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今週の1枚(05.04.04)
写真は、LilyfieldあたりからCityをのぞむ
えー、今回は、物事にはいい加減でいいことと、いい加減ではイケナイことがある、という話をします。
なんか凄く詰まらなそうだけど、詰まらなくならないように頑張って書きます(^^*)。
オーストラリアと日本とで、いい加減な所とキチンとしている所がかなり違うという話は、これまで何度も書いていると思いますので、あまり多くを繰り返しません。ただ、これから述べるところと関連する限度で簡単に指摘しておきます。
日本人あるいは日本社会がキチンとしているのは、一言でいえば末端部分だと思います。四方の隅をピシリと合わせる、潔癖症と見まがうまでの精密さが日本人は好きです。仕事にせよ、立ち居振舞いにせよ、ルーズなことを「だらしない」といって嫌います。例えば、銀行では一円でも計算が合わなかったら全員で合うまで計算をやり直したりします。電車のダイヤも世界平均からすればとんでもない正確さで運行されています。商品を買って、それが不良品だったという確率は驚くほど低く、僕自身日本で普通にモノを買って不良品だったという体験は、40年以上生きていて数えるくらいしかありません。デパートで購入した商品は、それが大した物でなくても、店員さんによって職人芸のようにきちんと包装されます。TVの番組は時報とともにキッチリ始まります。結婚式のご祝儀の一万円札は必ずピン札であり、熨斗袋に入れるときには札の向きまで合わせます。
これに比べたらオーストラリアは全然違います。銀行にお金を預けたり下ろしたりするときも、数字が間違ってないかいちいち確認してないと不安です。何度か例に出しましたが、ウチのカミさんがカウンターで預金を下ろしたら、間違って入金処理されていて、銀行の支店長から済まなさそうに「すいません間違ってたので訂正するのに同意いただけますか」と電話がかかってきたのはかなり経ってから(記憶では2−3ヵ月後)でした。快く訂正同意のサインをすると、あとでお礼の花束が贈られてきました(^^*)。この一例で全てを判断するのは危険ですが、少なくとも毎日「一円たりとも」で全員がチェックしてる感じではないですね。「棚卸し」くらいの感じなのでしょう。
電車のダイヤも概ね80%くらいは時間どおり来ますが90%には達しない。「時間どおり」というのも予定時刻のプラスマイナス10分以内だったりします。---という記憶だったのですが、書いてて「ほんとか?」と不安になったので調べてみました。シドニーの鉄道、City Railのホームページの中に、”On-Time Running and Service Reliability”という電車がどれだけ時間どおり運行されているかをレポートするページがあります。 このページの表によると、都心部、郊外部でいろいろ審査基準が違ってたりするのですが、到着予想時刻4分未満(3分59秒以内)に到着したケースは全体の60%強、予想時刻の10分未満74%(直近数日)とか87%(2月期)だというから、まあ「10分以内に80%前後」といっても、そう間違ってないでしょう。
その他、デリバリーの待ちぼうけを食らうのは珍しくないし、TV番組も時間どおり始まらないし、納期なんか努力目標に過ぎないし、街中の時計台の時刻が間違っていても別に誰も驚かないし、不良品をつかまされるのもマレなことではないし、ショップや受付で嘘を教えられるのもよくあることです。不幸なことに、僕らに重大な関係のあるビザを扱う移民局やら、大学事務局やらが平気でガンガン間違ったことを教えるから油断大敵です。APLACの初期のページに「3回聞くまで安心するな」と書きましたが、まあ、ほんとそうですよ。慣れてくれば「あ、こいつ分かってないのにいい加減なこと言ってるなー」「馬鹿だからすっかり誤解してるな」って何となくわかるようになりますから、そう悲惨なことにはなりませんけど。
このように書くと、万事において日本はオーストラリアよりもはるかにしっかりしており、精密に物事が運営されているように聞こえるでしょうが、でも、そんなのは一部に過ぎない。日本人はオーストラリア人をよく レイジー(怠け者)オージーと言うけど、オーストラリア人から見れば日本人の方がずっとレイジーって局面も多いでしょう。
それは例えば、民主主義とか政治参加。義務投票で投票率ほぼ100%のオーストラリア人からすれば、日本の投票率50%というのは、国民としての一番大事な義務を果たしていないということで、とんでもなくレイジーに映るかもしれません。これは単に投票率だけの問題ではなく、現在の政治課題や問題についてそれなりのレベルで議論できるかどうか、そして行動に移せるかどうか。国民の平均レベルでいえばオーストラリアの方が高いでしょう。日本は、というかアジア諸国の通弊だと思うけど、政治というのは自分に関係ないどっかのエラい(そして多くはダーティな)人達が勝手にやってるものであり、多くは「俺達知らんもんね」という態度あったりします。で、なにかといえば「政治が悪い」「あれやってくれない、これやってくれない」と甘ったれたことばっかり言っている--という感じに映っても不思議はないでしょう。
「大衆はブタだ」的な、一般国民の衆愚性というのは、どこの国でも大なり小なりありますが、やはりそこには程度の差があり、程度の差もひろがれば立派に質の差になります。俺はそんなにアホじゃないぞという方も沢山いるでしょうが、じゃあ、今ここで5分間差し上げますから、目の前に各国の人が聞いていると仮定して、いろいろな政治課題についてあなたの意見を言ってください。例えば、日本の常任理事国入りをどう考えるのか、日本は世界をどの方向に持っていこうというビジョンがあるのか、イラク問題をどう考えるか、環境問題をどう考えるのか、アフリカその他世界各地に広がる内戦や民族紛争をどうすればいいのか。「やっぱり平和が一番よね」というレベルではなく、きちんと現実を踏まえて、あなたなりの立論を展開してください。少なくとも大学を出てたら、そのくらい言えて当たり前というのがこっちのレベルだと思います。そういう意味では不勉強、不熱心ということで、レイジーだといわれても仕方ないっしょ。
行動面でいえば、つい半年ほど前ですか、ウチの近所でもこういうことがありました。夕方時に渋滞するメインロードを避けて抜け道を走ってくる車の量が多くなったので、子供の通行の安全が脅かされるということで、抜け道付近のママさんが平日の夕方は車の量を減らすべきではないか(具体的にはメインロードとの合流点を左折禁止にする)という提案をプリントして、一帯の郵便ポストに入れてました。皆で話し合おうと会合の日時が設けられ、たちまち多くの住人が参加し、カウンシル(市議会)も同席、警察やRTA(道路交通&陸運局)も参加し、ほんの1−2ヶ月で左折禁止措置が実行されました。「正しい法律を作るのは自分達の責任である」という意識が、普通に広がっていることがわかります。
これも半年ほど前でしたか、あまりにいい加減な電車の運行に業を煮やしたイチ市民、たしかレベッカさんという名前の20代のOLさんでしたが、「市民もブチブチ言ってないで意思表示をしよう、料金に見合うサービスが提供されなかったならば、料金の支払いを拒否すべきだ」と呼びかけ、「来週の何曜日」と具体的に期日を設け、「その日私は電車への料金の支払いを拒否する。それでキセルで捕まるのならばどうぞ裁判にかけてほしい、法廷で堂々と主張を言う」と予め宣言したところ、同調する市民が十数万人レベルで増え、州議会でも「もっともだ」という声が多くなり、その日は事実上料金フリーになってしまいました。正しいと思えば、たった一人でも行動するという意識は徹底しているし、それを支持する社会の空気というのが確かにあります。
日本では「エライ連中が好き勝手にやって、、」という無力感や閉塞感がありますが、エライ連中(政治家や大企業やら)に好き勝手やらせないだけの戦闘能力を持つのは市民としての義務でもあります。イエーリングの「権利のための闘争」という本の冒頭には、「法の目標は平和であり、そのための手段は闘争である」と書かれていますが、民主主義の本質は、なあなあの話し合いや談合ではなく、闘争であるということを、西欧の連中はやっぱりバックボーンで分かってるなって気もします。もっとも、日本でもNHKの不払いなど自然発生的な動きがあったりして、やっぱり市民の側から「ナメんじゃねえ」と意思表示することは大事だと思います。
その他の局面でも、例えば、自分の住んでいるコミュニティに対して何らかの貢献をしているかどうか、ボランティアというほど改まったことではなくても多少なりとも興味関心を持っているかどうか。
あるいは、家族を大切にしているか。毎日毎日家族と話す時間を作ろうとしているか。実家が車で1時間以内の距離にあれば、毎週週末に子供(孫)を連れて会いに行っているか。家族の誕生日や結婚記念日を大切にしているか。
そして一番大事な自分のことですが、あなたの夢はなんですか、どういう一生を送りたいですか、どういうことに人生の価値を感じてますか、自分が高まるように、自分がハッピーになれるように、常に考え、その考えをまとめ、深化させ、一つの行動に昇華させ、そのための具体的努力や行動をしていますか。もしワーホリその他でこちらに来られるのでしたら、「あなたの夢はなあに?」と聞かれて即答できるように用意しておくといいですよ。虚をつかれたように「え、、?」と言って絶句してたら、「なんだ、こいつ?」という顔されますよ。
だってそうでしょ。人生を道に例えるならば、あなたは今どっかの道を歩いているわけです。たまたま通りすがりの人から、「どちらへ行かれるのですか?」と聞かれているようなものでしょう。それで絶句してたらおかしいですよね。なんだこいつは、自分で行き先もわかってないのに歩いているのか?って。ボケ老人の徘徊症じゃないんだから、どの方向を目指しているかくらいは自分でわかってないと嘘でしょ。
日本は物事において非常にキッチリしており、水も漏らさぬ完璧性を誇りますが、でも、そんなの一部だけ、それも末端だけではないか。銀行で1円でも計算が違ったら全員が残業すると書きましたが、なるほど1円レベルでは完全かもしれないけど、1兆円レベルではメチャクチャじゃないですか。長銀その他の銀行救済にいったいどのくらい公的資金が投入されたか。このように、「一円はあってるけど、一兆円間違ってる」という事態が堂々と存在するわけですな。
日本人は時間どおり物事を進めるのが大好きで、電車がちょっと遅れただけでブーブー言うし、エレベーター乗ったらすかさず「閉」ボタンを押し、セカセカ歩く。しかし、そんなに一分一秒を惜しむほど大事な仕事をしてる人がどれだけ居るというのか。緊急病棟で一刻を争う手術が待っているとか、火災だとかいうなら分かるけど、普通の人間だったらそんなに「本当に大事なこと」なんか1年に一度あるかないかじゃないか。
でも、それはまだセッカチだ、そういう性格なんだでアクセプタブルではあるのだけど、問題は、急ぎ足でチャッチャ歩いているくせに、何処に向って歩いているのか分からない、あんまり詰めて考えていない、他人に説明できない、ってことだと思います。これって、一円は完璧だけど一兆円はボロボロというのと似てませんか?目的なき繁忙。
このあたりまでの話は、これまで何度も書いてますので、このくらいにしておきます。もっと緻密に書き込めますが、ここまでは単に「おさらい」ですから。「また、同じようなことを書いて」とヒマだった人、ごめんなさい。ここから先が本題です。
さて、世の中には、大きな目で見ればそう重大なことではないので、いい加減に済ましていていいことと、オロソカにしてはならない、いい加減にしてはならないことがあり、その価値の置き方が、日豪でかなり違うということです。オーストラリア人の視点で言えば、日本人は細かいところにはうるさいけど、大きなところでスコーンと抜けていると言えなくもない。
よく持ち出される例だけど、あれだけ杜撰なオーストラリア人であるように見えながら、オーストラリアのカンタス航空は一度も墜落していない。山火事その他のリスク管理についての処理も手際がいいし、なにより一般市民の対応能力が高い。これは聞いた話ですが、現地の日本人学校のスクールバスが故障その他の理由で来なかった場合、子供を送りに来た日本人の保護者はバス停で「どうしたのかな」とずっと待ってる傾向があるけど、オーストラリア人の場合は来ないと判断したら、さっさと誰かの車に分乗したり、他の交通手段を用いて通学させる。
そして別に学校に文句を言うでもないそうです。おそらくは、オーストラリア人にとっては、この程度のことは文句を言うほど大した事だとも思っていないのでしょう。物事が必ずしも予定通り動いていかないのは、ある程度は自然の摂理だと思ってるフシがある。文句を言うべきなのはそこに改善の可能性というベネフィットが見込まれる場合であり、それは建設的な提案であり、周囲からも支持される。しかし機械であるバスが壊れたり、何らかの交通事情で遅れたりするのは、これは防ぐことは出来ないし、一定の確率で起こり得るべきことが起きただけの話である。それを防ごうとしたら膨大な費用がかかり(予備のバスを常駐させておくとか)、そのコストが結果として学費に転嫁され、結局は自分が払うことになるとしたら、コスト対効果の問題として愚策である。3回に1回遅れるとか耐えがたいレベルであれば、それは自然確率を越えるから、そこには人為的なミスマネージメントがあるだろうし、ならば文句をいって向上させる可能性がある(前述の電車の例)。しかし、自然確率レベルの支障なのに、「こんなに大変だった」「どうしてくれる」と文句を言っても、だからどうする?という方向性も出てこないわけで、いわば子供がダダこねてるのと同じであり、周囲も取り合わない。
目の前の事態に対する対応力というのは、例えばどこのサバーブでもわりとよく行われているストリートパーティー(そのストリートに住んでいる住人が自発的に懇親パーティーをやる)に参加してもわかります。幹事役が全て仕切るのではなく、幹事は呼びかけるだけ。あとは各自勝手に飲み物や食べ物を持ち込んで、ワイワイやるのだけど、印象としては全体にすごく調和している。皆がなにげなく全体を見ていて、なにか足りないなと思ったらフォローに廻る。子供達が遊んでたら、近くの人が一緒に遊んだり、安全についてもさりげなく見るし、英語がヘタで中に入っていけなさそうな人がいたら、さりげなく話し掛け、輪の中にいれてくれる。誰も指示しない、誰にも指示されない。見れば分かるようなこと、ちょっと考えればわかることは無言でさっさと実行し、意思疎通する必要があるときは、指示ではなく「提案」する。ごく自然に自前の判断力と行動力がある。まあ、当たり前のことなんだけど。
その社会がすっきりしていて風通しがいいとか、人の行動がクッキリしていて水際立っているためには、いろんな条件が必要だと思うのですが、一つには「優先順位」がハッキリしているかどうかってことがあると思います。
Aの物事とBとが対立した場合、AがBに優先するならば、Bを犠牲にする。この優先順位がしっかりわかっているところでは、物事への迷いは少なくなるでしょう。しかし優先順位が混乱していると、物事を決めきれなくなります。そして玉虫色の決定をしたり、あるいは決定それ自体が出来なくて先送りにして事態は益々悪化するということになります。
物事に優先順位をつけるためには、その前提として、価値基準が必要です。何が大切で、それに比べて何が大切ではないのか。その社会において価値観がしっかりしているかどうか、そして社会を構成する一人一人に価値観がしっかりしているかどうか。それは最初は単なる好き嫌いから始まるのかもしれないが、価値体系にまで高めるには、透徹した知的考察が必要だし、またポリシーや哲学、信念というものが必要。さらに、それらのポリシーを樹立するためには、多くのことを見聞し、体験してきたという経験量が必要でしょう。
ところで、あなたにはこの価値体系がありますか。あなたが生きていく上において、一番大事なことはなんですか。何が二番目に来ますか、三番目はなんですか?むろん、こんなにデジタルに連番をふっていけるほど理路整然としなくてもいいのですが、「どっちか選べ」と言われたときには、比較的迷わずに選べるようにしていますか。
人間が生きていく以上、誰でも無意識的にこの価値判断をしていると思います。たまの休日、今日はどうしようかと考えるときだってやってる筈です。たまには遠くに出かけて自然に触れたいと思うけど、でもここのところ寝不足が続いていたのでゆっくり休養にあてるべきではないかとか。本屋で2冊の本が欲しくなったけど、あいにく手持ちのお金が足りないとき、どっちを買うべきか、とかね。
ただ、日本人の「末端肥大症」のような習性、細かいことにはうるさいけど、大きなことはあまり考えないという習性は、どこから来るのでしょう。価値判断をしっかりやっておれば、こういう価値倒錯現象は起きないように思われるのですが。さきほどの一円=一兆円ケースでも、お金というのはデジタル的なものだから、1円違うよりも100円違ってる方が100倍問題であり、1円の違いに注ぐエネルギーの1兆倍のエネルギーで1兆円のズレにあたるべきだと、まあ、一応は言えますよね。なぜこういうことが起きるのか、です。なぜそれを我々はそんなに不思議に思わないのか、です。
日本人がキッチリしていて完璧主義的なのは、それはそれが「好き」だからであり、それが「生理体質に合ってるから」であり、いわゆる「趣味」だからだと思います。
趣味や生理は、論理を超えます。どんなに無意味なこと、馬鹿馬鹿しいことでも、生理的に気持ちよかったり、趣味だったら人はやります。包装ラップのビニールのプチプチ(英語ではバブル・ラップというらしい)を潰すように、あんなもん潰したからといってあなたの給料が上がるわけでも、あなたの見識が高まるわけでも、あなたの健康が増進するわけでもない。100%無意味っちゃ無意味ですよね(まあ、ボケ防止とかストレス解消とか理屈はつけられるけど)。でも、意味なんかどうでもいいんですよ。プチンと潰れる生理的快感がそこにあれば、人はやっちゃう。
日本人が立ち居振舞いにおいて完全を求めるのは、それが気持いいからでしょう。生理に合ってるからでしょう。たしかに、日常の動作、ひとつひとつについて完全を求めるのは、きちんとした服装をするように、人の精神生理に折り目をつけ、ひいては「きちんと生きる」「丁寧に生きる」という「生の達人」への道につながるのだと思います。
茶道でも、お茶を飲むこと自体が目的ならば、もっといえば身体に水分を補給したり、カフェインを注入することが目的であるならば、マラソンランナーのように出来るだけ持ちやすく飲み方が調節できるものがいいし、あるいはその人の状況によっては点滴や経口服用の方がいいかもしれない。しかし、茶道はそういうものではない。ギリギリまで簡素化した、まるで実験室のようなスチュエーションで、どうやったら一服の茶から豊かな時間をもたらせるか、主人と客というシンプル化された社会における人間関係のモデルにおいてどうすれば豊かな関係が育めるか、それを極限にまで高めようというアートなのでしょう。生きていることの質の高い、豊穣な喜びを、いかにしたら求め得るかですよね。
日本人が細かいことにうるさいのは、細かいことをおろそかにすると、全体にどうしようもなくダレてきてしまうからなのでしょう。人間というのは、天国のように、何も働かなくてもよく、美味しいものを好きなだけ食べられ、好きなだけ眠れるという環境におかれたら、かえって精神を荒廃させてしまう生き物なのでしょう。一定のサイクルなり、メリハリなり、緩急のリズムがないと生理的におかしくなる。
精神の充実は、ただひたすら快楽的なことだけやっていてももたらされない。1の快楽を100に高めようとしたら、99不快なことをしなければならない。エベレストを登るようなもので、命がけで氷点下の氷壁にはりついて眠り、希薄な酸素で高山病にかかりながらも何故登るのかといえば、それだけ不愉快極まりないことをしないと、本当の快楽は得られないからでしょう。それだけ苦痛に満ちた行為をしてもお釣りがくるくらい、登頂というものには圧倒的な快楽(充実感)があるのでしょう。
銀行で一円にこだわるのも、一円が惜しいわけではなく、一円に象徴される職務の完全さ、職務を遂行する上でイノチともいうべきプライド、自負心、それらが関連しているから、あだやオロソカに出来ないのでしょう。それに一兆円ズレるのは、ズレ方の次元世界が違う。単に計算ミスで一兆円ズレているのではなく、高度な経営判断や政治判断がそこには含まれる(なんでも正直にやってたらビジネスゲームでやっていけないし、ブラフも必要という意味で)。だから、一概に量的に比較すべきではないです。そのくらい僕だってわかってますって(^^*)。
潔癖症なまでの日本人の末端志向を、僕は決して悪いことだとは思わないし、同じ日本人として誇りも持ちますし、そういう人生の楽しみ方、快楽を知っていることを、人生の大きなアドバンテージだとも思ってます。これはハッキリ言っておきます。それは素晴らしいものだ、と。
ただし、素晴らしいにもかかわらず、それだけではこの世界全体をマネージするには不十分であるとも言いたいわけです。
論拠をいくつか挙げます。
第一に、そもそもいまの日本人において、上に述べたような、茶道の真髄、人生の達人につながる道だから「キチンとしている」という自覚的意識があるかどうか?他人に恥ずかしいからとか、皆がやってるからとかいうのは、これら本来の”日本人道”においては邪道でしょう。「きちんとした格好をしていたい」というのはいいことだと思いますが、他人の前にいるときだけ着飾ったり、厚化粧したりして、家に帰ったら無頓着というのでは意味がない。誰にも会わないときでも、全人類が死滅して自分だけ生き残っても、それでも化粧をし、身なりを整えるのが真のお洒落であり、それを「きちんとしてる」と言うのだと思います。そういう意味では、単なる習慣や惰性でやってるだけで、本当にきちんとしてるのか?という点が第一点。
つまり何のためにキチンとするのか、自分が気持ちよくなるために、人生を豊かにするためにきちんとするのだというもともとの原点が分からなくなってきているのではないか。ここがスッポリ脱落してたら、それはキチンとした「ふり」をしてるだけで、意味ないですよね。それが分からなくなってきたら、後進の者にも説得的に伝えきれなくなり(自分でもよく分かってないことを他人に伝えることは出来ない)、結果として日本人はどんどんキチンとしなくなってきているのではないですか?それは接客態度にせよ、仕事への水準にせよ、あちこちで傍証的に聞きます。
第二に、人生の原子のような一瞬一瞬を研ぎ澄ませ、全体として質の高いものにしていくという方法論は素晴らしいと思うのだけど、それはミクロ的な方法論であり、マクロ的な方法論にはなりえないことです。なんというか竹林の七賢人のような道教的な生活、徒然草を書いている吉田兼好のような立場の人が、自分だけの世界を構築するのはいいのですが、あらゆる利益と価値が激しく衝突し、葛藤しあうなかで、どう価値の道筋をたてていくかという政治、そしてそれをいかにエネルギー効率よく実現するかという社会システム工学的な面では、あんまり指針にならない。末端市民の人生訓、処世訓にはなりえても、帝王学にはなりえないし、民主主義社会における主役としての一般市民を形成をするには足りない。
現実世界においては、ギリギリのところで判断を下していかなければなりません。救命ボートに乗っている人数が多すぎて沈没しそうになるときは、心を鬼にして誰かに溺れ死んでもらわねばならない。そんな血を吐くような、わが身が引き裂かれるような決断もまた必要です。価値観の樹立とそのための選択(切り捨て)こそが政治の本質だとするならば、常日頃からそういう思考で鍛えておかないと、いざというときに物の役には立たない。
血を吐くような決断を下す場合、そのよりどころになるのが価値観です。AよりもBが尊いという価値序列がないと、判断なんか出来るものではない。でも、価値判断というのは、そのへんの文房具屋で「価値判断チャート」なんてものが売ってるわけはなく、自分で死ぬほど考え抜いて、七転八倒してからでないと出来あがってきません。例えば仕事を取るか家庭を取るか、不満はあるけど大人しく勤めるかそれとも独立起業するか、自分の中でなにが大事なのか、考えても結論がつかないようなことを、それでも決めねばならないという経験をしてこないと出来てこないです。それは、趣味や生理という、「なんとなく気持いいから」というレベルの話ではない。
あと、徹底的にリアルなシュミレート能力ですよね。決断を迫られるときに、Aを取ればあーなってこうなってとシュミレートしますし、Bをとればこうなるはずだという予測をします。その予測に基づいて判断しますが、これも希望的観測を排除して、クールにリアルにシュミレートするためにはそれなりに修練が必要でしょう。つまり、希望的観測で行動して死ぬような目に何度もあっているという経験をしてくると、物事の見方が鋭くなります。
このように、自分の人生をマネージしたり、国家社会をマネージしたりするためには、要するに「マネージメント」ということをしようと思ったら、この判断能力というのものが不可欠であり、こういった決断を支えるのは、血みどろの体験で作り上げた自分だけの価値体系であり、徹底的にクールでリアルな予測能力であると思われます。国民ひとりひとりにおけるこれらの能力が高い場合、いわゆる「民度」が高くなり、その社会はそうそう変な方向に転がっていかないけど、国民レベルでこういった修練をしていないと、民度は低くなり、トータルとして社会はコケる。
ゆえに、「きちんとしてる」だけの人生訓だけでは、足りない。
さて、いい加減にしていいことと、いけないことという冒頭のお題に戻ります。
既におわかりかと思いますが、それは価値判断と優先順位によって決まるのでしょう。何が大事で、なにがそれよりも劣るのか、それは自分で決めることであり、他人に教えられたり、押し付けられたりするものではない。少なくとも自分の人生や生活においては、そうでしょう。
問題は、それをどれだけ常日頃から考えているか、です。
しかしながら、言うは易しで、自分なりの価値観を打ち立てるとか、優先順位をふっていくという作業は、かなり難しいです。また、あんまり学校で教えてもくれなさそうです。あなたの優先順位はどうなってますか?
文責:田村
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