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今週の1枚(03.09.29)
ESSAY124/タイ米とアメリカの話
写真はCamsieにて。新聞売りのキュートなおじさん
日本では、今年は冷夏のために米の出来が良くないようですね。03年9月26日農水省発表の全国作況指数では、日本の全都道府県が平均の100を下回っているそうです。沖縄は99でほぼ平年並みですが、北にいくほどに悪くなって、北海道81、青森71、岩手77、宮城78、全国平均では92とのこと。
10年以上前に、同じように米不足になってタイ米などを緊急輸入したりして大騒ぎになりましたが、今年も似たような話になるのでしょうか。あの頃に比べれば備蓄米も沢山あるので、とりあえず「米が無い!」という最悪の事態は避けられるらしいのですが、ただ米というのは年々風味が落ちますから、あればいいというものでもないでしょう。まあ、戦時中とか、餓死するとかいう状況だったら、味の良し悪しなんか言ってる余裕はないでしょうけど、”魚沼産コシヒカリ使用”なんてコンビニおにぎりが出回ってるグルメ日本ですから、数年前の古々米が登場してきたら、ちょっとツライでしょうね。
ただ、その昔タイ米を輸入したとき、日本全国、不味い不味いの大合唱で、タイ米というのは不味い物の代名詞、日本米に遠く及ばない海外の三流品みたいなイメージが流布しましたが、今でも同じように思ってる人がいたら、そしてその人が今後海外に出て行くのであれば、その認識は変えた方がいいでしょう。理由は二つあります。
ひとつは、これは幾度となく言ってますが、世界的には米/ライスといえば、タイ米系の長粒種がメインであり、日本系の中・短粒種は非常にマイナーで、食べてるのは日本人と韓国人くらいだといわれます。お隣の中国になると、もうジャスミンライスとか長粒種になりますから。つまり地球レベルの常識で、ライスといえば、サラサラパサパサなあの米を指すということですね。それに、稲はもともと南方系の植物ですので、パサパサの方が本家本元です。日本も、九州四国の南方だったらまだわかるけど、北海道なんかでよく米を作るよなと思います。きらら335とか。品種改良の努力の賜物でしょう。どえらいものです。
さらに、米を主食にして食べてる人々自体、世界的にはそれほど圧倒的な主流派というわけではないです。人類の主食系穀物のうち、メジャーなのは小麦と米でしょうが、日本は米文化圏で、主食以外でも酒も米で作ります。日本酒を英語でそのままSAKEとも言いますが、ライスワインとも言う所以です。小麦(その他の大麦、ライ麦など)の麦系はヨーロッパがそうで、小麦を粉にしてパンを焼いたり、パスタにしたり、酒もビールだったりします。日本でも北海道のような寒冷地は気候的にはヨーロッパ系だから、品種改良で米作をやるよりも前の農産物といえば、小麦であり、酪農であり、ジャガイモだったわけでしょう。サッポロビール、サッポロポテト、雪印チーズという。
このように米に馴染みが薄い西欧圏では、「米を食ってる」ということにカルチャー的に隔たりを感じる人もいたりします。オーストラリア、とくにシドニーではマルチカルチャルが進んでて、皆さん色々な民族の食べ物に詳しくなったり、慣れてきてますからライスを食べることに抵抗は少ないでしょうけど、同じオーストラリアでも田舎の方にいったら、「げー、米なんか食ってる!気持悪!」みたいなリアクションを受けることも、一度や二度はあると思います。まあ、納豆をボロクソけなす関西人みたいなものですね。
このように自分が馴染みがないという理由だけで、他人のカルチャーをコキおろす奴は基本的にアホだと思います。だから相手にせんでもいいです。いわば自分の無知さと偏狭さを棚に上げて、天に唾するようなものですからね。それでも、ほんとに無茶苦茶言う奴は居ますよね。「良く食べるな、そんなもん」とかいう位だったらまだしも、「うわ、気持悪〜、ウジ虫みたい」なんて不届きなこというアホもおります。
というわけで、地球人にとって米は必ずしもデファクトスタンダードではないということですね。そして、アフリカ、インドから東南アジア、さらに中国、韓国、日本の北東アジアというエリアに広がる”我ら米食い仲間”のなかでも、日本系短粒種はさらにマイナーだったりしますから、パサパサでないことを嫌われたりします。「ベトベトして気色悪い」とかね。もち米との区別もつかない人もいるでしょう。
日本人にとっては悪評の方が高いタイ米も、世界的にはタイ米ブランドで認知されてますし、実際タイの米の輸出量は大したものだといいます。より正確に調べてみると、タイの米生産量は世界第六位、輸出量は世界第一位です。2003年の輸出量は700万トン以上。タイ米と一口でいっても生産されている米の種類は30種類にも上るといいますし、その気になったらコシヒカリのような日本米も作れますし、現に作ろうとしている動きもあるといいます。もちろん、こちらのスーパーでも普通に売ってます。ときに、こちらで売ってる米は、タイ米に限らず、中国米、ベトナム米、さらにもっと針のように細長いインド米、パキスタン米、逆に日本のものよりもさらに丸みを帯びて粘り気のあるイタリア米(リゾットに最適!)なんかもあります。もちろん、日本系の米も、ミディアムグレインという名で、さらに日本のコシヒカリをこちらにもってきて栽培している(日本のものと殆ど違和感無く美味しい)ものもあります。”スシライス”とかいう脱力的なネーミングを施されてますが。
このようにタイ米は世界的にも有名ですしガンガン輸出されてますが、日本の米が世界に輸出されたという話は、不勉強にしてあまり聞いたことがありません。輸出してるんですか?輸出しても値段的に釣り合わないのか、それともなんか行政手続的な理由があるのかわかりませんが、あんまり自動車や電化製品みたいに輸出してるようでもないですよね。政府も減反とかいって生産調整してますし、国内流通や需給バランスには気を配ってるけど、輸出できるものならガンガン輸出すればいいじゃんって気もします。そうしたら日本の農家ももっと潤うでしょうし。でも、あまりそういう話を聞かないというのは、やっぱり値段の問題と、世界市場の好みに合わないのでしょうか。
いずれにせよ、日本の米と、タイの米とは植物としての品種が違うのだし、沿革的にいえばあちらが本家だし、世界的シェアではあっちがグローバルスタンダードだったりすることくらいは知っておいていいと思います。それを全部シカトして、日本国産が一流であっちは三流みたいな言い方をするのは、やめた方がいい。「そのくらい知っとけ」ということです。もっとも、そういう人は英語喋れなかったりする率が高く、海外で天に唾するアホな発言をしたところで、周囲に理解されることも少ないから、いいっちゃいいかもしれないですけど。あー、でも、意外と日本語理解できる人がバスであなたの隣の席に座ってたりするからなー。見た目は全然わからないし、ターバン巻いてるインド系の人でも、実はあなたの日本語丸わかりだったりすることもあります。どうせ誰にも分からないと思って日本語で悪口ベラベラ喋るのは止めた方がいいです。
理由の二つ目は、他人のカルチャーを馬鹿にしなさんな、ということです。
タイ米が口に合わない、自分の趣味に合わないというのは、これは全然OKです。そんな好き嫌いは誰にでもあります。”個人趣味・不可侵の原則”。世界広しといえども、あなたの趣味を決定する権限はあなたにしか帰属しない。聖域です。ただし、好き嫌いはあくまで好き嫌いに過ぎず、序列や優劣をつけるものではない。あなたがタイ米を嫌い、嫌いだと表明することは自由だが、それはタイ米が劣るからではない。
理屈は誰にでもわかるのだけど、実践するのは難しいです。誰だって、劣ったものは嫌いだし、嫌いなのは本人にとってはそれが劣るように思えるからだったりしますしね。だから、好き嫌いと優劣は、個人の主観のなかでは不可分になっているのが普通でしょう。劣ってるのを百も承知で、むしろ劣ってるからこそ好きというのは、阪神タイガースのファンくらいのものでしょう(それとて今年はそうでもないし)。
だから、そこが難しく、そこをわきまえるのがマチュアな大人としての条件の一つだと思ってます。そこをわきまえてない奴は、例えばさっきの例で、米食ってるだけで気持悪いとか平気で言うようなアホなわけで、そのアホぶりは、立場が逆になってみれば一目瞭然でしょう。無知な奴ほど傲慢だということですね。
ところで、司馬遼太郎氏のエッセイで文化と文明の違いについて触れていました。曰く、普遍的に万人に通用するのが”文明”、ある特定の社会内部でしか通用しないのが”文化”だと。
”文明”というのは、例えば、火の発見とか、火薬、羅針盤、電気、自動車、飛行機、パソコンなどです。文明は、その有益さが客観的にわかりやすく、そのメリットは合理性にあります。だれだって、どんな民族だって、寒いときに火にあたったら温かいから、これは便利だと思うでしょう。だから文明は、民族や文化を超えてすぐにひろまっていきます。
ところが”文化”は、文明ほど広がりません。文化とは、ある特定集団内部にだけ通用する、特殊に非合理的な価値観に基づく価値体系や行動様式であり、文明が合理性をその基礎にするのに対し、非合理性をその本質とします。ひらたく言えば”変”なことやってるのがカルチャーですね。だから、ある集団内部では当たり前のように皆がやってることでも、他の集団からみたら「なに、ケッタイなことやってるんだ、こいつら?」と全然理解できない、極端に言えば集団発狂してるとして思えないような奇妙な行動だったりします。それがカルチャー。
明治維新のときに、日本は多くの西洋文明を取り入れました。洪水のように西洋文明が入ってきたわけですが、それでも”和魂洋才”といって、魂は日本のまま、技術だけを取り入れるに過ぎないという言い方をしました。すなわち、カルチャーは日本のまま残し、テクノロジー、文明だけは取り入れましょうと。だから、日本人は、およそ100年以上にわたって西欧文明の奔流に晒されながらも、なおも家にあがるときは靴を脱ぐし、米は食べるし、味噌汁も捨てていません。障子、襖、畳、、、紙と木の建築様式は、今後とも日本人にとって安らぐ住環境でありつづけるでしょう。サイン文化は遂には印鑑文化を覆すことは出来なかったし。
もっとも、何が文明で何が文化であるかの区別は時として難しいです。同じ文明、同じテクノロジーを採用するにあたっても、”スタイル”というものがあり、文明と文化とは不可分に結びついていることも多いです。和魂洋才とかスローガンを掲げても、実際にそのとおり整然と分離していったわけではなく、江戸から明治に移る時点で失われた日本カルチャーも沢山あります。士農工商という身分や、特に武士の概念とか日本刀の文化は廃刀令で、チョンマゲも断髪例が出て強制的にカットオフされました。一気に無くならなくても、例えば和服も100年にわたって徐々に減っていってます。ちなみに和服の衰退は、ここ20-30年スパンを見てても顕著ですよね。例えば、サザエさんの波平やフネは自宅では常に和服です。でも、彼らの年齢って、孫がタラちゃんくらいだから、いいとこ60歳前後でしょう。今の日本で60歳前後の人が、自宅で常に和服を着てる人がどのくらいいるだろうか?
また、”和魂洋才”ではなく、全面的に西欧化すべきと過激なことを言っていた人もいます。日本の公用語を英語にしようという人もいたといいます。廃仏毀釈なんてのも、行き過ぎの例でしょう。昨日まで拝んでいた多くの仏像を、ゴミのように捨てたり、風呂の焚き付けに使ったとも言います。多くの国宝級の美術品がそのときのドサクサで大英博物館にいってしまったのは、未だに痛恨ではあります。
どこまでが文明で、どこからがカルチャーなのかを考えてみるのは、なかなか面白い作業です。例えば携帯電話。携帯電話は便利ですから、利便性という意味では明らかに文明でしょう。だから世界どこでも広まっています。メーカーも、フィンランドのノキア、スエーデンのエリクソン、ドイツのシーメンス、フランスのアルカテル、日本のパナソニック、韓国のサムソン、、という具合に、自動車と同じくいきなり国際的だったりします。
しかし、携帯電話の”使い方”とかスタイルになると、カルチャーの要素が多くなっていきます。小物フェチ文化の日本では、Iモードの進展とともに、携帯でなんでも出来るようになってますし、またユーザーにおいても携帯でなくても出来るようなことでも携帯でやろうとします。僕なんかから見てると、メールもカメラも、不自由で性能も悪い携帯電話でやらねばならない理由なんかどこにもないと思うのだけど、なぜか流行ってたりします。これは日本のカルチャーでしょう。カルチャーは普遍性がないから、他国も同じというわけではない。オーストラリアにも携帯電話は普及しているけど、日本のような普及の仕方ではない。
一方、アメリカ発の文化というのは、ジーパン、ハリウッド、ロックやジャズなどの音楽、自動車、インターネット、マクドナルド、、、いずれも広く世界に広がっています。世界中がアメリカナイズされているといってもいいけど、逆にあまりに広く、速やかに浸透しているので、あれってアメリカのカルチャーなのかな?という疑問も湧いてきます。ジーパンなんかも、あれってもともと農作業着だったわけですが、誰もアメリカのカウボーイにあこがれてジーパンはいてるわけではない。単純に便利だから穿いてるだけではないか。マクドナルドもコカコーラも、あれってアメリカ料理なのかというと?でしょう。どれもこれも、便利だったり、使い勝手良かったりするから普及してるだけで、カルチャーがもっている「すごく不便で変なんだけど、ハマったら病みつきなる」という種類のものではないような気もします。
だから、世界中がアメリカナイズされているといっても、あれって”便利で有用性が認められる限度において”という条件付のものではなかろうか。非常に便利な新技術や新発明がたまたまアメリカ発だったからそうなってるだけの話ではないかしら。だって、同じアメリカンカルチャーでも、野球なんか全然広まってないし、アメフトなんかアメリカくらいしかやってないんじゃなかろか。アメリカの保守本流WASPの中にあるエキセントリックなまでのピューリタニズムは、例えばクリントンの浮気ごときで国中馬鹿騒ぎをするような部分で現れてきますが、そういった部分はまったくといっていいほど世界に広まってないように思います。まあ、そのときそのとき商業音楽をのぞけば、ほんとジャズとかバーボンくらいかなあ。ジャズもブルースもヒップホップも本来は黒人文化だし、いってみればアフリカ文化だし。
だから僕らがなんとなく思ってるアメリカというのは、万国共通の普遍性をもってる文明的な面だけでの話なのかもしれません。あるいは、こうも言えますか、アメリカのようなまだ若い新興国家は独自のカルチャーを醸造するほど年月を経ておらず、社会の基本には「誰でも分かる」という透明な文明性がベースになっているのかもしれません。「わかる人にしか分からない」という偏狭な文化でやってると、社会そのものがまとまらなくなってしまうかな。もう少し穿った見方をすれば、”万人に通用する”という文明性、間口の広い”ポップな最大公約数”を特殊ローカルな文化よりも先行させていこうという発想や姿勢こそが、アメリカの文化なのかもしれません。だから、わりと無邪気に、他人に自分らのシキタリを押し付けたがるのかな。
コメ、タイ、アメリカの話題が出ましたが、落語の三題噺ではありませんが、この3つを同時に含む「タイとアメリカの間のコメ問題」というのはあるのか?というと、実はあるのでした。僕も知らなかったのですが(ついさっきインターネットで調べてたら出てきた)、タイ政府とアメリカ政府がコメ問題でモメているそうです。
なにをモメているのかというと、タイ米作の主力商品でもあるタイ香米(マリ・ライス)の品種がアメリカに渡り、アメリカ内部で独自に栽培されようとしているのを、タイ政府がクレームをつけているらしいです。詳しくは、JA(農協)のホームページのなかのタイの香米にかかる米国との種子論争をご覧ください。
このタイ香米というのは、タイ固有の品種らしく、それが非合法的にアメリカで作られているのは、一種の「パクり」であり、いわば”植物著作権”(そんなものないけど)の侵害だというのがタイの主張で、それがもとでタイとアメリカの農業関係は非常に険悪になっているとか。実際、タイ香米の輸出先の大口(3分の1)はアメリカであり、そのアメリカが自国生産をはじめたら(しかもお得意の遺伝子組み替えなどで品種改良されていったら)、タイは大きな輸出先を失い、その打撃は大きいでしょう。
その主張を裏付ける理論武装というか、国際法的な根拠はあるのかというと、「生物多様性に関する国際協定(CBD)」というのがあるらしいです。不勉強で恥ずかしいのですが、僕も、「ほー、そんなものがあったのか」と知ったのですが、既に180カ国が加盟している各国の固有植物を保護し、他国に密出入国しないようするための国際協定です。1993年12月発効だから、もう10年前の話ですね。日本も批准していますが、アメリカは、アメリカらしいというか何というか加盟してないです。
この協定は、もともとは自然、環境、生態系保護の見地から生まれたようなのですが、同時に今回のタイ--アメリカのケースのような”南北問題”をも含みます。植物著作権という著作権はないけど、”バイオ・パイレイシー(動植物の海賊行為)”という言葉はあるようで、今回のタイ問題にみられるように、南の国々で伝統的に保護され育成されてきた動植物種を、北の国々のバイオ企業が持っていって、優れたテクノロジー(特に遺伝子工学など)で(薬効成分などを)分析したり、品種改良したり、さらにそれで特許を取ったりして、その品種を独占利用できるように囲い込み、逆に南の国に売り付けるという行為がなされてたりするようです。なるほど、確かにそんなことされたら誰でも怒るわな。
ふと思ったのですけど、ちょっと前のエッセイで「21世紀中に著作権は消滅するかも」という話を書きましたが、こういった知的所有権、さらに広めて「私的所有」 という概念そのものを、今後世界的にもう一度見つめなおすようになるのかもしれません。考えてみれば、明瞭な私的所有権というのは、もっぱら個人主義が発達している西欧系の人達の生活様式や発想であり、無条件で全世界の人々のスタンダードになるのかどうか、、、、?
ちょっと話が観念的、あるいは法律的になって悪いのですが、これはある集団社会で、「私のモノ」と「みんなのモノ」というものの線引きをどのあたりに持ってくるかということだと思います。ルネサンス以降の近代個人主義をベースとする近代法学は、権利義務の帰属主体としての特定の個人・団体を想定し、「権利能力」という概念を生み出します。法学部にはいって民法を取ったら,最初にやるのがこの”権利能力”でしょう。私的所有を認めていくと、この地球の全ての資源は”誰かのモノ”になります。特定の個人のものでなくても、団体に権利能力を認め”法人”にして、その法人のモノにしたり、法人の最たる形態としての国家のモノにしたり。ミクロには鉛筆、消しゴム一つや土地の境界から、マクロには国家の領土領海にいたるまで、この地球の全てのものは基本的には誰かのモノだったりします。
でもなー、そんなにキチキチ決められるわけ?という気もするわけです。もっと漠然とした「皆のモノ」とか「誰のモノでもない」という領域をもっと認めてもいいんじゃないかい?と。法学部に入って民法をとったアナタがもう少し眠いのを我慢して勉強して民法総則が終わって物権法に入っていくと、今度は所有権に並んで”共有”とか”総有”とかいう概念を勉強することになります。共有は、不動産登記の共有持分登記とかいう形で日常出てきますが(特に相続税対策とか)、「総有」という漠然とした概念があります。とくに「入会権(いりあいけん)」というものがありまして、特に改まって誰のモノでもないし、その旨の登記も表示方法もないのだけど、なんとなく昔からその近隣部落の”みんなのもの”として認められているグレーゾーンが、日本古来の社会にはあります。あの裏山のこっち向きの斜面一帯は、昔から○○村の皆が薪を取ったりしているエリアで、○○村の入会の土地だと。誰のモノでもないのだけど、まったくの所有者がいないわけではなく、村全体のモノだという。
江戸時代はわりと漠然と大らかに「○○村の入会」と決めていたのですが、維新後に西洋の法律が導入されるときに、このあたりの漠然とした部分がかなり整理されたのですが、入会権は「共有の性質を有する(有しない)入会」という形で残されてます(民法263、294条)。
この入会権ですが、都市計画やゴルフ場作ったりするときには、○○村の入会だから補償金を払えとかいう形でモメたりして、日本の地権関係がいまひとつ不透明であったり、効率的でスピーディーな土地利用を阻む固陋な住民エゴの象徴みたいにネガティブに語られることもあります。が、まったく別の角度から光を当てて、乱開発を差し止める自然保護、環境保護の一つの支柱として語られることもあります(コモンズとかいう名前で呼ばれることもある)。
話は一気に飛んでオーストラリアです。オーストラリアのアボリジニ社会では私的所有は殆どないらしいです。「私的所有なんて面倒くさい概念なんか要らない」というライフスタイルなわけですね。 ただ、日本の入会権によく似た概念はあるように思います。各部族のスピリチャルランド、聖地として、神聖不可侵なエリアがありまして、それが例えばエアーズロックであり、「アボリジニの人達の気持を酌んで、出来るなら登らないで欲しい」という立て札が掲げられたりしてるわけですね。あるいは、92年のMABO判決で認められたネィティブタイトル。MABO判決の解説って昔どっかで書いた記憶があるぞ、、、と、ここにあります。
地球資源の有用性が語られるようになったここ20-30年、さらによりハイトーンで語られるようになるであろう将来において、この私的所有概念、「俺のモノなんだから、何をしようが俺の勝手」という発想それ自体が徐々に見直しを迫られていくだろうなと思います。もっと、みんなのモノ、あるいは誰のモノでもないという領域を積極的に認めていき、保護していく動きは今後より活発になっていくでしょう。また、タイ香米問題でみられるように、これは土地とかモノとかいう目に見える物体だけではなく、知的所有権とか”種属”という抽象的なものにおいても同様で、「特許とったから俺のモノ、使うんだったら金よこせ」みたいな発想でいいんか?という問いかけも、これから活発に行われていくのではないかと思います。
アメリカもねー、著作権や知的所有権戦略には非常に熱心に世界のスタンダードにしようと必死だけど、生物多様性協定には参加しないし、地球環境に関する京都議定書もブッシュが大統領になった途端「俺、やめるもんね」ですからねー。国益保護といってしまえばそれまでなのかもしれないけど、ちょっと露骨だよなって気がしますね。
知的所有権もあざとい形で推し進めていけば、例えばどこかの民族の伝統的な童謡を勝手に演奏してCDにして売り出して、その民族が歌おうとしたら「著作権料払え」みたいなこともありうるわけでしょ。まあ、著作権は特許と違って登録制ではないから直ちにこういう形で問題にはならないにしても、やってることって基本的にはそういうことになりかねないでしょう。タイ香米問題だって、まあ、まさかいきなりタイ農民に特許料払えとまでは言わないだろうけど、そうなる可能性もありうるということで、なんだかなあとは思います。私的所有をはじめとする権利義務関係をキチキチ決めるのは、社会の基礎だからイイコトなんでしょうけど、あまりにもやり過ぎると妙な話になっていきますし、抜け目のない銭ゲバみたいなのが一人儲けるようになりかねない。
そうそう、著作権といえば、先日こちらの新聞の特集で読んだのですが、アメリカの(ということはつまり世界の)大手レコード会社が、かなりの減収で危機に瀕しているそうです。理由は簡単で、皆がCDを買わなくなったからです。なんで買わないの?というと、インターネットの普及です。WinMXなどのファイルシェア技術による全世界の個人レベルで「せーの」でやられてる違法コピーや、音楽配信サイトの発展などで、収益が厳しくなっているとのこと。違法シェアには、十代の少年から老人までの数十人を被告として賠償訴訟を起こして、一罰百戒の見せしめ効果を狙ったり(評判悪い)、CDを一気に値下げしたりして頑張ってるようですが、どうなることか。
でもアーティストにとってみたら、別にレコード会社というディストリビューターに頼らなくてもいい時代が来たということで、むしろ歓迎する向きもあります。なんせ、自分のサイトで配信できるわけだし、マニア垂涎のお宝アイテムなんか、アーティスト本人だったらそれこそ無限に持ってるわけでしょ?ヒットした曲を最初に皆でスタジオでやったときの演奏ボロボロの音源なんか、ファンだったら欲しいですよね。練習している途中で演奏を中断してメンバー同士で喧嘩になってるところがまるまる録音されている音源とかさ、高く売れると思いますよ。
アーティストとかいっても要するに芸人でしょ。芸人というのは、人の集まるところに出て行って、芸を披露して、エンジョイした観客からお金をその場で貰うという大道芸が本来の姿だと思うのですね。もっと言えば、皆で酒を飲んで宴会やってて、歌や踊りが上手な奴が出てきて一発披露するとか、メロディーは同じで一人づつ面白い替え歌を歌うとか(よさこい節とか)、そんなもんだと思うのですね。だから、ある意味入会権みたいに、”みんなのもの”という面があるのだと思います。
地球資源でも、文化資源でも、本来はもっと漠然と皆が尊敬と愛情をもってシェアしてるものであり、それをなんでもかんでもキチキチと権利義務関係にデジタル化して置き換えて、はしっこい奴が権利登録をして、利益を独り占めにしようとし、問題が起きたら訴訟で解決、、、という、「近代的な」方式も、そろそろ歴史の曲がり角に来てるのではないかという気がします。それは確かにクリアでわかりやすく公平なのかもしれない。だから確かに近代的なのかもしれないけど、でも「未来的」ではないのかもしれないですね。
話があちこち飛びましたが、冒頭に戻ってタイのお米です。
日本の米ももちろん好きだし美味しいのですが、最近タイカレーの作り方を段々習得してきたこともあって、タイ米の美味しさも従来以上にわかるようになってきました。単に「カレーに最適」というだけではなく、独特の香りの良さがわかってきました。日本米も、慣れてしまってるから気づかないけど、独特のむっとするヌカ臭さがありますが(よく妊娠中に嗅ぐとウッとなるとか言いますが)、タイ米にはそれが少なく、もっと清涼な感じがします。
もっとも、タイ米が好ましく思えたからといって、その分日本米が好きでなくなるというものでもないです。むしろ逆。米の美味しさのバリエーションが増えれば増えるだけ、逆に、それまで食べてた日本米の美味い不味いも前よりも明瞭に分かるようになったような気がします。
今年もし米不足になってまたタイ米を輸入しましょうという話になったとしても、昔よりは多くの日本人がタイ料理に親しんできてると思いますから(タイにはオーストラリア以上に日本人が沢山滞在してますからね)、昔ほどパニックにはならないと良いのですけど。
文責:田村
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