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今週の1枚(04.05.03)
ESSAY 154/続・男の料理について
写真は、スーパーColesのレジ周辺(Broadway店)
前回の続きを書きます。「男の料理」についてでした。
簡単におさらいをすると、男が料理をはじめとする家事をやりたがらない傾向があるとすれば、それは男心をくすぐらないからであり、その最たる要因は、詰まらないものと誤解しているからではないか。そして、男は難易度の高いものを面白いと感じ、簡単なものを詰まらないと感じる傾向があると僕は思うので、その誤解を払拭すべく、いかに家庭の料理というのモノが難しく、心技体ともにあなたの全てを試される知的ゲームであるかを説いていたところでした。
話は、まずは献立という企画・商品開発/マーケッティング部門にはじまり、続いて買出しという資材購入・仕入れ段階に入っています。
仕入れですが、これは海外で生活する場合、さらに難易度が飛躍的に高くなります。日本料理を作る場合、そうそう食材が転がっているわけではないからです。シドニーはオーストラリアの中の町では最も食材に関しては恵まれていると思いますが、それでも日本の普通のスーパーのように、なにもかもが揃っているわけではありません。コンニャク一枚買うにしたって、わざわざ遠くまで足を運んで買出しに行かねばなりません。
ウチではメインに僕が料理をしていますが、その理由のひとつは、この買出しです。現地生活が長く、現地でのドライブ歴の長い僕の方がはるかに的確に、迅速に、買出しに行けるのですね。しかも、買出し先は一つではなく、幾つかあります。コレが欲しかったらココに行くしかないという店が幾つかあり、ワンストップショッピングで済むことはまず無いです。Northbridgeの東京マートという日本スーパーに行けば全てが揃うというものではない。先日、以前お世話した方々が遊びに来てくれて、皆でスキヤキをしたのですが、すき焼きの食材のうち、薄切り肉はChatswoodというところの韓国系の肉屋さんで買っています。本当はCampsieまで行きたいところですが、今の家からは遠すぎます。春菊は、同じ肉屋さんの隣にある韓国系スーパーに結構普通に置いてあります。これはちゃんとした春菊で、契約農家に特別に作ってもらっているのでしょう。これがないときは中国系スーパーにいき、春菊に近い中国野菜を探すことになります。でも、スキヤキのための日本酒となると、また売っているところは限られてきます。こうなると、東京マートの入っているショッピングセンターの酒屋に行かねばならないとか、ニュートラルベイのウールワースの向かいの酒屋とか、チャイナタウンとか行かないと中々手に入りません。
東京マートとチャッツウッドを一気に買出しに廻ろうとしたら、車でいっても少なくとも1時間半から2時間くらいかかります。移動時間がかかるのですね。移動時間の殆どは信号待ちと駐車場探しだったりします。そして、道の混み具合は曜日により、時間により当然違います。金曜日の午後3時過ぎにMowbray Rdを西進しようというのは自殺行為だったりします。ヘタすれば1キロ進むのに30分以上かかるような渋滞に巻き込まれるでしょう。シドニーの交通渋滞は日に日に悪化していますし、渋滞緩和のための規制によって、この前まで駐車できた場所もいつの間にか駐車禁止になったりします。ショッピングセンターの駐車場に入れようと思っても、1階から地上6階相当(駐車場の天井は低く細かく階層が分かれている)の屋上まで延々さがしまわって20分以上かかることもザラです。ですので、どこそこのショッピングセンターの駐車場だったら、何曜日の何時には、どの入り口から入って、どこに進むとわりと空いているという土地鑑みたいなものが必要になります。このあたりの知識がないと、ちょっとした買出しだけで半日仕事になってやってられません。
なお、買出しは当然ながら日本食材に限ったものではありません。パンとかミルクとか食用油とか普通の食材は、普通のスーパー、つまりColes(オーストラリアのダイエーみたいなスーパーチェーン)などに行かねばなりません。でもって、こちらはマーケティングが細かいのか、同じチェーン店でも、エリアによって平気で値段が違います。また質も違うし、品揃えも違う。また商品の配置も違う。こちらのスーパーは体育館並に巨大ですから、各店舗ごとに配置を覚えていないとえらく時間を食います。さらに、物流がいい加減なので、品切れになってることが良くあるし、ヘタすれば補給されるまで一ヶ月くらい待たされることもあります。やっとの思いでたどり着いたら品切れだったというのは、かなり情けないです。
そんなこんなで毎日買出しに出かけていたら、買い出しだけで毎日数時間ロスします。体力も消耗します。オーストラリアのギラつく太陽を見ながら(あるいは先行車の照り返しを見つめつづけて)運転してると、目が異様に疲れて、僕の持病の偏頭痛が誘発されてしまい、そうなったら料理どころではありません。
ですので、常時備えておくべき食材は備えておき、不足が出そうだったら予め補給しておく必要があります。資材管理です。例えば、パン粉はあと1回分はあるけど、2回分はないから今のうちに買っておこう等ですね。そのためには、常に頭の中に、現在の資材の状況が正確に叩き込まれている必要があります。片栗粉はあと3ヶ月は持つはず、酢はここ当分はOK、キッチンタオルはどうか、アルミホイールはどうか、乾燥椎茸はどうか、春巻の皮、冷凍餃子、トマトソース、バジルやオレガノなどのハーブ類、ココナッツミルクの缶、、、数えたことないけど、およそ数百品目あると思いますが、ほぼ間違いなく頭に入っている必要があります。これは練習次第で出来るようになります。
しかし、あまりに買いだめしておくと、こんどは賞味期限があるものは切れてしまったりしますので、良し悪しです。こちらの賞味期限は日本のように正確ではなく、賞味期限前でも平気で腐ってたりしますからね、そのあたりでも注意が必要です。
さて、やっとの思いで車を停めて、また馬鹿デカい駐車場をテクテク5分以上歩いて売り場に行ったとしても、買うべきものをすべて買えるとは限りません。買い忘れたりするわけですね。冷蔵庫にメモを貼り付け、補給すべき食材をリストにして書いてあるわけですが、そのメモ自体を持ってくるのを忘れたりもします(^^*)。また、忘れたわけではないけど、出先で時間が出来たので、このついでに買出しをしちゃえって時もありますから、メモなしで必死で思い出したりするわけです。「あー、なんか忘れている気がする、なんだっけなあ、、、、」と眉間に皺を寄せながらスーパーの陳列棚の間を、カートを押していたりします。でもって、帰ってから、「あー、そうだったあ!」と悔しがるというのがパターンですね。
さらに、買うに当たっては、「本日のベストBUY」とでもいうべきものがあります。旬のものとか、珍しいもの、特売やってるものなどです。特にフィッシュマーケットなどに買出しにいくようなときは、その日によって鮮度や品揃えが違いますから、この観点は重要です。
値段についていえば、ぱっと見てこれが高いのか安いのか瞬時に判断する必要がありますから、大体の相場を知っておくのが前提条件になります。買出しに行くべき数百品目について、大体の相場の値段を記憶しておくこと。面倒なのは、時期時期によって相場の変動があることですね。サランラップとか、キャットフードの缶詰くらいだったら年間通じてそんなに変わりませんので、あとは店によって高い安いを判断すればいいから楽です。しかし、野菜になると、これはかなり値段の変動があります。レタスとかねー、一個1ドルを切るときもあれば、3ドル近くなるときもあり、3倍くらい違ったりします。
それだけではないです。安くてもモノがダメだったら意味がないので、それなりに目利きが出来ないとなりません。魚は一般的に見れば誰でもわかるのですが、野菜とか肉になってくると中々難しいものがあります。こちらは、野菜でも量り売りですから、一個一個自分で選べます。玉ねぎとかね、大きさと重さとの兼ね合いを持った感じでチェックします。耳の近くに持っていって、ギュッと握って、その音で鮮度を調べる方法もあるようですが、なかなかマスターしきれないですな。肉もですねー、大体きれいな方をパックの上に向けていて、裏側は痛んでたりするので、そのへんは騙しあいみたいなものです。かなり美味しいステーキ肉は、キロ35ドル前後くらいするとても高いものですが、日本で食べれば1万円以上のレベルのステーキが焼けますのでお値打ちです。キロ35ドルとかいっても、100グラム300円くらいですからね。これもかなり真剣に選びますよね。買うのは3回に1回くらいですか。あとは『今日はいいのが無い』とかいって諦めます。何処が違うの?というと、まあ、見た目なんですけど、何回も買ってるうちに段々分かるような気になります。肉の繊維の細かさとか、ダレてないかとか、色合いとか。
以上、買出しひとつとっても、これだけの能力が必要とされます。
資材購入部長としては、貯蔵してある資材の現状を正確に把握・記憶しておくだけではなく、各商品に関する最低限の目利と相場知識が必要です。また、買い付けにあたっては、より迅速に、安く購入できるように、各店の品揃えや道順や道路状況についての知識も必要。
これら買出しに関する資材部長であるアナタは、同時に前回述べた献立決定に関する商品開発部長も兼任しているわけですから、安いからといってドカドカ買ったり、あるいは買いだめすりゃいいってものではないです。買ったはいいけど何の商品開発コンセプトにも結びつかなかったら意味無いです。刺身とカレーを同じ食卓に出してもしょうがないです。数日分の買出しをするにしても、後の方になればなるほど鮮度が落ちますから、その順番も正確に考えておかないと、冷蔵庫に死蔵したまま終わってしまいます。
ですので、世の奥さん達は、スーパーにノホホンと買出しに行ってるわけではないし、特売の卵にだけ殺到しているわけではない。我が家の食料その他の備蓄の残量を把握しつつ、数日分の献立を考えつつ、値段を比較しつつ、今月の予算配分にも気を配り、同時に複数の演算をやりながら、総合的に組み立てているわけです。はっきり言って、かなり頭使いますよ。馬鹿にはできない仕事です。
さあ、献立も決まりました、買出しも済ませました、やっとこれから製造事業部の登場です。ここから、ようやくキッチンに舞台が移り、「料理」っぽくなります。
よし!と掛け声をかけて、いきなりジャガイモの皮を剥き始めてはダメです。そこにはダンドリというものがあります。料理の本質はダンドリと準備にあります。高村薫の「神の火」という小説に「テロリストの仕事の99%は準備だ」と書いてあるのを以前にも紹介しましたが、料理もそうです。
ダンドリの大前提としては、調理器具がちゃんと揃っているかどうかという問題もあります。包丁が切れなかったら砥石で研ぐこと。そもそもろくな器具がなかったら、この際奮発して良いものをそろえること。どうかするとパソコンや自動車以上に毎日使うものですので、「性能」というものの差がハッキリあります。鍋でもよいものを使えば、同じように作っても美味しく出来ます。こちらは幸いなことにいい調理器具が比較的安価に手に入るので、フライパン一つに平気で100ドル以上投資するくらいの気合が欲しいところです。テンポラリーに住むなら別ですけど、ずっと使うなら、おそらく今後数千回と使うわけですから、一回当たり1円くらいの投資でしかないです。経済学でいうところの費用逓減の法則ですね。このあたりは、工場における製作機械を新調するかどうかの判断と一緒ですね。
OK、今から鍋を買いに行ってるヒマはないので、とりあえず現状で調理を始めることにしましょう。というわけで、ジャガイモの皮を、、、って、まだ早いって。仕込み以前にやるべきことがあります。なにか?まずは調理場の周囲を片付けることから始めます。え?片付いているって?そうね、片付いているかもしれませんね。でも、流しに汚れた食器が無いと言うだけで「片付いている」と判断するのは早計です。洗った食器を乾かしておくためのトレイに食器が残っていたら、きちんと食器戸棚に収納しておくべし。同じように、調理をする場所、例えばキッチンのカウンターやら、テーブルの上は出来るだけ物を乗せずにスペースを確保しておきましょう。これが大事。
なぜかというと、プロの厨房と違って、よほど素晴らしいキッチンでもない限り、普通の家庭のキッチンは手狭です。料理というのは結構スペースを使います。まな板の上で切ったり、レンジの前で煮たり焼いたりするだけではなく、やれ大根をおろしたり、ボウルの中で調味液を調合したり、炒めたものをいったん皿に出したり、場所なんかいくらでも欲しいです。このときに、スペースが足りないと、非常に面倒なのですね。ボウルに卵を割りいれて溶いたのはいいけど、そのボウルを置いておく場所がないとか、無理やりカウンターの端あたりにギリギリの位置に置いておくと、何かの拍子にボウルが落っこちて、床一面卵だらけになって、キーッ!っていうことになります。そういう悲惨な事態を未然に防止するためには、本当のことをいえば、理科室の実験台か、ピンポン台くらいの広さがほしいくらいです。そうもいかないから、限られたスペースを出来るだけ有効に利用する準備が必要なわけです。
料理に使った食器(調味液を作るとか、肉をあらかじめ漬けておくとか)も、スペース有効利用のためには、終わり次第、片端から洗っておく必要があります。料理をしながら洗うというのは難しいようで、意外と出来ます。料理というのは一気に畳み掛けるように次々にやらねばならない濃密なときと、ボケーッと待ってるときとがあり、時間の密度は一様ではないです。「忙中閑あり」といういうやつですね。鍋に湯を沸かしている間、じーっと見てたりとか、結構無駄に使ってる時間はあります。天麩羅あげるときに、あがるまでに数十秒ありますから、なんとなく待ってないで、その間にチャッと洗い物を済ませる。瞬時に頭を切り替えて、流しを常に片付ける。これも仕事が遅いとダメですよ。10秒の間隙も有効に使うべしと。でも、天麩羅だったら、このくらいの温度でこのくらいの具だったら何十秒くらいでフィニッシュになるか、どの時点で火加減を調整しなきゃいけないか、これもカンですが、大体のところはインプットしておかないとならないです。
これを怠って、流しに食器を積み上げておくと、いざというときに困ります。例えば、スパゲティを茹でてて、入念な注意でアルデンテになるのを見極めて、さあ、一気にお湯を捨ててしまおうと思って、重い鍋を流しに持っていったときに、流しが一杯だったら、せっかくのアルデンテも水の泡です。「あー、あー」とかいって、流しを整理している間にパスタは伸びてしまいます。
同じ理由で、食卓の上も予めキレイにしておきましょう。いよいよ配膳というときに、新聞やら、郵便物やら、ゴチャゴチャ積み重なっていたら間に合いませんからね。でもって、全部まとめて一気に片付けてそのへんに置いておくと、大事な郵便物が古新聞にまぎれてしまって、あとで数時間かけて「おっかしーなー」と探し回る羽目になります。二次災害。
こういうダンドリって大事なんですよね。銀行強盗をするときに逃走用の車を用意しておくように、それも入念にコンディションをチェックしておくように、いざ逃走という本番の一秒を争うときに、エンジンが掛からないとかバッテリーがあがってたらダメなわけです。よく、パソコンのRAMの容量のことを、キッチンや仕事のデスクのスペースに置き換えて説明したりしますが、まさにその逆もまたしかり。無駄な常駐ファイルは削除して、RAMを最大限に使えるようにするために、キッチン周りの整備は重要です。
さて、準備が整ったらいよいよ料理本番です。ここまで延々書いてきたのでお分かりかと思いますが、料理そのものは、料理の全工程のうちのほんの20%くらいしか占めません。ましてや、「絶妙な包丁さばき」「入念な味付け」「フライパンひっくり返し」などの華麗な部分は、ほんの3%くらいしか占めません。
家庭での素人料理ですからね、時間をかけて丁寧にやれば、そうそう滅多にハズすことはないです。ストライクゾーンは広いし、ハードルも低い。丁寧にやればいいんです。だけど、多くの場合は丁寧にやらない。出来ない。なぜか?ダンドリが悪いからですわ。大体、味付けとか、火加減とか、最終的な食べ味に関係するのは、総工程の最後の方にまとまっていたりします。この最後のときに、ゆったり時間をとって、落ち着いて味付けできるようにしなければならないのですが、ダンドリが悪いとそれが出来ないのです。ダンドリが悪ければ悪いほど、最後になってドタバタします。あー、まだゴハンかきまぜてないとか、味噌汁に葱入れるのを忘れたとか、茶碗や箸が食卓に出てないとか、天つゆが出来てないとか、ほうれん草のおひたしに白胡麻を振り掛けるのを忘れたとか、餃子の醤油+酢+ラー油が出来てないとか、お椀が一個足りないとか、、、、、あれもやってない、これもやってない、あれもやらなきゃ、これもやらなきゃになるのです。ドタバタします。だから、ゆっくり丁寧に味付け、、、なんてやってられなくなります。一番大事な工程で最も雑な仕事をしてしまいがちです。そうこうしているうちに、蕎麦は茹で過ぎてボコボコになったり、味噌汁は沸騰してしまい、ステーキは冷え、カレーは焦げます。でもって、食べ終わったときに、「あ、サラダ出すの忘れてた!」みたいな話になるのですね。
料理というものは、温かいものは温かく、冷たいものは冷たく出して食べるのが一番美味しいです。当たり前ですけど、実際にやってみたら、なかなかうまい具合にいきません。冷蔵庫に冷やしておくにしても、冷やすには時間が掛かります。温かいものも時間がたてば冷めてしまいます。当たり前といえば当たり前なのですが、完成に向けて全ての工程について、惑星直列のようにビシッと時間を合わせるのは至難のワザです。天麩羅、ステーキなど、出来た瞬間が一番美味しく、あとは一秒ごとに味が落ちていくものも場合、出来上がってから「いただきます」までのタイムラグを出来るだけ縮めたいのが人情です。本格的な天麩羅屋さんの場合、揚げたてを一品づつ出してくれますが、そのくらいするのがベストなのですね。でも、家庭料理では、一気に全部揚げてしまってそれから食べたりします。どうしても先に揚げていたものはタイムラグが生じて美味しくなくなります。だから海老とかは最後に揚げて出来るだけ熱いうちに食べようと配列を決めるのですが、後になればなるほど今度は油が汚れてキレイに揚がらなくなるのですね。ジレンマです。
それだけに、工程にタイムラグが生じないように、最初からキッチリ考えておく必要があります。最後の工程には何をもって来るべきか、天麩羅が揚がってから天つゆの小鉢を出してるようではダメなのです。スパゲティが茹であがってから、おもむろにミートソースを温めなおしていたら折角の苦労も台無しです。ゴハンが炊き上がって蒸らしが終わる時間、トンカツを揚げるための所用時間、全ての作業には時間がかかりますから、それらを緻密に計算して、同時並行的に進めていきます。どうしても同時にできないもの、先に済ませておけばそれで済むものは、予めやっておきます。特に最終段階になると、レンジ3つも4つもで同時並行的に調理を進行させなければならないこともありえます。唐揚を揚げながら、タイミングを見計らって味噌汁を温めなおし、さらに煮物も味醂を入れて最後に照りをあたえる、、、なんてこともしなければなりません。一人で何枚もの皿を廻しているようなものです。しかし、そのくらいできるでしょう。普段の仕事だって、同時並行的にいくつものも作業を走らせているわけですから。
料理そのものの技術に関しては、「勉強しろ、研究しろ、練習しろ」に尽きます。
この程度の水の量にこのくらいの醤油だとどのような味がつくかとか、このくらいの火加減でこのくらいの大きさのジャガイモが柔らかくなるまでどのくらいかかるか、煮崩れるのにどのくらい掛かるか、魚の捌き方、野菜の切り方、アクの取り方、酢での締め方、結局は何度も繰り返してやってカンドコロをつかんでいくしかないです。
ただ、大事なのはいつも考えてやることでしょう。どうしてこんなことをするのか、どんな法則性があるのか、もっと工夫の余地はないか。味を構成する原理を知ること、加熱や時間の経過で食材がどのように変化するのか、その特性を把握すること。インターネットを使えば、いくらでも料理のレシピーは検索できます。もう無限にあります。同じ料理であっても、人によって料理法が微妙に違ってたりします。その場合、これを外したらこの料理にならないというキモの部分と、お好みやオプションで変更できる部分とを分けて考えます。
プロの方々は、ほぼ毎日同じ料理を作りますから(それも膨大に)、毎日工夫の余地があります。それにくらべて家庭料理の場合は、最後に作ったのは3ヶ月前とか間隔が空きますから、「こないだどうやって作ったっけなー」という具合に、何回やっても覚えなかったり、前回の失敗が生かされないことが往々にして生じます。そこが難しいところですね。一回の料理で何か学ぶべきものを掴み取ってくるくらいの気構えでいないと、十年一日のごとく不味いままだったりします。
あと、一般論としていえば、丁寧に作ればそれなりに美味しくなります。適当にやっつけ仕事で作ると、手を抜いた分、ビビッドに出来上がりに反映したりします。例えば、玉ねぎのみじん切りなんか面倒臭くて泣ける作業なんですが、ここを丁寧に細かく細かく切っていくか、適当に粗く切ってよしとするかによって、出来上がりの味の染み込み方や、舌ざわりが全然違ってきます。ハンバーグなんかそんなに難しい料理じゃないのですが、結局、玉ねぎをどれだけ丁寧に切るかで決まるんじゃないかなって気もします。だから、「このやろ、このやろ、このやろ、あー、ちくしょー」で泣きながら偏執的に切るかどうかが勝負じゃないかと。
工夫の余地でいえば、最後の盛り付けですね。美的センスが問われる工程です。
皿は何にするかという選択にはじまって、いかにキレイに盛り付けるか。これもワザというか、どれだけアイデアを多く持ってるか、ですよね。黄金分割とか、美しいタテヨコ比率とかありますが、そこはあれこれトライしていくしかないでしょう。日本料理の美しい写真などを見て研究するといいです。僕がパクッたワザでいえば、 煮付けの盛りでいえば、平坦にベッタと盛るのではなく、こんもりと小山のように盛るといいです。この場合、その器の容量の半分ないし3分の1くらいに控えめに盛るといいです。やや極端に、底辺部はほとんど小鉢の底が見えるくらいで、そのくせ真中はピラミッドのようにツンと突き出しているのがいいです。でもあまりに幾何学的に揃ってしまうと妙に不自然ですから、適当に崩して、自然な非対称性を演出するといいです。鍋のものを全部よそってしまいたいところですが、満々と盛られていていいものと悪いものがあります。あまりに沢山盛られていると、見てるだけでお腹一杯になりますから、器の中の食べ物の”人口密度”をスカスカくらいにしてやるといいです。
洋食系でも、実際の分量に比べて、一廻りか二廻り大きな皿に入れると映えます。フランス料理なんかでもそうでしょ?真中にちょこっとあるだけで、はっきりいってコーヒー皿にでも入りそうな分量しかないですけど、それをあえて30センチくらいの皿に盛るのですね。このスカスカ感がゴージャス感につながります。最終的には「ご馳走を食ってる」という主観的に満足につながるかどうかが全てですので、そのためには何でもやる!ということですね。
あと、色彩。パセリみたいな緑系は、最後にちょこっとあしらっておくと映えます。特にパスタなどにはいいですね。トマトソース系の赤色に、粉チーズの黄色系をまぶし、最後に瓶詰めの乾燥パセリの緑を散らします。僅か数秒のフィニッシュで、一気にワンランク上のご馳走に見えます。
以上が、料理の最低限のスキルといえます。「最低限の」ですよ。さらに工夫の余地はあるし、創作料理とか、10人以上呼んだときのパーティ料理とかワザの道は遠いです。プロの方々の世界は、僕などには気の遠くなるような世界ですので、とても言及できるものではないのですが、家庭料理であったとしても、このくらいの技量は要るということです。
どうです、結構難しいでしょう?相手にとって不足なし、ですよ。
なお、そこまで本格的に取り組めないけど、なんかお手伝いすることはないか?というと、これはあります。もう猫の手も借りたいのが厨房ですので、それはあります。しかし、「なんか手伝うことある?」と漠然と聞くのは止めた方がいいです。理想的なのは、状況を見て、何をすべきか瞬時に判断して、実行することです。これって、別に普段の仕事と変わりないですよ。「僕は何をしたらいいですか」という指示待ち人間は職場には不要であるのと一緒です。
「なんかない?」と漠然と聞かれたら、「うーん」と料理の手を止めて考えなければならないのですね。これが結構面倒臭い。それに、指示を言語化するのが面倒くさい。「冷蔵庫の一番下にある大根をとりだして、引出しの二番目にあるおろし金でおろしといて。あー、大根は全部おろさなくていいから、天つゆに入れるだけだから、3センチくらい切っておろせばいいし、その前に大根の皮は一応剥いておいて、、、包丁は、、、あー、もう、自分でやるわ」って感じになります。アルデンテのタイミングを見計らって全神経を集中しているときなどには、言語化するのも邪魔くさく、「ちょっとアレをナニして」みたいな言い方になってしまいます。
黙々ととなすべきことが出来ないのであれば、相手にYES/NOで答えられるような、具体的な質問をするといいです。「テーブル、今のうちに拭いておこうか?」「このボウル、もう使わないなら洗っておこうか」「醤油で食べるのかな?小皿を出しておこうか?2枚?」など。大体、いつも食べてるものが出来ているわけで、完成図は大体予想できるはずです。完成図から逆算していけば、あとどんな作業が必要かは大体分かると思いますし、「少なくともこれは必要でしょう」というラインは分かると思います。それすら分からないのだったら、、、、、、それって結構頭悪いのかもしれない、、、。人間の賢さってそういうことだと思うのですよ。不慣れであろうが、状況を見て、解析して、そして個々の仕事という形で分解していくという、そういう知的作業が出来るかどうかが人が本来持っている賢さであり、そこがダメだったら、いくら仕事が出来ようがいくら勉強が出来ようが、賢いとは言わないんじゃないかって気がしますね。
それと、最大限の協力は「評価」です。これに尽きます。料理がおわって食べるときというのは、マラソンランナーがゴールに入ってきたのと同じです。ミュージシャンが一曲歌い終わったのと同じです。拍手をしろとは言いませんが、「ご苦労様」という意識は持つべきだと思います。いや別にお義理で思わなくていいですよ。ただ、相手の苦労を多少でも和らげたいなって思ったら、それなりの評価をすべきだと思います。人は、他者の瞳に映った自分の姿を見て自己確認をするのですから。エヴァンゲリオンでもそう言ってるでしょ。
もっと評価したかったら、具体的なポイントに触れて言及するといいです。これは、自分で料理が出来る人の方がよく分かるとは思いますが、「ああ、上手にパリッと揚がってるわ」「キレイに盛り付けたなあ」とかね。
でも、もっとも基本的な対応は、「ちゃんと食べる」ということでしょうね。
「温かいうちにどうぞ」といわれたら、窓から盗賊が入ってきて格闘をしているとか特段の事情のない限り、ささっと食卓に赴き、温かいうちに食べる、これが大事。さっき、天麩羅なんか揚げ終えてから1秒ごとに味が落ちると書いたけど、これ大袈裟じゃなくて本当ですよ。この微妙なマジカルでミラクルな美味しさを求めて、わざわざ買出しの時点から美味しそうな海老を吟味して買ってきてたり、細心の注意をはらって火加減に気をつけ、面倒臭い思いをして製氷皿から氷を取り出して衣を溶いているわけです。それらの苦労が、食べるのが1分遅くなっただけで全部パーになるんですわ。食卓に遅れてくるのは、人が丹精こめてつくった花壇を踏み荒らすのと同じくらい失礼なことだという認識はもったほうがいいです。まあ、調理者がどれだけ気合を入れているかによりますけどね。
同じようにプロの仕事についても、出されたらすぐ食べるのが鉄則だと思います。職人さんが気合を込めて作ってるんだから、ベチャクチャくだらないことを喋って食べずにおいて味を落としたら失礼ですよ。僕が職人だったら、客の胸倉掴んででも、「てめー、早く食えっつってんだろ!」と言いたくなるでしょうねー。
最後に、今回は料理に焦点を当てましたが、これらは家事全般に共通することです。というか、家事も仕事もなにもかも、全て人間の営みに共通することだと思います。
日常の何気ない作業のなかから、人生のエッセンスを抽出していくという、日本人独特の精神傾向をバリバリ全開にしていうなら、人が何かの物事に向って対処しようとする場合、その人の心栄えであったり、生き様であったり、人となりが反映されます。茶道なんか、たかだか(関西弁でいえば)「茶、シバく」だけのことですわ。そこに対人関係の本質や、ホスピタリティの真髄を極めようという真摯さと美意識が働いて芸事になるのだと思います。それは茶に限らず、料理だって、風呂場のタイルのカビ取りだってなんだって同じことだと思います。
禅寺の修行なんかいわば家事ばっかりです。朝早く起きて、廊下を雑巾がけしたり、水を汲みにいったり、マキを割ったり、炊事をしたり。禅宗というのは、宗教と呼んでいいのかためらいを覚えるくらい哲学的な宗派ですが、僕が適当に大雑把に理解するところでは、要するに「自分がここに”生きている”ということはどういうことか?」を考える思弁体系だと思います。そして、観念的に頭でっかちにならないように、「生きる」ということの身体感覚を忘れないように、一生懸命家事をやるんじゃないかって気がします。家事というのは、すなわち、生きていくための基本動作ですから。食う、寝る、飲む、洗う、清める、繕う、、、こういった生きていくことそのものともいえる基本動作をビシッ!とやることで、何か大事なこと、肉体と魂のありようみたいなものを忘れないようにしているのではないか、と。
人の生き方というのは振幅があって、ひとつは社会的なお約束に満ちた高度なゲーム性のある生き方と、素朴な身体感覚に根ざした存在確認としての生き方です。前者のお約束的ゲームというのは、要するに難関を突破して有名大学に入るとか、同期で出世頭になるとか、デカいビジネスをまとめあげてみるとか、賞を取るとか、有名になるとかいう、対社会における自己表現・自己実現・自己確認です。これはこれで大事なことだと思います。でも、ま、ずっと昔に雑記帳で書いたように、それってどこまでいっても「ゲーム」です。だから、それだけだったら虚しくなってしまうこともあります。まさに虚名ではないかと。
そんなときには、もう一つの生き方、生身の肉体と魂を持つ自分がここに存在しているということを原点にして、喜びを得るという方向性です。自分がここに「生きている」ということを、もっとちゃんと味わおう、きちんと理解しようと。話が自分だとわかりにくいかもしれないですね。自分なんて居て当然みたいですから。だったら、恋人でも配偶者でもいいです。恋人が出来て喜びを得ますが、その喜びの性質は、前者のゲーム性に基づく喜び、つまりカッコいいパートナーを得て世間に自慢できるという充足感であったり、あるいは政略結婚として「また一歩野望に近づいた」的な前進感覚とか、はたまたクールな異性をゲットできたということで「ふふ、俺もなかなかやるじゃん」と確認して安心したり、、、そういったものだとします。世間に顔向けができる、それどころかエラそうな顔が出来る、ひいては自分自身に顔向けができるという達成感ですね。それとは全然別に、心の通い合ったパートナーが居るということ、手を伸ばせばそこに安らかに寝息を立てているということ、この「存在」そのものに大きな充足感を抱くでしょう。これが存在的価値で、恋人が傍にいることが祝福ならば、自分がここにいることもまた祝福ではないかということですね。
この後者の存在的アプローチと、禅寺の修業や、家事をきちんとやることというのは通底しているような気がします。対世間的ゲーム論でいえば、家事なんか大した評価も与えられないただの雑用ですわ。やったからといって賞がもらえるわけでも、マスコミに注目されるわけでもない。そんなことにエネルギーを使うくらいだったら、昇進試験の勉強や、TOEICの勉強をしていたほうがなんぼかマシってなものでしょう。でも、見方をガラッと変えたら、家事が出来ないで「生きてる」って言えるかい?って発想もアリだと思うのですね。
僕はどちらか一つの偏りたくはないです。社会的FAMEもまた、それはそれで積極的に肯定しますよ。しょせんゲームとはいえ、そこで磨かれ、学ぶべきことは多いですから。また、対世間とは関係なく、盛り上がってしまう「遊び」があるのもよくわかります。ただ、それが全てでもないと思います。「男の料理」とは、家庭的な男であるとか、奥さんに優しい男であるとか、いい趣味を持っている男であることとは違うと僕は思います。言うならば、それらは全て、ゲーム論を前提にした発想でしかない。そうじゃなくて、「男の料理」とは、ゲームもバリバリこなすけど、それだけに留まらず、人間の存在的価値をも知ってるかどうかってことじゃなかろうか、って気がしています。そしてまた、たたがメシを作るだけのことに、これだけ能書きを垂れるという部分にこそ、「男」性があるのだとも思います。女性のように「美味しいからハッピー!」という論証不要の逞しくもぶっ飛んだシンプルさを持ちえず、解析・分析・意義付け・意味探し・論理構築が大好きで、これをしないと気が済まないという男性特有のメカニカルな”業”なのでしょうね。
文責:田村
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