、よくある日本の言い回しで僕はモノを言ってるわけではないです。そういう論調で言われるときというのは、「キチンと保険に入って」とか、「そろそろ結婚して身を固めて」とか、「老後になって一人ぼっちは寂しいし養ってくれる子供もいないとミジメよ」とか、そーゆーことではないです。そんなことをここで言いたいわけではない。保険なんか保険会社が潰れたら終わりだし、結婚しても離婚するかもしれないし、老後で一人ぼっちで何が悪いという気もするし、子供が親孝行である保証なんかひとつもないです。そーゆーことではない。
じゃあ、なんなの?というと、他の世代をちゃんと理解せよ、ということです。また、他の世代を、自分とは全然別の人間集団だとは思わず、自分の仲間だと思えということです。上の世代に対しては、いつかは自分がやることを先にやってるわけですから、メチャクチャ参考になるわけです。じっくり見て、深く理解し、学ぶべきは学び、反面教師となる部分は自戒せよと。
「理解せよ」というのは、自分に引き換えて思えということです。これははっきり言えるのだけど、年をとったからといって別に立派になるわけでも、スーパーマンになるわけでもないです。ありていに言って全然変わらんよ。若いときというのは、反発しながらも、上の世代を無条件に立派なものだというアサンプション(推定前提)で見たりしがちです。立派なはずなのに、全然立派じゃないので馬鹿にするという論理パターンが無意識にあると思うのですよ。それって、海外に長いこといながら英語が出来ないひとを馬鹿にする心理に似てて、海外にいたからといって勉強しなきゃ語学なんか決して伸びないですよ。それは経験ある人だったらよくおわかりでしょう。それと同じく、トシをとったからといって、自動的に立派になったりするもんでもないです。あなただって、特に何か頑張らんかったら今と同じだと思っていいです。
そして、上の世代を見て、「ダメじゃん」とか思うあなたは、「じゃあ、自分だったらもっと上手にできるのかよ?」と問い掛けてみたらいいです。帰宅ラッシュの電車の中でスポーツ新聞読んだり、大口あけてだらしなく寝ているおっさん連中を見て馬鹿にするのは勝手だけど、じゃあ自分はどうなのさ?ってことです。住宅ローン払って、子供の学資ローン払って、ムカつく上司をブン殴りたくてもぐっと我慢して、使えない部下に手を焼いて、責任ばっかりおしつけられて、疲労困憊してる人間が、つかの間の休息の時間大口あけて寝ていてもいいじゃん。いや、俺はそんなときでもダンディズムを忘れないぞと言うなら、それはそれでよろし。ただ、本当に実行できるのかよ?と。
大まかな法則でいって、同世代で平均的なポジションにいるあなたは、上の世代の平均的なポジションにいくと思っていいです。つまり、あなたが「普通のOL」だと思っているなら、まず間違いなく「普通のオバサン」になるってことです。それがイヤだったら、そういう「半分確定された未来」から逃れたいと思ったら、今のうちから「普通じゃない」イバラの道を選ばないと、too lateになるよということです。僕も高校の時に、地下鉄東西線のサラリーマン諸氏をみて、「ああはなりたくない」と思ったから、大学入試の時点で司法試験という焦点を定めました。はっきり言えば、遅くとも高校時代までにそういう方針決定をしてないと、多くの場合は手遅れでしょう。これはもう残酷な現実としてそうだと思います。20代になってから「ワンランク、キャリアアップ」とかいっても、抜本的な対策はしにくい。理由は簡単で、本格的にキャリアを積もうと思ったら、それが法曹であれ、板前さんであれ、国際ビジネスマンであれ、膨大な時間、24時間それに没頭するという、質量ともに物凄いことをしないと成就しないからです。可処分時間は年齢とともに減少しますから、後になればなるほどしんどくなります。受験勉強で予備校通いなんてのはシンドそうでいて、メチャクチャ楽チンなコースで、24時間それだけやってればいいんだもんね。30歳で受験を志したら、昼間は仕事をして、夜は接待して、深夜に帰ってきてから勉強するわけで、その受験生活は予備校生の数倍ハードでしょう。
だもんでそんなハードなことは普通の人には無理です。あなたが今、同世代において普通的なポジションにいるということは、将来においても普通のポジションにいるだろうということです。それを抜け出すためには異常な努力が必要なわけで、でもそれが出来るくらいの人だったら、今の時点で普通のポジションにいないですよ。この冷酷な現実を受け止めなはれということですな。世代の殻に逃げるな、と。
海外に行けばなんとなく英語が出来るようになるというのが幻想であるのと同じく、トシを取ったら何となくうまくいっているというのも幻想です。上の世代の情けない姿を見て、「自分はああはならないぞ」と思うのだったら、それなりのことをしなはれ。それも、今!しなはれ。今出来ない奴は将来になっても出来ない。
そして、発想を逆転して、「ああはなりたくない」と思う気持をもう一回冷静に分析したらいいと思います。今20代のあなたが40代を見て「ああはなりたくない」と思ってるこの瞬間に、10代の連中は今のあなたを見て「ああはなりたくない」って思ってたりするわけです。10代の連中にそう思われたとして、あなたどう思います?「そーだよなー、イケてないよなー、実際」と反省する部分もありながらも、「おめーらにはわかんねーよ」って思ったりしないですか?「ネクタイなんかしちゃって、やたら元気良く「はいっ」とか返事しちゃって、ほんと”社畜”って感じ」「なんだかんだいって結局お茶汲みやらされてんのに変わりないじゃん」とか、こましゃくれた高校生あたりに言われたら、カチンときませんか?「ガキのくせにえらそーに言ってんじゃねーよ、てめーらだってそうなるんだよ」って思うでしょう。ひるがえって、今の生活がそんなに下の世代にボロカス言われるほどメチャクチャ悲惨な生活だという気もしないでしょう?
「ああはなりたくない」って思ってる人は、発想を転換してみたらいかがですか?「ああなっても別にいいんじゃない?」って。僕も高校のときに「ああはなりたくない」って思いましたが、今から思うと全然間違ってましたね。「人生の主体性を失い、奴隷化したサラリーマンの群れ」みたいに思ってたけど、そんなこたあないです。疲れきった顔して電車に揺られていても、人によっては、職場でバリバリやってたりするだろうし、本当にいい仕事をしてる人もたくさんいるだろう。だからこそ疲れているのでしょう。住宅ローンと学資ローンに追われてなんていうけど、その引き換えに自己実現の結晶のようなマイホームをゲットし、本当に愛する妻と子供に囲まれている人だっているわけです。それを、単に「スーツ着て疲れた顔をして電車に乗ってる」という表面的な事象から、「奴隷化したサラリーマン」だと思い込むなんて、なんたる無知さ、なんたる愚かさ、なんたる洞察力の無さ、俺って本当に馬鹿だったんだな、モノが見えてなかったんだなって思います。それに、そこから逃れるために司法試験合格して弁護士になろうが裁判官になろうが、結局、職場に通うために疲れた顔して電車に揺られていることに変わりはなかったもんね。
というわけで、世代を理由にして逃げてはアカン、上の世代も自分と基本的に同じ土俵、同じ地平に立っているのだいうシンプルな事実に気づいた方がいいという話でした。
これは上の世代に言えて、上の世代も、「もう若くないから私はやらなくていいの」という、世代をバリアにした逃げは打たないようにしましょう。このへんの話は、全然書き足りないから、次回に続きます。
文責:田村
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