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今週の1枚(04.04.26)
ESSAY 153/男の料理について
今、これを書いている4月25日(日)は、オーストラリアはANZACデーといって国民の祝日です。ANZACというのは、よく聞く名前で、基本的にはオーストラリア、ニュージーランド連合軍のことです(正確には、Australian NewZealand Army Corps)。この日は、dawn serviceといって、夜明け前に皆が集まり、戦没者追悼などのセレモニーがあり、午前中は大体お店は閉まります。
このANZACデーですが、今ひとつ僕らにはピンと来ません。もともとは、第一次世界大戦の時に、ヨーロッパ(東欧方面)に出征したオーストラリア、ニュージランド軍が現地でえらい苦労をして戦ったことに基づくわけで、それが何かもう無条件にエラいことで、無条件で感動的であるかのように扱われているように感じます。トルコのガリンポリ半島という場所で塹壕を掘って頑張ったらしいので、「不屈の闘志をもって挑む魂、姿、人」のことを、digger(掘る人)といって、オーストラリア語の重要スラングになってます(スラングといったら怒られるくらい)。 Gallipoliとかdiggerという単語は、オーストラリアに来るなら知っておいて損はないでしょう。
ANZACデーには、いわゆる退役軍人が勲章をたくさんぶらさげて、所属部隊ごとに集合して夜明け前のシティを行進します。その家族も、市民も多く参加します。一種の戦争記念日なんですが、こういうことになると僕らは部外者ですから、「なにやってんの?」という多少クールな見方になってしまいます。
そりゃ戦争で出征した兵隊さんはご苦労をなさったでしょう。その苦労を謝するのは別に悪いことではないけど、なぜトルコ?というのがあります。どうしてあんなところまで?と。母国イギリスの利権争いのために、子分であるオーストラリアやニュージーランドが狩りだされただけじゃん。そもそもあんな戦争自体必要あったのか?なぜそんな「つきあい」で自国民を遠いヨーロッパまで派遣しなきゃいけなかったのか、そこに何か反省点はないのかって気もします。
オーストラリアはその後もたくさん戦争をしてます。いわずとしれた第二次大戦もそうです。それだけではなく、ベトナム戦争もそうですし、イラクにも行ってます。ガリンポリに駆りだされた兵士も、ベトナムの戦場に連れられた兵士も大変なことに変わりは無いのですが、どうもベトナム戦争については、オーストラリアはあまり語りたがらない。できれば無かったことにしたいんじゃないか。数ある戦争史のなかから一番古い第一次大戦を取り出しているってのが、なんかピンとこないのですね。まあ、実際被害は相当のものであったらしいし、ANZACデーそのものは戦争の翌年からやってるそうですから、それが続いているだけって言えばそうでしょう。しかし、被害が凄まじかったのは、第一にイギリス軍本部がガリポリを舐めてかかった作戦ミスであり、オーストラリアは母国イギリスの無能さゆえに苦しんだといえなくもないから、「大変だった、エラかった」と皆で誇らしげに語ってないで、植民地的追随行為そのものを検証すべきじゃないかともいえます。それは今日の、英米のイラク出兵の無条件とも言える追随にもつながっていると思います。
どうもそのあたりが、僕ら後から来た移民はそう思うのかもしれないけど、オーストラリアって独立した国であるはずなのに、心の底に、どっかしら自立しきれていない部分があるように感じられ、「なにやってんだか」って苛立ちを覚えますね。マザコン(対イギリス)であり、ブラコン(対アメリカ)であると。
ANZACデーが戦争の惨禍と自戒としてよりも、美談として取り上げられ、ファイティングスピリッツやプライドや愛国心的文脈で語られているのは、多分、すごく古いからでしょう。第二次大戦になると悲惨さがけた違いになって、もうそんな酔えるという感じじゃないみたいだし、ベトナムとかイラク戦争になると政治的な生々しさと胡散臭さが出てきてしまって「ファンタジー」になりにくいんじゃないかなってニラんでます。今回も、ANZACスピリッツを受け継ぐものとして、治安の悪化しているソロモン諸島へ派遣されているオーストラリア軍が紹介されたりしてますが、どうもああいう無邪気なNPO的なものにひきつけて考えたいみたいですね。イラク戦争にも派遣されているのだけど、生々しすぎてどうも触れにくいように感じます。
村上春樹が、「やがて悲しき外国語」というエッセイで、湾岸戦争でナショナリズムに湧くアメリカにいて、「戦争に勝ちつづけるのって結構しんどいことなんだろうなって思った」と書いてますが、わかるような気がします。日本は、ほんと、戦争に負けてよかったと思いますよ。勝ってたらあのまま軍国主義が続いていたわけでしょ?勝てばそりゃ直後は潤うかもしれないけど、軍備はさらに増強しなきゃならないし、退役軍人連盟あたりがいつまでもエラそうに出張ってくるし、政治においても「軍部」というものが出てくるし、産軍官複合体みたいなものが国家の中枢を牛耳ることになるし、いかにも風通し悪そうですよね。負けたおかげで、そういった呪縛からは一切逃れられたし、ナショナリスティックな風潮は戦後ずっとクールに抑えられたと思うし、そもそも軍備に金を使わずに経済復興だけ集中できたというのが大きいです。でなきゃ、戦後あんなに経済復興するわけないです。
今のアメリカもねー、アメリカ人が「もう戦争だけは二度とイヤだ」と言って、戦争放棄武力放棄をしたら、随分世界も平和になると思います。唯一のずば抜けた軍事大国であり、経済大国になってんだから、今更武器なんか要らないんじゃないか?って気もしますよね。世界の国々がアメリカにイヤイヤでも従うのは、軍事力が恐いのではなく、経済的報復が恐いんでしょう。特に日本をはじめ、先進国はそうでしょう。まさかアメリカ軍が軍事進駐してくるとは思ってないし。だから経済力だけで世界をシメれるんだから、軍備なんか要らないでしょう。一番強い奴が武器を捨てないと、誰も捨てないよって思います。ただ、まあ、そうなると軍需産業とか軍部関係インダストリーや職場が失われるから、今更止めるに止められないのでしょう。
さて、話は一気に変わって、今週は「男の料理」について書きます。
ウチではカミさんではなく、僕がメインに料理を作ります。これに関しては別に深い理由はなく、孫子の兵法風にいえば、「技量優ル者アラバ、主トシテソノ任ニ当タリ、技量コレニ次グ者アラバ前者ヲ補佐スベシ」という、単純な合理主義です。要するに僕の方が上手だから僕がやっているという。それだけ。
もともとウチの実家では「男子厨房に入らず」的なカルチャーはなかったですし、商売やってた時期もあって、小学校の頃など、弟の晩飯は僕が温めなおして出していたりしましたから、料理に対するアレルギーはないです。アレルギーとか偏見の無い身にとってみたら、料理というものは、掃除、洗濯、庭仕事や家の修繕と同じく、生きていくうえで生じる当然の生活事務の一つに過ぎません。極端なことを言ってしまえば、「料理が出来る」というのは、「ひとりでズボンがはける、ボタンがはめられる」と同様、そんなもん出来て当たり前でしょう、という次元の話です。
ですので、自分の中だけからは「男の料理」なんてコンセプトは生まれないし、こうしてエッセイのテーマにしようとすら思いつかないでしょう。それを言うなら、「男の掃除」とか「男の布団干し」なんかもテーマにならなきゃウソです。でも、こうして書いているというのは、あんまり世間の皆さんはそう思ってないようで、いつもなんか違和感があるのですね。
違和感の一つは、「家事」というものの捉え方です。「家事」ってなんなのよ?と。
僕は何でもシンプルに大雑把に捉えるのが好きなのですが、生存に必要な技術は習得して当たり前だと思ってます。つまり、呼吸とか、睡眠とか、歩行にはじまって、食物の摂取、咀嚼、嚥下、、、これらが一人で出来ないと生きていくのは難しいです。呼吸困難、歩行困難、食事の経口摂取に障害が生じる病気はたくさんあり、それらに罹患している人は本当に大変だと思います。
まず最低限生存に必要なことが出来るようになり、さらにその前段階に話が遡っていきます。「食べる」という行為をするためには、まず食べ物をゲットして、それが食べられる状態、それも美味しく食べられる状態にする=つまり調理をする必要があります。食べ物をゲットする方法としては、農耕漁労にはじまって、貨幣経済の世の中ではお金をゲットすることなり、お金をゲットするためのスキルとか世の中の遊泳方法などのスキルが必要になります。つまりは「仕事」ですね。やっとの思いでゲットした食べ物も、そのままだったら生肉だったりして食べられません。だから火をおこしたり、炙ったりという調理というダンドリが必要になります。
仕事は、男がやっても別に誰も珍しがらない。それどころかやらないと色々言われる。ゴハンを「食べる」という行為は、これは誰でも出来て当たり前。これら一連の過程のうち、前後についてはやって当たり前なのに、なぜかその中間段階の調理に関しては男は出来なくても良いということになっている、、、、なんでじゃ??
原則は常に「適材適所」なんだと思います。
家では料理をしないお父さんですが、キャンプ場でカレーを作ったり、磯でバーベキューをするのは実はお父さんだったりします。オーストラリアは、何度も言ってますが「キャンプ国家」みたいなものだから、オーストラリアの伝統食であるバーベキューで、火を熾したり焼いたりするのは男の役目だったりします。なんで、こういう場合には男が動くのでしょうか?その方が適してるからだと思います。
キャンプでカレーを作るのは、キッチンで作るのとは違って大変です。まず火を熾す場所を決め、手間暇かけて火を熾さなければならないし、水も汲んでこないとならないという力仕事です。力仕事して認識されれば、筋力に勝る人間=通常は解剖学的にいって男性=がこれに当たるべしということにもなります。ただし、より力や筋力を必要とされる仕事が他に出来た場合には、男はそちらにあたります。つまりは、台風が近づいてきて家の補強をしなければならないとか、今はそんなことないけど昔だったら野盗が襲ってくるかもしれないので警戒にあたったり、戦闘行為をしたり。そういうときは、適材適所の原則からいって、最もその任務に相応しい人間がそれに当たると。
同じように、昔の農作業でも、力仕事が必要な野良仕事は男がメインにやり、より力を必要としない家事の必要がある場合は女がそれをやっていたのでしょう。ポジションを逆にするよりも、その方が全体としての仕事量は増えるからです。だから、より力を必要とする家事(屋根の修繕とか)と力を必要としない野良仕事(雑草取りとか)だったら、男が家事をやり、女が野良仕事をやったでしょう。そのあたりはキレイに合理的だったと思います。
これは単純に「筋力」という側面から適材適所を考えてみただけです。もちろん人間の生活行動というのは、筋力が全てではありません。他にも、細かい手仕事であったり、センスが必要な仕事、対人交渉力を要求される仕事などなどです。これらは男女いずれが優れているか一概に言えないので、その集団なりカップル内部で能力やヒマに応じて割り振りされ、協議が整わないときはディスピュート(紛争)になります。センスが必要な仕事とは、例えば部屋のカーテンは何がマッチするかとか、ネクタイの選び方とかそういったことです。通常女性の方が洗練されたセンスを持ってるから女性が主導権を握る場合が多いでしょうが、男性でも優れたデザイナーなどセンスを持った人がいますから、そこは相対的に決まる。「協議が整わない場合」というのは、例えば「対人交渉能力、社交能力」、身近なところでは”ご近所付き合い”とかでいうと、お隣さんが深夜うるさいからカドの立たない言い方でやんわりと注意をしにいくべきだが、夫婦のうちどっちが行くかでモメて協議が整わなくなったりするのですね。「こういうのは女の口から言った方がカドが立たないんだよ」「いや、男がガツンと言ってやらないと効果ないわよ」とかね。
ものの考え方は常にシンプルであるべきでしょう。その集団内部でやらねばならないジョブの総量のうちから、適材適所で振り分ける、どう振り分けたら一番効率がよいかですね。効率性の原則です。
ところで、やるにあたって殆ど何のスキルも必要もなく、ただやるだけ、でもすごく面倒くさいという仕事もあります。これが英語でいうところのチョア/choreですね。退屈な仕事, いやな仕事、日常の定期的な雑用などです。これは誰がやっても出来るから、適材適所という意味では誰でも適材。そうなると、適材適所の効率性の原理からでは仕事の割り振りが決まらなくなります。
そうなると、第二原則が必要になります。これを例えば「平等性の原則」だとします。誰がやっても出来て、面倒くさい仕事ならば、苦痛度が平等になるようにしましょう、トイレ掃除については交代制にしましょうとか、あなたは風呂の掃除とゴミ出しで、私は部屋の掃除と洗濯という具合に、負担が平等になるように分担するわけですね。
しかしながら、その構成員の身分関係が最初から不平等である場合には、ランクが下の人間がそういった詰まらない雑用をやる羽目になります。例えば軍隊とか、体育会系の部活とかでは、下っ端が面倒くさいことをやらされるわけです。会社の花見でも新入社員が場所取りに走らされるわけです。
さて、こうしてみていくと、男が家事をするかどうかは、もっぱら上記の二大原則、@効率性、A平等性の原則に従って決めるべきことになろうかと思います。
ここまで考えた時点で明白のように、日本国内のあらゆる家庭において、効率性と平等性の観点から、常に女性の方が調理をした方が合理的だ、、、とは言えないでしょう。そんなもん、色々な家庭がありますからね。しかも同じ家庭においても、日々刻々と状況は変ります。朝から体調が悪いとか、異様にどちらかが忙しいとか、いきなり大事な電話がかかってきたとか、なんか知らんけど「手が離せない」状況になってしまったとか、刻一刻と千変万化します。その変化に応じて、その時点で最も効率が良く、平等な配分はなにか、ですね。まあ、イチイチそんなの考えてられないでしょうけど、それでもモノの考え方としてはそうなる筈です。
しかし、世間ではそんなに話はうまく廻っていないようです。モメるのは、一つには効率性と平等性の原則が実はあんまり貫徹してないことであり、他方では、その原則にのっとっていっても、実際の当てはめの部分で「評価」に食い違いが起きたりするのでしょう。
現在の日本社会では、まだまだ男性が社会に出て働いた方がより有利な働き口も多いし、労働に対する報酬比率も高いと思われています。本当にそうなのかどうかは別として、大きく平均をとればそうだと思われているでしょう。だからカップルのうち、どちらか一人が外に出て「外貨」を獲得するとしたら、男性が行く方が効率が良いだろうと。こういった基本的な発想から、男は外、女は内という観念が生み出され、ワイフのことを「家内」と呼んだり、「奥」さんと呼んだりします。これは未だにそうですね。
但し、例外は幾らでもあります。まず、この発想は、生計のためには外貨を獲得するというコンセプトがあります。貨幣経済ですね。これが無かったらがらっと変わります。つまり無人島に流されてしまったりしたら、「外に働き」とかいっても外はありません。貨幣もないです。だから、原則に戻って適材適所でやると。例えば捕らえた猪を解体して、火に炙るという「料理」は筋力に勝る男の仕事になるでしょう。昔ながらのインディアンとか、アボリジニとかはそういう生活です。そこでは、「家事」=「仕事」にあります。キャンプ場などでお父さんがカレーを作るのは、局限された場面ではあるけど、昔のままのサバイバル生活に戻るからでしょう。
さらに外貨獲得→生計という貨幣経済に飲み込まれたとしても、外貨獲得が家内労働による場合には話はまた別です。農業のように、町工場のように、小売店のように、家で皆が仕事をしているような場合は、「外に行く=家を留守にする」というシチューエーションがそもそも少ないで、手の空いた人間がメシをつくって、手の空いた順番に食べるというダンドリになったりします。ダンナが外に行かない、つまりはサラリーマンではないという形態は、実はたーくさんあります。
それに、最近では結婚した女性が外に働きに出ることは全然珍しくもないですし、女性の方が収入が良いというケースも、これは全然珍しくないです。それはそれで、「男が外、女が内の方が効率がいい」という合理的根拠は失われますよね。
ただ、問題は、というか女性側からよく聞く不満は、このように合理的根拠が乏しいような場合にも、男は料理したがらないということです。したがらない理由は色々あるでしょう。例えば、スキル的に無能だということもあります。出来ないものはやれない、と。それと、「それはそーゆーもの」という固定観念もあるでしょう。「料理は女が作るもの」という固定観念ですね。固定観念というのは、理屈不要ですから、一旦そう刷り込まれたり、思い込んだりしたら、なかなか変えるのは難しい。それに固定観念というのは、自分の不利なことだったら、「それは固定観念だ、意味なんかない」って反発するのだけど、自分に有利な固定観念はなかなか覆そうとはしません。誰だって既得権を手放したくないもんね。そこでまあ、確執が起きる、と。女性だって、自分の既得権は手放さないでしょ?メカや電気系統の修理とか、車のメンテナンスとか、スキー場でチェーン巻いたりするのは、「私は機械オンチだから」って言ってやらないでしょ。それって、「俺って料理苦手だから」という論理と同じですよね。でも、別に女性のエンジニアは幾らでもいますし、チェーン巻きやタイヤ交換くらい、別に女性でも出来ます。バッテリー液の補充なんか、あんなの腕力いらないしね、出来ないでどうする?ってなもんでしょう。
もう一つは「評価」の食い違いです。人間というのは、自分のやってることは過大に評価し、他人のやってることは過小に評価する傾向があります。外に働きに出たら、「俺がこれだけ外で苦労しているのに」という気分になり、家の仕事なんか「三食昼寝つき」くらいにしか思えなくなったりもします。その逆もしかり。海幸彦、山幸彦の昔話のように、一回仕事を取り替えてみたらお互いにそのしんどさが分かると思うのですが、そうそう出来るもんじゃないし。
同じく家事の中でも評価の違いが出てきます。どうも自分のやってる仕事の方がキツいんじゃないかと思ったりして、ワリを食ってるような気分になったりもします。それに、適材適所で得意分野を分けあったとしても、自分の不得意分野というのは、あまり関心のない場合が多いですから、相手がそれをやってもあまり高い評価を与えにくくなります。例えば、家の修繕や車のメンテや窓拭きなどという大技系をやっていると、散らかった本をあるべき場所に戻すとか、トイレ掃除とか、浴室のタイルのカビ取りなんかあまり気にかけなくなります。もともとそういう細かいところは、どーでもいいと思ってるから、それをやってもらってもあんまり有難い気がしない。そもそもやってもらったかどうかすら気がつかない。他方、やってる側からしたら、こんな神経の荒い奴に任せられるかって気分にもなるでしょう。そんなこんなで、相手の仕事を過小に評価し、そこでまた一悶着起きるとかね。
さて、そのあたりのゴタゴタは各家庭で勝手にやっていただくとして、話を料理にしぼって、料理がいかに面白いかを書きます。
料理をどちらがやるかとか揉めるのは、そもそも料理は詰まらないもの、面倒くさいもの、という基本認識が前提にあるのだと思います。最初から料理が面白くて好きだったら、問題は起きません。男女双方料理が好きで、得意だったら(好きなものは、よほど才能がない場合を除いて大体得意になる)、お互い奪い合うようにして料理をするでしょう(^^*)。まあ、奪い合うってことはないけど、両方料理が嫌いなカップルの場合よりはトラブルが少ないと思います。あるとしたら、お互い腕に覚えがあるだけに批判が厳しいとか、やり方にこだわるとか、流儀系でモメるくらいだと思います。
そこで、どうやったら男に料理をやらせるかですが、まず発想を転換して、「こんな面白いもの、男になんかやらせてやるもんですか」と思うくらい自分が好きになるといいと思います。自分が好きでないものを相手にやらせようとしても、どうしても無理がありますからね。また、男性に対しては、こんな面白いものやらずに死ぬなんて勿体無いぞと、その面白さをお伝えします。どうも、誤解されているキライがありますからね。
女性に対する説得技法は、僕はあまり知らないので、男同士、男がググッとくるであろう言い方でいいます。女性の方はご参考にしてください。まず、男というのは、難しいことをやりたがる傾向があります。難関とか、技術とか、スキルとか、創造性とかいう言葉が大好きで、とにかく能力をフルに発揮するようなことをします。だから、別に急用もないのに限界ギリギリのスピードでカーブを廻ったり、降りてくるに決まってるのに高い山に命をかけて上ったりします。難しくないと燃えない。簡単なことは詰まらない。詰まらないことをやるのは面倒臭い。だからやらないという。だから、男に「やれ」とけしかけるときは、「簡単だからやってね」という言い方はダメ、「異様に難しいから多分あなたには無理だろうなー」くらいに言うと燃えます。
料理は難しいです。それはプロの板前さんやシェフの世界に入れば鬼の世界のように難しいのですが、僕らの日常家庭生活においても充分に難しいです。まずその難しさを認識する。はっきり言って、かーなり頭が良くないと料理できませんよ。料理の苦手な奴って基本的に頭が悪いんだと思います(と、挑発する(^^*))。
何にそんなに頭を使うかって?まず献立を決める時点で頭使いますね。「献立」などと使い古された言葉を吐くと聞き流しかねないから、「企画/コンセプト」と言えば分かり易いでしょうか?食えればいいってモンじゃないんですよ。いかに低予算に、いかに迅速に、いかに手間を少なくしつつ、どうやって食卓に食の快楽を最大限にもたらすか?です。かなり難易度の高いゲームです。
いわゆる「男の料理」というと、金もヒマも潤沢に使って「これぞ本格派!」みたいにやってるのを想像されると思いますが、あんなのはですね、難易度低いですわ。簡単。too easyです。金も時間も充分かけたら誰だってそれなりのものは出来ますよ。そうじゃなくて、冷蔵庫を開けて、限られた材料、限られた予算、限られた時間という制約バリバリのなかで、どうやって最大限の結果を導き出すことが出来るか。これはかなり頭を使います。ヒラメキという右脳的センスも必要ならば、そのヒラメキを結実化する緻密なダンドリという左脳的実務能力も要求されます。
たとえば、今日はとっても暑かったとします。昼は軽く済ませたので夜には栄養を取らねばならない、しかし暑さにうだっていてあんまり食欲がない、、、、さあ、コンセプトはどうします?あまり食欲がないときでもとっつき易く、「ああ、それなら食べてみようかな」という気にさせ、食べだしたら結構入り、それでいて十分栄養も取れるもの。何があります?基本的に冷たいものがいいですわね。だからといって、単にざる蕎麦とか素麺だけだったら栄養も乏しいし、なんか侘しいですよね。だったら、ちょっとピリカラ系に味付けした焼鳥風の照焼とか、豚の生姜焼きみたいなものを出して、ビールでキュッといかしておいて、素麺を涼しげにゴハン代わりにあしらってですね、野菜がないから胡瓜とワカメの三杯酢あたりで脇を固める、と。このように天候や、体調をみつつ、「おお、これは!」というセンを狙うわけです。この発想は一種のマーケティングですね。「お前が欲しいのは、これだあ!」と経絡秘孔を突く。これを思いつくかどうかが難しいところです。だから、世の奥さん達は、献立を決めるのが一番難しいというわけです。メチャクチャ頭を使うわけです。知的労働。だから、世の奥さん達は、ダンナに「今日、何が食べたい?」と聞くわけです。なんかヒントがないかなと思って。でも、大体料理を知らないダンナにろくな智恵が浮かぶこともないです。これって、自分で料理作ってないといいプランなんかでっこないですわ。だもんで「聞いた私が馬鹿だった」みたいな結末になったりもする。
あのー、自分では料理できないけど、せめてそういうときに少しでも協力できることはないか?というと、あります。これから買出しに行くような場合には、例えば朝方に「今晩何かリクエストある?」と聞かれたようなときには、「朝から晩飯のことなんか考えられないよ」とは言わずに、なんでもいいからズバリ「これが食べたい!」と力強く言うといいです。「ボク、カレーライス!」みたいにね。力強く言うのがコツです。こうハッキリ言ってもらえると、作る側は楽なんですよね。カレーでも、オムライスでも、スパゲティでも、ハンバーグでも何でもいいから、ズバリと言うこと。それも「カレーかなんかでいいよ」という気のない言い方ではなく、「それこそが食べたい!」と言う。
「−かなんか」という言い方は相手を気遣って「適当にやっておいてくれたらいいよ」という趣旨で言ってると思うのです。けどね、「かなんか」って料理は無い。料理する時点では何かに特定してなければならない。その特定に協力し、迷いを吹っ切ってあげるのが協力になると思うのですよ。仮に言われた方が「えー、カレー?」と思ったとしても、オーディエンスの熱烈なラブコールがあったらプレーヤーは燃えるもんです。「消費者のニーズ」というのはマーケティング的には最重要なポイントですから、開発側としては大きな原動力になるのですね。マーケやってて、消費者に何が欲しい?とアンケートして、「絶対、これ!」と言ってもらえるようなものです。普通マーケやっててそんなこと絶対にありえないけど、でもそう言いきってもらえるとメチャクチャ楽ですよね。でもって、どうしても「これ!」特定できないときは、「最近冷えるから、鍋系がいいかな」「ひさしぶりに和食!って感じがいいな。煮魚に漬物とか」とある程度具体的な方向性を出してあげるといいです。「もう、適当でいいよ」という答え方が最悪。これ、自分が上司や顧客から「適当にやって」と言われたときのことを考えたらわかると思うのですが、依頼者から「適当に」と言われたら、要するに「百点取れ」と言われているのと同じなんですな。
さて、献立が決まったとしても、それだけでは済みません。さらに、「実現可能性」という問題があります。思いついても食材が冷蔵庫にない!買ってこなければならないというケースも多々あります。しかし、大体において買いに行ってる時間なんか無かったりするのですね。だからありあわせで作る。この「ありあわせ」こそ、家庭料理の最大の難関であり、これが自由自在に出来たらかなりエラいです。
協力する側としては、前述のように買出しにいく前に聞かれたときは、「これが食いたい」と結構何を言ってもいいです。が、二人とも外出して帰ってきて、疲れていて、「さあ、晩御飯どうする?」というスチュエーションの場合は、あれこれ言ってる余裕はないです。そういう場合は、「今、ウチに何があるの?」という材料の検討を一緒にやるといいです。言ってるうちに、「あ、お中元に貰ったホテルのカレーの缶詰、食べちゃおうか?」と思わぬ妙案も浮かんだりしますから。
このあたりは会社でいえば、企画部や商品開発部の仕事ですね。要するに、毎日一個(あるいは3個)、商品開発をしてると思えばいいです。そう考えるといかに難事業かわかるでしょう。
さて、買出しですが、これは会社でいえば資材購入や仕入れになります。大事なステップです。本当は毎日毎日市場にいって、本日のベストBUYを探すのがいいのでしょうが、時間がないあるね。原材料の買い付けという観点でいえば、毎日毎日船便で送ってもらってたら運賃コストがかさんでしょうがないです。景気変動を予測しつつ、将来の生産計画を練り、出来るだけ一回で済むように購入しますよね。そうなると、ここ数日分の献立を考えなければなりません。一回だけでも大変なのに、さらに数日分!気が遠くなりますね。頭数倍使いますね。さらに、旬の食材とかスーパーの特売という、「市場の動向」にも留意しなくてはなりません、、、
-------と、ここまで書いたら、かなり行数がいってしまってることに気づきました。
料理の難しさはここからが本番です。まともに書いたらこの倍くらいいきそうなので、今回はこのくらいにしておきましょう。料理、ナメたらダメっすよ。
文責:田村
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