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Essay 1000:結局、感情

 正義、人権、その他の概念や理論も、なんでそうなるの?を掘り下げていけば、結局は感情に行き着くという話


2021年07月25日

 写真はWhite Bay。RozlleやBalmainの南に位置する産業(旅客船)埠頭で、入り口にゲートがあるので一般には立入禁止。Uber Eatsの配達という大義名分で中に入れた(それも最先端にお届けだった)ので撮ってきました。


1000回記念とかどうでもいい件

 2001年5月から始まった(その前に「シドニー雑記帳」はあったけど)このエッセイも、今回で千回目です。20年とちょい。まさか1000回も書くとは思わなかったけど。

 それも今週で終了します。キリがいいし。この機会を逸するともう一生やめられなくなるような気がしてそれもイヤだし。

 その後のことは未定です。当面はオンラインサロンに注力するでしょう。他の人とキャッチボールをするようなインタラクティブな感じが楽しいのと、書く(吐き出す)快感が得られるのと、あと他の人のものを読むのが楽しい。この機会に新規に参加される方の比率が高いのもうれしいです。「いつものメンツ」みたいな感じでやってると先細りしますから。

 店広げて3週間ちょい、今(2021/07/23午後6時)の時点で、発言数192で参照回数(読んだ人の延べ人数)2409です。この数字だけではわからないかもしれないけど、ちょっと多すぎるくらいです。過去の経験で言えば、短期間にわーと盛り上がった掲示板会議室は、恒例の僕が帰国するときのオフ掲示板です。直近の2019年の例でいえば、10月頃から開始し、11月下旬から12月に本番オフが各地で行われ、約3ヶ月くらい掲示板がわーっと賑わったんですけど、そのときで発言数が300弱、参照が5740です。3ヶ月でですよ。今は3週間で192で2400ですから、あれの二倍以上でしょう。

 しかも、オフの段取りとか事務的なことではなく、私の鬱体験とか、YouTuber戦略とか、ドラム談義とか、医療用大麻の話とか、けっこう内容のあるトピックで、しかもお金払って入った人だけという人数限定を考えると、読み応えや、書き応えはあります。ありすぎるくらいで、これ以上やってたら新規参加の参入障壁(あまりにも過去発言が膨大なので読みきれずに挫折)になるかもという懸念もあったりして。

 ただし、学会やシンポジウムやってるわけではないので、何を書いたかとか、どういう合意に達したかとか、そんなのどうでもいいです。一定、実のある内容を、社交辞令とかナシで語れたら、それでいい。気のおけない友人同士で、ビールを飲みながら、「ほんでさー」とか言ってる感じであれば、それで良いと。まあいつものオフをオンでやっているというのが一番実感としては近いです。だから話題なんかポンポン変わっていいんです。

 そんな感じで、なんでもいいから1年もやってたら、「なんか」になりそうな気がします。それが何かは分からないけど、イメージとしては、高校に進学したときの新しいクラスみたいな。最初は誰もが初対面だから他人行儀でモジモジやってるけど、だんだん打ち解けてきて、期末試験やら遠足やら運動会やらやっていくうちに1年たったら懐かしいクラスメートになってるという感じ。最初の時点で、既にオフその他で知り合いという、高校でいえば同(おな)チュー(同じ中学の出身者)みたいな存在はあるけど、じきにそんなのどうでもよくなる感じ。

 なんかサロンの話ばっかで、エッセイ千回の話になりませんねー。

アニバサーリー(記号)に興味ない件

 前にもちらと書いた記憶があるけど、僕はこの手のアニバーサリー系にはあんまり興味がない体質みたいです。正月でも、誕生日でも、別にピンとこない。いつもと同じ一日だろ、としか感じない。なんたら記念日とか、○周年記念とかいうのも、それがどうした?と思ってしまうアニバーサリー不導体。誕生日も、その日に生まれたという記憶が自分に無いんだから(あるわけないし)、そんなこと言われてもねって感じだし、またその日に生まれた記憶があったとしても、それからちょうど○年、それで?って感じ。

 「なんや情緒のないやっちゃなー」とか言われても、すいませんね、そういうのが「情緒」というなら別に要りませんわ、としか言えない。「来し方行く末」ってあるだろうが、来た道を振り返り、これから先を望むってことがあってもいいだろうと言われたら、それは全くそのとおりだけど、そんなの折に触れてやるべき、どうかしたら毎日でもやるべきであって、○周年とか計数的な区切りでやることに意味を感じない。むしろ年に一回とかそんな疎らな頻度で良いのか、怠惰な感じすらする。

 大昔に「俺の日は全ての日」という変な短編小説みたいなのをエッセイに書いたけど、西部の荒野を一人で馬乗って生きてる主人公。別にアウトローでもないし、銃が上手いわけでもない、人付き合いも不器用。単に一人で生きてるだけ。生まれてすぐに捨てられたので名前も知らない、生年月日も知らないから誕生日もないし、年齢なんか数えたこともない。名前なんかテキトーに呼ばれてるし、テキトーに名乗ってる。区別がつきゃいいんだろ。今ここに生きている自分だけが焦点であり、それ以外の記号については全く無頓着。「そんなのどうでもいいじゃねえか」って。それでもけっこうゴキゲンに生きていけてしまう。「何の意味もなく俺は行くぜ。すこぶる快調。煙草もうめえし」と。自分のありのままの感覚を言語化するとこうなったというやつで、あの雑文は自分でも好きです。

 なので、エッセイ千回とかいっても、我ながらよく書くよな、アホちゃうかって思うんだけど、さりとてそれほど深い感慨があるわけでもないです。「はい、次!」みたいな感じ。そうしようと努めるわけではなく、ごく自然に。

 興味関心は「今やってること」と「次にやること」です。
 子供みたいに、「ねー、ねー、次はさー」とかいって新しい遊びを思いついて、それも努力して思いつくのではなく、自然に次から次へと思いついてしまい、思いついたらもうそっちに夢中というのが自然なのではないか。それが生きるということで、それが創造力なのでしょう。僕は子供が居ないから直にはよく知らんけど、子供と一緒に遊んだりしてると感心するって話はよく聞きます。

 LEGOは創造力を鍛えるとかいって頑張ってやったりするんだけど、自分(大人)がやると5分くらいあれこれやったらもうやることがなくなってしまう。もっとシンプルな積み木に至っては、すぐにネタが尽きて手持ち無沙汰になる。しかし一緒に子供と遊ぶと、彼らは、どっからそんなこと思いつくのかというくらい次から次へと遊ぶ。子供にお絵描きさせたら、もうずっと描いている。僕も自分で記憶があるけど、幼児の頃は毎日家の前の原っぱに行って遊んでた。ただ雑草が生えてるだけで、他にボールなどの道具もなんにもないのに、毎日暗くなるまで遊んでた。何をそんなに遊ぶことがあるのか、創造力が枯渇した大人にはわからなくなる。

 ここ、「ごく自然に」って強調してますけど、それ(行為の自然的な自発性)が無くなったら終わりって気がする。そうなったら老人の仲間入りで、天国行き普通列車の○番ホームに並び始めるのだ。最近、電車がなかなか来ないのでホームでの待ち時間が長くなってるみたいだけど、でも待ってることに変わりはない。半分もう生きてない。

 何かをするときに「能書き」を気にし始めたら、もう駅にいると思います。「創造性を鍛える」とか、「○○にいい」とか能書きから入る系。ホームに並んでないとしても駅構内には入ってる。思いつくともなく自然にやっている、身体や心が自然に求めているからやっているというのが本来であって、それが枯れてきてるから能書き(流行、見てくれ、仲間願望、横並び、差別化、承認欲求なんでも)の力に頼るのでしょう。動機が「やりたいから」だけでなくなった時点、純度が濁ってきた時点で、ゆっくりと終わり始める。

結局、感情

 とりとめもないまま、続きます。多分、次にこのエッセイの続きみたいなものを書くなら、もっとブッキラボーな、メモ書きみたいな、ノートみたいな形にしたほうがいいかなって気もして。このくらいの尺で、このくらいの深度で、起承転結で冒頭と結論の帳尻を合わせてって制約がかったるくなってきてるので。

 気分はもう「次」にいってるので、脈絡ないまま、ブチブチいきます。

感情の社会化

 その昔、思春期とか法学部にいるときとか、いろんな概念と泥んこまみれになって遊びます。いわく「正義」とはなにか、社会とは、権利とは、自由とはとか。誰だって、紅顔の美少年(女)の頃には、「愛とは」とか考えたことがあるのではないかな。

 一応、人権やら平等、民主、権利などについては世界的に通説があります。近代啓蒙思想に源流を発する考え方で、今もなおそれが下敷きになってるのは間違いないです。

 だけどね、その当時も思ったし、今もなお思ってるんですけど、それだって結局は感情だよなーって。

 今、ここに何の罪もない可憐な少年少女(誰でもいいが愛されそうなキャラの方がわかりやすい)がいて、そこへ無法者の一団がやってきて、ゲラゲラ笑いながら、なぶり殺しにしてたとしたら、「これでいいのか?」という感情が猛然と湧きますよね。そこに主人公がやってきて、「てめえら、人間じゃねえ、たたっ殺してやる」といって、ひとり残らず皆殺しにしたらスッとしますよね。逆に、そんな鬼畜な真似をしながらも何の咎めもなく、一生やりたい放題やり尽くして、天寿を全うしましたとか言われると、なんでじゃあ?って気になります。

 このとき頭だか心だかに浮かぶのは感情です。もう最初から最後まで徹頭徹尾、感情だけだといっていい。この感情がこの社会なり法なり概念を作る基礎になります。

 ただし、その感情はうまいこと言語化しにくい。
 とりあえず「ひどい」「憎らしい」とかいう感情になりますけど、それだけだと犬がワンと吠えましたって言ってるだけみたいで、つながっていかない。そこで、もうちょいカッコいい言い方をして、原子の結合手みたいな連結のための取手みたいなのを作って、他の概念と結合させて文章化させたり、論理化させたりします。

 これはヒドイという物事を集めて、「やっちゃいけないこと集」みたいにして、コレをしたらこう罰するという原始的な形での「罪と罰」が出来て、それを部族皆で周知徹底して「掟(おきて)」にしていく。掟は不文律の場合もあるけど、わかりやすく文章化する場合もあり法律(成文法)になる。その中で、罪罰の「悪いこと集」を集めたものを刑法と呼び、「悪いこと」ではカッコ悪いので「犯罪」と呼び、それを実行するためには、悪いことをした人を探して捕まえる警察力、内容を審査する裁判、刑の執行と細分化される。

 そして人間のやることだからあらゆる過程でミスが起きる。警察が腐ってて自分で犯罪を犯して、そこらへんの無実の人を捕まえて身代わりにするとかあるから、その過程をチェックしなきゃいけないし、、、、とかなんとかどんどん複雑になっていきます。また、そもそも掟を作るにあたって誰が作るの?という話があります。王様の独断や気分でいいの?皆で決めるにしても「皆」には誰が入るの?身分の低い人はダメなの?女性はダメなの?子供はダメなの?とかいろいろ出てくる。

 かくして社会制度やら法体系が整ってくるわけですよね。
 だけどね、どんなに緻密な概念の王宮をぶったてようとも、原点にあるのは「感情」です。
 そして感情の多数決です。

 いたいけな子供や村人が、強いやつのヒマツブシでなぶり殺しにされるということは、「あってはいけない」と思うか、「それもアリちゃう?」って思うかで結論は変るけど、結局は皆の感情がどう動くかで決まる。

 殺人くらいだったらそう意見は分かれないだろうけど、「浮気」とかになると微妙な話になりますよね。そりゃやっちゃいけないだろうけど、国家権力(税金)を使ってまで捜査・身柄拘束・裁判・収監とかするほどのことか?という点で違う。また時代によっても違う。昔は姦通罪でかなり重く、つかまったら「重ねて4つに斬る」という極刑だったのが、いまは犯罪ではない。その昔も、男(夫)が浮気をするのは全然問題なくて、妻がそれをすると死刑。それでいいのだと皆が思ってた(本当は半数(女性)はそうは思わなかったとは思うのだが、発言を禁じられていたし、女性の発言を抑圧することが当時としては「正義」であった))。

   「正義」も、人の数だけあるといいますが、人の数よりももっと多いと思いますね。だって同じ人でも時期によって違う感情を持つだろうし、どうかしたら数分後にはもう変わってたりもする。

裁判における事件の筋と感情

 裁判実務などをやっていても、専門実務家は、まず「事件の筋」を見るとかいいますが、ごく普通の常識論として、あるいはまっとーな感情論として、どっちを勝たせるべきか?という、自然な感情での結論を考えます。

 一般の民事事件で裁判官は、数十(50-100くらいとか)の利益衡量をすると言われます。そんな法律がこうなってるから、パコンとあてはめて、はいこっちの勝ち〜とかいうもんじゃないです。かなり悩む。どうも情としてはこっちを勝たせてあげたい気もするのだが、はたしてそれで良いか。勝たせる場合の理論構成や法解釈がこれまでの判例、通説に矛盾しないかは当然厳密にチェックするとしても、より大きな視点(憲法体系上矛盾はないかとか、諸外国の制度に比べてどうかとか、未来の立法論へつながるかとか)でもみて、証拠評価の方法についても、気に入った部分だけ取り上げて、結論が矛盾するようなものはシカトってやりかたをしてないか、均等公正な証拠評価ができているか、且つAの証拠評価(原告の陳述のこの部分は信用できるとか)とBの評価とが矛盾してないか。さらに、そういう結論にしてしまうと、さしあたって何が不都合か。負けたほうがいきなり生活が困窮してやっていけなくなるか、あるいはこういう先例を作ってしまうと、あとで悪賢いのが悪用しないか、業界での慣行はどうか、やりかたが変るか、それが全体の経済において良いことなのかどうか、、、、

 そんなことまで考えるのか?ってくらい考えるといいます。どうにも悩むとか、白黒つけない方が良いとなると、裁判所からの和解勧告が出る。「いかがでしょう。この時点で一回話し合いをするというのは?」とかいう話になったりもする。

 このようにおよそ理性的に考えられる部分は徹底的に考え尽くすんだけど、それでも「それでいいのか?」という最終結論や、その結論を導く基準、その原点になにがあるのか?といえば、結局は感情だと思います。どこまでいってもね。

 だったら最初から感情一発でやればいいじゃんって話になるんだけど、それをしたら地獄ですよー。ワンマン暴君社長みたいなもので、部下が独断専行すると勝手にやったといって怒り、独断専行しないと、そんなことも自分で決められないのかと言って怒る。どちらもダメ。もう困っちゃうよね。それに感情で決めるとしても、皆の感情が一致しなかったらどうするのか?てか一致することなんかマレだけど、その場合どうするか?そうなると結局力の強いやつの感情で決めることになるから、なんのことはない弱肉強食になり、前述の無法者がなぶり殺しにした事案でも、無法者が一番強かったらそれがまかり通ってしまうことになります。

 だから結局感情だとしても、感情一発だけで決めていくのはダメで、どんなに強いやつでも最初に決めたルールには従うという形にしないと意味がない。しかしそのルールの解釈や実行では感情が決めるという。もう感情と論理が入れ子になってる感じです。

概念を一人歩きさせないこと

 結局、なんの話やねん?というと、正義とか人権とかそういう概念を絶対化して、ひとり歩きさせてはあかん、記号化してはあかんよってことです。記号化させて一人歩きさせたら、もう手がつけられなくなる。巨大なゴジラを何匹も放ってるというか、コロナなんか目じゃない致死的なウイルスをばら撒いてるようなものです。ヒトラーのナチス、日本のファシズム、ソ連、中国、カンボジアの自国民大量殺害(ジェノサイドというのは同胞に対するときに最も過激に行われる)をみても、「総統閣下の〜」「陛下の〜」「毛主席の〜」とか絶対正義のカタチができたら、あとはもうラグビーみたいな正義の争奪戦ですからね。

 また、単純化された正義というのは、異様にわかりやすいという暴力的なまでの浸透力があります。僕の親父は戦中派だけど、小学校でも「恐れ多くも天皇陛下が」と陛下が出てくると全員起立して直立不動になって、カカトでカチッと音を鳴らさないといけないけど、その音が小さいと、いきなり鉄拳制裁でゲンコツで力一杯殴られたとか言ってました。「音が出とらん」「声が小さい」とかもう徹底的に何度も何度もやらされたと。概念や正義というバケモンは、ここまで育ててしまうともう手に負えないです。

 もう魔女狩りと同じ、子供のころのエッチ(えんがちょ)と同じ。「えんがちょ」の何が悪いのか、てかそもそも「えんがちょ」とは何か?その定義を述べよといっても誰もわからない。何となく気分でやっているだけ。そして、その種の絶対的な破壊力はあるけど本質は曖昧なものというのは、めちゃくちゃ使いやすいのですよね。ちょっと気に食わない奴がいたら「非国民め」と言えば皆でボコれるし、こいついじめても抵抗されないから安全だなと思ったら、臭いとか、えんがちょだとかいっていじめることも出来る。もとを質せば、嗜虐的に弱者をいたぶって楽しむという下衆な感情や、薄汚い嫉妬心でしかないものを、「えんがちょ」的な正義概念でコーティングして唱えればいい。早い話、正義なんか言ったもん勝ちって側面はある。

 だから、そんな絶対的な正義とか真理とかは無いのよね〜、煎じ詰めれば「ちくしょー」「ずるいじゃん」とかいう感情なのよね〜、大したもんじゃないのよね〜ってのは、常に確認しておかないといけないと思うのです。そんな花崗岩とか玄武岩みたいな感じで客観的に「正義」が実在してるわけではないよ。もとを質せば「いとをかし」みたいなウェットな感情成分で出来ているだけで、それを錦の御旗にしたり、高く掲げたりすると人が死にますよ、それも大量に死にますよってことです。

 感じとしては、「けっこーいい加減なんだよねー」という社会観ですよね。そりゃそれぞれの職域で、精一杯皆さん努力して、できるだけ公正になろうとやってたりはするのですよ。それはそれで偉大なことなんだけど、しかし、安心はできない。なんせ根っこの部分がいい加減だからね。

 なんでこんなにいい加減なのかといえば、そもそも最小にして唯一の構成単位である「人間」そのものがいい加減だからだと思います。自分自身を顧みても、おしAだと思うときもあれば、やっぱBだと思うときもあるし、全部ダメって思うときもあるし、みんなええわーと思ったりもするわけで、もう全然いい加減。そんないい加減なのがうじゃうじゃ億単位でいるんですからね、まがりになりも社会っぽい感じなってるだけでも大したもんですわ。

 誤解のないように言い添えておくと、いい加減だからダメだとか、感情だから価値がないとかいうつもりはないのですよ。「いい加減」というのは、定量定性ではないだけ、長い期間にわたって量も質も変わらないわけでは「ない」というだけのことです。物事の不定性を言っている。「女心と秋の空」で、いつ変わっても不思議ではないね、そういうもんだよねーという意味です。また、常にかっちり同品質でないと価値がないのか?というと、そんなことはないです。別に工場の部品の話をしてるわけじゃないのですからね。一瞬きらびやかに燃え盛って、そして惜しげもなく消えていくからこそ、その一瞬の高潮と散華こそが美しく価値があるとも言えるわけですよ。桜はすぐに散ってしまうからダメだ、無価値だとは誰も言わないでしょうに。人間社会がとどのつまり感情で出きているとしても、だからダメなわけじゃない。感情で出来ているからこそ、独特の艶が出るのだし、ぬくもりもまた感じられるわけで。

 言いたいのは、本来不定性なものを、あたかもカッチリしたブロックみたいに扱うと、現実とギャップが出てきて辛いことになるよ、悲劇がおきるよってことです。誤解なきよう。


 現実的な処方箋で言えば、まず滅多なことでは「正義」って言うな、ですね。この言葉は悪魔の言葉になりうるので。「正義」を使って良い場合というのは、僕のみるところ二つ。一つは、絶対的弱者が絶対的強者に立ち向かっている場合、アリが象に文句を言ってるような場合です。この場合、命に替えても訴えたい感情があるわけで、それは傾聴すべきだし、また正義と名乗っても良い。そのくらい思わないと逆らえないでしょうから。逆に強者が使う「正義」は、だいたいアコギなことを正当化するときに場合でしょ。アメリカとか。

 もう一つは、戦場などで、どう考えてもダメだよな、俺今日ここで死ぬかもって場合に、「我々の正義を目にもの見せてやれ」とかいって鼓舞して、おー!とかやるんだけど、そういう場合。正義という言葉は覚せい剤みたいなもので、一瞬の燃焼はできますから。でも、こんな事例は現実問題マレでしょう。戦場とかいかないし。

 つきつめて言ってしまえば、本当の意味で正義的な局面があるかどうかは、言葉や理屈がどうとかいうよりも、弱肉強食状態になってるかどうかでしょう。強いものが弱いものを叩いている場合、大勢で少数を非難してるような場合に語られる「正義」は、ちょっと疑惑の目で検証したほうがいいと思います。正義だから勝ってるんじゃなくて、単に強いから勝ってるだけじゃないの?とか、それじゃ身も蓋もないから正義とか言ってるだけじゃないの?と。

自分は記号化させない方がいい

 もっと言えば、何によらず、できるだけ記号化しないほうがいいですよね。
 とくに自分自身について、あるいは他人について、人の現状をなにかの記号で呼ばないほうがいいと思います。「陰陽師」でもたびたび出てきますけど、言葉には呪術的効果があるので、そう呼ぶとそういう実体になってしまいます。自己暗示がかかってしまう。

 サロンでもちょっと話したのだけど、「最底辺」の仕事と言うなら「最前線」の仕事と言ったほうが良いと思う。あと日本でいえば、「無職」という表現は避けたほうがいいと思いますね。英語圏ではそれに相当する言い方が思いつかないし。無職って、なんか社会人失格的なニュアンスがあって、自分でもその毒にやられてしまうんじゃない?同じ意味でいうなら「求職中」でもいいし「充電中」でもいいでしょ。「構想中」でもいい。自分自身に対して言うなら、より的確な、自分にしっくりくる言葉を探した方がいいです。それと年齢もそうかな。日本のメディアって、なんかしらんけど、職業と年齢はどんな場合にも出てくるけど、あれも弊害のほうが大きいですよねー。それで何がわかるというのだ。仕事なんかしなくてもいい億万長者が遊んで暮らしていたとしても「無職」と書くのだろうか?よくある「会社員」「主婦」なんて何も言っていないに等しいですから。

 肩書でいえば、逆手に取って自分で作っちゃえばいいんですよね。よく(商業)右翼が恐喝罪とかで裁判されるときに職業が「団体役員」ですから。大日本愛国○○社とか、別に商業登記もなにもしてないよう団体でも、団体は団体ですから。だから自分で勝手に団体作って団体役員と名刺に刷っておけばいいです。会社役員でもいいです。別に会社と名乗るには商業登記しなきゃいけないわけでもないしね。名乗るだけだしね。「起業家」なんてのもわかったような分からんようなものだし、「郷土史研究家」なんてのもアリですよね。これも正義と同じで、なんでもいいんですよ、言ったもん勝ち。

 つまり、名前とか言葉、記号にやられてしまう人と、したたかに言葉を武器にして使いこなす(だまくらかす)人がいるわけで、他人に迷惑かけない限度で、言葉や記号は勝手に使ったらいいですよ。少なくともそれにやられてしまうのは愚かしいです。非正規とかフリーターでも、それにプライドを持てたらいいけど、持てないならそんな自己規定、犬にでも食わせたらいいです。自分で作ったらいいです。

 僕自身についていえば、自分の名前だってしっくりきてないですよね。名前がないとやりにくいから一応使ってますけど、なんか自分って気がしないね。じゃあ名前はどうするの?っていえば、自分一人でいる分には名前なんかいらないですからね。それは自分の家(実家)の各部屋に名前が要らないのと似たようなもので、例えば、テレビのある居間は「潮騒の間」で、自分のベッドのある部屋は「朝霧の間」とか言ってもいいんだけど、面倒くさいから言わないでしょ。名前だって同じことです。誰でもそうじゃないかな。「私は私で、それだけ」じゃない?

 僕は一回離婚して再婚してますけど、一度目と現在とでは、社会通念や法的にいえば同じ結婚ですけど、自分の中では全く別個のものです。じゃあ何なの?というと名をつけることは不可能です。その人の関係はこの世で一つしかない独特な陰影と特徴を持ったものだし、他と比較するようなものでもないから、名称をつける必要性もない。概念として樹立する必要もまたない。自分の脳内に一定量の感情記憶と経験記憶があるだけであり、それで十分です。世間的には結婚と呼ばれてるみたいだけど、それは日本のことを英語ではジャパンと呼ぶみたいだけどねー、言語によってはジャポネとかヤポネとか言うところもあるみたいだよねーってな感じです。勝手に呼べば?って。

 大事なものは記号化できないし、記号化してはいけないとも思います。この世でいちばん大事なものは、多くの場合、自分自身でしょうから、自分については記号化してはいけないと思いますよ。それか勝手に自分で名乗って遊ぶかです(笑)。


記号とロックダウン

 ことについでに書いておきますが、コロナもワクチンも「記号化」してると思います。錦の御旗化してて、それであれこれギクシャクしてるという。

 シドニーでは下らないロックダウンが延々続いています。住んでる者の実感でいえば、最初の2週くらいは多少なりとも為政者側にも誠実味があったけど、3週目以降になるとなんかしらんけど雑になってきて、もうとにかくダメといったらダメって感じで、無理やり感が強くなってますね。昨日は、世界同時にフリーダムデモがあって、シドニーでも何千人かが参加し、僕の友達も参加してました。その直の話によれば、基本平和にぞろぞろ歩いているだけで、殺気立ってるのは警官隊でちょっと目立つ人がいたらとにかく逮捕って感じだったらしいです。

 メディアではいかにも暴力的な連中が暴力的なことをしたかのように報道されてるぽいけど、実際にはニュアンスが違う。それは、ニュース報道のYouTubeに付された皆のコメント、それもいいね数が多いコメントを読んでいくとわかると思います。

 「あら、本当だわ」と思ったのは、人づてに聞いた話で、「今度はオーストラリアで3ヶ月ロックダウンをやるらしい」という情報があったといわれてるからです。口コミの口コミの口コミで、出どころはアメリカの事情通らしいんだけど、友達から友達へ流れ流れて。まだロックダウンも感染も無い頃から言われてて、もう実際に感染があるかどうかなんかどうでもよくて、世界的なスケジューリングとしてやるという。あたかも大物バンドの世界ツアーみたいな感じで。まさかねーとか思ってたし、最初の頃は偶然だろとか思ってたけど、3週目くらいからの投げやりな感じを見てると、かなり強制されてやってる感があるなあ。

 サロンでもちょっと書いたけど、昔日本に豊田商事という詐欺会社があって、それが破綻した後、その残党が全国の田舎にいって詐欺をやってるんですけど、そんな感じ?つまり都会であるアメリカやイギリスではもう通用しない、マスク二枚重ね〜で有名なファウチ博士も偽証罪で刑事告訴されるとかされないとかですから、世界のドサ周りになったのかもしれない。で、「ドサ」であるオーストラリアでまた頑張ると(笑)。

 エリミネーション・ポリシーといいますが、感染者がゼロでないとダメだという非現実的なやり方では永遠に解決しません。もう半永久的に国境は閉めないといけないし、ワクチンを射ったところで感染ゼロにはならない。それはもう世界的に、イスラエルにせよシンガポールにせよどこにせよ、感染者の少なからぬ割合がワクチン射った人であるということからも窺われる。ワクチンの是非は甲論乙駁ありますが、それを棚に上げたところで、それがゼロにする特効薬でないことは誰が考えてもわかる。オーストラリアは人々のアストラゼネカの忌避反応が強いし、ファイザーが来たら解決とかいう感じでいるけど、世界で報告されているのはそのファイザーですら防止効果はないということなので、何を言ってるのか意味がわからない。

 政府も4ステップなんたらで、とりあえずは出口に向かって頑張ろうとはしてて、無能との誹りを免れないにせよ方向性は良かった。それが、なんか無理やりとにかく弾圧、理屈なんかどうでもいいっぽい感じになってて、押し付けられてる感はありますね。突然発狂したのでなければ。

 何が起きてるんだろうなー、もう世界大戦に入ってるなーって感じでもあります。日本だって、さんざん意味わかんねーと批判されている、「酒を飲んだら感染が広がる」という世界でもユニークな奇々怪々な理屈で飲食店が潰されてますけど、なんで通勤電車を規制せずに居酒屋を規制するわけ?酒に酔うと気分がよくなって大声て喋るから感染が広まるって子供だましの理屈なんだろうけど、あまりにも子供だましだからそれすら言えなくなってる。だけど方針は変えない。五輪など他にもツッコミどころがあまりにも多いので集中して語られないけど、おかしなこともあるもんだです。おかしいのは、それをするメリットが誰にも無いことです。為政者側としても、選挙を控えて票田になりうる層を敵に回して良いこともないだろうし。

 なんかわけわからん現象がある場合、背景にいろんな力がせめぎあっているのでしょう。いわゆる陰謀論的に、これは○○だからですよと快刀乱麻を断つがごとく解説することは出来ないし、多分、僕の直感では誰にもわからんと思う。色んな人がいろんな思惑で動いているし、その力の合成でそうなっているのでしょう。

 まあ、でも結果としていえば、社会の中の人々は分断される。ワクチン射つ派と射たない派。日本でも若い女性の4割が慎重な姿勢を見せてるとNHKが報道してますが、NHKがそういうということは、実際には過半数は様子見なり懐疑的だと思います。ロックダウンでも、世界的にもデモが増えるし、いい加減にしろって声は強くなる。やってよくなるなら我慢もするけど、出口戦略がない。

 なんかもう意図的に民衆を挑発してる感じがします。普段はおとなしくても一定の臨界点を超えたら、感情があふれてきてダム決壊みたいな話になります。そうなると、世界各地で起きている洪水みたいなもので、なにもかもドドドと押し流すでしょう。でもそんなことをするメリットも政府側にはないです。自分の政権がヤバくなるだけですから。それでもやってるというのは、どっかしら他の外力が働いているからでしょう。それが何なのかは状況が二転三転するうちにわかるのかな、、、いや、結局思惑通りにいくもんでもないだろうから、行き着くところに行ってもわからんかもしれない。誰にとっても意外な結末になったりして。

ところで「ワクチンと私」

 ところで最近話題のワクチンですけど、僕は当面射つつもりはないです。ただし、その理由が多分一般の人とは違うと思います。

(1)面倒くさいから
 家でて、どっか行って、なんか書き込んで、痛い思いして、、って、あー面倒くせーってのが一番の理由ですね。非常に個人的な理由です。ものぐさだから。面倒くさがりだから。

 こういう愚にもつかないパーソナルな感情をメインにもってくるのは、ワクチンをめぐって人々を分断しようとするかのような流れに乗るのが癪だからって意識もあります。面倒くさいに派閥はないからね(笑)。

 実際、予防接種の類は、小学校以来受けたことがないです。インフルエンザのワクチンにしてもそうです。てか、インフルエンザって、僕はかかったこと一度もないです。普通に風邪だけ。

 だけどね、以前帰国をキャンセルせざるを得ないくらいきつい風邪になったときがありますが、あれも別に肺炎でもインフルエンザでもなんでもなかったです。「なんかの感染ですねー」って。「なんか」って何よ?というとよくわからない。また、あるとき血痰が出たことがあって焦ったことがあります。肺に水が溜まってという。これもレントゲン取って検査してわかったのは、これもまた「なんかの感染」があったんでしょうねーと。でも大したことないからすぐ治りますよと。実際治ったけど。

 そこで学んだのは、インフルとか肺炎とかなんとかとかスター級の知名度の高い病気だけが病気なのではなく、そこらへんの雑魚的なウィルスやら細菌は数え切れないくらいあるわけで、それらが日々刻々と変異体作ったり活発に活動してるわけでしょ。人類が発生するよりもずっと前から、人類が絶滅した後もずっと。その全てを人間が把握することは出来ない。ごく一部が病気として認知され、病名がついてるわけですけど、それってそれは人類78億のうちに例外的に特に著名な有名人がいるのと同じ感じなんだろうな。だから、いくら有名だからといって道を歩いていて出会うというものでもない。

 リアルな健康でいえば、「なんかの感染」とかいう漠然と抽象的なものが意外とリアルなのであって、スーパー有名人だけ考えていても意味ないなと。対抗策としては自然免疫をつけること、日頃からストレスを溜めない、眠れないような仕事は即辞める、メシが食えないなら食えるようになるまでライフスタイルを調整するとか、そういうことの方がはるかに意味があるなと思ったのですよね。

 唯一手術したのも顎下腺嚢腫とか聞いたことのないような病気(てかただのオデキ)です。つまりね、自分ごときの浅薄な知識で、あれが危ない、これがどうのとかいっても、実際のリスクは大海原のように広大で、多分、なんか起きたとしても、まったく想定もしてなかった、そんなことがあるということすら知らなかったような領域であったりするだろう。自分が知ってること、考えてることなんか、全体からすればごく限られたエリアであって、そこにフォーカスをあてること自体がナンセンスである。結局、なにもかもひっくるめてトータルに元気になるしかないよなーってことです。

(2)リスク管理として意味がないから
 自分の生活のリスク査定は自分の義務であり、専権事項でもあり、聖域でもある。なにをどれだけ危ないと思うかは自分が決める。政策としてどうかではなく、自分としてどうするかはその人の問題。僕の場合、やっぱ交通事故ですね。一番リアルにリスクが大きい。あと「転ぶこと」ですね。すってんころりんと転ぶことです。年とってくると骨が弱くなるし筋肉も弱くなるので、コケて足を捻挫するなり、骨折するなり、面倒なことになったら、動けなくなり、動けなくなるととたんに身体のバランスが悪くなり、寝たきりになり、天国行き普通電車ではなく、急行電車に乗ってしまいそうです。コケたときに頭なんか打ったら、脳梗塞で半身麻痺とかなります。これらのリスクは今日にでも起きるし、起きたらかなりヤバいから運転するときは気をつける、歩くときは足元に気をつける。これが一番。

 どだい、もう60歳を過ぎているわけで、あと生きれたとしても、普通に考えればあと20年とか30年でしょう。すると今年死ぬ確率は、均等割りすれば30分の1です。100歳まで生きるとしても40分の1。ならばコロナにせよワクチンにせよ、あからさまに100分の1以下のリスクは、事実上ほとんど意味がないので無視。これまでの経験でも、リスク値が1%を切るものは無視して良いですから。そうでないとイベントにせよ、プロジェクトにせよ、なんにも出来ないよ。それでなんかおきたら事故だし天命。

(3)けったくそ悪いから
 薬剤開発は数年から10年の治験期間を行い、慎重に決めていきますけど、今回はやっつけ仕事で、これまでの実務で言えば薬剤の名に値しません。なので、製薬会社も製造物責任を取らない。そんな薬剤でもないものを国民に投与するというのはこれまでの法体系では違法なんだけど、超法規的な措置でやっている。本来やっちゃいけないことをやっている。それをするなら、誰が責任を取るのだ?といえば、誰も取らない。

 製薬会社が製造物責任の免責条項をいうなら、無償で配れ、それで儲けるなといいたいですね。結果に責任をとれないものを売って儲けるのってどうよ?と。「利益の帰するところ責任もまた帰する」というのが大原則でしょうに。それを超法規的にやるというなら、それをする政府が全責任を負うべきだけど、明確に「自己責任」といって逃げている。違法なことをしながら、責任をとろうとしない。なにそれ?子供か。いずれにせよ法的にいえばむちゃくちゃで、承服できないし、こんな横車を無理やり押してきて、国民の健康のためにとかいう正義を唱えている偽善性がクソであり、けったくそ悪い。

 ワクチンによる副作用は「ごくマレ」「無視できるほど低い確率」と宣伝するのですけど、もし本当にそうなら、国が全面補償したらいいじゃないですか。「ごくマレ」なんでしょ?予算としても微々たるものでしょう?なんでそれが出来ないの?

(4)救済がゼロ
 医療過誤訴訟をやってきた経験、周囲にHIV薬剤訴訟をやってたり、子宮頸がんワクチン訴訟をやってる業界仲間の感覚でいえば、医療関係でなんかあった場合、それで救済されるのはごくマレ。多くは泣き寝入り。訴訟をかけるのはよっぽどのことだけど、それでもほとんどが屍累々で敗訴。なんせ立証が死ぬほど難しいんですよ。証拠はほとんど相手(病院側)が握ってるし、証拠保全で抑えるにせよ、その前に改ざんされてたりするし、仮におかしいという点が突き止められたとしても、今度をそれを医学的に証言してくる人が非常に少ない。日本の医療村で一生村八分にされる覚悟がないと証言できない。だからHIVやってた友達もアメリカまで証言してくれる医師を探しに行ってましたからね。

 それにくわえてワクチンでなんか不具合が出た場合、最新の事例になるから医療文献がない。なんでそうなるのかがわからないから、全世界の全学者を動員しても多分よくわからないし立証もできないでしょう。また、副作用系の被害というのは、パターン化されない。ある人は発熱ですむけど、ある人は失明したりもする、ある人は精神にくるし、ある人は、ってバラバラ。それは人体の、おそらく数千数万という単位であるいろんな体内条件がたまたまヒットしたという偶然性が強いからだと思いますけど、それをあとから立証するのは不可能だし、またなんでそうなるのかわからないから治療法もない。

 僕がなんかことで被害を受けるなら、交通事故が一番いいですねー。だって、ひき逃げでもない限り多くの場合は加害者は特定できますし、多くの場合は保険があるから満額とはいかなくてもかなりの程度補償はされます。また事故という外力で損傷するのはよくあるから治療法も確立してるし、予後もわかりやすい。お金の面でも、医療の面でも、かなり補償されやすい。これに比べて、医療の場合、しかも今回のような症例研究がほとんど進んでいないワクチンの場合は何が起きるかわからんし、起きたらもう諦めるしか無い。そもそも責任とりませんよと明言されちゃってるし。

 たしかにそれによって被害を受ける確率は微々たるものかもしれないけど、万が一なったとき、その後の展開を予想すると、あまり良い選択肢とは思えない。なんせ被害を受ける確率が微々たるものだとしても、それによって受けるメリットもまた微々たるものなんですよね。そんなミクロな話に時間取られるくらいなら、エッセイでもサロンでもやりますよ。

 ほんでも、これらは利益衡量の話ですから、もしワクチン打ったら自由に日本に帰れて、自由に戻ってこれるというなら射つでしょうね。なんせ親父の死に目にも会えておらず、おふくろもボケが進行してるから、まだ僕のことを認知できてるうちに顔は見せたいですから。でも今の状態では打っても出してくれないし、入れてもくれない。仮に出れても、ホテル検疫その他の儀式的な手続、行ってる間の空家賃その他で、百万円以上のビジネスになってしまうから現実問題無理。そのへんの利益衡量によって変わってくるとは思います。でもこれがビジネス案件だとしたら、こんな条件の悪い投資案件や不動産なんか買わないですよ。さあ、ハンコ押せとか言われてもね、押せませんって。

 だけどこれは僕のパーソナルな価値基準であって、誰にでも共通するものではないです。だから誰かにオススメするつもりもないです。参考にしてほしいとも思わないです。ワクチン射ちませんってひとでも、射ちますって人でも、特に別け隔てはしません。それぞれにお考えあってのことでしょうし、そこは個人の聖域ですから。聖域というのは、単に立入禁止なだけではなく、それについて語ること、論評することすらもタブーでしょ?射つ(射たない)奴はアホだのなんだのいうのは、聖域侵犯罪だと思いますよん。






文責:田村


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