- Home>
- 「今週の一枚Essay」目次
>
今週の1枚(05.04.11)
ESSAY 201/価値判断と優先順位(2) 「損得」について
写真は、forestvilleのGarigal Nationl Parkの川辺にウジャウジャいるカニ。数百匹という単位でいます。写真上だけでも8匹ほどいますね。ナショナルパークといっても、北の中心的商業エリアのチャッツウッドから車で10分程度で、普通の住宅街の裏手のありふれた川辺に過ぎません。正確には川ではなく、Midlle Harbourであり、シドニーハーバーの入り江の一つ。また、カニサンたちは別にここでなくても、シドニーにいくらでもある似たような砂地に普通にいます。よく観察してると、砂のボールを作ってAは巣に運んでるんですよね。面白いですよ。
周囲の風景は右の写真みたいな感じ。クリックすると拡大します。向こうに見える道路が、Warringah Rdという主要幹線道路。
前回に引き続き、価値判断と優先順位について述べます。
なんでこんなことを述べるのかというと、「いい加減でいいこと」と「いい加減にしてはいけないこと」とがグチャグチャになってるような気がするのですね。ひとことでいえば、優先順位の混乱であり、ひどい場合は優先順位の不存在です。日本発の情報、それはメディアであったり、メールであったりしますが、「そーゆーことなの?」って不審に思うケースが度々あるのです。
具体例をあげた方が分かりやすいでしょうが、例えば最近気付いたのですが、「損/得」という単語が以前よりも頻繁に使われているような気がします。例えば、AERAという雑誌の今年の1月24日号の特集は「地方出身女は損」であり、3月28日号の特集は「受験コース どれが得か」だったりします。 ちょっと古いけど去年の11月22日号には「126人独自調査から見える人生と東大卒の損得」なんて記事もあります。一見それほど不自然には見えないだろうし、そういう論説があってもいいとは思います。ただ、損得の対象内容がセコいというか、貧しいというか、そういうのって損得勘定で論じるものなの?って違和感もまた抱くわけです。
人間の行動体系のうち、「損得」というファクターはかなり低次元に位置するものでしょう。なにかやりたいことがあって、そのために必要な機材があって、それを購入するためには、どの店で買うと得だとか、ローンで買った方が損だとかいう感じで語られると思うのですね。例えば、高校生だった僕は名画座でレッドツェペリンのライブ映画を見てガビーンとなり、「ジミーペイジになりたい」と強く思い、御茶ノ水あたりを徘徊して安いレッドサンバーストのレスポール(ギター)を買いました。この場合、近所の店で買うよりは、競合の激しい楽器屋のメッカ御茶ノ水で買った方が「得」だろうとは思いました。でも「ジミーペイジになりたい」って思うこと自体が損か得か、なんて考えないですよ。
冬山登山に挑む人も、警察官を志す人も、誰かを好きになることも、別に得だからやってるわけではないでしょう。人がそれに巨大な価値を感じれば感じるほど、それは損とか得とかいう問題ではなくなる。もっと卑近な例でいえば、「美味しいモノが食べたい」とか「お酒が飲みたい」「好きな音楽を聴きたい」とかいうのも、損得の問題じゃあない。それは、一言でいえば、「好きだから」「魅力があるから」です。好き嫌いや魅力は、損得を軽々と超えます。極端な話、法に触れるとか莫大な費用が掛かるとか寿命をすり減らすように、損得レベルでいえばハッキリと「損」であったとしても、それでも好きだったらやる。それが人間でしょう。損得というのは、はるかに高次元のレベルでやるべきことが決められ、それを実行に移す段階で、あれこれある選択肢のうち(より速くとか、より簡単にとか)のほんの一つ「より安く」というだけのものに過ぎない。だから、損得というファクターは、人間の行動体系のうちかなり低次元に位置すると言っていいと思います。
ところで、出身が地方であるかとか、将来の進路をどうするといった事柄は、自分を形作るかなりコアなレベルの選択だといっていいと思います。「ふるさと」は自分のアイデンティティのなかで大きな位置を占めるでしょうし、受験=進路についても言うまでもない。こういった事柄を、「損得」という表現で語ること自体、あんまり高級な品性ではないなという印象を受けます。
もちろん、地方か都市かで環境が異なる以上、あるものごと(例えば受験など)について、その人が置かれる状況は異なるでしょう。その差異を、ある視点から切り取って、「有利」であるか「不利」であるかと分析するのは意味のないことではない。また一概に下品でもない。ただ、それを「損得」でいう表現を使うことに違和感があります。これは2点あります。
一点目は、記事内容からすれば「有利不利」という表現を使えばよいものを(その方が日本語としてジャストワードでしょう)、わざわざ「損得」という露骨な表現をしていることです。そこには、こういう言い方の方が今の日本社会の感性に訴えるものがあるという編集部の言語感覚があるのでしょう。そしてその感覚(マーケティング感覚)が間違ってないすれば、「下品な世の中になってるのね」という気がします。もちろん敢えて露悪的な表現をするという言語技法もありますよ。わざわざヘンな言葉の使い方をすることでユーモラスな感じを出したり、意外に核心を突くような印象を与えたり。でも、それは、「ヘンな言い方」だということが書き手と読み手との間で暗黙の前提としてあってはじめて成り立つものです。でも、この記事のうすら寒さは、なんだか本当に「損得」だけで考えてるんじゃないかって、「まさかそこまでアホな筈は、、いや、もしかしたら、、」という部分にあります。
二点目は損得や有利不利というのは相対的なものでもあり、盾の両面でもあるということです。一概に語ること自体がナンセンスではないかと。これがメインの点ですので、ちょっと腰を据えて書きます。
別にAERAに恨みはないけど(雑誌のそのものが卑近卑小傾向をたどっているとは思うけど=誰かのサイトで”女性版SPA!”と書いてあったけど同感)、この記事においては、地方と都会の有利不利について一見平等に載せているようだけど、「地方は損」という「最初に結論ありき」みたいな記事なだけに論旨の運びが強引というか、偏っているし、その発想の浅さが気になります。
僕は東京生まれの東京育ちですが、18歳以降は京都、岐阜、大阪、そしてオーストラリアにいます。オーストラリアが「地方」なのか「都会」なのか分からないし、また世界からみたら日本自体が致命的にド田舎なんだから、そのなかで区別して論じること自体が無意味という気もしますが、それはさておき、都会も地方も両方経験した感じでいえば、地方と都会のメリットデメリットはほぼ半々、そして見方を変えればあっという間にメリットもデメリットに転じるから、どっちが得かという論じ方自体ナンセンスだと思います。
例えば、この記事によれば、都会出身(都会=東京という暗黙の前提で語ってるところがまたアホっぽいのだが)と地方出身差の比較論でいうと、小中高では都会の方が学校の選択肢も広く(一貫校とか)、また大学受験も地方は有名大学でないと都会になかなか親が出してくれない。大学時代は、都会の方が自宅から通学出来るから小遣いに余裕があり、就職においては地方出身者は親からの「帰って来いコール」に戦わないとならない。仕事に就いてからも、都会出身者は実家が近くにあるからパラサイトできるし、育児などでも親の手を借りることが出来る。また、都会出身者の方が子供の頃から色んなもの、特に文化的なものに触れる機会が多いから趣味も洗練されるし、ネットワークも広がって有利、、、、
ぶはは、書いてて笑ってしまったけど、bullshit!ですよ、こんなの。全部逆に言えるじゃん。地方出身の方が大変だというけど、18歳過ぎて一人で生きていくことなんか「大変」でもなんでもないですよ。普通に出来なきゃ嘘であり、出来ない奴が未熟なだけでしょう。その未熟な奴がいつまでもパラサイトでぬくぬく成熟する機会もないまま、変態成長(サナギまま羽化しないで成長し死んでいく)できるから「有利」「得」とか言ってるだけじゃないのか。就職していい年になっているのに『風邪で寝込んでも「ママ」と電話すれば飛んできてくれる。心強いですね(記事本文より)』なんてのが「得」としてカウントされていたりして、ちょっと絶句しますよね。
親ばなれ子ばなれの難しさや、それが上手く出来ないことによる種々の弊害=人間関係形成の問題につながり、孤独感、無力感を産み、しまいにはアレルギーやら健康障害すら招くという特集を、この雑誌は普段これでもかっていうくらいやってるじゃないの?損得でいえば、「人間が人間としてマトモに成長できる」ということくらい重要な「得」はないんじゃないの?それなりに脱皮の苦しみはあるけど、その苦しみを避けて楽チンでいられることが「得」として計上されるくらいなら、そんな「得」はいらないですよ。覚せい剤をやるとスッキリするから得だよって言われているようなもんです。最初の2−3本は試供品無料だから「得」だよとかさ。
都会の方がなんでもあるから趣味が洗練されるし、ネットワークも広がるっていうけど、逆にも言えるわけでしょ。「なんでもある」から、外国系マフィアもいるし、渋谷に巣くってる小僧どももいるし、シャブもコークも売春もなんでもありますよ。それで「ネットワーク」が広がることも、またありますよ。良くも悪くも選択肢が広い。その選択肢のうちいい選択肢だけを抜き出して「有利」とかいわれても説得力ないです。地方の親が子供を都会に出したがらないのは、まさにその都会が持つ「悪い選択肢」を憂慮してのことでしょう。
都会の方が「お受験」にはじまって中高一貫校があり、高校大学と選択肢が豊富で教育的に恵まれているという議論もですね、別のファクターを持って来たら話ががらっと変わるわけです。都会の方が治安が悪いし、誘拐やペドフェリアの危険も多いでしょう。住民相互の監視の目が、地方においては鬱陶しいのだけど、それが治安を良くしている側面もあります。また、こんな自然も何もない人工的な環境で、スモッグを吸わせて、セカセカ生きている人々の中で子供を育てていいのか?という深刻な思いから、オーストラリアに移住しようという人だっているわけですよ。こんなのなんとでも言えるわけだし、相矛盾するけどどちらも大切という価値が乱立しているのが現実ってもんでしょう。
そもそもこの記事においては、就職後も東京にいるという前提、東京で人生をやっていくんだという前提で論じられているわけですけど、どうしてそういう生き方をするって決まっているのだろう。地方に生まれ育って地方で就職して生きていくのはダメなの?それに東京で生きていくという前提で語るならば、東京出身が有利なのは当たり前ですよ。それは都会だから有利なのではなく、「地元だから有利」だってことに過ぎないじゃないですか。三重県で生きていくなら三重県出身者の方が有利ですよ。エチオピアで生きていくならエチオピア出身者の方が有利ですよ。それだけのことじゃないのか。東京出身者だって、地方に転勤になったら、育児その他で不利を蒙るのは地方出身者と話は同じでしょ。
僕が思うに、教育の機会そのものでいえば、地方は確かに選択肢が少ない。そんなに沢山私立高校もないし、偏差値的なレベル分けや、多方面での傾向や個性を容認する度合いも狭いでしょう。それはディスアデバンテージだとは思います(ただし、大学に関して言えば、どっちにせよ勉強してないんだから一緒でしょって気もしますな)。就職に就いても、地方においてはまず就職先、採用先が少ないという現実があります。最大の雇用先が県庁とか市役所とかだったりして。
いずれにせよ地方の方が選択肢は少ない。
ただし、これも別の面からスポットライトを浴びせることも可能です。まず地方出身者の方が、常に「地元にいるか/都会に出るか」という大きな選択肢を持っています。東京出身の人間は、東京で大体ことが足りてしまうがゆえに東京以外の選択肢がないです。地方出身で東京で働いている人においても、常に「地方に帰る」という選択肢があります。でも東京出身の人が、なんのコネもない地方で就職先を見つけるのは至難のわざでしょう。ひとことでいえば、東京出身者には「帰るところがない」のです。僕も帰るところがないです。なんだかんだ言って故郷のある人は羨ましいですよ。それは一人っ子の人が兄弟のある人を「いいもんなんだろうなあ」って漠然と羨ましく思うのに似てます。
これは実は大きなことだと思います。以前、雑記帳で「東京からは日本が見えない」という雑文を書きましたが、地方の人は最初から複眼的/ステレオで日本が見られるし、複眼的にモノを考えているのですね。マスコミは殆どが東京発だから、地方にいても東京のことはある程度わかる。地方の人でも銀座や新宿は知っている。でも東京の人は地方のことは全然知らない。観光地くらいしか知らない。地方の人が当たり前のように銀座を知っていても、東京の人は、例えば金沢の繁華街を香林坊ということすら知らない。受験、生き方、価値観、生活環境、、、さまざまな面において、地方の人は二重に物が見えている。ステレオだから立体的に見え、奥行きもわかる。でも東京の人は東京しか知らないからモノラルな世界観しか持ち得ない。もっともベーシックな世界観がモノラルだったら、そのあとの選択肢がいかに多様であったとしても、その多様な選択肢を使いこなすことが出来ないのではないか。日本で一番世間知らずなのは東京生まれの東京育ちであるということに、自分自身が東京を離れてから気付きましたね。
そんなことよりもっと大事なことは、それぞれの環境の特徴を踏まえ、それをどうしたたかに利用していくか、足りないところを補っていくか、だと思います。地方は確かに選択肢も文化面でも乏しいかもしれないけど、そのかわり豊かな自然はまだ残っているし、人と人との関わりは都会よりは濃密だったりします。それは人間形成において大きなファクターになるでしょう。語られるべきは、そのアドバンテージをどういう形で具体的に活かしていくかです。京都の地蔵盆のようにコミュニティの子供社会を作っていったりとか、せっかくこれだけ自然があるんだからこう利用していこうよとか。逆に文化面や選択肢が乏しい部分は、親が積極的に視野を広げようと勉強したり、家族でいろいろな見に行ったりすることで補われるでしょう。もっとも、地方の方が博物館や展覧会行くにしても、車でぴゅっといけるから楽ですから、実質機会は多いって気もします。
また、地方の高校進学において選択肢が乏しいというのは、それはやっぱり地方議会で選択肢に富んだ高校を新設するとか、都会の高校に進学する地元の生徒をサポートする制度を創設するとか。さらに、その地方出身者で都会で会社を経営している人たちが、地元の少年少女を社会見学に招待するとか、インターンで使ってみるとか。地方は地方で、○○県人会というネットワークがありますからね。東京出身者によって作られる「東京都人会」なんて聞いたことも無いです。
なお、政治面や経済面でいえば、東京出身(在住)は圧倒的に損だと思います。これはフィジカルでデジタルなことだから損得で語っていいと思うけど、多分日本で一番税金でワリを食っているのが東京のサラリーマンだと思います。日本の経済や財政は、まず東京を中心に都会でドカンと税収を吸い上げ、それを地方に分配しているという構図でしょ。給料天引きで経費申告その他節税をろくすっぽやらない(できない)都会の給与所得者は、取られた分の税金ほど国家からしてもらってはいない。民主党は都会に強い政党で、自民党は地方の政党です。地方へお金を循環させるパイブ役の議員の連合体が自民党だといっていい。都市部における自民党の得票率は驚くほど少ないのだけど、でもご存知のとおり議員定数不均衡で一票の格差が地方と都会で最大で1対5くらいに開いているから自民党が政権を維持している。これは、地方に住んでる有権者は都会の有権者の5倍の票を持っている(一人5票もってる)ようなものです。要するに、政治経済財政面で言えば、日本は地方に支配されており、奴隷化され搾取されているのは都市住民だということも出来ます。別に目新しい議論でもなんでもないけど。その意味で「損得」をいうなら、生涯年収レベルで数百万から数千万円、都会が「損」だということもできますな。これは余談ですけど。
ところで、なにが損か得か、有利か不利かを一元的に論じようとしたら、最終的なゴールラインを固定してやる必要があります。都会の華やかさに包まれながら、高度で享楽的な消費生活を送り、"キャリア”とやらを磨くのが「好ましい生き方」であり、それ以外には無いと人生のゴールを固定してしまえば、さっきも言ったように都市出身者の方が「地の利」があるでしょう。でも、なぜそんなゴールを固定しなきゃいけないのか。なぜ皆同じでなければならないのか。それって「選択肢が多様だから有利」といいつつ、最も肝心な点で選択肢が無いじゃないか。
人生のゴールなり、好ましい生き方というのは、人それぞれ、個人の勝手でしょう。海が好きで好きで、一生海とエンゲージして生きていきたいという人にとっては、海の近くに生まれて育つことが最大のアドバンテージになるでしょう。本当に好きな人と、お互いを大切にしあいながら、思いやりとぬくもりに満ちた日々を丁寧に生きていくことが大事だと思う人にとっては、場所などどうでも良いでしょう。そういったこと、人生において何を大事に思うかということ、つまりは価値判断や優先順位ですけど、それは神聖不可侵の個人の聖域でしょう。なんびとと言えども足を踏み入れてはいけない、個人のサンクチュアリです。価値判断の自由さ、優先順位設定の自由さを認め合うのが、自由社会のキホンでしょう。
そして、都会といい地方といっても、しょせんは「環境変数」の差に過ぎないのならば、何に価値をおくかによって、その環境がアドバンテージにもなり、ディスアドバンテージにもなる。山々の麓に生れ落ちた運命環境は、山に魅せられた人にとっては最高の環境であるけど、サーフィンをやりたい人にとってはシンドイ環境になる。だから、生きるにあたって損だの得だの、他人からあれこれ言われる筋合いはない。それを言ったり、記事になったりしていること自体、かなりヘンですし、価値判断の一元化、固定化であり押し付けでもある。読者は読んでてカチンとこなかったんだろうか。「てめーに指図されたかないよ」って。
総じて感じるのは、価値判断や優先順位のフォーマットが乱れているんじゃないか、なんかマトモにものを考えていないじゃないかってことです。それは別にAERAの記事だけではなく(これは一つの具体例として挙げただけ)、日本発の他のメディアであったり、いただくメールでのやりとりでも、「うーん、、でもなあ」って考えさせられることがしばしばあります。価値判断ちゃんとしてるのかなあ、優先順位をちゃんと考えているのかなあって。
なんというのかすごく下位にくるべき選択肢や価値が、不相応に上位に上がっている。そんなの枝葉末節じゃないのってことが第一目的になっているという。例えば、お金の使い方が下手になってきてないかと。お金というのは持ってるだけだったらただの紙切れであり金属です。それは使ってなんぼという物体ですが、そのお金をどのように使うかは、実はどう稼ぐかよりもある意味数段難しいです。しかし、今は不況だからでしょうか(政府は好況って言ってたような気もするけど)、お金を貯めるのが中々大変になっているからか、妙にケチになっている。いや、ケチは悪いことじゃないですよ。節約は美徳でもあります。ただし、前にも述べたように「安物買いの銭失い」ってこともあります。
お金の使い方というのは、最小の出費で最大の効率を上げることだと思うのです。そこに異論のある人は少ないと思いますが、そこでは「最大の効率」ってなんやねんって問題があるわけですね。お金を払う以上そこには何らかの目的があり、目的を達成するために支出するのだから目的を達しなかったら意味がない。100円払って目的を達するところ、80円しか払わなかったため目的を達成できなかったらその80円は丸損でしょ。それは子供でもわかりますよね。でも、目的ってなんなの?って部分が曖昧になってると、その計算も曖昧になります。
僕自身学生時代当然のごとくビンボーだったし、ビンボーをエンジョイしてもいましたので(「肉が食べたいブルース」なんか作詞作曲したり(^^*))、金欠道、ビンボー道は一通り履修してきました。で、あれこれ失敗もしました。安物買いの銭失いというと、トホホな「愚か者の挽歌」みたいなものも何度となく経験しました。その結果、わかったのは、ケチるべきときと、ケチるべきでないときというのは厳然としてあり、それはもう必死になって考えないとダメだということです。
例えば「遊ぶときはケチるな」という鉄則があります。もちろんお金の掛からない遊びも沢山ありますし、それはそれで知恵を振り絞って考えますし、メチャクチャ面白いです。でもお金を掛けないと話が始まらないこともあるのですね。例えば、温泉旅行なんてのがあります。そういうときはパックの安い旅行にしないで、一泊2−3万くらいしてもドンと払うべしだと思ってます。ここを妙にケチるとですね、やたらうるさい旅館のやたらうるさい部屋に泊まらされて、廊下のバタバタいうスリッパの駆け足が深夜まで聴こえたりします。大浴場は常に満杯。食事は一見豪華だけど実はティストレス。仲居さんも忙しげで対応も悪い。そもそも温泉旅行に行くのは、閑静な自然環境でゆったりリラックスして、上げ膳据え膳の大名気分を味わいたいからでしょう。それが「目的」でしょう。そこを、わずか1万や数千円ケチってイヤな思いをするのだったら意味ないじゃん。ハッキリ言ってお金使って不愉快になりにいくようなもんです。所期の目的を達成できないという意味で失敗だし、大損じゃないですか。それに宿泊費1万円の差だけ見てたら大きいけど、トータルの予算(交通費とかお土産代とか観光代)を考えたら、7万円のうちの1万円だったりするわけですよ。ここで思い切って張り込んで気合の入った旅館に泊まると、いきなり駅まで迎えに来てくれるからタクシー代数千円浮いたり、食事が異常に充実してるから、「なんか物たりなからちょっと飲みに出よう」なんて無駄な散財もない。でも、そんな細かい収支計算なんかどうでもよくて、「目的の達成」という骨太の直球でやってれば、決して「損」はしないだろうってことです。
一方予算がそこまでいかなかったらそもそも行かない、と。我慢する、と。稼げ、と。
逆に、予算が少ないことをゲーム的に捉えて、いかに低予算でいかに楽しく遊ぶかという「挑戦」として考えるとまた面白くなります。もう野宿なんかしたりして、できるだけ夜行列車やフェリーを使ったり、安い国民宿舎を使ったり。それはそれで面白いのですよ。そういうものだという設定で遊べば、晩御飯が、閑散としたリノリウムの床の大食堂で、コロッケと冷えた味噌汁だったとしても、「こういうのもいいじゃん」という気になります。
ここで大事なのは「なんのために何をするか」という価値判断がしっかりしていること、そして「こーなればあーなる」というシュミレーションがしっかりしていることです。これが出来ない人間は概して金の使い方がヘタクソです。「とりあえず」「形だけ」みたいなお金の使い方をする。それが一番損ですよ。やるんだったらバシッと王道勝負で、本物の感動をゲットすべきでしょう。またそれが本物であることを認識できる自分というものを鍛えるべきでしょう。自分が阿呆だったら、いくら金を使っても「猫に小判」ですからね。形だけ猿真似して自己満足に浸っていても、何も身につかないし、そもそも本音的には全然楽しくないでしょ。
自分が今何をしたいのか、何を求めているのかちゃんと分かってるってのがお金を使う場合の大前提になるのでしょう。それが分かっていれば、お金に使い方も自ずと見えてくるでしょう。低予算のパックツアーでも、別にいいときもあります。例えばまだ貧しい若いカップルが、ちょっと背伸びして夫婦の真似事みたいに旅行してみたい、新婚旅行の予行練習みたいって感じでパックツアーに行くような場合、別にファシリティ(設備)や自然環境が大事なのではない。大事なのはイチにもニにも相手でしょ。その相手をいつもと違った環境でしっかり感じたい、見つめたいって部分に価値があるのでしょ。だから、パックツアーで一緒になったお客さんから「奥さん」とか呼ばれてうれし恥かし、こそばゆしってところがイイんでしょ。
僕らは皆ハッピーになりたい。一分一秒でも長く、1ミリでも深く、高くハッピーになりたいです。でもハッピーのなり方なんか、千差万別、何千通り、何万通りとあります。その中からベストをチョイスするにはそれなりに修練が必要だと思います。上記の記事も、やたら「損得」に走るのも、言ってみれば修行不足じゃないんですかね。「損得」ってのは、すごく分かりやすいフォーマットですよね。だからビギナー向け、お子様向けの判断尺度でしょう。
英語のコトワザで "Penny-wise and pound-follish"と言いますが、日本語のコトワザで対応させれば「一文惜しみの百失い」ですが、しょーもない小銭をケチって得をした気になってながら、その実ドカンと巨大な損をしている人、一言でいえばアホのことを言います。
このペニーワイズがアホなのは、視野が狭く、価値判断や優先順位がメタンタだからです。
身近な例をとりますが、オーストラリアにワーホリや留学に来て「もっとここに居たい」と思う人は多いです。しかしビザという壁がある。永住権は大変ですし、ビジネスビザは永住権以上に難しいといわれる昨今のオーストラリアのビザ事情で、そうそう簡単に滞在しつづけられるものではない。そこで、とりあえず隠れ蓑的に一番取得が楽な(そして働ける)学生ビザを取得しようというイージーオプションがあります。そのために、学費も安く出席確認も甘い通称「ビザ取り学校」というのがシティに乱立しています。学費の安さは、同じビジネス学校でもしっかりした内容を誇る学校に比べれば3分の1以下くらいに安く、また地元の留学業者さんも「いかに安く一年滞在できるか」みたいな広告をしたりします。
でもそれで滞在を延長してもだからといって将来的になんの展望も開けるわけではない。むしろ話はその逆で、展望は狭くなってくる。ひとつには本当に腰を落ち着けて滞在したかったら、永住権を取るべきですが、永住権は年齢点というのがあり、年をとるほど不利になります。またスキル点も「過去○年に○年間の実務経験」というのがあり、オーストラリアに滞在すればするほど日本でやってたキャリアが”時間切れ”になります。つまりは永住権は「時間との戦い」です。また、いずれ日本に帰国するのであれば、年齢社会日本では若いほど就職に有利でしょうし、「これをやってきました」と胸張って言えるだけのことをしていなければ海外にいただけではマイナス計上されるでしょう。そういった社会的なことよりも、肉体的に精神的に加齢現象は起きますから、日ごと「なにか」が失われていく。最終的には、今更日本にも戻れないし、オーストラリアに居続けることも不可能という、「居場所なし」状態になります。でも、そんなこと最初っからミエミエに見えています。
したがって「なんとなく」の滞在延長は、かなり高価な時間稼ぎであり、モラトリアムだったりします。ホテルのチェックアウト時刻以降の超過料金みたいなもので、非常に割高なんですね。一瞬楽なんだけどあとで数倍のツケになって襲いかかってくるという意味では、これも覚せい剤みたいなものです。それだけの高い代償を払ってでも、尚居たいという人はいるでしょう。もっとここで学ぶもの(それは学校では教えてくれないもの)があるとか、自分自身のケジメをつけるためにはどうしてももう少し時間がかかるとか、そういう場合もあるでしょうし、それはそれで問題ないです。
問題にしているのは、そのへんの基本的な「損得」のフレームワークを考えきれていないことです。本当はもっと上位に大きな価値判断や優先順位があるべきです。この未熟な自分をもっと育ててやるのが先決だとか、生まれてはじめて一つのことを完結してみたいとか、そういった価値判断があるべきでしょう。僕も、最初の半年の試験的(オーストラリアはどんなもかなという視察的)留学を終える時点で、日本に戻って弁護士を続けるか、あるいはオーストラリアにいつづけるかという選択肢があり、そこで巨大な価値判断と優先順位の確定作業をしました。あと死ぬまで50年以上のライフスパンにおいて、今やっておくべきことはなにかと。それをまず考えに考え、あらゆる利害得失を計上し、シュミレートしますよ。当たり前ですよね、自分の人生なんだから。そのなかに、永住権制度についての情報、こちらで生計をたてられる可能性などなども当然織り込まれます。ひとつの「損得」のファクターとして計上します(あくまで全体のほんの一部だけど)。
価値判断(社長、取締役会決議)→ビザや日本に戻ったときに就職状況などのシュミレーションと損得勘定(中間管理職レベル)とレベルが落ちてきて、最後の最後に身近なレベルでの枝葉末節的な損得勘定があります。ビザ取り学校で学生ビザを取るという選択肢があったら、どの学校が学費が安いかとかそういうことです。
でも、この価値判断と優先順位の体系が思いっきり逆立ちしていて、年間学費が安い!という広告を見てから、「あ、このくらいでいいんだったたらもう少し滞在してみようかな」と話を決めてしまうという。いいのか、そんなんで?と他人事ながら気になってしまいます。
損得だけで物を見る。それもかなり分かりやすい損得でしか物が見られないのは、まさにペイーワイズであり、ちょっと視野を広げて見ればかなり「損」である場合が多い。でも、こういうケースが多いな、なんだか時を追うごとに多くなってきてるんじゃないのか?って気がするのですね。そういった常日頃の「むむ?」という漠然とした違和感が、冒頭の記事などとリンクされてくるわけです。お前、そういう物事は損得で語るもんじゃないでしょう?って。
損得だけでしか物が見られなくなっている症状(これは一種の精神疾患だと思います)のよくある、そして最終的な発現形態は、損得でしか人を見られなくなってきている、ということです。自分に物を呉れたり、なにかやってくれたりするからこの人が好きだという。「この人といると得だから」という人間関係はかなり貧しいというか、そういう具合にしか人と付き合えなかったらかなり重症でしょう。だって、乞食といっしょじゃないですか。
これも程度の差があって、大多数の人間とは損得抜きに付き合えるけど、ある局面では損得でつきあってしまうという場合。これは大なり小なりそういう面はあるでしょう。特にビジネス面ではそういうケースも多々あるでしょう。しかし、損得こそが全てというようなビジネスであるからこそ、損得抜きの人間関係は超強力な威力を発揮します。これが分からない奴は、どんなビジネスやっても長期的にはまず必ずといっていいくらい失敗すると思います。次に、損得抜きの人間関係が半分半分くらいの場合で、ちょっとマズイですよね。あと、相手は損得抜きで付き合ってきてくれるのにこっちは損得で見てしまう場合、かなりマズイですね。最終的には全部損得で見るようになるとこれはもう終わりだという気がします。
ところで、人間って、損得勘定で近付いてくる他人は、直感的にわかりますよね。これは人に与えるものを沢山持ってる人ほどピンと分かるようになる。逆に人に与えるものをあんまり持ってない人は、その直感を磨く機会が少ないから鈍感だったりします。僕も弁護士やってたから、損得勘定で近付いてくる人いっぱいいましたよ。ヤクザとかね。あと玉の輿狙いの女とか。こういうのって分かるんですよね。だから今でも結構わかります。「ははん」って。
そういう損得で来る人には、当然ながら何も与えません。誰がやるかって感じですよね。でも、損得抜きで来てくれる人は、本当にフルレスペクトします。自分の出来ることだったら可能な限りして差し上げます。
こんなの僕じゃなくても誰だって同じでしょ。あなただって同じでしょう。
こんな簡単なことが、なぜか分からない人がいたりして、目先のセコい損得にこだわって、巨大な「得」を失っていることに気付かない。1ペニーを惜しむあまり1ポンドを失う。一文惜しみの百失い。なんか、そんな風潮なんですかね?
損得で来る人には損得で返せばいいじゃんって発想があります。相手が馬鹿だったら、その馬鹿さ加減を戒めたり、忠告したりせずに、徹底的に騙して、骨までしゃぶってやればいいじゃんってことですね。僕はやらんですけどね。カッコつけるわけじゃないけど、自分はそんなに大した人間だとは思ってないけど、いくらなんでもそこまで落ちたくはないですよ。嫌われようが、煙たがられようが、意地でも言いますよ。でも、そう考えない人も多いでしょう。セコい詐欺や、詐欺的な広告が増えるんじゃないかって気もします。皆がそれなりのレベルを保っていたら、こういう詐欺にはひっかからないだろうし、流行りもしないでしょう。でも、もし、それが流行ってたりしたら、、、、
なんかやたらと「損得」という単語が目に付くな、、と気になったのはそういうことです。
文責:田村
★→APLaCのトップに戻る
バックナンバーはここ