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今週の1枚(05.04.18)
写真はArtramon。ハーレーの改造専門工場に、渋い車、傾いた標識。アメリカンロックが聞こえてきそうな風景です。
かつて、「あなただけの神殿」でガビーンとくる神聖なる瞬間について述べ、必要なのは「健康な楽天性」だと書きました。今回はそれを展開し、ピピピ!となる感性の育て方として、より深い感動&快楽をより沢山知っておくといいんじゃないかということを書きます。
僕のメインの仕事は、語学学校の紹介などですが、事柄の性質上、語学学校のあとの進学問題や、あるいはオーストラリアでの永住権取得についてまで話や質問が及ぶこともマレではありません。そういう話をしているときにしばしば感じる違和感は、「本当にそれ、やりたいのですか?」ということです。
なんとなく現状に煮詰まりを感じるなどで打開を図りたいような場合、「海外留学してキャリアを」という広告に目が止まったりするのでしょう。で、「あ、いいな」と思えたりもするのでしょう。そこで色々と調べていくと、「なるほどこういうコースがあるのか」「予算的にもちょっと無理すればいけるかな」とか話は進んでいくのでしょう。ただ、そこで陥りやすい点は、なんとなく無意識的に「与えられた選択肢」の中から選ぼうとすることだと思います。つまり、どっかの学校や業者さんが「こういうのはどうですか?」と消費者である皆さんに提案するために”商品開発”したコースの中から選ぼうとする。それはそれで悪いことではないけど、それだけではない筈です。
このエッセイや、あるいはメールのお返事などでも、僕はことあるごとに「出来る(出来そうな)事」ではなく、「やりたいこと」をしなはれ、とオススメしています。あなたがやりたいことは、こういった商品開発された「商品」の中には入っていないかもしれません。いや、入っていない方が自然かもしれない。もともとそれが「商品」として成立するためには、ビジネス的に十分に利潤が見込まれるような場合だけです。ものすごくやりがいもあり、意義もあり、スキルになるものでも、それを教授したり仲介するのにビジネスとしての旨みがなかったら、それは商品になりえない。これは意地悪でも陰謀でもなんでもなく、資本主義社会においては極めて当然の話です。そこのところは肝に銘じておくべきでしょう。
「出来ること」と「やりたいこと」は違います。もう全然違う。今の世の中、「出来そうなこと」はたくさん広告宣伝してくれていますが、「やりたいこと」について考える機会やヒントは、自覚的に求めない限りなかなか与えられません。それがまさに問題なんですね。自分のやりたいことをどうやって見つけるか、どうしたらいいのか?誰もなかなか回答を与えてくれないし、それはそもそも「回答」という形で与えられる種類のものではないですから。
ちょっとハードに聞こえるかも知れませんが、僕の知る限り、勉強しただけで何とかゴハンが食える、生計がたてられる職業なんかこの世にないと思います。資格をゲットしただけでどうにかなるってものでもない。海外留学についてもそうですが、それで直ちになんとかなるってもんじゃないです。もし、無意識的にでもそう思っていたいたとするなら、軌道修正が必要でしょう。
こんなことくらい社会に出て20代半ばにもなれば分かりそうなものなんですけど、必ずしも万人がわかっているというものでもないのでしょう。なんらかの偶然のイタズラで、学ぶ機会に恵まれなかった人もおられるでしょうし、その結果、社会認識が未成熟というか、この世のカラクリとか仕組についての見方が甘いというか、子供っぽいというか、そういう人だっているでしょう。別に「知ってりゃエラい」ってもんでもないけど、知らないと人生の設計図を描くときに非現実的な部分が混入し、結果としてえらく遠回りしてしまうおkともあるでしょう。
お勉強しても資格とっても、そんなのはただの入口に過ぎないです。多くの場合は入口にすらならない。僕のやってた司法試験→弁護士コースは、お勉強&資格という面でいえば、医者や公認会計士に並ぶ頂点の資格でしょう。盆暮返上で気が狂ったように数年間勉強するのは最低限の要請だとしても、司法試験に合格しただけじゃメシは食えないです。どっかの事務所にイソ弁として雇われて(これが最近は合格者人数を増やしたからそれなりに就職難になってるでしょう)、まあ入った事務所によりますが、「時給に換算したら500円」と言われるくらい馬車馬のようにコキ使われ、胃潰瘍は当然というストレスを抱えて実務経験をします。そのシンドさは他人様の人生がのしかかっているだけに、自分ひとりが失敗すれば済む司法試験の比ではないです。でもそれだけではまだ「実力」があるというだけで、生計はたてられません。生計をたてるには「営業努力」というものが必要です。クライアントからちゃんと報酬を頂戴して、そしてそれで事務所経営が成り立つようになってはじめて取り合えず所期の目的は達成です。
しかし、司法試験勉強、実務修行の日々、営業の3つを比べてみた場合、一番難しいのは営業なんですね。人によって意見は違うかもしれないけど、僕に言わせれば、最初の二つは頑張ればいいからまだ楽なんですよ。最後の営業だけは頑張ったけではなんともならない。人間心理に関する深い洞察力とか、それなりの演技力とか演出力とかも必要です。数多ある弁護士の中から「この人だったら」と他人の信頼を勝ち得るのは並大抵のことじゃないです。そして、弁護士にとってクライアントは「ファン」みたいなもので、ある種自分のカリスマ性を確立しなければファンはつきません。でも実像と虚像の間に無理があったらボロが出ますから、自分の地顔をベースにして、自分のキャラを立たせるように自己プロデュースしていく必要があります。多くの場合、弁護士として自分の経営基盤を築き上げるのはまだ30代くらいの若さでしょう。本当の日本社会において実権を握ってるレベルからすれば、若造です。女性の弁護士だったら「お嬢ちゃん」とか呼ばれたりもします。自分の親くらいの年の人から、「是非、先生にやっていただきたい」とまで言わせなきゃいけないのですよ。これ、難しいですよ。勉強ができるとか、技術があるとかいうのは当然の話で、それ以上のものが求められるし、本には書いてないです。でも、それが出来なきゃ客は来ませんから、開店休業。客が来たら来たで、今度はその人を満足させてあげなければならない。
そういった現実社会を通過してきた身でいえば、例えば法科大学校が新設されたとか、ルートが開通したとか、予算的になんとかなるとかいうのは、きわめて些細なことであり、いわば下の実務レベルの話です。とりあえず司法試験受かってくるのは、「スタートラインに立ちなさい」という最低限の話で、合格の仕方なんかどうでもいい。スタートラインに着くまでバスに乗ってこようが、電車で来ようがどっちでもいいようなもんです。そのためにクソ勉強する必要があるならクソ勉強すりゃいいだけの話です。なんせ、まだまだ量のレベルだから話も楽なんです。
本当に大事なのはそういうことじゃなくて、「弁護士になって何がしたいか」です。その原点ですね。取り合えず弁護士になれば、これまでとは質の違った苦労をするでしょうから、まずは「苦労が好きな人」「苦労したい人」が向いてると思います。そしてそれだけの苦労を重ねる以上、「ああ、弁護士やっててよかった」と思えるだけのご褒美がないと、やってられるもんじゃないですよ。金銭とかいっても大したことないし、ステイタスといっても別にそう大したことないしね。そりゃまったく無いわけじゃないけど、でも、そんなものでは日々の活動の原動力にはならないです。原動力は、すなわち「何がしたいか」という原点です。
ちなみに僕の原点は、まあ言葉にしていってしまうと薄っぺらくなるけど、ひとつは「正義の実現」です。「どーせ、この社会なんかクソだあ」とシニカルになりがちな高校生の頃、それでもシニカルになりきれなくて(そんなにクソなら死ねばいいじゃんと言われると死ねないわけで、やっぱりどっか希望するものもあるのですよ)、おーし、じゃこのクソみたいな社会に、1センチ四方でもいいから自分の力で正義とやらを作ってやろうじゃないかって気分です。岩に彫りこむようにしてでも、ほんのちょっとでもいいから、「世の中捨てたもんじゃないよ」という現実を作ってやろうじゃないかと。「現実は、俺が作る!」という意気込みですわね。それが結構面白そうに思えたというのが一つ。もう一つは、人間というのはどこまで醜く汚いものなのかギリギリの修羅場で見てやろうという気持です。だから修羅場に行きたかったですよね。そのあたりが原点でした。そしてその原点はハードな実務の日々をしっかり支えてくれました。もっとも、それだけ思ってても「もういや」ってメゲそうなることは何度もありますけど。
長々話したのは、資格のひとつの頂点である弁護士ですら、資格をとったからそれでOKって甘いもんじゃないよ、それは地獄の一丁目に過ぎないよってことです。その他の資格については、推して知るべしです。広告どおり学校に入りました、勉強しました、資格もとりましたとなったあとで、「で、それが何なの?」ってことにもなりかねないのですね。
ですので、単純に人生設計の技術論(精神論ではなく)でいえば、勉強&資格=高収入なんて等式は成り立たないってことです。必要条件であるかもしれないけど、十分条件ではない。もっと言えば、(高)収入=メチャクチャ仕事をすること&営業努力をすることです。「これだけ働けばそりゃ多少はお金は入ってくるでしょう」と誰もが納得するような、そういう話ですね。人生にミラクルは無いとはいいません。時として魂が凍りつくようなミラクルが起きたりします。でも、滅多におきないからミラクルなのであって、圧倒的大多数のケースは、「そりゃ当たり前だわ」という出来事が当たり前におきているだけです。
同時に、メチャクチャ働いて、営業努力をすれば、別に資格なんかなくなって十分に飯を食っていけるよってことです。
実際、資格とは関係ないところで多くの人達は働いているんじゃないですか。例えば、あなたが料理人で自分のお店を持とうとします。固定客もついてまずまずの経営で生計もたっています。そこで必要なことってなんですか?料理をし、お店を経営するために必要な実戦知識と、あとはイチにもニにも働くことでしょ。一応調理師免許というのも必要ですが、あんなの別に料理の実技試験があるわけでもなく、法定伝染病がどうしたとかいうペーパーテストだから、いよいよというときだけ一夜漬けで勉強するようなもんでしょう。
漁師さんだって、例えば船舶免許とか持ってないと漁に出れないわけですが、漁業という仕事の本質に、船舶免許という資格はそんなに関係ないでしょ。資格なんか刺身のツマみたいなもの、お中元の熨斗紙、お年玉のポチ袋みたいなものってケースが沢山あります。「一応これがないとねー、カッコつかないしねー」みたいな存在だと思います。新聞記者にも、作家にも、カメラマンにも、ギタリストにも、刑事にも、政治家にも、農業にも、これといった資格はないです。あるのは例えば採用試験であったり、あるいは売れるか売れないかという営業+運であったりします。
かといって、別に僕は資格関係のビジネスをやってる人(各種学校とかコースカウンセリングとか)の営業妨害をしたいわけじゃないですよ。
実際、そういったビジネスやってる人だって、消費者にはこの程度のことは分かっててもらいたいでしょう。分かっているという前提でビジネスやっておられるのだと思います。「これさえやれば将来はバラ色」みたいな勝手な幻想を抱かれて、勝手に夢見て、勝手に挫折された挙句、最後には「騙された」とばかりに勝手に逆恨みされたら、やってられないでしょ。
逆説的なようですが、ちゃんと現実をわきまえてさえいれば、資格やコース・勉強は、とりあえずの第一歩にはなるでしょう。とっかかりにもなるだろうし、突破口になりうるでしょう。賢くそれらを使うことも可能になります。
「ちょっとだけカジって、それで何とか食っていけるようになる」というのは、まだ日本に紹介されていないような全く新しいものを導入した人だけの話、いわゆる”創業者利益”だと思います。明治時代のように、ヨーロッパに留学して、いわゆる「ヨコのものをタテにする」(横書きのヨーロッパ言語を縦書きの日本語に翻訳する)だけでなんとかなったわけです。二番手、三番手になると、もう”二番煎じ”とか言われちゃうわけで、やるんだったら「日本で初めて」くらいのものをトライした方が成功率は高いでしょう。逆に言えば、既にコースが出来ているような分野は、先人達も大量にいるわけで、美味しいところは全部持っていかれてしまっていると思って間違いないでしょう。
もっとも、これまで日本に紹介されてないということは、日本人には馴染まないものかもしれず、そのリスクも考慮に入れたほうがいいですよね。例えば、死者を鳥に食べさせるチベットの鳥葬にヒントを得て、鳥葬式葬式ビジネスなんか始めたって受けないでしょう(そもそも法律に反するし)。また日本で初めて導入するだけに、それだけのパブリシティとか広告戦略を考えてないと、誰も見向きもしないという難しさもあります。だから、まあ、楽な道はないよねってことですね(^^*)。
というわけで「楽な道」を探すというのは、確率論、方法論、技術論的にいって非常に勝算の少ないやり方だと思いますよ。だって、それで他人からお金を取るということはすなわちプロなわけで、プロというのは素人からみて超人的な能力を持っている必要があります。「うわあ、さすがプロ」「こいつ、バケモンだ」と周囲を絶句させるくらい超絶的な技術の差を見せ付けるから、他人はお金を払うのです。「こんなん、私にもできそう」って思われてたら商売あがったりなんです。あなただって、自分でも出来そうなことにお金は払わんでしょ?プロ野球でも「俺の方が上手いじゃないか?」と思えたら、お金払って見に行かないでしょ。大工さんに頼んで、これだったら自分で日曜大工やった方がマシだったという仕事されたら腹が立つでしょう。
自分にも出来ることに対してお金を払うのはそれは「労賃」です。労働力に対して対価を払っている。でもプロに対しては「専門技術」にお金を払うわけです。「キミの代わりはなんぼでもいる」と言われているような環境で、誰にでもできるような手間仕事ばかりをしている日常から脱皮して、キャリアアップしたいというのが原点ならば、ちょっとやそっとじゃ他人に出来そうもないことが出来るようにならなければならない。だから原理的に「楽」である筈がないのですね。「こんなの無理、私には絶対無理!」と思えるくらいの絶壁を攀じ登らない限り、仙人のようなプロにはなれない。
余談ですが、そういう意味では印刷屋さんはしんどいでしょうねー。パソコンやDTPの発達で、かなりの程度の印刷は誰でも出来るようになってしまったからです。それでも印刷屋さんが成立するためには、「ああー、やっぱりプロの仕事は違うわー」と感嘆してもらわないとならない。だから絶えず設備投資して、一機数千万、場合によっては数億円もする新型機種を導入しないとならない。以前印刷屋さんの倒産案件を扱ったことがありますが、「こりゃ大変だわ」と同情したのを覚えています。
「楽な道」ではなく、「整備された道」「成功が約束された道」についても同じことでしょう。
そんなに約束されてるんだったら皆さん殺到します。そして殺人的な競争率になります。例えば、東大にいって高級官僚になるとか、慶応の医学部にいって医者になるとか、まあある程度「整備された道」ですよね。でもって、そこでの競争率の激しさとレベルの高さは、言うまでもないでしょう。「成功が約束された道」でありながら、ガラガラなんてことは本来ありえないですよ。世間の人は自分と同じくらい賢いです。だから、それは約束されてないと思ったほうがいいんじゃないですか。
というわけで、夢をガンガン打ち砕いているわけですが(なんか恨まれそうだな)、 でも、こんなの「夢」じゃないですよ。夢と呼ぶにはあまりにもセコすぎるし、戦略とかプランとか呼ぶにはあまりに幼稚すぎる。Forget it.
じゃあどうすんのさ?というと、A定食とかB定食みたいなお仕着せのプランから脱却しなはれと言ってるんです。やりたいことをやればいいし、無ければ見つければいいです。やりたいことをやってた方が間違いないですよ。だってさ、やりたいことをやってるんだから、仮にそれがビジネス的に成功しようが失敗しようが、やりたいことをやってるというだけで既に精神的には満たされているでしょ。それだけでもう十分じゃん。
英語落語の小話でこういうのがあります。前にも紹介したと思うけど、また書きます。いっつも寝てばっかりいる与太郎に、おっ母さんが文句を言います。「与太郎、あんた寝てばっかりいないで、勉強しな、勉強!」「勉強するとなんかいいことあんのかい?」「そりゃ勉強したらいい大学に入れるわさ」「いい大学入るといいことあるの?」「そりゃいい会社に入れるだろう」「いい会社に入るとなんかいいことあるの?」「お金がたっぷりもらえるだろうが」「お金が入るといいことあるの?」「お金があったら、お前、寝て暮らせるじゃないか」「だから、おいら寝てるんだよ」
笑い話だけど真実も衝いてますよね。日本で働いていたとき友人たちと、「全ての給料・報酬は慰謝料」だと冗談で言ってましたけど、仕事でやりたくないことやらされて、下げたくない頭を下げさせられて心が傷ついたりストレス溜めたりする代償にお金を貰ってるんじゃないかと。だから精神健康を取り戻すために、貰ったお金で遊ぶわけです。飲みに行ったり、旅行をしたり、きれいな服を買ったりね。経済的にいうとですね、「やりたくないことをやってるとお金が掛かる」のですな。そのお金を稼ぐためにまた働く、やりたくないことをやる、だからまたお金が掛かると、悪循環の無間地獄ですわね。
やりたいことをやってるとそもそもストレスがたまらないから、そんなにウサ晴らしをしなくても済みます。お金なんかちょっぴりあればいいのだってなります。一週間も風呂に入らないで研究の没頭してるマッドサイエンティストみたいな人物を想像すれば、あんまり購買意欲ありそうにないでしょ?研究資材が欲しいくらいでしょ。逆にものすごくやりたくないこと、神経すり減らすことをやってると、収入もケタ外れになるけど、ストレス解消も並の手段では満たされない。
バブルの頃、年収3億円という不動産やってる人がいましたけど、儲かった3億円を一年で遣ったそうです。ほとんど全部飲み代とか、ホステスさんにポルシェ買ってやったりとか。その人曰く、バブルの頃の不動産ビジネスは、暴力団から莫大な資金を、利息が一日1000万円みたいな超高利で借りて、一日も早く転売して巨利を得るという綱渡りみたいな世界だったりします。そこでは、ちょっとした手違いで指が飛ぶどころか、南港に沈められるという生きるか死ぬかの日々で、気が狂いそうになると。それを癒すためには、気が狂ったかのように馬鹿遣いしないとやってられないと。ほどなくしてバブルが弾けて全ては夢と化し、その人に残ったのは個人負債27億円だったそうです。でも、晴れ晴れとした顔してましたよ。ここまで個人負債が巨大だと誰も取り立てに来ないそうです。来たら来たで、「おー、なんぼでも持ってってやー。腎臓が欲しいなら持ってけや、目玉でもええでー」とか言ってたのですが、そんなもんもらっても利息にもならん。第一、直接の取引先連中は、バブルがはじけた瞬間爆死してますから、同じように逃げ回ってるという。「いやー、先生、なんかせいせいしましたわ。今もね、バス代170円ケチって歩いてきたんですわ。健康によろしいで」とほがらかに笑ってました。ちなみに、上には上がいて、個人負債1000億円という人もいました。「これだけ負債の額が大きいと、もう諦めて誰も来ませんわ。だから無いのと一緒です」と言ってました。
なんの話かというと、世の中うまいこと出来ているなってことです。お金なんか入った分だけ出て行くもんだって、そういう力学になっているんだって。だから、やりたいことをやってた方がいいよと。経済的にもいいですよ。
やりたいことをやった方がいい理由のその2は、やりたいことだったら多少ハードでも頑張れるってことです。イヤなことだったら、ちょっとでもツライともう全面的にイヤになったりしますけど、好きなことだったら徹夜でも苦にならんでしょう。しまいには家族や恋人に反対されようが、法に触れようが、「これがやりたいんじゃ」となったらやるでしょ。
で、英語の学習方法と同じこといいますけど、ごく一握りの天才を除けば、この世の圧倒的大多数のスキルや技術は、結局「量」です。量を沢山、素早く積み上げた奴が、より早くより遠くまで行けます。「好きこそものの上手なれ」です。好きでずーっと没頭してやってれば、どんな人でもそれなりのレベルにはいきます。そりゃ「ヘタの横好き」という言葉もあるけど、概ね、好きな奴にはかなわないです。もう寝ても醒めてもそればっかりやってますからね、上手くなるはずですよ。しかも、それを「努力」だとか、ツライとか思わないんですからね。好きでない人間がやれば苦痛に満ちた時間でしかないものを、好きな奴がやってたら一瞬一瞬が楽しくてたまらないという。そりゃ、上手くもなりますよ。だから、そういう意味では、一番「楽」といえなくもないです。
そして、第三の理由ですけど、そうやって没頭できるのが一番幸せなんですよね。お金で得られる快楽なんか知れてますからね。ロックスターが言ってたけど、会心のステージをやり遂げたときの快感、自分が神様になったかのような圧倒的な全能感の凄まじさは、セックスなんかの比じゃないと。僕もヘタクソながらステージで、オーディエンスに向けてガーンとギターを鳴らした時の快感はすごかったですよ。背筋がゾクゾクしますよね。麻薬的な快楽がありますよね。結局のところ、人間ってそれを求めていると思うのですよ。それを自己実現というか、なんと呼ぶかは別として、自分の能力をフルに出し切っったときの燃焼感と存在感を求めているんだって。
だから、好きなことをやれば、そのあとの結果なんかどうでもいいって部分はあります。仮に全然認められなくて、ミジメに挫折したとしても、「俺は人生でコレをやった」という事実は消えないわけだし、それは宝物になります。「夏の甲子園に出た」という事実は、その後別に野球関係の仕事に就かなくたって、一生の宝物になるだろうし、一生自分を支えるバックボーンになるでしょう。成功しなかったからグレちゃう奴は、成功が好きなだけで、そのこと自体はそんなに好きじゃないんじゃないかな。その意味では「好き」な度合いがまだ甘いと思います。「これが出来たら死んでもいい」と思えるだけ好きな物事を見つけられたら、もうそれだけで人生OK だと思いますよ。
それを見つけられない人、見つけようとしない人、そんなものが人生にあるなんてことを忘れてしまった人が、あれこれ(表現は悪いけど)「お手軽な現状打開策」を探して、海外留学のパンフレットを見てるんじゃないかなって気もするのですよ。もちろん全部が全部そうだとはいいませんし、あとにも述べるように、それはそれで意味があることなんだけど、でもパンフレットに縛られたら本末転倒ですよ。パンフレットに書かれていることだけがこの世界の全てではないです。僕の立場でこういうことを言っちゃうのは営業的にはアウトなのは百も承知ですよ。でも、嘘はつきたくないもんね。それに留学それ自体がダメって言ってるわけでもないです。動機はどうあれ、来てしまえばまた(良い方に)変わるという面も大きいです。
好きなものを探すこと、何に価値を置くかの価値判断、何を優先させるかの優先順位、すべてに共通するのは、自分の中にある「快感のストック」だと思います。これまで生きていて、どれだけ多くの、どれだけ素晴らしい、どれだけ深くて高い快感を体験してきたか、それによって決まるのではなかろうか。
人は、かつて「いい!」と思ったことは忘れません。その感動が深ければ深いほど心に掘り込まれますし、それがその人の世界観を作っていきます。食べ物だってそうですよね。「生まれて初めて」というくらい本当に美味しいものを食べたら、ハンマーでぶん殴られたようなショックを感じますし、「○○ってこんなに美味いものだったのか」と絶句したりします。だいたい好き嫌いが多い人というのは、本当に美味しいものを食べてない場合が多いです。マズいものだけ食べていれば嫌いになっても不思議ではないし、「○○というものはマズいもの」という誤った情報がインプットされ、誤った世界観が作られます。
男女関係なんかでもそうですよね。魂が溶けてしまうような至福の瞬間を経験したことのある人、抱き合ってわあわあ号泣したり、今この瞬間に殺されてもいい、いやむしろ死にたい、幸福の頂点にはなぜか死の匂いがすることを知ってる人は、やっぱり物の見方が違ってくると思います。それを子供の頃から痴漢にあい、セクハラにあってばかりいたら、男性恐怖症になっても不思議はないですよ。
そしてそれは仕事においても同様です。ダルい仕事ぶりで、さぼることばっかり考えている職場環境にいたら、「仕事なんてこんなもん」という世界観を抱くでしょう。逆に、鬼のような、求道者みたいな仕事ぶりを見せつけられたら、「すげえ」と思うでしょう。「いいものを作る」という執念、飽くなき探究心、没頭する快楽、自分の命のすべてを注ぎ込んだ”作品”が完成したときの幸福を通り過ぎた虚脱感などなど知ってるか知らないかで天地の差があると思います。
僕らはそういったものを直接体験する機会は少ないものの、マンガや小説、映画などで疑似体験します。そして世の中の奥行きというものが見えてきます。僕の仕事に対する意識を形づくったひとつの原体験は、いまだに覚えているけど、ブラックジャックというマンガの一節です。天才外科医のブラックジャックが、不可抗力とはいえ不本意な仕事をしてしまったとき、憎まれ口を叩きながらも、一人暗い部屋で涙を流さんばかりに悶え苦しむというシーンがありました。「患者を救えなかった医師というのはこれほどまでに苦しむものなのか」と思い、「ああ、プロというのはこういうものなのか」と思いました。そして、「仕事というのはこういうことをいうのか」と。
同じように、素晴らしい大自然の光景に出くわしたとき、人は言葉を失うでしょう。人っこひとりいない、静まり返った夜の海に月だけが煌々と照らしているなど、魂が吸い込まれようるな、魅力を通り越して恐怖すら感じるような風景は実在します。立花隆のレポートで、地球を宇宙空間から眺めた経験のある宇宙飛行士達が、やがて敬虔な信者になったり、オカルティックなことを言ったりするのを読んだことがあります。彼らの言葉によると、殆ど完全な「無」の世界である宇宙空間は、それを直接見る者に暴力的なまでの恐怖感を呼び起こすようです。同時に、青く輝く地球が奇跡のように思える。信じられないほど美しく、その美しさは理屈もへったくれもなく「なんで、こんなものがあるんだ?!」と思わさせられる。完全なる死の空間の中に、限りなく美しいものがポコッと浮かんでいる、その極端な対比があまりにも激しいので、「こんなものが自然にできるはずがない、なにか超越した意思の力で作られたとしか思えない」となっちゃうそうです。宇宙飛行士というのはバリバリのサイエンティストであり、科学のエキスパート達ですが、彼らのこれまでの世界観を易々と打ち壊せるくらい、「地球のある風景」というのは凄まじいらしいです。
別に宇宙まで行かなくても、夜の山のなかで一夜を過ごすだけで感じるものはあるでしょう。できればキャンプ場などではなく、山のど真ん中、それもひとりぼっちで過ごすような羽目になった人(道に迷ったとか)が、夜の山のあまりにも濃密な気配に打ちひしがれるような恐怖を感じたというケースは多いですよね。山の神様じゃないけど、絶対「なにか」居る!と理屈抜きに思えてしまうという。
はたまた、人間関係においても、幼馴染み同士の兄弟のような親和感や、学生時代の友達同士、職場やチームなどでの無条件な
連帯感と幸福感を体験したことがある人とない人の差ははっきりあると思います。あるいは「こんな人間、この世いるんか」と衝撃を受けるような、尊敬とかいう言葉では追いつかないくらい鮮烈苛烈な生き方をしている人に一人でも多く出会うことですね。行くところに行けばたくさんいます。そして、全然言葉も通じない異民族の人と、ふとしたことで心が通じ合ったときの喜び、いきなり相手の顔がにこっと笑い、白い歯がこぼれ出たときの、胸に染み込んでくるような温かい波動。「人間っていいな」って思える瞬間を、たくさん経験していれば、人が恐くなくなるでしょう。人間こそ、自分の命の源のひとつだと思えるでしょう。
こんなの数え上げていたらキリがありません。
この世界は感動に満ち満ちています。それが「そうだよねー」と自然に頷ける人は、生きていても楽しいでしょう。やりたいことが山ほどあって目移りして困ってしまうでしょう。逆に、「え、そう?感動なんかあるの?」という人生を生きてる人は、これといってやりたいことも無いでしょう。あったとしても暇潰しに毛が生えた程度で、「うおおおお!」という怒涛の感情にはならないでしょう。
この世に満ち満ちている感動、その一端にでも触れた人は、なんとかあの感動をもう一度体験したい、再現したいと思うでしょう。それがすなわち「やりたいこと」の原形になっていくのだと思います。
今の日本社会は、いや日本に限らず「高度資本主義社会」とか「高度情報化社会」とか言ったほうがいいかもしれないけど、この種の感動を得るのが非常に難しくなってるような気がします。感動というのは、いわゆる「情報」ではないのですね。「ふんふん」いいながら雑誌の頁をめくっていて得られるというものではない。それは、たとえば、旅先で撮った写真みたいなものです。息を呑むような雄大な景色も、「写真にするとこうなっちゃうんだよね」という平板なものになってしまう。
というわけで「やりたいこと」が見つからない人、そんなこと考えたこともない人は、快楽不足なんじゃないでしょうか。もっともっと沢山、上質の快楽を知っておかれるといいですよ。できればバランスよく、いろんなことを。でないと、たまたま触れた一つの快楽に全てを奪われてしまうから。ちょっとした新興宗教みたいなものに「ああ、これこそが本物だ」と全てを飲み込まれてしまったりします。本物なんかいくらでもあるんだって肌で知ってないとバランスが悪くなる。
感動を知ってる人は、その感動を壊すことは出来ない。例えば、人を愛することの激しさや尊さを知ってる人は、それが壊されることの絶望感や恐怖も知ってるでしょう。だから、その価値の源泉である人を、そうそうたやすく傷つけられない。他人を無感動に殺せる人は、殺された被害者の家族がどれだけ深い悲しみにくれるかということが分からないんだと思います。分からないから無感動であり、分からないから壊せるのでしょう。価値なきところに秩序なし、です。
そして思うのですけど、紙幅も尽きたので簡単にぴょんと結論にワープしますけど、いまや海外留学/生活というのは、余程明確な志向性がない限り(○○大学の○○教授に師事したいとか)、こういったまっとーな感動を得るために、まっとーな感動をまっとーに感じられる感性を耕すためにこそ行われるべきなんじゃないか、そして既に無意識的にそうなっているんじゃないかと思うわけです。それは非常に人間の生理からして自然なことだと思うし、いいことだと思います。
文責:田村
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