- Home>
- 「今週の一枚Essay」目次
>
今週の1枚(04.01.19)
ESSAY 139/ 人はなぜ犯罪を犯さないのか?
先日帰国した折、実家にうず高く積まれている昔の書籍やカセット等を分類処分しておりました。殆どそれをする為に帰ったというくらい、帰国中最もまとまったイトナミでありました。10年以上前に買った本が多いのですが、10年経っても尚も「むむ、これは捨てるのは惜しいな」という本が結構ありまして、それらの一部は船便でオーストラリアに送ったりしました。
やっとこさ届いた船便のダンボールを開封して、パラパラと読んでいたのですが、そのなかに「幼女連続札事件と妄想の時代/倒錯」という文芸春秋社刊の本があります。伊丹十三、岸田秀、福島章という錚々たるメンツでの鼎談です。対談本でありがちなように、話があっちいったりこっちいったり、とっちらかっているのですが、断片的に「ほほー」と思う点も多々ありました。昔はそんなに感銘を受けた記憶はなかったのですが、今読むと結構面白いです。
幼女連続殺人事件は88年から89年にかけて発生していますから、今からもう15年前の話になります。今は最高裁だったですか。若い読者はもうリアルタイムには知らないのではないかな。当時大騒ぎになってなんだかんだ語られたものです。「おたく」という言葉がネガティブなレッテルとともに一気に日本人のボキャブラリになったのもこの頃です。この本も、そのなんだかんだ語られた本のうちに一冊なのですが、僕が面白いと思ったのは、「なぜああいう異常極まる犯行が行われるのか」という視点ではなく、「なぜ、一般的にはああいう犯行が犯されないで済んでいるのか」ということを論じてる部分です。「なぜ彼は犯したのか」論ではなく、「なぜ僕らは犯さないのか?」論です。犯さないのには犯さないなりの力学とシステムがあるはずで、それは何だ?ということですね。
それと個人的にずっと思っているのですが、なんで世間の人々はあんなにヒステリックにセンセーショナルに大騒ぎするのかな?ということです。後年に発生したオウムの問題にしても、酒鬼薔薇にしても、「そんなに騒ぐほどのことか?」という気がしていたのですね。だから僕にとって一番興味深いのは、「なぜ、(僕からしたら)”過剰”とすら言えるほど世間は反応するのか?」であったりします。
人が残虐な犯行に走るメカニズムについて、岸田氏は私的な妄想と公的な妄想(共同幻想)のせめぎあいとバランス関係論に基づいて説明を試み、福島氏は動物行動科学的、系統発生的に説明を試みるわけで、どちらもそれなりに「なるほど」という部分があって示唆的でありました。、、、、っつって、これだけでは全然分からんでしょうから、僕なりに咀嚼・発展させて書きます。
まず分かりやすい福島説的な説明ですが、「我々の祖先は全員泥棒だった」というところから話がはじまります。
はるか昔の原始時代、農耕という技術がまだ発明されていなかった頃。人間は野草を食べたり、動物を捕えて食べていました。時代が下れば石器のような武器も開発され、集団で猟をしたりするようになりますが、それ以前は、道具も何もなく、ただ素手で獲物をゲットしなくてはならなかった。動物界においては、人間の筋力なんかヒヨワな部類に属します。鹿だって、素手だけで殺せといわれたら中々できるものではないでしょ。だから、当初人間はハイエナと同じような行動をとっていたのではないか。つまり強いケモノが獲物を倒してむさぼり食らっているのを遠くから見ていて、スキを見つけてその肉をかっぱらって食べていた、と。「腐肉に群がるハイエナのような」という表現がありますが、当初人間というは全員それだった。というか、それが出来ない個体は栄養失調で死んでいったのでしょう。
このように原始狩猟社会では、他者のモノを奪うとか、他者を殺すことによって人間は生きていた。今で言うなら、毎日毎日、窃盗罪や殺人(獣)罪を犯していたわけですね。それは善悪の問題ではなく、この自然界において力の劣る者が生きていく、サバイブしていくことの本質であった。「それが人間の本質だ」とまで言ってるわけではないのですが、他者のモノをかっぱらったり、一人であるいは集団で弱いものを殺したりすることにより適応した個体だけが生き延びることが出来たのだろうと。盗んだり、殺したりすることにタメライを覚える度合いが少なく、より速やかにやってのける技術があり、そしてまた殺すことにいくらかの快感を感じうるような個体の方が生き延びる確率は高かったであろう。そんな時代が何万年と続き、徹底的に淘汰され、生き残った我々というのは、窃盗や殺傷については選び抜かれたプロみたいなものでしょう。そういった原始狩猟社会における”殺戮プラグラム”みたいなものは、人間だったら誰にもインストールされている。人が犯罪を犯すのは、ある意味では先祖返りであり、何かの間違いでプログラムが起動してしまっただけのことである。
という説が出てくるわけですが、確かに、人間のやってることをちょっと離れて見れば、些細なことでやたら争ったり、傷つけ、殺しあったり、奪い合ったりしています。レジャーとしてイジメもするし、時としてイジメ殺して遊んだりする。小さな幼児がトンボの羽をむしり取ったりして、えらく残酷な遊びを本能的にするのは、幼児が残酷なのではなく、その幼児もまた我々の凶悪なプログラム遺伝子をしっかり受け継いでいるからではないか。学校や職場でイジメが起こるのも、「弱いものをいたぶるのは楽しいこと」という情報がDNAレベルでインプリンティングされてるからではないか。マスコミのスキャンダル報道等を見ても、事実報道の必要性のレベルをこえて、嗜虐的な弱いものイジメに陥っているように思える。戦争はなくならないし、犯罪もなくならない。なぜなら、それこそが我々人類のもっとも得意とすることであり、もっとも根源的な快感を与えてくれるものだからだ。
もうちょっと考えてみると、僕らが子供の頃から自然にやっている遊び、さらにスポーツなどでも狩猟的な行動パターンが多いです。鬼ごっこでも、かくれんぼでも、ハンティングあるいはハンティングされる(猛獣から逃げる)のが原型でしょう。人が人を追いかけ捕まえる。なんでそんな物騒なことが遊びになりうるのか?そんなことが楽しいのか?楽しいんですよね。スポーツでも格闘技はモロ過ぎますが、ボールゲームでも集団狩猟が原型になっている。今も昔も趣味で狩りをやってるし、戦国時代の鷹野とかも、日頃あれだけ殺しあってるんだから、せめてホリデーくらい血なまぐさいことはやめればいいのに、それでもまだ殺戮をエンジョイしている。土台農耕社会の歴史など高々数千年、それに比べて狩猟社会は数万年あったといいますから、言われて見れば僕らの中にかなり狩猟的な感性というのは染み込んでいるような気もします。
はい、ここで終わってしまったらあまりに殺伐とした人類の自画像になってしまうのですけど、でも大前提としてはこのくらい思ってた方がいいんだろうなと思います。なぜなら、「どうして殺したり盗んだりすることは”悪いこと”なのか?」を理解するために。我々の最大の特徴である攻撃性を、なぜ我々はそれを「悪いこと」だとして封印したか、です。そしてそれを人の一生にわたって封印しつづける”魔法”をどうやって開発し、維持させてきたか、です。考えてみたいのはソコです。
それまでの原始狩猟社会で当たり前に行われていたイトナミが、なんでいきなり「悪」として忌み嫌われるようになったのか?ある日突然人々が高度な倫理性に目覚めたからではないでしょう。それ相応の「必要性」があったのでしょう。ひとつは、狩猟社会後期に行われたであろう集団狩猟。ここではチームワークが良くなかったら獲物が取れませんから、必然的にチームワークが開発されます。つまり、「仲間内では攻撃しあわない」というルールができるのでしょう。だって、仲間の獲物をかっぱらってたり、仲間を殺して獲物を横取りしてたら、そもそも「仲間」になれないし、チームも組めない。だから大きな獲物をしとめることも出来ず、その結果、身内で争ってる部族は共倒れで滅ぶ。チームワークを維持するための強力な統制とルールを成し遂げた集団だけが生き延びることが出来た。
次に農耕社会になります。農耕というのは地味な仕事の積み重ねです。槍を遠くまで投げられるとか、足が速いとかいう、そういったスタンドプレーは要求されません。必要とされるのは、コマメに雑草を取り除く忍耐力です。農耕は狩猟以上に集団化による効率が良いので、ますます人間をして集落を作らしめます。数分間で勝負が決まってしまう狩猟に比べ、年に一回の収穫という異様に間延びした目的のための集団ですから、「特定の目的のためのタスクフォース」という目的性が薄らぎ、「ずーっとこの人達と一緒に生きていく」という、はじめに集団ありきみたいな感じになっていくのでしょう。
そこでは、複数の人間がうまくやっていくための仕掛けが編み出されます。もちろん仲間内のものを殺したり、奪ったりするすることは厳禁とされ(刑法の発生)、個人的な争いであっても、それを無制限に許したら決闘ばかりして構成員が減るし、内部分裂しちゃうから、「私闘の制限」が編み出され、トラブルは集団で解決するようになります(司法の発生)。ここに至って、殺害や奪取は「悪いこと」として規定されるようになったのでしょう。
それで万事うまくいくかというと、そんなに簡単に上手くいかないのは世界の歴史をみても分かりますし、今の国際情勢を見ても分かります。国際情勢なんて見なくたって、あなたの周囲の人間関係を考えてみるだけで分かるでしょ。あなたの周囲の人間関係、全てが百点満点で上手くまわってますか?そんなことないよね。
前述のように狩りだったら、「なぜ俺はここにいて、これをしなければならないのか」がすごく良く分かるでしょう。狩猟本能の文化的昇華形態としてスポーツがあると思うのですが、スポーツでも「なぜ俺がここでコレをするのか」は分かりやすいでしょ。「一塁ランナーが盗塁することを防ぐために、ショートやセカンドが二塁ベースカバーに入る」とか、いちいち納得できる必然性がある。でも、年に一回の収穫という間延びした目的になると、「なんで俺はここに居なきゃならんのだ」という必然性も薄らぐでしょう。そうなると集団もダレてくるんじゃないかな。もともとが”殺戮集団”だもんね、悪知恵は良く回るだろうし、地味な農作業のときは何もしないで、収穫のときだけ仲間面して分け前を貰おうとする狡い奴も出てくるだろう。そもそもこんな毎日雑草取りみたいな地味な暮らしがイヤになる奴も出てくるだろう。それでも村人全員がいつも餓死と戦ってるような段階では緊迫感もありますから、集団の結束も固いでしょうが、段々農業技術が発達してゆとりが出てくると、綱紀は緩むでしょう。
そこで、集団維持のための”魔法”が次々に開発されることになります。文化、カルチャーの発生ですね。統治の本質は暴力であり強大な力であるといわれますが、身内の暴力組織(政治とか警察とか)だけではうまくいかなくなった場合、もっと”力の強い奴”を開発しますね。それが、すなわち”神様”なのでしょう。「神の祟りがある」とか、リーダーは神から特別な力を授かっているから逆らったらヒドイ目にあうぞよとか。だから古代はどこでも政教分離ならぬ政教一致であり、その名残で政治の「政」はいまでも「マツリゴト」と発音するのでしょう。宗教の発生です。
同時にこまごまとした社会慣習も発達するでしょう。前にも書きましたけど、いちいち出会う人全てに全人格的に、金八先生みたいに肉弾戦で付き合っていられません。「そこそこテキトーにつきあい、相手の感情を傷つけない方法」というのが編み出されます。それが行儀作法であり、礼法であるのでしょう。その礼法は部族によって様々で、上半身を前屈させる(お辞儀)方法を採用した部族もいるし、右手を差し出して手を握り合う方法を採用した部族もいる、と。
同時に、みなが本音をぶちまけ合ってたら殺伐とした世の中になります。「君の奥さん不細工だね、よく結婚する気になったね」「あなたはもとがブスなんだから化粧なんかしても無駄よ」とかホンネで言い合ってたら大変でしょ。もともとが粗暴な我々ですから、怒らせたらすぐ殺傷沙汰になりますし、現になってます。だから、適当に本音を隠して、当り障りのない方法で付き合うようになります。他者と付き合うことを”社交”といい、英語では”social”ですが、これは「社会」という意味でもあります。他者と社交することが社会の本質なのだと。そこでホンネを隠して、その場その場で期待される人間像を演じる必要があります。ペルソナ(仮面)ですね。なお、これはYes/Noをハッキリ言う英語圏でも同じであり、ソーシャルの名のもとに応酬される会話の無害・無内容さと、お世辞の嵐はある意味では日本人以上かもしれない。このペルソナを上手く使い分けることができること、集団の秩序を乱さずにふるまうことができること、これが「大人」であり、出来ない奴はガキであります。これは世界中どこいっても同じ理屈だと思います。
とまあ、人類数万年の歴史がわずか100行程度でおさまるわけもないのですが、長々書いたのは、@殺人や強奪など”人間にあるまじき”といわれる犯罪行為は、実はとても人間的な本能的な行動なのだろう、だからこそ、Aウチにある獣性を調教するために様々な仕掛けが必要となり、それがまがりなりにも機能してきたということです。
この社会を成り立たせるためのオキテですが、目に見える刑法や校則という形ばかりではなく、無意識的に心の奥底までインプリンティングされ、「それはそういうものなのだ」と思い込んでいるものも多い。というか、そちらこそが社会や文化の本質に近いと思います。「本当はやりたいんだけど、オキテがあるからぐっと我慢して、、」ということではなく、骨の髄まで染み込んだオキテは最初からそれをやりたいとは思わないし、やると考えるだけで不快な気分になったりする。教育され、そういう人間に育っていくのですね。
たとえば人や生き物を殺すことです。もともと殺すことで生き延びてきた人間なのに、今の僕らは「あーもー、人を殺したくてたまらん!」とは日常感じません。多くの人は一生人を殺すことなんかないだろうと思ってるし、他人が殺すだけでも、話を聞くだけでも不愉快な気分になります。ましてや、カニバリズム/食人習慣など考えるだけでもイヤだし、同じように近親相姦などもあります。
このあたりは諸説入り乱れているところですが、いわゆる共同幻想論では、こういった殺人への忌避感やタブーのように殆ど”人間の本能”とすら思われていることも、全ては人工的なオキテであり、単に僕らがそう思い込んでるだけの幻想であり、それを社会の構成員が全員そう思い込んでる共同幻想に過ぎないのだ、と言います(乱暴な要約だけど)。
岸田氏の所論はこの共同幻想論です。その前提として、「人間というのはそもそも妄想で出来ている」という人間観があります。わかりにくいのですが、多分こういうことだと思います。人間というのは、動物的にただ単に生きるということが出来ない。アタマやココロがありますから、アタマとココロが納得しないとよう生きていけない面倒くさい生き物である。まず主体の問題として、「オレはこういう人間だ」という自己規定があります。アイデンティティってやつですね。さらにその自我を動画のように動かしてやるための「物語」が必要になります。
自分自身のキャラ設定と、キャラを動かす状況と物語の設定、これがないと人間の精神というのはうまく動いてくれないのでしょう。人間が何か頑張ってるときには、その人の脳裏にはその人だけの物語、ファンタジーが紡がれているのでしょう。文化祭前に必死でギターを練習している彼の脳裏には、「ステージでスターになってる俺」というファンタジーが上映されているのでしょう。頑張って勉強したり資格をとったり、一生懸命修行したり、ファッションやお化粧に凝ったり、「成功した僕」「カッコイイ俺」「素敵な私」というファンタジーがある。ファンタジーとは、「物語」といってもいいし、身も蓋もなく「妄想」と言い換えてもいいし、「希望」「生きがい」と言い換えても良い。コロンブスは「地球が丸いことを初めて実証した偉大なる冒険家の俺」というファンタジーにのっとって動き、宣教師たちは「神の光と福音をあまねく世界に広めている私」というファンタジーで航海にでたのでしょう。
しかし、そうそういつも話は上手くいくわけもなく、周囲によってぶっ潰されたり、アイデンティティを否定されたりします。例えば、学校の勉強に遅れをとって、落ちこぼれとして弾きだされたら、「どーせオレは不良だよ」というネガティブなアイデンティティが作られ、今度はそのアイデンティティに相応しい物語を探し、暴走族や暴力団になったりする。思うのですが、反社会的なアイデンティティを持ってる人ほど、いかにもそれらしく振る舞おうとしますよね。一見明白に不良と分かるようなファッションをしたり、喋り方をしたり、歩き方から行動特性まで、どこを切ってもそれらしくしようとする。暴走族のおそろいの制服やら鉄の上下関係やらみてると、いじらしいほど一生懸命なところがある。思うのですが、他者や社会によって「ありのままの自分」を承認されなかった人間は、必死に自分のアイデンティティを立て直そうとするから、過剰なまでにキャラクターを立たせようとするんじゃないでしょうか?必死になってキャラを立たせないと自分が無くなっちゃうもんね。
落ちこぼれではなく、逆にたまたま勉強が出来てしまったために、優等生街道を進まされる人も多いです。自分のキャラに合わないような格好や振る舞いはできなくなり、「なんだかなあ」と思いつつ走りつづけないとならない。普通にジョギングしてたら、沿道に見物客が連なって旗振って応援してくれるようになった。最初は気分がいいけど、走っても走っても客の姿が途切れることはなく、その期待に沿うために走りたくも無いのに走り続けさせられる。でもって、いい大人になったときに「もう、いい加減にしてくれ!」とブチ切れるという。これも「ありのままの自分」を承認されなかった悲劇だと思います。「ほめ殺し」みたいなものですよね。
何もこういったドラマチックなことだけではなく、何気ない我々の日常にもファンタジーはある。「ファンタジー」とか「幻想」「妄想」って言うと分かりにくいかもしれないから、「現状認識」といえばいいでしょうか。「最近なんだか職場で浮いてるような気がする」「定時で帰ろうとすると心なしか皆の反応が冷たい」「最近恋人が浮気してるような気がする」とかね。人間が自分の置かれている状況を正確に把握することは不可能です。本当に皆の態度が冷たくなったのかどうか、自分に対する反感が増しているのか、それとも単なる気のせいなのか、一人一人聞いて廻るわけにもいかないし、聞いたところで本当のことを言う保証もないし、まさか拷問にかけるわけにもいかないし。だから推測がどうしても入ってくる。相手の為に良かれとおもってやったことでも、相手は全然喜んでくれないとか、逆に迷惑がっているなんてすれ違いは日常幾らでもあります。「私はこういう人間で、今私はこういう状況にある」なんていう現状認識は、幾ら本人は正しく思えても、どこまでいっても独り善がりであることを免れないし、その意味ではファンタジーですよね。でもそのファンタジーがないと、自分が誰で何をしてるのかがまるで分からなり、自分が成り立たなくなってしまう。ファンタジーにすがって僕らが「現実」を作り上げているともいえます。
これらは私的なファンタジー/妄想です。そして、社会には社会のファンタジーがある。「人はこういう生き物だ、こう生きるべきだ、社会はこういうものだ、こうあるべきだ」というファンタジーであり、それが構成員の(ほぼ)全員に共有されているときは、共同ファンタジー、共同妄想、共同幻想になり、それが社会のあり方を規定する規範になる。
これは先ほどの農耕社会になって様々はキマリゴトが増えていったことと照応します。キマリゴトが増え、そのキマリゴトを皆が当然のこととして共有して、そのとおりに疑問なく動いていけば、それは共同幻想になるのでしょう。例えば、江戸時代だったら、武士と町人という階級差別があり、武士は苗字帯刀を許され一ランク上の存在として扱われる。その武士の中でも将軍様は破格に偉くて絶対に逆らうことは許されないと皆が思っていた。よーく考えたら別にそうであるべき合理性など何一つ無いです。会ったことも見たことも無い奴がなんで自分よりも無条件でエラいんだよ?とは誰も思わなかった。水戸黄門の印籠が出てきたら、皆かしこまって土下座することになってる。「それがどうした、クソジジイに変わりねえじゃねえか」とは誰も言わない。ろくすっぽ根拠らしい根拠もないのに、一人残らずそういうもんだと確信しきっている、これを妄想、幻想と呼ばずしてなんと呼ぶのか?
これは現在にいたるまで確固としてあります。アメリカは、自由社会を広めるため、人類全体の幸福のための聖戦としてイラクを攻めるわけで、そこには「西欧的自由社会が人間をもっとも幸福にしうるものであり、それを増進させようと頑張っている我々」という確固たるファンタジーがあるのでしょう。対してアラブ社会、アル・カイダ等においては、「アメリカは暴力の力で世界を支配しようとする悪魔であり、悪魔の侵攻に身体を張って抵抗している僕たち」というファンタジーがあるのでしょう。日本はといえば、どっちのファンタジーにもなじめず、共同幻想に浸りきれない居心地の悪さを感じてるわけですね。
さて、犯罪の話に戻りますが、犯罪というのは、先祖返り的な攻撃プラグラムの起動でもあろうし、自分を成り立たせるための私的妄想が軌道を外れていってしまった結果でもあるでしょう。後者の点、まだ説明が必要だと思いますが、「暴力団員としての私」というアイデンティティが出来ちゃったら、そのキャラと物語で動いていくようになりますよね。いやしくも暴力団員である僕が、「悪いことしてはイケナイよ」なんて言えるわけないじゃないかって。だから率先して悪いことをやり、悪いことをすればするほど仲間内で認められるというわかりやすいパターンがあります。これはまだ分かりやすいですし、「悪い私」というのは結構ありふれたパターンでもあります。
しかし、その何にもなりえない、自分でしっくりくるアイデンティティや物語が見つからないという人も沢山いるでしょう。お仕着せのアイデンティティを強制されても、どうにもピンとこない。「私って一体何なんだ?」って思う。アイデンティティが希薄になった場合、なにをやっても雲を踏んでるみたいで現実感がない。そこであれこれ模索するのだろうけど、それまでやったことなかったのだけど、ふとした弾みでやってしまったら、これが異様に気持ちよかったとか、異様なまでに充実感があったりすることがあります。「おお、この確かな現実感!」「生きている実感」ということで、それで「道がついて」ハマってしまって抜け出せなくことがあります。健全な方向では趣味とかスポーツとかがそうでしょう。山登りをやって、命がけで岸壁にへばりついていたら、そこに異様なまでの生の充実を感じ、「これだ、俺が求めていたのは!」と思ったりします。しかし、そういう健全なものにハマるとは限らず、より反社会的な行動、例えば覗きにハマってしまう、万引きにハマってしまう、さらに幼児にイタズラしたり、殺害したりすることにハマってしまう人もいるのでしょう。
犯罪などの悪いことというのは、妙に人を引き付ける原始的な磁力があるようで、やったらやったでえらい面白いものなのでしょうね。スリリングだし、達成感はあるだろうし。それが太古の狩猟プラグラムを誤起動させてしまうかどうかは分かりませんが、犯罪の習慣性、中毒性というのは確かにあるようです(罪種にもよるけど、放火や万引は習慣性が強い)。この本にも紹介されていましたが、72年にアメリカで起きた連続強姦殺人事件の犯人エドマンド・ケンパーは、犯行現場の女の部屋の鏡に「早く捕まえてくれ、自分にはとめられない」と口紅で書いたので有名ですが、いったん道がついたらもう自分ではとめられなくなるのかもしれません。ちなみにこのケンパー氏の場合、捕まえてもらうために地元の警察に電話しても「今忙しい」と相手にされず、何度も何度も電話してやっと捕まえてもらったというエピソードでも有名らしいです。
犯罪にハマっちゃうと、そこにもまたファンタジーが生まれます。それまで感じたことのなかった充実を覚えてしまえば、それを機軸に生活が廻っていってしまうでしょう。あるいは自責の念というのもあるのですが、それをなだめるために、あれは殺されてもいい存在なのだ、殺したことは正しかったのだということで奇妙なストーリーを生み出そうとする例が珍しくないです。「酒鬼薔薇の神に捧げる」とか「ポアされてよかったね」とか、なんでもいいから大義名分がほしくなる。このあたりは人間精神の業みたいなものを感じます。あるいは、自分の犯罪で世間が大騒ぎするのでそれが嬉しいという愉快犯とかもいますね。「世間の馬鹿どもは誰も知らないが、俺だけが犯人を知っている(だって自分だもん)、次に何が起こるかも俺だけが知っている、ふふふふ」という神にでもなったかのような全能感と高揚感があるともいいます。このように、脱線してハマってしまった人間は、自分だけのファンタジーを織り紡ぎながらどんどん深みに入っていくのでしょうか。
さて、個々人がこんなケッタイな行動にハマったり、ファンタジーを妄想したりすることを防ぐために、社会のキマリゴトがあり、共同幻想・妄想があります。そこでは私的な妄想と公的な共同幻想が拮抗してせめぎあうことになります。これは誰にだってあるでしょう。どう考えても人間的に下劣しか思えない上司を、「こいつ、ブン殴ってやろうか?」と殆ど手が出掛かったり、小気味いい啖呵のひとつも切りたくなったりしますが、「それをしたらサラリーマンとしては終わりだよ」という公的観念のブレーキもまた強力にあります。
このように社会の共同幻想が、個々人のユニークな妄想ファンタジーに対するブレーキになってるわけで、それをフロイト的な心理学で、イド、エゴを抑止するスーパーエゴといってみたり、大脳新皮質に形成される人間の社会的な部分といってみたりするのでしょう。僕のような素人いまひとつ良く分からないのですが、人間を突き動かす強大なエネルギー(リビドーとか)があり、それを抑止・コントロールするブレーキがあり、その両者の力関係で人間の行動が決定されていくという図式はどれも似たようなものだと思います。
そして、犯罪が起きたということはそのブレーキが利かなくなっていることをも意味します。
以前、「どうして人を殺したらいけないのか?」という十代の問いかけにヒステリックなまでに社会が反応したことがありました。「そんな当たり前のことを疑うこと自体、お前はもう壊れている」という反応が多かったのですが、僕には「痛いところを突かれて、当惑、逆上した」かのようにも見えました。この本では、幼女連続殺害事件でも、その後の事件ででも人々が大きく反応するのは、その事件が前代未聞であればあるほど、「人間というのはそういうヒドイことはしないもの」「人間とは、社会とはこーゆーもの」という僕らの共同幻想を叩き壊したからではないかと語られています。ひび割れを起こした共同幻想を修復するためには、なんとか統一的な説明を加えないとならない。「あれはなんだったのだ」ということを理解して、再び確固たる改訂版のヴァージョンアップした共同幻想を構築しないと、自分が今どんな社会に生きてるかまるで分からなくなってしまうという恐怖感があったのだろうと。
で、結局出来てませんよね、そのヴァージョンアップ。皆が薄々察しているように、今の世の中「共同幻想」というものは、昔ほど機能しなくなってきている。ズタズタにあちこちに裂け目が生じて、共同幻想もあるんだかないんだか頼りない存在になりつつある。これだけ情報が行き交うようになったら、共同幻想に浸ろうにもすぐに反対の事実がみつかってポシャってしまうという。
特に日本の場合、語り尽くされてますが、「一生まじめに勤め上げれば大過なく幸福な人生が過ごせる」という共通観念は文字通り「幻想」となりつつあります。マイホームを持てばそれで大丈夫だともいえないし、高学歴だったらそれで一生安泰でもない。世代によって生きている環境が全然違うので、なかなか共同合意に達しない。全員でというのは無理になると、自分と同じ幻想を抱いている者同士でその幻想を共有するという小宇宙が散在するようになっていくのでしょう。マニア社会ですな。そうなってくると、先祖返り的プラグラムの起動抑止力や、私的妄想を抑圧する力が薄弱になっていきます。するとどうなるかというと、「誰が何をするのか分からない」という不安な社会になるということで、現になってるように思います。
さて、ここから先が書物を離れて僕個人の思うことです。最初からここから書き出したかったのだけど、でもね、「周知のように、社会の共同幻想が機能しなくなり、人間の持っている攻撃本能や奔放な私的妄想を抑止する力を失いつつある現代においてはー」とか書き始めたら、読む気力をなくすでしょ?だもんで、延々と(それでもかなり端折りながら)書いてきたのですが、いよいよというところでもうスペースがないじゃん。一回じゃ無理だったかなあ。でも、まあ、いけるとこまで。
僕が言いたいのは、共同幻想が力を失いつつあるとしたら、「じゃあ、どうすんのさ?」ということです。あなた、どうしたらいいと思いますか?戦前のように倫理道徳教育に力を入れたら何とかなると思います?やらないよりはマシかもしれないけど、やり方によってはもっとひどくなりそうな気もするし。
やっぱり王道は、共同幻想を再構築していくことだと思うのですね。ただし、昔のように問答無用で「そういうものだ」というわけにはいかないでしょう。それじゃ誰も納得しないでしょう。この問題になんとなく僕が関心を抱くのは、やっぱり海外に出てるということと無関係ではないと思います。海外に出たら、それまでの母社会の共同幻想が否応無くぶっ壊されるんですよね。「人は、社会は、こういうもの、こう行動するもの」という思い込みがいきなりバシバシ壊される。また、オーストラリアでの共同幻想にも行き当たるわけですが、他の部族の共同幻想というのは参加してないだけにクールに見えてしまったりもするのですね。「なんでそんなにムキになってるの?」とかね。水を大事にしてシャワー時間を制限するくらいだったら、プール使うのをやめたらいいじゃん?とかさ。民族の数、社会の数だけ共同幻想はあり、彼らはそういうものだと思い込んでるけど、他の部族からしたら「なんで?」ということをやってるわけです。そうなると、もうどっぷり幻想に漬かれなくなってきますよね。そして別に海外に出なくても今は情報が幾らでも入ってきてるから、日本人だけ「こーゆーもんだ」と思い込んでいても、「そんなことやってるの、もしかして俺らだけ?」「言われてみれば意味ない習慣かもね」ということも分かっちゃうんですよね。
共同幻想は、それが幻想、虚構なんだと思ってしまったらもう幻想にはならない。ココロから納得して「やっぱりこうとしか思えない」というくらい強くないと役に立たないし、抑止力にならない。だから、共同幻想=これは「社会と人間のモラル」と言い換えてもいいけど、
これを世界的視野で再構築するしかないだろうなと思います。あれこれ見比べ、考えたうえで、「これは動かせないでしょう」という事柄を一つ一つ詰めきって確認して、積み上げていくという作業をすべきなのでしょう。滅茶苦茶手間暇かかるけど、それっきゃないんじゃないかと。
そのときにキーポイントになるのは「確信」ではないか、という気がします。あれこれ視野を広く見通し、なんでも経験して、その結果、「これがベスト!」と心から納得できること、確信できることを幾つ持ってるかがポイントになっていくのだろうと思います。
文責:田村
★→APLaCのトップに戻る
バックナンバーはここ