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今週の1枚(04.01.26)
ESSAY 140/ 天然快感
前回=ESSAY139/あなたはなぜ犯罪を犯さないのか?から何気に続きます。
人が機嫌よく生きていけるためには、その人なりのアイデンティティとファンタジーが必要であり、それは社会においてもまた同様だという話を前回しました。「ファンタジー」というのは、物語、妄想、幻想、現状認識、世界観、価値観なんでも好きなように呼んでいただいていいです。要するに、よくよく考えてみれば絶対そうだという根拠はないのだけど、「そ−ゆーもんだ」と思い込んでいることです。
そして、社会全体の共同幻想がゆるんできたり、疲弊してきたりすると、個々人のワルイドファンシー(妄想)を押さえ込む力が弱くなり、まとまりがつかなくなって、最悪のケースではこれまででは考えられなかったような残虐な犯罪が犯されたりするということも言いました。「人を殺すのは悪いことだ」と社会の全員がそう思い込んでるところでは、特別な込み入った事情がなければ滅多に殺人は起きない。あなただって、よっぽどのことがないと人なんか殺そうと思わないでしょう?自分が誰かを殺すなんて、「絶対にありえないこと」くらいに普通は考えているでしょう。でも、皆が皆そう思うわけではなくなってきて、なかには「そんなに悪いことだとは思わないんだけどなー」とかいう人が出てきて、「ちょっとヒマだから人でも殺すか」みたいに殺しちゃったりすると、我々はゲッと思うわけです。「え?なんで、殺しちゃうわけ?」と。幻想(この場合は最低限の倫理観みたいなもの)を共有してない奴が出てくると、もう理解できないのですね。
殺人とか極端な例を出すと逆にしにくいかもしれませんね。もっと身近な例で言った方がわかりやすいかな。それまで皆が「そーゆーもんだ」と思っていたことが、「いや、俺はそうは思わない」という人が増えてきて、共通のスタンダードじゃなくなっていくことは他にも沢山あります。ちょっと前まで、女性というのは年頃になったら結婚して家庭や子供をもうけるものだと皆が思ってたわけですが、段々それが「普通」とは言えなくなってきました。生き方としてはそういうものしかないと思ってた時代は皆がそういう共同幻想を保有していたわけですが、時代の移り変わりでそうでもなくなってきた。じゃあ、「正社員として働いている方が、フリーターや派遣で働いているよりも”ちゃんとした”人生である」という点はどうでしょうか?今なお健在ですか。健在としても「強固に健在」ですか、それとも「かろうじて保たれている」くらいでしょうか。あるいは、「男性は仕事をもっていてこそ一人前である」という観念はどうですか?専業主夫をすることの理解はどのくらい広まったでしょうか?
共同幻想といっても、全員が全員同じ考えである必要もありません。ある特定のグループ、階層の人々はそう信じ込んでいるという部分的なものであっても、その中に入ってしまえばそれが絶対になることはあるでしょう。いわゆる一流大学を出てエリートと呼ばれる職種に就くことが"立派な”生き方であると信じている人は、自分自身そういう階層にいる人の中に多いでしょう。結婚披露宴の席の順番なんか社会心理学的に興味深いのですが、あれって一般的に”エラい”と思われている人から順に座りますよね。あれで、「この社会でエラいと思われている順位がわかりますし、どういう幻想をみなが抱いているかもわかります。
個別的なトピックでも共同幻想はあり、それが数種類あることもあります。このHPでも度々でてくる、「海外=怖いところ」という固定観念や、「日本で学校やステイ先を選んでおいた方が安心」という根拠不明な幻想なんかもあります。よくワーホリなどで海外に出ようとする娘さんを、親御さん、とくにお父さんが「海外は危ないから止めなさい」とブレーキをかけたりするのですが、おそらくはお父さんの共同幻想を娘さんは共有していないのでしょう。お父さんが「そういうものだ」と思っている海外の風景と、娘さんが思っている海外とは全然違うのでしょう。
さて、そういった共同幻想の移り変わりというのはあるわけですが、単純にA→Bと変わっていくのではなく、それが全体的に薄らいできたんじゃないかという話です。そして、共同幻想が薄れてきたことによって、人々の無茶な行動を抑制する力を失いつつあるのではないか。社会はゆっくりとアナーキーな方向に進みつつあるのではないかと。
まず、どうでしょう、ここ10年、20年の日本は、共同幻想が薄らいできつつあると思いますか?僕もやっぱり薄らいできてるよなーと思います。「人はこう行動すべきもの」というスタンダードが甘くなってきているというか、そのスタンダードに追いつけていない人、追いつこうという気がない人、追いついていないことに気づかない人が増えてきてるのかもしれません。日本全国津々浦々で、皆さんが日常体験しておられるだろう「ちょっと前だったら考えられないような」「不愉快な体験」の話をきくだに、そういう気になります。例えば仕事における要求水準というか、レベルが低い人の話はよく聞きますよね。「お前、それはないだろう?」という出来そこないの仕事をして、まるで恥じるところがないような人、あなたも幾度か体験したことがあるとは思います。
総じて言えば、僕も含めて、一昔前よりも日本人は自分勝手になってるし、甘ったれているようになった。もちろん甘ったれてない人も老若男女を問わず沢山居ますけど、甘ったれている人に対して昔はもっとガツン!と一発カマしてたように思います。最近はあんまりカマさないですよね。ひとつにはカマすと面倒なことになるからでしょうけど。引きこもりの人が増えてるそうですが、それを一概に情けないといって非難するつもりはないけど、昔だったらそもそも環境として引きこもれなかったと思います。そういうことが許されるような社会の雰囲気ではなかった。登校拒否でも出社拒否でも、昔だったら「行かない」という選択がそもそもありえなかったから、泣きながらでも行かされてたでしょう。でも、段々と行きたくなかったら行かなくてもいい、やりたくなかったらやらなくてもいいって具合に軟化してきました。「お前、頭おかしいんじゃないか?何言ってるんだ?」で個人の意思など問答無用で何かを強制するということが少なくなってきたとは思います。
これは、一概に悪いことではないと思います。
確かに共同幻想が強ければ強いほど、個々人のワガママな振る舞いは減るでしょう。戦時中の死ぬか生きるかみたいな環境で強力なファシズムに支配されていたら、個人の意思など犬の糞ほども重きをおかれず、甘ったれることなど許されず、結果としてグレる奴も少ないし、犯罪も少ないでしょう。引きこもりなんかまず不可能でしょう。強制的に引きずり出されるか半殺しにされるでしょう。ただ、それがいいかどうかというと、それはそれでモンダイです。社会の共同幻想が強ければ強くなるほど、個々人の自由は制限されますし、息が詰まるような社会になるでしょう。人々が我慢強くなり、治安も良くなるからといって北朝鮮みたいになりたいかというと、僕はNOです。
古典的な自由主義からすれば、事柄が何であれ、他人の意向を誰かに押し付け、その人の自由を奪うことには慎重であるべきでしょう。しかし、完全な自由というのは、犯罪の自由でもあるし、ワガママの自由でもある。そこには自ずと限界があり、節度があるのでしょう。実際、是非善悪を教え込む教育においては、個人の自由をいかに制限するかがその本質の一部をなしています。子供が悪いことをしたらバシッと叱る。それはその子供の自由であって、、とか言ってたらシツケは出来ないという局面はあります。よく、右翼の論者が、日教組などの”自由教育”が戦後の日本人を駄目にした、自由の名の下に野放図に甘やかし、自律心のない日本人を大量生産して堕落させたと批判してますが、「自由=甘やかし」と決め付けようとするあたりに無理があるのですが、それでも言わんとする大意はわかります。また、そう言いたくなる気持ちもわからんでもない。
でも、じゃあまた共同幻想を強化して「正しい日本人」を作るために思想教育をやりましょか?というと、そういうもんでもないでしょう?文部省や、教育論者がよくいう、道徳を重視した教育なんても同じことですが、そこでいう「道徳」の具体的な中身って何なのだろう?例えば、「目上の人に敬意を持とう」ということを道徳の中身にしていいと思いますか?また「敬意」って何なのよ、例えば「目上の人が言うことは、例えどう考えても間違ってるように思っても、従わなくてはならない」というのが「敬意」の内容なのだといわれたら、僕はそうかあ?って思いますよ。でも、そうだと言う人も結構いるように思います。
共同幻想というのは、「さあ、今日からこう考えましょう」と国が旗振って仕向けるようなものではない。それは自然に出来るものであり、自然に出来るからこそ、「それはそーゆーものなの」という強固な思い込みが発生するのでしょう。しかし、それが自然に出来なくなったからこそ今日のモンダイがあるのであって、だから難しいのだ。
若い人の口癖に、「他人に迷惑かけてないし、いいんじゃないの?」というのがあるでしょう。これは今ではなくても昔っからそう言われていたと思います。現に僕も若いときはそう思ったし、そう言った。もともとは、「人は他を害しない全ての自由を有する」という近代自由思想のキャッチコピーのような名言だったと思います。ジョン・ロックでしたっけ、言ったの?
このフレーズは若いときには非常に魅力的に響きます。なんせ若い頃は周囲から圧力を受けまくってますから、自分の自由の確保が一番の関心事だし、このフレーズはそのための手っ取り早い理論武装だったりします。「別に、ひとに迷惑かけてないし、、、」って。女子高生が売春やっても同じようなこというし、地べたにへたりこんだりしてても同じようなことを言う。
でも所詮はガキが飛びつく程度の論理ですから論破することは難しいことではないです。
第一に、このフレーズのもともとの意味は、国家からの市民的自由という文脈で、国家権力によって規制していいかどうかというレベルの問題。刑罰を科してまで制限すべきかどうかという話です。誰もそんな国家権力のありかたの話なんかしてないから、そのフレーズをここにもってくること自体がお門違いです。
第二に、近代自由思想は、全ての自由をなしうるということを基本原則にしつつ、その自由もまた社会を成り立たせるためには制限されると続いていく。いわゆる「公共の福祉」の為に制約を受けるのであり、ここでいう公共の福祉というのは単に「迷惑」という言葉でいい表されるほど狭い概念ではない。直接的に「迷惑」をかけていなくてもやっちゃダメということは幾らでもある。例えばバクチ。バクチなんか皆納得づくでやってるんだから、誰も迷惑なんか被っていない。それでもバクチ完全解禁すべきかどうかとすべきでないと多くの人は言うでしょう。ドラッグなんかも同じことです。いわゆる「被害者なき犯罪」というやつです。迷惑の有無だけが規制の是非を決するわけではない。
第三に「迷惑」をいうなら、他人の感情を害するのも立派な迷惑行為です。「親が悲しむ」というのも立派に、親という他人に迷惑をかけている。親は他人じゃないからいいんだ?という理屈を言うなら、なぜ親だったらいいのだ?と反問されたら答えられないでしょう。親には子を養う扶養義務があるというなら、同時に監護権もある。自分に対する攻撃には全て明快な理論的根拠を求めつつ、自分の主張には「それはそーゆーものだ」と誤魔化そうとするあたりが「甘い」。
第四に「迷惑」というのは直接的なものだけを含むのではない。直接的には何も起きなくても、それによって全体の空気が乱れたりゆるんだりして、最終的に大きなド迷惑が発生するということもある。「空気がダラける」とかいうと、なんか生徒指導の先生みたいな言い方で釈然としない向きもあるだろうから、原発や飛行機のメンテナンスを考えればわかりやすいでしょう。ああいう作業は二重、三重(場合によっては八重、九重)にセーフティシステムがかけられています。逆に、現場からしたら、一つ一つの作業は「指差し確認」みたいなもので、ある種の馬鹿馬鹿しさを伴なう。だから、多少手を抜いても別に実害なんか無いじゃないかって気になるんですよね。でもそれが重なってくると、段々と真面目にやってるのがアホらしい気分になり、全体に「いい加減」な雰囲気が蔓延する。そして、ある日、デカい事故になって、とばっちりを食って近所の住民が放射能を浴びて死んだり、飛行機が落ちたりする。これって「迷惑」じゃないですか?
「空気がダラける」ってのはそういうことです。だから危険な現場では、「服装をちゃんとしろ」というところから口やかましく言うわけです。人間ってバカですからね、ちょっとでも気を抜かせたら図に乗ってどんどん抜いていっちゃう。ダイエットやってる最中、「ちょっとくらいならいいかな」でお菓子食べたりして歯止めがなくなってもとの木阿弥というのと同じです。若いうちはあれはくだらない精神主義形式主義のように感じたものですが、実際に仕事をするようになってからは、あれは人間心理を洞察した上での非常に合理的なものだったのだというのが分かるようになります。それに「迷惑」というのは、一個の行為によってのみ生じることだけだと誰が決めたのでしょう?数百数千という行為の集積の上に巨大な迷惑が発生するとしたら、それぞれ一個づつの行為を制限せざるを得ないでしょう。
さて上記は半分冗談みたいなものです。本論は、他人の行為を規制するのは別に法律だけじゃない、だから実害があるかないかという観点だけから論じるべきでもない、ということです。それはカルチャーとか、礼儀作法とか、マナーとか、儀礼とかいう一群の行動規範です。自由主義の本場である西欧社会でもこれらのことはちゃんとあります。もしかしたら、今の日本よりも多いかもしれないし、厳しいかもしれない。口のききかたなんかもかなり厳しくしつける家も多い。汚い言葉を使ったら、゛Language!"と叱られたりします。汚いといっても、日本語だったら「ちくしょう」とか「くそっ」とかそのくらいのレベルでも、子供にそういう言葉を使わせない家もあります。そこには、「他人に迷惑、、、」なんたらとかいうゴタクを並べられる雰囲気ではない。
もちろん、カルチャーやマナーなんかクソだ、あんなもん無くたって構わないという意見もあるでしょうね。僕も昔はそう思ってたしさ。今でも過剰な文化主義・形式主義には「くっだらねえ、叩き壊してやる」と攻撃本能が燃えたりするのですが、そんなワタクシであっても全否定は出来ないなって思います。それは年食って保守的になってるだけじゃないかという意見もあるでしょうが、そうではない。そうじゃないって自信はあります。あとでまとめて述べます。
それと、僕らの世代から下は価値相対主義がメインストリームになってます。それは戦前の価値絶対主義(例えば天皇という価値以外の価値を認めない)に対する反動もあろうし、上の団塊の世代の感性もまた僕らの世代からしたら「正しいものは正しいのだ」と押し付けてくる暑苦しさを感じて敬遠したということもあって、価値観はそれぞれの自由でいいじゃないか、何が正しいとか優れてるとか上下関係をつけようとするから話がややこしくなるのだ、家族に最高の価値を感じるひとも、仕事こそ価値だと思う人も、それぞれ認め合えばいいじゃないかという価値相対主義は僕らの気分に合っていたし、どんどん豊かになっていく日本社会の気分にもあっていたのでしょう。だから、「べつに、その人がいいと思うならやったらいいじゃん」という態度が、今の日本のスタンダードになりつつあると思います。
だけど、そればっかでは何処にもいけないんだな、別に万能薬でもなんでもないし、何も決めない無責任な考え方でもあるのだなって気もするのです。「どう考えるかはキミタチの自由なんだよ」というのは、一見耳触りはいいですし、理解あるようなカッコ良さもあるのですが、同時に自信を持って自分の意見を言えない無能者の免罪符でもありうるのですね。また、社会と個人、個人と個人をバラバラに切断していくカッターでもあるし、人が途方も無く自己中になっていく温床でもある。
もっとも、だからといって価値相対主義は今尚もっとも妥当な路線だとは思ってます。ただし、それだけで事足れりとするのは片手落ちであると。あれは、自分が他人からうるさいことを言われたくないという防御兵器としては役に立つのだけど、世界全体を仕切るためのメインフレーム哲学としては不十分のように思います。だってさ、そんなこと言ってるうちに、結局今の日本で皆どうやって生きていけばいいのか、どうやって生きるのが「正しい」のか、なんだかよくわかんなくなっちゃってるわけだし、社会全体に「こっちだよ」という流れがなくなっちゃってるからこそ、「幼女を殺して自己実現」みたいなとんでもない私的幻想に対して、カッパシ型ハメて抑制することが出来なかったわけでしょ。
日本社会は暑苦しいです。皆が皆を監視しあってるかのような、五人組のような、いやいや5人どころではなく”1億2000万人組”みたいな社会です。だからこの暑苦しさを少しでも和らげようと、「そんなの個人の勝手でしょ、自由でしょ、迷惑かけてないから好きにやらせてくれよ」という言う権利は誰にでもあっていいと思うし、言うことに意味があるとは思う。だけど、思うのだけど、幾らそう言っても言っても暑苦しさがあんまり和らがないのは何故なの?と。「別に、迷惑かけてないし、、、」なんていってるコギャル自身が、いわゆる”友達関係”とかガンジガラメになって暑苦しそうな顔してるのは何故なのか。あれは真に自由な人間の顔じゃないと思う。
かたやオーストラリアはといえば、暑苦しくないんですよね。誰が何をやってもいいし、別にあれこれ言われることもない。だから居心地はいい。じゃあ、その分共同幻想が薄くて、アナーキーな社会になってるかというと、そうじゃないんですな。むしろ共同幻想は日本よりも濃いかもしれないです。それは例えば、「困ってる人は助けるべし」という不文律みたいなものです。あるいは「他人と接するときは陽気にポジティブに」という点、「人たるもの必ずハッピーでなければならない」という信念みたいなものすら感じます。「人間たるものこうすべし」という規範が多いんですよね。かって気ままに生活していながら、ひとたび山火事があると全体主義もかくやと思われるくらい一致協力して動く。何が正しいか正しくないかは日本よりもハッキリしてるし、それをハッキリ言う。だけど暑苦しくない。
さて、一方では価値相対主義で共同幻想(社会としての当然のモラル)が薄らいでいっているのに、暑苦しさはちっとも和らがない、他方では価値相対主義なんだけど共同幻想は結構濃密にある、でも暑苦しくないという状況がある、、、、これはいったい何なんだ?と。この差はどこから来るのだ?と。それを問いたいわけです。
考えたんですけど(というか思いつきなんですけど)、戦後の日本でやってきた自由といい相対主義といい、いずれも国家や制度の圧力をはねのけるためのものでした。それはそれで意義のあることだったと思います。でも、自由になったあとどうするの?という積極的、ポジティブなものではないです。「邪魔者をどかす」というネガティブというか、準備段階みたいなものであって、自由になった野原でなにやって遊ぶの?というと、そこまで考えてなかったんじゃないかと。
その代わり今までの日本で「〜すべし」といわれてきた事柄って、例えば「勉強して、いい大学、いい会社に入るべし」とかさ、「そうした方が結局得だから」みたいなセコい打算的なものが多いのですね。「老後のことを考えたら」とか、「資産効果なんたら」とか、「後で苦労するから」とか、そんなことばっかじゃなかったですか?戦後日本人の行動基準って、「いかに効率よく生活するか」ということであって、それってただの処世術、戦術じゃん。それって、共同幻想ですらないじゃん。「いい生活をする」ってのは”モラル”じゃないでしょ、”欲望”でしょ。
共同幻想って、「そんなの決まってるじゃん」というくらい問答無用の絶対性があること、理由を問うても誰も答えられないんだけど、そうであっても皆当然のこととして思ってるという。そのくらい強い確信があるからこそ、その示す内容が自分の欲望と相反したとしても、誰もが自分の欲望の方を犠牲にするという。例えば、お金が欲しいのだったら、そのへんの人から奪ってくるのが一番手っ取り早く”合理的”でもありますが、それはしないでしょ。お金が欲しいという欲望を当然のように我慢するでしょ。なんで?それは犯罪だからだということもありますが、国家が刑法という形で犯罪と定義しなくても、あるいはそれが刑法235条違反であるとか知らなくても、当然のこととして「やっちゃいけないこと」だと思うでしょ。なぜそう思うか?というと、「犯罪をすると捕まって結果的に損だから」という利害打算だけではないですよね。そういう合理的な説明だけでは説明し切れないんだけど、みな当然のようにそう思っていること。これくらいないと共同幻想=社会のモラルにはならんでしょう。
どうも人間には、生まれつき何が善で何が悪なのかある程度わきまえる力があるらしい。「人を殺すのは悪いこと」だということは、誰しもそう感じる。これは否定できないと思います。そりゃ幾らでも悪いことは横行してるし、多少悪いことをやらないと生きていけないという考えも一般的でもあるし、悪いことを生業にしている人も沢山いる。でも、それらの場合も悪いことは悪いことであるという前提それ自体は揺るがない。「そりゃ悪いけど、でもしょうがないだろう」という感じで。暴力団でもマフィアでも、自分達が悪いことをやっているんだという意識はあるでしょう。なんの罪もない人を殺すことを「いいこと」だと、それこそが正義なのだ、人を殺さないのは悪いことだとまでは言わない。過去にこれを言った人はいないと思う。狂信的な宗教団体、軍事集団はそれに近いことを言います。ナチスはユダヤ人を殺すことを「いいこと」だと言った。だけど、それは人を殺すのは悪いことだけど、より偉大なる正義のためには仕方ないんだ、ユダヤ人だから殺してもいいんだという論理であり、人を殺すことそれ自体を「いいこと」だと言ったわけではない。その意味ででは死刑制度と似ていて、死刑も人を殺すから悪いことなんだけど、この場合は特別に悪くないんだ、より大きな正義のためには殺すべきなんだという。前回、狩猟時代の殺戮の快感という話をしましたけど、狩猟時代でもやみくもに殺しあってたわけではない。殺すのが楽しくて、好きでたまらなかったら、そもそも子孫なんか残せないですよ。とりあえず自分の子供を楽しんで殺しちゃうでしょうからね。だからどんな時代でも”一線”はあったと思います。
このように人間には、人を殺すこと(あるいは盗むこと、欺くこと、犯すことなど)は、悪いことだと思ってる。現実にそれを守りきれるかどうかは別にして、とりあえずはそう思ってる。なんで?なぜそう思うの?その核心に何があるかですね。これは古今東西あらゆる哲学、法学、宗教、生物学などが答えを出そうとしてトライしてきた問題で、いまさら僕ごときが何を付加する事もないですし、全てを理解しうる能力もないです。ただ、問答無用に人間にはそういう感情が起きるという事実があることです。
この感情はかなり動物的、本能的なものだと思います。この感情を表現したり説明しようとすると、とたんに倫理的にお説教がましくなっちゃうのだけど、ベースにあるのは「熱い」「冷たい」と感じるようなナマで原始的な感情だと思う。僕個人としては、2000年以上前にプラトンがいったという「真・善・美」あたりが一番しっくりします。要するに人間には、より真実なるもの、より善なるもの、より美しいものを求めようという本能的な傾向があり、あるものごとを「価値がある」と感じるのは、その物事に含まれている真善美の含有量が多いからだと。まあ、食物にタンパク質やビタミンが含まれているように、あらゆる物事には真善美が含まれていてそれに感動するのだということでしょう。映画や小説などを読んで、感動したりしなかったりするのは何故かというと、なにか価値あるものが一杯含まれているか、含まれていないかだと思うし、その価値あるものがよりビビッドな形で表現されているかどうかだと思います。そして価値あるものの要素はなにかとギリギリ詰めていくと、結局、真善美ってことになっちゃうのかなあって。
でもって、この真善美に沢山触れたとき感動するわけだけど、それを主観的な感覚でぶっちゃけていえば、要するに「気持ちいい」のだと思います。感動することは気持ちいい。より質の高い感動になればなるほど、より気持ちよくなる、と。
話を共同幻想に戻しますと、やっぱりこの人間の本来的な価値的な感動、気持ち良さに根ざしているかどうかってのが大事なポイントなんだろうなと思います。この本来的な”天然感動”みたいなものが社会全体に少なくなると、共同幻想もまた力が乏しくなっていくのでしょう。日常的に、天然モノの感動と気持ち良さを感じる機会が減ってくると、なかなかそういう感動があったということが思い出せなくなってきます。いわゆる「すれっからし」になってきます。感動的なものを見ても、あんまり気持ち良いわけでもなく、「キレイゴト」にしか思えなくなる。
というわけで、社会に共同幻想が少なくなってきたとしたならば、それは僕らの日常生活がこういった天然の感動を得にくくなってきているからかもしれません。まあ、チョコマカ小賢しいことばっかやってると、素朴な感動というものを忘れてしまうというのはありがちですよね。また、社会の構成員に小賢しく動くことを求めるような社会、高度にソフィスティケートされていながらも素朴な感動部分はきっちり残しておくようにしない社会は、社会としては二流だと思います。例えば、都市開発をするにしても、「緑がたくさんあると気持ちいい」という素朴な気持ち良さを尊ぶ社会が作った都市と、「とにかく栄えればいいんだ」「金が一銭でも儲かるように」「緑?緑色してるものがありゃいいんだろ」くらいの考えの社会が作った都市とは違うと思うし、その差は、その都市の住人の天然モラル=共同幻想を高めるか低めるかという形であらわれてくると思います。
天然の気持ち良さをもう少し再評価したらどうか、と思うわけです。
共同幻想の要素は真善美といったところで、食物の栄養分はたんぱく質と、、と言ってるのと同じようなもので、間違ってはいないのだけどいかにも遠い。それを知ったからといって直ちに今夜の献立が決まるわけでもない。やはり、栄養のバランスが良くて身体にも良いメニューなりレシピーがパターンとして揃っていることが大事だと思います。「ほうれん草のおひたしもつけておくと尚いいです」とかさ。つまり、真善美をより多く含有する生き方のパターンですね。それが豊富にあるかどうかですね。ジャンクフードみたいな生き方じゃなくて。
再び日本社会の「生き方のパターン」ですけど、結構ジャンクになってきてるんじゃないの?って気もします。人々の天然の気持ち良さを喚起させ、「おお、そうだ、そうだったんだよな、おおお!」というくらい感動的な内容、、、ではないという。「将来、年金額が増えるから」なんて程度の内容じゃあ、誰も感動しないし、幻想にも価値観にもなりえないし、共同にもなりえない。「来週バーゲンがあるから、そのときまで買うのを待った方がいいよ」というのと同程度のことでしょ?
共同幻想になるためには、それなりに積極的で内容豊かな価値体系じゃないとダメだと思います。例えば、武士道のように「武士たるものかくあるべし」みたいな、あるいは「男子の生涯はそれ自体が一篇の詩になってなければならない」とかさ、「ただひたすら愛を信じ、愛を貫き、愛にのみ生きた」とかさ。「おお、カッコいい!」って燃えるようなものじゃないと。
そこで僕は思うですが、やはりここでも「天然の気持ち良さ」「純度の高い快楽」がモノサシとして必要になるのではないか。気持ち良さというのは、ただ怠惰に快感があるというだけのことではないですよ。 英語でいえば indulgence とか spoil じゃあないです。「理想に殉じて壮絶な最後を遂げる」という、直接的には全然気持ちよくないことも含みます。それが自分の人生だと思って、「おお、俺、カッコいいじゃん!」といい気分になれる、それもちょっとやそっとでは味わえないくらいのいい気分です。なにもそんな宮本武蔵みたいに大上段に振りかぶらなくても、「知らない人と心が通い合ったときの嬉しさ、温かさ」なんてのもそうです。「これは絶対本物だ!」と確信できるくらいの、とびきり上質の快感です。ブランド品を持って歩いてちょっといい気分なんて、屁みたいな快楽じゃなダメ。そのためだったら死んでもいいと思えるくらいの快感。
快感というのは、質が高くなればなるほどかなり絶対的なものを人間に感じさせます。だから、共同幻想を語る場合、やはりこの快感をベースにしていくべきじゃないかと思うのですよ。「人間はこう生きるとメチャクチャ気持ちいい」「人たるものかくあるべし、なぜなら信じられないくらい気持ちいいからだ」という形で浸透し、リードしていく。気持ちいいから、別に強制しなくたって他人もやりますよ。だから暑苦しくなるわけ無いですよ。
そういった天然快感、そして快感にもとづく絶対的な確信がないと、次の世代を躾たり、教育したりすることも難しいと思うのですよ。処世術なんか、自分自身でも確信ないですからね。そうすると得だという情報だけですからね。確信なければあんまり押し付けようという気にならないし、押し付けても説得力もないし、だから説得もされない。「とにかく大学だけは出ておけ」と言ったって、「それが人間の真実なの?」って根源的な問いかけをされちゃったらうろたえるよね。でも、そんな人でも、「うん、若いうちに恋はしておいた方がいいぞー」みたいなことは、自分でも確信があるから結構力強く言い切れるんじゃないですか?また確信がオーラになって立ち上ってるから、聞いてるほうは「おお、そうなんか」と妙に納得するという。
日本社会でこういった天然快感に基づく話が「クサい話」として敬遠されるようになって久しいです。20年前僕が学生の頃からそうだったですもんね。つまりその時点で、僕らの社会では天然の感動が日常的なリアリティを失っていたのでしょう。だからそういった話は、時としてリアリティのない絵空事やお伽噺に聞こえ、暑苦しく汗臭く響いたのでしょう。今の長野県知事が「なんとなくクリスタル」とか書いてた頃の話です。でもさ、そういった方向性、天然素朴の快感を馬鹿にする方向性が結局日本に何を生み出したかというと、金ぴかの80年代とそれに続くバブルの馬鹿囃子で、そのあとは十数年にわたる沈滞と閉塞。挙げ句の果てに、「隣の人間が何を考えるのか分からなくなった」という不安神経症的な社会じゃないんですか。
天然快感、強いですよ。確信わきますよ。そんでもって、そんなにお金かかりませんよ(^_^)。
文責:田村
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