今週の1枚(05.06.06)
ESSAY 210/シャペル・コービィ事件と陪審制
写真は、皆と一緒に真剣に説明を聞いているコアラ君。シドニーのコアラパークにて。
ここ数ヶ月、オーストラリア最大の有名人といえば、シャペル・コービィ(Schapelle Corby)でしょう。オーストラリアに現在住んでて、「誰、それ?」などと言おうものなら、オーストラリア人から怪訝な顔をされるでしょう。それは、10年前(もう10年前なんだ)に、地下鉄サリン事件が発生した頃に、「サリン?オウム?なにそれ?」といって怪訝な顔をされるようなものでしょう。
僕もそんなに熱心に経過を追っているわけではないのですが、要するにオーストラリア人女性がインドネシアに旅行にいったら、空港でマリワナ所持が発覚して逮捕、裁判にかけられているという話です。ドラッグ・スマッグリング(麻薬密輸入)は、別に珍しい話ではありません。そのこと自体にニュース性は乏しく、むしろこれだけ大騒ぎになってるということ自体がニュースだといえなくもないです。何故こんなに大騒ぎになっているのか?
一つは、被告人のシャペル・コービィその人が、明るく普通のオージーガールそのまんまの人で、ドラッグの密輸人というイメージにそぐわず、一貫して無罪を訴えているその絶望的な哀切感が見る人の心を打つのだといわれています。どうも、インドネシアの司法では、逮捕・勾留・公判の過程で、こんなに被告人をメディアに露出させていいのか?と思うほど、日本やオーストラリアの常識では考えられないくらいメディアが入り込んでいます。法廷にもガンガンTVが入ってます。それはそれでプライバシーの関係で物議をかもすでしょうが、とりあえずコービィ氏の露出度は非常に高い。あれだけ繰り返しTV画面に出てくれば誰でも顔を覚えてしまいます。
第二に、本当に彼女の主張するとおり無罪なのかもしれない、彼女はハメられたというか、とばっちりを食らっただけなんじゃないかって疑惑がむくむくとオーストラリア人の間に広がっていることです。それは、同国民だから贔屓の引き倒しで無罪を信じるというのではない。なぜなら、似たような罪で海外で収監されているオーストラリア人は沢山いるし、死刑執行を待っているオーストラリア人も二名いるそうですが、それらはそんなに大騒ぎになってないし、自業自得というのが大勢の考えでしょう。でも、コービィ事件に関して言えば、それなりに合理的に疑いの余地があるのですね。
麻薬組織が麻薬を運ぶために、他人のバッグなどに麻薬をプラント(植え込む)したりするわけで、その際に、空港のバゲッジハンドラー(機内預け入れ荷物を扱う人)を仲間に引きずり込み、彼らを使って麻薬の移動をやっているという裏事情があるそうです。自分のバッグに勝手に麻薬を入れられた他人こそいい面の皮ですが、それでイチイチ捕まってたら、麻薬組織も商売あがったりです。出発地である空港Aに勤めるハンドラーによってある人のバッグに入れられた麻薬は、到着地である空港Bに着いてから、空港Bに勤務するハンドラーの手によって回収され、そのハンドラーは勤務のあと麻薬を私物の中に入れて空港を去る、、というシステムらしいです。
オーストラリア国内のシンジケートの場合、もっぱら国内移動をさせるわけで、このシャペル・コービィのケースも、ブリスベンからシドニーにやってきて、そこからインドネシアに飛んでるはずです。だから、本来ならブリスベンでコービィの荷物に入れられたマリワナは、シドニー空港で回収される筈だったのに、シドニー空港のハンドラー(麻薬シンジケートに買収されている)がボケだったから、取り出し損ねたのでしょう。それでそのままインドネシアに行ってしまったという。買収されるならされたで「ちゃんと仕事しろよ」って感じですね。
なぜそういう推測に信憑性がもたらされるかというと、本件で発見されたのはかなり大量(4キロ)のマリワナです。これだけの量のマリワナを、無造作にバッグに入れただけで、見つかりもせずにオーストラリアの空港をパスし出国できた、というのがそもそもおかしいじゃないか、と。シャペルコービィが真実無罪であるにせよ、あるいは実は犯人であったにせよ、いずれにせよ、オーストラリアの空港はあれだけの麻薬を出国時点でチェックできなかったという汚点は残ります。この点は弁解の余地がないと思われます。そこで、そのミスは、空港のセキュリティチェックが甘かったのか、それともセキュリティチェックはちゃんとやったけど、ハンドラーが埋め込んだのかというどちらかになるでしょう。
オーストラリアはデカい国ですから、国民も移動に飛行機を常用します。皆さん、空港システムを信頼して自分のバッグを預けるわけですが、その空港の中でこういう汚職が行われているとしたら、かなり恐怖なわけです。だから、多くのオーストラリア人にとっては、シャペルコービィは他人事ではなく、「明日はわが身」という切実さで訴えかけるわけです。
でもって、新聞報道によると、別件ですが、シドニー空港で9キロのコカインの密輸が摘発され、その一味としてバゲッジハンドラーも捕まっています。それも犯行日は2004年10月8日、奇しくもシャペルコービィがシドニー空港からインドネシアに旅立ったのと同じ日です。絵空事や作り話ではなく、実際に空港作業員がそういう違法行為をしていたという事実(しかも同じ日に)は、オーストラリア国民に少なからぬショックを与えています。可哀想なのはとばっちりを食った他の善良なバゲッジハンドラー達で、街角で罵られたり、唾を吐き掛けられたりという災難にあってる人もいるとか。
さらに、オーストラリアの刑務所に服役しているジョン・フォードという人が名乗り出ます。刑務所内の他の収容者の会話から、バゲッジハンドラーを抱き込んだ麻薬の移動が行われていること、過去にもそういうミス(回収し損ねた)があったということなど、手口やシンジケートなどやたら詳細で信憑性のある、まさに刑務所内部でないと聞けないような話です。彼は、シャペルコービィを哀れに思い、自ら「こういう話を聞いた」といって名乗り出てます。この種の犯罪組織の内幕をブチまけると報復されるであろうリスクも覚悟のうえです。実際、名乗り出たあと刑務所内で背中から剃刀で切り付けられられるという事件があったそうです。
この種の裏情報を信じるならば、マリワナなんかがオーストラリア国外に出て行くことはないそうで、またマリワナ程度をせっせと扱っているのは麻薬組織でも小物レベルだということです。前述のコカイン密輸は、マイケル・ハーレーという大物が率いるシンジケートの絡みで、コカインもアルゼンチンから持ち込まれたそうです。ブリスベン=シドニーのマリワナ輸送は、国内のロニーと呼ばれる人物の組織ではないかといわれているとかいないとか。ともあれ、コカイン摘発とコービィの件は、全くの別件らしいです。
さて、このシャペル・コービィーのケースですが、先日、インドネシアの裁判所で判決があり、禁錮20年の刑が宣告されました。今後上級審にもっていくにしても、判決がひっくり返る見通しはかなり暗いようです。これは司法裁判としては予想されたところで、マリワナが彼女のバッグが出てきたという動かし難い事実がある以上、これをひっくり返そうとすると、「バゲッジハンドラーが麻薬輸送をミスった(回収しそこなった)」という仮説を立証しなければなりません。しかしこんなもん、拘禁されているカービィ被告はもとより、インドネシアにいる弁護団だって立証しようがないです。身の危険を顧みずフォード氏が出てきてくれても、その証言は伝聞証拠でしかない。結局は、全ては推測でしかない。
もしかしてコービィが冤罪だったらどうするんだ?というのは、オーストラリア国民の多くが危惧しているところで、「なんとかならんもんか」「本当にクロなのか、シロなのか」という会話があちこちでなされています。首相も「気にしている」という異例の発言をしてますし、オーストラリア政府もインドネシア政府と犯罪人引渡し条約について前向きにことを進める構えになっています。また、空港セキュリティについても、かつて設置され、その後プライバシーの関係で撤去されたというバゲッジハンドラーの仕事の監視カメラを復活させるべきだという当局の動きがあり、空港労組もこれに協力する方向で動いているようです。
ことシャペル・コービィの公判手続に関する限り、今のままでは完全に手詰まりですし、新しい証拠待ちの状況でしょう。つまりは、空港汚職構造の捜査が進み、また麻薬組織の摘発が進んでいく中で、より直接的な証拠が出てくることを待つしかないといった状況です。
状況証拠的にはメチャクチャ疑問は残るけど、直接証拠が乏しいゆえに、みすみす裁判で負けてしまう----、そんな悔しい思いは僕自身、数限りなくしました。これはもう裁判というものの限界であり、直感的判断や推測で人を裁くことの恐ろしさに比べたら、杓子定規だろうが証拠を堅牢に積み重ねるしかないというのは、考えうる手段のなかで最善の方法だとは思います。が、実際に直面すると「くっそ〜」とギリギリ歯噛みをするような思いがしますね。裁判官は、その裁判官が良心的で誠実であればあるほど、自分自身の個人的な予断やカンを殺します。つまり「俺が人を裁くのではない。そんな権利は誰からも与えられていない。法が人を裁くのであり、その裁く過程の技術屋として雇われているだけだ」という姿勢です。人の運命を自由に決められる、まるで神様になったかのように思い上がっている裁判官よりも、そういう抑制的な裁判官の方がずっと信頼できるわけです。
人の直感的判断がいかにアテにならないかは、そもそも今回のケースだけが大騒ぎになってることからも言えると思います。やっぱりコービィという人のキャラクターが左右してるって部分はあるでしょう。絶望に打ちひしがれて、目を真っ赤に泣きはらしたうら若い女性を見てると、「これで冤罪だったらどうすんだ?」といてもたってもいられない気分になるでしょう。同じケースで、髭面の、そうね、例えばオウムの麻原のような人が、ダミ声で「俺はやってねえよ」とかボソボソ言ってたら、こういう騒ぎにはならなかったでしょう。そういえば、オウムの麻原氏も顔や見てくれだけで既に有罪になってるような部分もありますな。
状況証拠というのは、すごく難しいです。「ああも言える、こうも言える」ではダメなんですから。「こうしか言えない」というレベルまで緻密に積み上げて行かないとならないです。状況証拠しかない事件はひどく難しく、人の人生のかかった高難度のパズルを解くようなものです。「あれ、待てよ。この時点ではAは○○についてはまだ知らなかった筈だ。なのに何故○○に行っているんだろう?」という具合に、数百数千ページに及ぶ調書を何度も何度も読んでは、どっかになにか盲点になってるような突破口はないか探すわけですね。突破口を発見したとき(したような気がしたとき)は、「やった!!」と叫びますよね。でもって、ぬか喜びに終わってガッカリなんてことはしょっちゅうです。
オーストラリアでは、この判決をめぐって保守的なトークバックラジオなどでは、人種偏見的な意見が出てきたりしています。いわく、インドネシアは後進国だからちゃんと裁判なんか出来ているのか?汚職や賄賂が横行しているじゃないか、どうして公正な裁判なんか期待できるんだ、と。しかし、これまでのところ、インドネシアの捜査や法廷にこれといったアラは見当たらないし、これが別にオーストラリアの法廷であったとしても、これだけの証拠だったら有罪にせざるを得ないだろうというのが専門家の見解でしょう。僕もそう思う。だって、カービィさんには気の毒だけど、これだけの証拠で彼女の弁明を認めていたら、ドラッグを下着や身体に巻きつけていたとかいう明らかな犯行以外は、ほとんど全ての密輸事件で無罪を言い渡さねばならなくなるでしょう。
結局、このケースに関して最善で現実的な方向は、やはり政府に頑張ってもらって、犯罪人引渡し条約を進め、彼女をオーストラリアに連れてくることでしょう。確かに、麻薬をインドネシアに持ち込もうとしたという点で、「被害者」はインドネシアですから、かの国の司法権や主権を尊重すべきでしょう。しかし、今回は、コービィ氏が真実有罪であったにせよ、あるいは彼女は無罪であるなら他の空港作業員が有罪であり、いずれにせよ非難されるのはオーストラリア人です。どっちに転んでも悪いのはオーストラリア人だということで、「ご迷惑をおかけした点については後ほど償わせていただきやすが、今回は身内の不祥事でござんす、内輪の話は内輪で解決させてくださいやし」とインドネシアに仁義を切って彼女を連れてきて、あとはオーストラリアの刑務所に収監しつつ、国内法の再審制度のなかで、空港汚職などの捜査とリンクさせつつ、事態の一層の究明を図る方が良いのではないか。少なくとも、国内捜査の進展が、彼女の再審審理にビビッドに反映される環境にした方が良いと思います。
この事件に関連して、特に状況証拠と直接証拠の関係で思うのが陪審制度です。
日本でも陪審制度を導入しようという議論があります。あの、トリビアなんですけど、正確には「導入」というより「復活」、もっといえば「停止解除」なのでしょう。日本にも昔は陪審制度がありました。大正時代の話です。大正12年開始。で、戦争が激しくなって一旦停止します(昭和18年)。これは、一旦停止であって、「ちょっとタイム」みたいな感じで停まってるだけです。タイムが解けないまま60年以上経過してるわけで、正確なものの言い方をしたら、現在の日本の司法制度は陪審制度を取り入れてますし、取り入れつづけてきてます。ただ、その執行が停止されているだけで、陪審制度を導入するのは日本人の国民性に馴染むとか馴染まないとかいう議論がありますが、馴染むもなにももう取り入れてます。
陪審制度賛成論の論拠に、裁判が社会常識にかなうようになる、という点があります。いっぽう、反対論は、感情論に左右され、真実発見にそぐわないという点があります。思うにこれは同じことをポジティブ、ネガティブの両面から言ってるのでしょう。素人に事実認定をさせるから、判断がフレキシブルになっていいと思うか、場当たり的になって良くないと思うか、ですね。
僕の意見では、ここはポジティブに考えた方がいいんじゃないかということです。数百回、いやもっとかな、法廷の現場にいた経験でいえば、裁判所ももう少し大胆に事実認定してもいいんじゃないかと思われる局面が多々あるのですね。実際の法廷で事実関係が争われるときに、「○○という局面で普通人はこういうことをするか?」といういわゆる”常識的判断”が鋭く争われる場合があります。
例えば、そうですね、僕が実際にやった医療過誤事件で最高裁までもつれこんだ案件があります。生まれたばかりの赤ちゃんの黄疸の事件で、主治医(産婦人科医)は大丈夫を連発するのだけど、お母さんが「どうしてもこの子はおかしい」「いくら大丈夫と言われても尚心配だ」と思って、他の病院に連れて行ったら「手遅れです」と言われたという。概要を正確に説明すると百ページくらいかかるので大胆に端折りますが、争点の一つは、最初の産婦人科で退院した時点で既に症状は出ていて、主治医はそれを見落として退院させたのではないかということです。しかし、それを裏付ける「証拠」が乏しい。第二の病院で「手遅れです」と言われた直後、お医者さんの問診にお母さんが答えているのですが、そこで第一の病院(産婦人科)を退院した後、「経過は良好だった」と答えたというカルテの記載がありました。「吸てつ力良好、食思良好という」というわずかな記載が残ってます。このカルテの記載が真実だとしたら、第一の産婦人科を退院したときは元気であり、その後急激になにかの原因で赤ちゃんの容態が悪くなったということになるでしょう。しかし、家族の主張はそうではなく、退院する前からぐったりしていて、「大丈夫なんかな?」という不安はあり、その不安が嵩じて第二の病院に行ったのであり、その状態は第二の病院にいくまで変わらなかったということです。じゃあ、なんで第二の病院のカルテに「退院後の経過は良好」みたいなことをお母さんが言ったのか?ここがネックになり、一審、二審は、これで負けたようなものでした。
お母さんの記憶でいえば、「手遅れです」と言われたときガーンとなって、緊急血液交換措置のために慌しく立ち働く病院のスタッフの中、涙がぼーっととでてきて、呆然と立ち尽くして、そのあとのことはよく覚えていないそうです。お医者さんの問診もあったような気がするが、ただもう涙を流しながら言われるまま「はい、はい」と言っていただけだそうです。しかし、1、2審の裁判所はそうは判断せず、「もし本当に我が子が可愛かったら、医師の質問にできるだけ正確に、注意深く答えたはずだ」「だからカルテの記載は信憑性がある」ということです。
さあ、ここで問題です。あなただったらどっちだと思いますか?「手遅れです」といわれてガーンとなったお母さんが、茫然自失してろくすっぽ問診にも答えられず、したがってカルテの記載も真実がそのまま載っているとは思いがたいと考えるか、ガーンとなったお母さんは、だからこそ真剣に正確に答えようとした筈だと思いますか?さあ、どっち?
もちろんその人の性格にもよりますよ。気丈夫な人と、すぐにうろたえる人で違うかもしれません。でも、そのお母さんがどういう性格の人かなんか、法廷ではわからんですよ。法廷で証言するときは誰でも緊張するし、本人の地の性格なんかよく分からない。ましてや芯が強いか弱いかなんかよほど長いこと付き合わないと分からんです。
僕は控訴審からお母さんの立場で代理人になり、必死こいて調べまくって、膨大な書類を作成して、ボランティアで協力してくれるお医者さんを探して頼み込んで、それでも玉砕しました。敗訴。そして上告。最高裁では逆転勝訴(破棄差し戻し)でした。しかし、このカルテの記載は難攻不落で、ちょっとやそっとでは打ち砕けなかったです。もちろん、そこだけ水掛け論のようにやっていても話にならないので、周辺事実を埋めていきます。例えば、当のカルテの記載をよく見ると、第一の病院の退院日が間違っているのですね。これは客観的に間違いだと立証できるから、「ほうら、ちゃんと間違ってるじゃん、正確に喋れていないじゃないか」という一つの傍証になります。あとは何度もやった医学鑑定。「なにかの原因で退院後急激に悪化したか、出産後まもなく発生しそれが徐々に悪化していったのか、どっちの可能性が医学的に高いか」。退院後何かの原因で急激に容態が悪化したというなら、「なにか」とはなんだ?とか。病名は新生児核黄疸ですが、黄疸も溶血性ビリルビン疾患やら、間接ビリルビン値がどうしたという専門的な話に入っていきます。もう、一つの事件をめぐっては、なんだかんだで争点や論点がブドウのように沢山出てきます。
僕は、原告の家族の皆さんと数年にわたってお付き合いし、彼らが裁判にまで踏み切るに至った心情や、その性格などはよくわかります。「この人たちは嘘をいってるわけではない」というのは、もう確信レベルにまで達します。しかし、不利な物的証拠(カルテ)がありつつ、それと反対のことを法廷で立証するというのはいかに難しいか。結局は状況証拠なんですよ。状況証拠を積み重ねていくしかない。例えば、もし「何らかの原因で退院後急激に容態が悪化した」とするなら、なんで主治医のところに行かないで他の病院に行ったの?という点もあるわけです。この子は3人目の子供で、上の二人も主治医のところで出産している。もう長いつきあいだし、信頼も厚いはずなんです。なのに、なぜ容態が悪化したのに主治医のところに行かなかったか?です。それは主治医が、本件に関しては「大丈夫」を連発して、最後には「そんなに私のいう事が信じられないのか」とうるさがったり、怒ったりしたからです。そうやって怒ったかどうかまではともかく、主治医にところに行かなかったという事実は奇妙ですよね。これも状況証拠の一つになるでしょう。あるいは、急激に容態が悪化したという劇的な変化があったなら、そのことが当のカルテにも書かれてなければおかしいでしょ?「いつからこういう症状になったのですか?」というのは問診する医者だったら絶対聞くと思うのだけど、「退院後吸てつ力良好、、」という記載”だけ”というのは明らかにおかしくはないか?一番聞くべきこと、知るべきことが書かれてないのはなぜか?やっぱりちゃんと喋れてなかったのではないか、混乱動転していて喋ることが要領を得てなかったのではないか?とか。
こうやって状況証拠を積み上げるだけ積み上げて、最後の最後に、「えいや」で判断するのです。そのときにジャンプするかしないかです。「諸般の状況を総合的に勘案すればカルテの記載に全幅の信頼をおくわけにはいかない」と判断してくれるかどうか。最高裁はジャンプしてくれたけど、高裁はジャンプしてくれなかった。職業裁判官のなかでも判断が分かれるわけです。
そして、この件に限らず、職業裁判官の性向としては、僕からしたら手堅すぎるというか、物証が大事なのはわかるけどそこまで固執したらかえって真実を見誤るというか、「あーもー、なんでわかってくれないんだ」「あー、なんて堅いんだ、なんで飛んでくれないんだ、もうミエミエじゃないか」って思うことはちょくちょくあります。例えば、契約書なんか普通の日本人だったら読みませんよね。それも保険契約とか銀行取引約款とか、細かい字で緑色かなんかで書かれている契約条項、あなた読みますか?JRに乗るときに、駅舎に掲げられている鉄道旅客運送約款、読んでますか?でも、契約書にサインがあるから、それを了解、合意したって認定をされてしまうのですね。まずそうなる。まあ、普通の健康な壮年層だったら、「読まなかったお前が悪い」という一種ペナルティ的な判断もできるでしょうし、「署名したけど知らなかった」なんて弁解をいちいち認めていたら世の中廻っていかなくなるというのもわかります。しかし、88歳のおばあちゃんに「そこにあなたの署名捺印がある以上、ちゃんと内容を理解し、合意したはずだ」とまで認定したら、それは行き過ぎじゃないかって思うのですよ。「物証に重きをおく」というのは大事なことだけど、そんなに手堅くやってたら、かえっておかしなことになる。
他にも、「人はこんなにも愚かなのだ」という世間的な認識についても、小学校からずっと成績一番できて、司法試験を通ってそのまま裁判官になった人には、失礼ながらわかっておられない部分もある。人間というのはときとして不合理なことをします。僕もしょっちゅやってるし、あなただってするでしょう。また世間は広いですし、自分の常識では考えられないくらいアホアホなことをする人もいます。「一ヶ月で3倍になるから百万出資しろ」といわれて出資した詐欺の案件とか、そんなの考えたら嘘に決まってるじゃないかと思うのだけど、出資しちゃう人が後を絶たないわけです。普通だったら出さない金を他人に出させるからこそ詐欺師はプロなんだしね。男女関係なんか不合理のカタマリです。同じ司法試験を通ってきた仲間である弁護士や検察官は、現場に出て、世間にモミクチャにされるから、そのあたりの事情はイヤというほど叩き込まれます。「一見嘘臭いけど、でもそういうことって現実にある」ということを経験していくわけです。
長々なにを言ってるかというと、そのあたりの杓子定規な固さを、適度に緩める制度として、僕は陪審制度に期待するわけです。法律のことは勿論、多くの場合は職業裁判官の方が理性的合理的に判断できるとは思いますが、それだけでは足りないってケースが結構あるわけです。素人は確かに法律的な知識は疎いだろうけど、だからといって男女関係の機微に関しては、裁判官よりもよく知ってるかもしれないじゃないですか。もちろん裁判官だって馬鹿じゃないし、そんなに言うほど世間知らずじゃあないですよ。しかし、それでも職業的良心というか、主観を極力押し殺すというドグマに縛られてしまいがちです。だから、陪審制について強力に賛成しているのは、一線現場にいる弁護士だったりするわけです。
それに「迅速な裁判」が国民的要求であるみたいに主張されていますが、裁判が遅延するのは、こういった状況証拠の積み重ねをやろうとしているからだったりする場合が多い。ぱっと一見しただけの物的証拠だけで判決を下せばいいんだったら簡単ですよ。でも、そうすると、結局力がある奴が勝つってことになりがちなんです。詳細で抜け目のない契約書を予め用意してこれるのは、大企業なり、プロです。消費者金融で借金するときに、単に金銭消費貸借契約書の署名するだけではなく、場合によっては、すぐに強制執行に入れるだけの公正証書作成委任状、強制執行認諾文言の入った文面、さらには賃借権予約契約、その仮登記の登記委任状などなど、やたらめったら署名させられます。それらの意味を正確に理解している一般人は少ないでしょう。もう力の強い側は、当たり前ですけど、ガチガチに武装してきますから、こういった書証や物的証拠だけで争ってたら、とてもじゃないけど僕ら一般市民は太刀打ちできないですよ。さらに、医療過誤事件だったら病院内部でカルテの改ざんが行われ、銀行関係の不祥事だったら内部資料が書き換えられ、官公庁相手の裁判だったら情報公開といっても内部資料が秘匿されてしまう。どうやって戦えというのだ?という。
それがしょうがないと思うんだったら、あなたも契約書にサインするときにちゃんと内容を熟読してください。海外にいくときに保険に入ろうという人も、保険約款を正確に理解してください。留学準備/海外保険の項で、免責約款も含めて解説しましたけど、あそこまでちゃんと読んでる人は少ない。読んで理解できる人はさらに少ない。端的に言えば、日本人というのは契約書を読まない民族なんですわ。本当は小学生のときから、契約書の読み方、書き方という基礎法学を叩き込んでおくべきなんだけど、死ぬまでそんな教育はしない。こういう民族性というのは今後ちょっとやそっとでは変わらないでしょう。それなのに書証重視、物証重視でいってしまうというのは、本来的におかしいと僕は思いますよ。国民感情にそぐわない。なにか問題があったら、契約書の記載に囚われず、全体を考えて「常識的に」に解決すべきだと思う、それが日本人の国民性なのでしょう。でも、そんな「常識的な解決」なんて実際には通用しない。だからいざなにかトラブルに巻き込まれたら、それだけで一生がメチャメチャになるようなダメージを受ける。そして日本人の間で通用する世間知は、「判子だけは押すな」「なるべくトラブルにはかかわらないように」という、消極的で無内容なものしかない。判子を押すなとかいっても、そんなの現実問題としては無理でしょ。そして、「迅速な裁判」を進めるということは、往々にしてこのギャップを助長するだけになってしまいかねない。日本ももう発展途上国じゃないんだから、国益優先、組織優先のメンタリティと社会原理を変えるべきだと思いますよ。個人を徹底的に守る社会になるべきだと思う。そうならないと、日本人のこの閉塞感やストレスはなくならないよ。
迅速な裁判が、裁判所組織をもっと拡充し、審理に十分な時間をかけて、その結果として内容の濃い審理が短期間でできるようになるなら理想です。しかし、実際はその逆で、むしろ拙速ともいうべき、裁判のリストラ化が進むでしょう。あなたが「いや、これには事情があって、、、○○さんに聞いてくれればわかります」と言っても聞いてくれない。書面が一本あったら、はい一丁あがりみたいに進んでいってしまう。大企業対一般市民の争いのうち、99%以上一般市民側に立って仕事をしてきた僕からすれば、実際の裁判というのは、ともすれば書証一本で審理を終結させたがる裁判所との戦いでもあります。テレビの裁判ドラマなどをみて、次から次へと証人が採用され、証人尋問やってますけど、あれはほんと羨ましいですよ。現実には、そんなに証人採用なんかしてくれない。必死になって目撃者や決定的な証人を探し出しても、法廷に呼んでくれなかったら終わりですもんね。心ゆくまで戦わせて欲しいですよ。だから、迅速な裁判が国民的要求だというなら、国民にこのあたりの事情をちゃんと説明すべきでしょう。なんとなく「早いことはいいことだ」みたいなイメージ戦略、メディア戦略(またメディアも不勉強だからこれに乗ってしまうんだわ)に乗せられないように。国も、大企業も、ちゃっちゃと裁判してくれた方が、つまり彼らが完璧に用意した書面一本でポーンと結論出してくれた方が都合がいいんですからね。
シャペル・コービーの事件に戻ります。
この事件も、これが陪審制度だったら話は変わっていたかもしれないなって思うのですね。
僕も、これだけの資料で判断しろというのは無理だけど、とりあえずあがってきている状況証拠からしたら、結構シロなんじゃないかって思います。動機が乏しいし(金は誰でも欲しいという一般論では足りない)、隠すにせよあんなに大量のマリワナをバッグに入れておくか?というのも疑問だし、バッグの中にどうやって入っていたのかは分からないけど写真でみる限りかなり嵩張ってますから、あんなに一人で持っていくか?って気もします。そもそもあれだけ嵩張るものをオーストラリアの空港で出国するときに気付かれなかったというのも変な話です。また、オーストラリアからインドネシアにマリワナを持っていくというのも変です。逆じゃないのかと。だから、かなり「おかしいな?」とは思ってます。
でも、これ、裁判官として判断しろといったら、ミエミエの物証がありながら、「でも無罪」とは言いにくい部分はあります。それは分かりますよ。自分ひとりの勝手な推測じゃないかって言われたらそれまでですからね。しかし、僕が陪審員だったら、まあ討論の内容にもよるけど、無罪票に入れる可能性はありますし、入れることに抵抗感は少ないでしょう。
というわけで、この事件を見てたら、裁判に関する事実認定の難しさ、直接証拠VS状況証拠の戦いのしんどさを、リアルに思い出してしまいました。ちょっと話が専門的になりすぎましたかね?すんませんね。
文責:田村
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