今週の1枚(05.06.20)
写真は、前回紹介したChatswood駅を、遠くLindfieldの住宅街から望む。本文に書いたようにターミナル周辺にのみ開発を認め、周辺住宅地域は厳しい建築制限をする。
現在まで、また将来においてもシドニーの人口は"爆発的”といっていいくらい増えつづけること、そのためにインフラをはじめとしてあらゆる問題が生じ、今のうちに国家百年の計として抜本的な手を講じないと大変なことになるよ、ということを前回、地元の新聞記事をもとに書きました。
実際、シドニーの人口は増大の一途を辿っているようで、過去10年の間だけでも54万人の人口上昇です。総人口400万人の都市に54万人ですから、約15%の上昇率です。
これだけだったら具体的にピンとこないので東京都のホームページの統計資料から抜粋してみますと、東京都の人口は、1960年(昭和35年)において968万3802人、1970年に1140万8071人、80年に1161万8281人、90年に1185万5563人、2000年に1206万4101人と推移しています。電卓叩いて上昇率を出しますと、60-70年の10年で17.8%、70-80年で1.8%、80-90年で2.0%、90-2000年で1.8%です。ですので、10年で15%の人口増加というと、東京都の1960年から70年の間とほぼ似たようなものだというのが分かります。その頃というのは、64年に東京オリンピックが開催され、70年に大阪万博が開催されていますので、「もう戦後ではない」というキャッチフレーズのもと、まさに日本の高度経済成長時代だったといっていいでしょう。
ちなみに、1945年の終戦から1960年までの間にも東京都の人口は爆発的に増えていますが、これは戦前戦後の混乱ということで直ちに比較できないように思います。例えば、終戦の年の1945年の東京都の人口はわずか350万人しかおらず、これが60年までの15年で970万人まで増えるわけですから3倍近い人口増です。しかし、これは統計のマジックで、実は戦争前(1940年)の東京都の人口は730万人もいるのですね。ですから40年と60年の20年でいえば3分の1しか増えてないです。つまり戦争によって東京の人口は一気に半分に減っているのです。これは戦死者、徴兵、疎開、、、いろいろな理由があるでしょうが、東京にいる人間の二人に一人は何らかの理由で消えているわけですから、いかに戦争というものが巨大な影響を与えるか分かります。背筋が冷たくなるような数字ですよね。もう地震とか津波とかのレベルじゃないです。これら天災の何十発分の影響力を持ちます。考えてみれば、先日JRで大事故がありましたが、空襲とか食らったら、あのくらいの破壊が何百か所にわたって一夜にして生じるということでしょ?
さて、15%という人口上昇を、日本は戦後の経済成長で経験済です。いまや日本の経済成長を僅かでもあれ実感記憶として持っている世代は40代以上でしょうか。東京オリンピックの年にまだ4歳だった僕は、二子玉川に住んでいて、家の前は一面田んぼで春になるとレンゲ草が咲き乱れて綺麗だったです。道路は当然舗装されておらず、そこをダンプカーがものすごい砂煙を上げて爆走していったのを遠い記憶として覚えています。あれが戦後の経済成長だったのでしょう。
それと同じ事がシドニーに起こっているわけです。しかも、その上昇の持続性という意味では、日本以上です。上記の統計数値をみてもわかるように、1970年に17%の人口上昇を果たした東京は、そこで人口上昇はストップし、その後20年以上にわたって1−2%代の成長(年換算すれば0.1−2%)でしかないです。だから、70年以降に生まれている日本人、つまり今の35歳以下は、都市人口が膨大に膨れ上がるという経験をしていないことになります。40代以上の方にとっては、かつて30年以上昔に日本が経験した高度経済成長が現在のシドニーに生じていることになりますし、それ以下の世代でしたらおよそ経験したことのない事態が進行しているということになります。とくに今は(多少翳ってきたとはいえ)バブル経済の真っ盛りですから、20代くらいでワーホリに来られる方は、「高度経済成長」「バブル経済」という未経験の社会を経験できます。ちょっとしたタイムマシンみたいなものですね。まあ、20代かそこらで、そこまで社会の構造について深い洞察力を持ってる人はマレだとは思うけど。
さらに、シドニーは戦後一貫して人口が上昇し続けています(終戦後の人口増大は移民ラッシュがあり日本以上とも推測される)。2005年現在になってもなお15%の上昇、さらにこのピッチで向こう20年、あるいはそれ以上の長きに亘って続くわけです。日本と違って人口増大が止まらないわけです。ゆえに問題山積であり、これまでの時代のように幸か不幸か(不幸に決まってるけど)、戦争によって人口問題や都市問題が一気に解消!なんてこともないです。
ただ単純に人口上昇に対応すればいいだけだったら、話はそんなに難しくないと思います。政府がある程度ほったらかしにしておいたって人々は何とかします。ものすごい乱開発、都心の超過密化、都心周辺のドーナツ現象とスラム街化、、、というのは、産業革命以降、世界中の主要都市が大なり小なり経験してきたところだと思います。
しかし、今の時代に、そんなメチャクチャな乱発展を認めるわけにはいきません。
世界三大美港の一つであり、自然環境もまだまだ保存されており、人々の生活水準も高く、ゆとりのある生活環境、、、これをどうキープしながら成長を続けるか、です。かつての日本のように「敗戦国のサバイバル」という緊急事態であれば、「祖国の復興」という「国家社会の自己実現」のような強力な鎮痛剤がありました。4畳半に家族7人暮らしていても、みんな元気!ってなもんです。ウチも四畳半で親子四人暮らしてましたけど、別に小さいとかイヤだとは思いませんでしたもんね。あの頃は皆ハッピーだったと思いますよ。
でも、今の時代、この生活水準でそう思えというのは無理があります。特にオーストラリアのように、もともとが「無人の大地」というところから出発したこの国では、過密状態ということ自体未経験です。伝統的に、家の敷地はquater acre/4分の1エーカー、つまり1000平米、300坪だといわれているような国です。
僕自身、11年住んでみて、めちゃくちゃ過密になってきたなという実感はヒシヒシとあります。これはもうエッセイにも年がら年中ボヤいているところでもあり、人や車が増えたという感覚は、ほとんど週単位で更新されています。車に乗ってるとそのあたりはわかりますよね。各エリアに、「○○にいくのだったら、ここに車を停めよう」という穴場のようなパーキングスポットがあるわけですが、ところがそこにいっても既に車は満杯で、次のブロックにいっても、また次のブロックにいってもダメだと、OMG!(Oh my God!)と言いたくなります。木曜日の午後3時にランドウィックからライカードまで車で行くなら、どの道路を通れば空いていて、どのくらい時間がかかるということも分かりますが、それも徐々に更新しなければなりません。渋滞に巻き込まれて「うう、こんな筈では」という話になりますもんね。前回のエッセイで紹介した記事に、「金曜日の夕方はセントラル駅からサーキュラキーまでだったら、バスよりも歩いた方が早い」というのは実感で分かります。
しかし、です。しかし、大阪市内の一号線沿いに住み、職場までわずか2キロの距離をタクシーで45分かかっていたかつての日本の経験からしたら、この程度の渋滞はまだ可愛いものです。シドニーが過密過密と言われようとも、住宅街を歩けば人なんかまず歩いていませんし、サッカーコートが取れるくらいの芝生の公園がまったく無人ということも珍しくないです。日本の大都市圏にいる人を、今日連れてきて見せたら、「のんびりしてますねー」というと思います。
要するに基準をどこにおくか、なんですよね。
日本の基準でいえば、前回書いたように、広さだけでいえば日本の首都圏よりもちょっと狭いくらいなんですから、2000万人かそこらだったら詰め込めると思いますよ。だから人口上昇率が500%くらいになったとしてもまだ大丈夫、という。ただし、そうなったらほんと日本と同じになっちゃうんですよね。この生活水準やライフスタイルはまず維持できないでしょう。
したがって、単なるエクスパンジョン(拡大)ではなく、賢いリストラクチャリング(再構築)が叫ばれているのでしょう。
僕自身、ここ数年、混雑激しくなるシドニーにうんざりしていて、もう他の町に移ろうかなあみたいなことも薄ぼんやり考えてはいましたけど、今は、逆に吹っ切れましたね。この限界がないかのような人口増大と難問山積の状況を、いかにオーストラリアの人(それは自分自身をも含めるのだけど)が対決し、解決していくか、していかないのか、知的興味が出てきてしまいました。かしこい都市計画というのはどういうものか、それを立案するだけのクレバーさがあるのか、それを実行できるだけの政治力があるのか、それをサポートしうるだけの民度の高さがあるのか、非常に面白い社会実験の場だったりします。
もともとオーストラリアに来たのは、別にのんびりしたかったのではなく、「人類最先端の実験場」と言われるマルチカルチャリズムがどのように生成発展していくか、この目でみてみたい、参加してみたいという知的好奇心が大きかったわけです。いまやマルチカルチャリズムは、いちいちそう叫ぶ必要がないくらい時代の趨勢として定着したと思います。世代が進むにつれ、いわゆる「カプチーノキッズ」と言われるような混血もまた進み、二国間だけではなく、数カ国、10カ国以上の血と文化を自身の肉体に受け継いでいる若い世代が出てきてますから、「マルチカルチャリズムとは俺のことだ」というような感じでしょう。杉本良夫氏の好著「オーストラリア」(岩波新書)の26ページによれば、「既にオーストラリアの人口の約6割が、異なる民族の組合わせから成り立っているという。五人に三人は混血児なのである。つまり、今日の代表的オーストラリア人とは、民族間結婚から生まれた人たちということになる。しかも、少なくとも4つの民族の血が混ざり合ってる人たちが、全人口の二割に上る。」となっています。
ですので、マルチカルチャリズムの実験的好奇心はどっちかいえば既に薄れ、むしろ積極的にどう楽しむか?という実践的な課題になっています。そして、この種の知的好奇心は、今は人口増加とインフラ整備その他の難問をどうさばくか?ということに移行しています。どうなるだろうなー?ということと、自分の社会の一員として「どうすればいいんだろう?」ということで。
さて、解決の処方箋として、政府はメトロポリタン・ステラテジーというもっともらしい名前で打ち出してますが、これはまだ総論的なものに過ぎず、各論的な突っ込んだ議論や、実行はまだまだこれからです。いろいろな立場の人がいろいろな提言をしているわけですが、それでもある程度衆目の一致するところというのはあるわけで、それをちょっとご紹介します。
まずは、交通機関です。
公共交通機関、とりわけ電車網の整備拡充については殆ど異論がないようです。車社会のオーストラリアではもともと電車の利用率というのは低かったわけですが(日本に比べて)、長年の鉄道への設備投資不足のために鉄道網がいっそうガタガタになり、それが市民の電車離れを促進し、、、という悪循環になってます。
ただ電車についてもまったく放置されていたわけでもなく、2000年のシドニーオリンピック前にいろんな駅が綺麗になったりしましたし、オリンピックの輸送はもっぱら電車に頼ってたわけですが、それでも入念なリハーサルの結果滞りなくこれを成し遂げ、市民から「やればできるじゃないか」「見直したぜ」という賞賛を受けた事もあります。事実、電車の問題は、しょっちゅう新聞の一面トップを飾ってますし、話題になることも多いです。
それがなぜこんなにダメダメなのかというと、一つには大きな電車事故があったからですね。1999年ブルーマウンテンのグレンブルークで、そして2003年にウォーターフォールというところで発生しました。このあたりの電車問題の詳細は、以前 ESSAY 143/Sydney Rail Chaos でも取り上げましたのでご参照ください。この事故を契機に、セーフティという問題が大きくクローズアップされ、種々の対策が施されました。一つには、運転手の健康状態の再チェック、特に急に心臓病など発作を起こす可能性がないかどうかなどを徹底的に再検証するために、一気に運転手の数が減り、しかし新運転手を育成するのは数年かかるというギャップが生じたためだといわれています。
「多少電車が遅れてもいいから安全第一に」というのは、日本のJR宝塚線の事故を彷彿とさせますな。ただお国柄の違いか、日本の場合は、一分一秒遅れてはならないという精神的プレッシャーが事故原因だったのに対し、こちらの国ではそういうプレッシャーはないですよね。むしろなさ過ぎるのが問題なわけです。古典的な問題としては、運転手が二日酔いで勝手に休むからダイヤがメチャクチャになるという、すごい初歩的なところで混乱してたりするわけですね。
でもこれはもう労働者の質が高いとか低いという問題ではなく、こちらの社会の仕事というものへの平均的な感覚だと思います。そんな古典的な日本人のような度外れた忠誠心なんか持ってないです。「キグチコウヘイは死んでもラッパを放しませんでした」というのが美談になる日本(このエピソードを知ってる人はかなり年配だと思いますが、でも日本人のメンタリティの典型ですので知っておかれるといいですよ)とは、根本的に違う。
日本は個々の末端現場の人を非難する傾向がありますが、シドニーではこれだけ電車問題で皆が迷惑を蒙っていても、運転手を非難しようという世論はないでしょう。じゃあ、だれを非難するかというとマネージャーであり、経営陣です。なぜか?これはどう説明したらいいかな。あなたは、中学、高校と一回も宿題を忘れたことがありませんか、他人の宿題を写したりしたことはありませんか?俺は100%キッチリやったぞと胸を張っていえる人なんか少ないと思います。誰だっていい加減なのだ。それが人間なのだ。だから、それは仕事においても同じなんですな。たまにはズル休みしても当たり前じゃん、と。それが人間じゃん、と。むしろズルをしてはいけないのは、家族に対して過ごす時間であったり、市民の義務である投票であったりするわけです。なぜなら職場ではあなたの代わりは幾らでもいるが、あなたの家族にとってあなたの代わりはいない。どっちが大事が明白でしょう?仕事ごときでそこまで全精力を傾けていたら、一番大事なことができなくなっちゃう。まあ、そんな感じだと思います。そして、マネージャーというのは、そういった「人間らしい」部下を使って、つまりは全然アテに出来ない人々を使って、一定の成果を出さねばならない人のことです。ゆえにヒラと管理職との間にはものすごい賃金格差もあるわけだし、仕事の難易度も桁違いに高い。
じゃあ、ちゃんと運行させようとしたらどうしたらいいか?簡単ですよ、それだけの給料を払えばいいんです。もうプロ野球と一緒で、これだけの年棒を払う以上これだけの仕事をせよと契約で縛ればいいんです。また、どんな無能なやつが現場にたっても、それでも遂行できるようにかなり精密なシステムを組み上げることです。だから、日航機なんか連日のように事故を起こしてますが、カンタスは未だに一度も墜落していないのでしょう。日本のマネジメントというのは、基本的に人間が有能であるという前提にたって、部下が完璧に仕事をすることで成り立ってます。よってマネージャーの仕事は「ハッパをかける」ことだったりします。英語圏でもペップトークという「ハッパ」に相当する言葉も行為もありますが、別にそれが仕事の全てではない。というかオマケみたいなもので、マネージャーの役目は、なによりもどんな無能な人材が職場にあふれていても、それでも仕事が遂行できるような優秀なシステムを立案、遂行することです。
電車問題でいえば、マネージャーとはすなわち政府ですから、政府が無能だから電車がちゃんと動かないんだということになります。個々の運転手に「なっとらん」とか文句を言っても始まらないわけです。お母さんが子供に「宿題しなさい」とキンキン怒っているのと同じで、実効性という意味では殆ど無駄です。あなただってそうやって怒られて宿題やったでしょうけど、そのときやった宿題の内容を今覚えてますか、あるいは今の自分の知識や教養として残ってますか?
だから政府としてはもっと予算を振り向けて、優秀な人材を獲得し、路線や車両の整備を進めろということです。
しかしね、政府の金蔵だって無尽蔵ではないのですよ。それをしようと思えば、福祉を削るとか、増税をするとかそういう作業が必要なわけです。シドニーの電車網がダメダメなのは、それは結局はシドニー市民の意思でもあるわけです。政府になんかやれという以上、政府のスポンサーは自分なんだから、自分でその金を出すかどうかですわ。そして、その意思表示として、福祉や教育や医療に優先して金を使いましょうというわけでしょ。ただ、ここまで問題が大きくなってきたら、優先順位を変更しなければならないんじゃないかと、市民のひとりひとりが思うかどうかですよね、結局は。
あと日本の場合に比べて興味深い点がちょっとあります。
日本人というのはわりと鉄道フェチというか、民族的に「鉄っちゃん」な部分があると思いますよ。人工衛星とかはぱっとしないくせに、新幹線とかになると世界最速のものをフランスと張り合って作ろうとしたり、カメラをもって電車を撮りまくる鉄道マニア(通称”鉄っちゃん”)が結構いますし、そのための雑誌も出ています。オーストラリアではそんなことないです。それに、「ポッポ屋」みたいな伝統もあるし、日本人の鉄道や鉄道員に対する愛情の深さはオーストラリアの比じゃないなって思いますが、いかがでしょう?
なんでそうなんだろ?と思ったのですが、これって明治の文明開化をもっとも分かりやすく具体化したのが鉄道だったからじゃないでしょうか?詳しい歴史は知りませんが、明治政府は日本の近代化を進めるために、気が狂ったように日本全国に鉄道網を敷いたのでしょう。ろくすっぽマスコミもない時代、文明開化なんか遠い世界の出来事だった日本の津々浦々に、蒸気機関車が汽笛の音も勇ましく走ったのでしょう。当時の日本人って、生まれてから一生村から出たことがなく、せいぜいお伊勢参りどまりだったと思われるところ、いきなりあんな蒸気機関車が村を走ってきたら「どっひゃー」だと思うのですね。僕だってぶったまげると思いますよ。自分の家の裏にUFOが着陸したようなもんです。だから、まあ、熱狂するのも無理ないです。「大きくなったら何になる?」という少年達の夢として「機関車の運転手」というのが常連で上位だったといいますから、今のパイロットどころか、NASAの宇宙飛行士レベルの花形職業だったのでしょう。この傾向は戦後も続き、東大→国鉄というのは、人も羨むエリートコースだった、、、って、もうこんなの歴史ですよね。20年ほど前に国鉄が民営化されJRになったときに、かつての超エリートが無残にリストラされていく様子をマスコミでもさんざん扱ってたのを覚えてますが、いまや昔。
というわけで鉄っちゃん民族である日本人が、優秀な鉄道ネットワークを構築するのは無理もないと思われます。あ、今気付いたけど、冒頭で述べたようにもう20-30年も東京の人口は大して増えてないにもかかわらず、あいかわらず営団地下鉄とかガンガン作ってますよね。あれって何故なんですか?要らなくない?あんなもんに金使うくらいなら、失業保険の額を増やすとか支給期間を長くするとか、大学の奨学金を厚くするとか、託児所の数を増やすとか、そういうことはせんのかしら。
もう一点、日本の鉄道網、とくに大都市圏の鉄道網が整備されているのは、民間企業、つまりは私鉄ですが、この存在が非常に大きいと思います。日本の私鉄の歴史は、僕は良くはわかりません。締め切りが迫ってるのでゆっくり調べているヒマが無いので、知ってる人は今度レクチャーしてください。
オーストラリアには私鉄というものが殆どないです。まあ、形式的には民営化されて一応、民間企業の体裁をとってますけど、日本のJRみたいなもので、純然たる私鉄ではないでしょう。日本の都市社会は私鉄社会です。東京の、西武、京王、東急、小田急、東部、京成、関西の阪急、阪神、近鉄、京阪、南海、京福、名古屋の名鉄、福岡の西鉄、たくさんあります。プロ野球のスポンサーも多いですね。企業の名前に「急」がつくところは(阪急、東急)、「○○急行」の名残ですから私鉄系でしょう。
なんでこんなに私鉄が多いのか?というのは、近代日本の資産階級や財界構造の生成とからめて非常に興味深いです。これらの私鉄は、まだペンペン草(死語か)しか生えてない初期の段階で、二束三文で土地を買い占め、そこに膨大な資本を投下して鉄道を走らせ巨大企業にのしあがります。私鉄の収入構造は、別に運賃だけではないです。つまり、自分で鉄道を走らせ、そこを交通の便の良い土地にし、周辺土地を分譲して大量に売りまくるという、それが大きな収入源ですよね。極端な話、不動産を売るために鉄道を走らせてるよなもんです。そして、ターミナル駅には百貨店やショッピングセンターを作り、さらに儲ける。大手の私鉄は必ず不動産会社をもっているでしょう。西武なんか典型的だけど、阪急不動産とか、私鉄名に不動産をくっつけたら馴染みのある名前になるでしょう。また、阪急百貨店、東急百貨店など名前のあとに百貨店をくっつけても馴染みのある名前になるでしょう。
なんでか知らんけど、日本の都会には私鉄がめちゃくちゃ入り込んできて、巨大な商いをやってるわけです。それが言いか悪いかはさておき、オーストラリアではそういうことはないです。税金つかって電車網を広げるしかない。日本の大都市圏だって、これらの私鉄が一切消滅してJRだけで切り盛りしようと思ったら、やっぱり大変だと思いますよ。大変というか不可能でしょう。特に東京の西方面は中央線くらいしか走ってないから、どうしようもないですよね。
というわけで、日本の場合は、うまく民間企業との連携を取ってインフラ整備を進めたとも言えますし、意地の悪い言い方をすれば民間企業がインフラ整備に着手した日本の都市の草創期にドサクサにまぎれてボロ儲けをしたとも言えます(^^*)。なんでそういうことが日本で生じて、オーストラリアで生じなかったか?これまた考え出すと無限に面白くなっていくのですが、このくらいにしておきます。なんかシドニーの話をしているつもりが、いつしか日本の話になってますが、このあたりが海外や外国の面白さですよね。他人の家の内情を見ていくほどに、自分の家と比較してしまい、自分の家のことが客観的に、立体的に見えてくるという。
シドニーの電車網に関する具体的提言は、先日政府が発表した2017年までに第二のハーバートンネルを作り、新路線を竣工させるという計画でしょう。シドニーの二大人口増加予想地域(巨大ベッドタウンになる予定のエリア)である、北西と南西を結び、その中間部分でChatswoodからノースシドニーを経て、第二ハーバートンネルをくぐり、シティに突入し、西に抜けていく。もっと正確にいうと、北西のRouse Hill駅からノースを南西方面にナナメに南下し、クロウズ・ネストに駅を作り、新ノースシドニー駅も作り(Victoria Cross駅)、シティに入り、ロックス駅、カースルリー/マーティンプレイス駅、ピットストリート/パークストリート駅、そしてセントラル駅にたどり着き、そこから西に転じてLeppington駅まで行くという遠大な計画です。
現在シティの駅というのは、もっぱらタウンホール駅とウィンヤード駅で、朝夕の混雑ぶりは大変なことになってます。この負担軽減のために第二路線をシティに走らせるという話は前々からありました。最初はチャイナタウンの方のサセックスストリート路線だったらしいのですが、調査の結果、地盤の関係で地下鉄路線を掘削すると、現存する高層ビル群のいくつかは完全に取り壊さないとならいか、あるいは莫大な補強工事が必要であり、予算を完全にオーバーすること、また、シティの西側は住宅用マンションが多く通勤緩和に役立ちにくいということから、現存する路線の東側に走らせるようになったとのことです。
まあ、この種の計画というのは、チャッツウッド=パラマッタ線の廃案のように、実際に出来るかどうかは蓋をあけてみないと分かりません。ただ、シティの容積率や北側斜線(日照)の制限をもっと大幅に緩和させようという動きもあり、シティが今以上に摩天楼の「シティ」になるのは間違いないでしょう。
なんか鉄道のことを書いてるだけで終わってしまいそうです。
もっと大事な住宅環境や都市計画まで話が進みませんでした。簡単に記しておきますと、パラパラと記事を見ていて感じたのは、道路問題と住宅問題と鉄道をセットにして考えていることで、これは賢いなと思いました。つまり無秩序に乱開発させるのではなく、高層ビル、いわゆる”ハイライズ high rise”を少なくし、あるいは集中させようとする。人口を増加させるにしても、高層マンションなど集合住宅は駅周辺や幹線道路周辺に集めてしまう。それ以外の地域でのマンション着工を許さない。
なぜなら、駅や幹線道路から離れたところにマンション着工を許すと、マンションから駅まで歩けないから車利用になって公共交通機関を利用しなくなる。結果、道路渋滞が激しくなる。ノースでいえばセントレオナルド駅の再開発のように、新規開発マンションは全部駅周辺に集めてしまい、なかには”フォーラム”のように駅ビルそれ自体をマンションにする。またランダムに集合住宅の着工を許せば、本来車が少なくなるべき住宅エリアに車が行き交うようになります。これが子供を巻き添えにした交通事故を生む恐れもあります。
ちなみに、うちの近所もそうですが、住宅エリアは徹底して住宅地の静穏を守ろうとしてます。裏手の家がまたプールを作ることになったのですが、そういった計画も、計画図面といっしょにポストに投げ込まれ、質問や反対意見のある人は役所まで申し出るように促されます。住宅地の道路は、やたら行き止まりを多く作り、あるいは人は通れるけど車が通れないように杭を打ったりしています。幹線道路に抜ける部分を左折禁止にしたりして、通り抜け出来ないようにしています。住民以外の車が抜け道で通り抜けるのを防止するためですね。そのおかげで、ウチなんかも幹線道路からわずか数十メートルしか離れていないのに、嘘みたいに静かです。家の前も住民やデリバリー以外の車は殆ど通らないし、一番うるさいのが鳥の声(これがうるさいんだ)だったりします。
つまり市民や住民の住環境に対する意識は非常に高いし、また行動的でもあります。いつか紹介したと思いますが、普通の主婦が、問題を感じたら近所の住民のポストに訴える紙を配り、それから2ヶ月以内に市議会、警察、陸運局が動き、幹線道路への夕方時間での左折禁止措置が取られました。また、いまトンネル工事を近所でやってる関係上、幹線道路の車線制限があり、その都度、制限車線を嫌ったドライバーが住宅エリアを通り抜けないように一時的に交通規制(右左折禁止など)をするべきかという市役所の具体案がポストに投げ込まれています。
人口が増えるのはしょうがないことだから甘受するとしても、それによる悪影響をどれだけ減らすか、ですね。そのあたりの市民住民の民度というか意識が高いから、やたらめったらの乱開発は行われないだろうと思われます。日本のように、「ワシの土地に何を建てようがワシの勝手じゃ」という人は少ないし、そんな人がいたら公開の議論の場に引っ張り出されて徹底的に論議されるし、潰されるでしょう。こっちの人はディベートやプレゼンは子供の頃から学校や家庭で散々叩き込まれているから議論になったら強いです。第一銀行が金を貸さないでしょう。もっとも、完全無欠のわけはなく、どこそこのカウンシルで開発許可に関する汚職があったとかどうとか、そういう話はあるわけです。
ただ、日本の、例えば長野県と西武/コクドの癒着構造のように、イチ私企業が地方自治体をいいように牛耳って都市開発を進めるというパターンは少なかろうと思われます。理由は簡単。ひとつ、いくら賄賂を贈って癒着しようにも定期的に政権交代があるから一気にパーになること。ふたつめ、住民がハンパでなくうるさいこと。また、その住民や市民が、ポンポン転職するわ、引越しをするわ、社会の流動性が激しいので、いかに巨大企業といえども人々を「領民」として支配するのが難しいこと、です。日本人は仕事にせよ居場所にせよ、そうそう移りませんからね。だから、長年のシガラミで「領民化」されてしまう。その挙句、選挙になったら「組織票」とかいうものが、全体の低投票率とあいまって、異様に幅をきかせるようになるのでしょう。
あと水資源やエネルギー資源の節約、省エネも叫ばれています。具体案としてあがっているのは、累進課税のような段階的料金制度ですね。低所得者層のために、生活に必要な部分は値上げしないけど、贅沢な部分は大幅に料金をあげるという方策。既に、来年からの水道料金についての値上げが議論されてます。これも所得と使用量によって値上げ幅を変えるということで、一般値上げのほか、エクセッシブ(超過的)な利用についてはガクンと料金を上げる。低所得者に対しては、確定申告(これは全員がやる)の時にリベート(控除)を認め現状維持を図るということです。
自動車も同じく、エクセッシブな部分には高くすると。つまり、V8エンジン(8気筒)のようなスポーツカーは登録税を高くするとか、出来るだけガソリン消費を少なくするように(つまりは温暖化にブレーキをかけ、スモッグを減らす)する。逆に言えば、環境を考え敢えて小さい車に乗ってる人を、それなりに厚遇しましょうということですね。
電気代についても同じく、電気代をドカ食いする機器に対する利用制限。最近シドニーでも流行り出したエアコンなんか槍玉にあがってますね。こういう政策を打ち出すと、日本だと、電機メーカーが強力な発言力を持ってたりするから腰折れしたりしがちだけど、オーストラリアには幸か不幸かそんなに強大な電機メーカーはないです。
それと新規着工の住宅については、省エネ仕様にするように建築基準法を変えるという施策がおこなれているようです。
このあたりはシム・シティ(都市計画をしていい都市を作り上げる古典的なパソコンゲーム)みたいなもので、面白いのですね。日本でも、ゆとり教育とかいってるなら、小学校や中学校でシムシティをやらせたらいいのにって思ってしまうのでした。
文責:田村
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