今週の1枚(01.05.14)
雑文/電車の中の風景
上の写真は、夜の11時過ぎ、シドニー近郊を走る電車の車内を撮影したものです。
それだけっちゃそれだけなんですが、それではあんまり愛想が無いので、にぎやかしに雑文をくっつけておきます。といって、何を書こうかこの時点では全く思い付いていないのですが。
この「今週の一枚」、先週から方針を変えまして、従来のように写真を沢山載せるのではなく、写真は一枚だけにしてそれに雑文をくっつけるというスタイルにしているわけです。別に深い意味あってのことではありません。個人ホームページの気楽さで、単なる気まぐれです。来週になったら元のスタイルに戻るかもしれません。
このスタイル、書く側としては鍛えられます。毎週、「上の写真を見て思うところを自由に論ぜよ(原稿用紙五枚以上)」という小論文試験を受けてるようなものですから。いわば頭の体操というか、文章力の練習というか、定期的にこういうことしてないと、年とともアホになっていくような気がして。アナタもどうですか?
シドニーの夜の電車はアブナイから避けた方がいいとか、プラットホームに記載されている Nightsafe Zoneや、ブルーライトが点灯している車両に乗れとか、いろいろ言われます。これは地元のオージーでもよくそう言います。
でも、そのアブナイ電車に、しかも夜の11時過ぎだというのに、結構人は乗ってるわけです。見たところ荒れてる感じもなく、普通の善男善女がお行儀よく座ってたりします。
それでも、まあ、アブナイときはアブナイのでしょう。僕は出くわしたことはないけど、実際に小犯罪はけっこうあるみたいですし。ただ、電車内の犯罪というのは、日本でもあるでしょう。一番多いのは多分痴漢(強制猥褻)だと思うけど、酔っ払いやチンピラにからまれたり、スリに財布スられたり、足を踏んだのどーので喧嘩してたり。絶対的な数値(発生率)でいえば、もしかしたら日本の方がアブナイかもしれません。
ただ、日豪電車事情を比べてみますと、そんなに簡単に比較できない気がします。というか、もう、構造からなにから全然違うように思えます。
オーストラリア(より正確にはシドニー、それ以外の都市の電車は乗ったことないので)の電車ですが、ほぼ例外無く二階建車両になってます。これが問題だというのですが、二階建て、すなわち客席が上下に分かれちゃってますので、見通しが悪いのですね。特に車掌のいる位置(連結器のあたり)からは階段が邪魔して殆ど見えない。もし、その車両にあなたしか乗ってなかったら、一種の擬似密室状態になります。何されてもわからない、だからアブナイ、と。その点バスは、見とおしがいいですから電車よりも安全で、だから夜遅くなったらバスで帰ってきなさいみたいなことをいうオージーも多いです。
同時に、じゃあ要するに「他人」を増やせばいいのだろうということで、車内が閑散してくる夜では、乗客を特定の車両にかき集めちゃえばいいわけですね。で、プラットホームにNightSafeと書いて「ここから乗りなさい」と指示したり、車両に青ランプを点灯させて「この車両には車掌がいるからここに乗りなさい」と誘導するわけですね。
この理屈の根元にあるのは、「他人が見てるところでは犯罪は起きにくい」という発想です。なんで他人が見てたら犯罪は起きにくいのか?といえば、その見てた他人が犯罪を止めるからでしょう。逆に言えば、誰かに助けてもらえるわけです。
日本にはNightsafeもないし、ブルーライトもありません。どこか特定の車両に人を集めるという発想は無いです。これは、「日本の電車は安全だから」という共通認識があって、いちいちそんなに対策を立てなくてもいいからなのかもしれません。それでも、前述のように、日本だって、酔っ払いやチンピラが絡んだり暴れたりするケースというのは、結構あったりしますよね。
でも日本の場合、これらの犯罪が起きるとき、周囲の人はあまり止めないです。下手に止めて、逆ギレして刺されたりしたら割が合わないので、見て見ぬふりをしたり、寝たふりをしたりします。でも、チンピラが一人だったら、大の大人10人が立ち上がったら、取り押さえるくらいのことは出来そうだと思うのですが、まあそんなことは滅多にないです。
だもんで、日本では、他人が見てたって犯罪は起きるわけで、他人の存在は犯罪の抑止力にあんまりならないんじゃないかって気がします。
じゃあオーストラリアでは本当に抑止力になっているのか?というと、これ、実際になってるような気がします。カラまれたり、変なこと言われたりしてたら、他のオージーが声をかけてくれて助けられたって話はちょこちょこ聞きますし、僕からみても、「ああ、こいつらだったら言うだろうな」って気がします。
一つには、他人に声を掛けるにあたっての敷居が低いんですね。別に犯罪じゃなくても、バスや電車に乗ったら隣の人から話し掛けられたりすることってザラにありますし、知らない者どうしでも気軽にペチャクチャやってます。もしかしたら、これって、オーストラリアの特徴というよりは人類の特徴であって、日本以外の大部分の人類はそうするものなのかもしれません。
日本だって、東京よりは大阪の方が気楽に話掛けられたりしますし、一般に大都会になればなるほどヨソヨソしくなる傾向はあるでしょう。これはオーストラリアでも全く同じだと思います。逆にいえば、オーストラリアの方が「田舎度」が高いとも言えるでしょう。
もう一つは、暴力や犯罪に対するタブー感が強い反面、他人に文句を言うことのタブー感が低い。
暴力に対する憎悪というのが日本よりも強いんじゃないかなって感じるところはあります。例えば、テレビのクラスファイド(これは18歳以下は見ては駄目とかイチイチ何ランクにも指定されてる)でも、暴力、野卑な言葉、セクシャル等の要素がどれだけ含まれてるかがポイントになってます。日本の18禁はセクシュアルだけが基準ですけど。ほかにもドメスティックバイオレンスに対する公的な機関の多さとか、かなり熱くなって罵倒しててもなかなか手は出さないとか、どうも暴力に対して、「それをやっちゃオシマイよ」的な感じが強いように思います。
で、暴力など「あってはならない存在」に対する一般の素朴な反応ですが、これは「君子危うきに近寄らず」ではなく、かなり敵対的で闘争的で、「ダンコ叩き潰す!」ってなニュアンスがあります。待ち合わせに何時間遅れてもヘラヘラしてるくせに、こういうところでは結構キツい。なかなか許さないし、警察など峻厳な措置に委ねようとする。これは日本と逆みたい。
これは、文句を言う(コンプレイン)ことに対するタブー感が低いこととも通底してると思います。一般に西欧人はハッキリ物を言うといいますが、同時にお世辞も日本人よりも言います。肯定的な形容詞の数も使用頻度も、どうかしたら日本の十倍くらいあるんじゃないかってくらい、ガンガン褒め合います。それが、まあ、ソーシャル(社交的、あるいは社会一般の対人関係の常識)なんでしょう。でも、同時に、「これは文句言うべきだ」ということになるとかなりズケズケ言います。どうも、「社会の中に不良箇所があったら、それを指摘し、改善のチャンスを作るのは市民としての崇高な義務」と思ってるキライがあるみたいです。だから、単なるワガママをギャンギャン言ってるのとはちょっと違うのでしょう。
もっとも、こっちだってワガママ言う奴は言うし、"You can't fight townhall" "If you can't beat them, then join them"というように、「お上には勝てんよ」「長いものには巻かれろ」という英語の諺があるくらいですから、そんなにマンガみたいに極端な対比があるわけではないです。でも、「他人に文句を言う」という、ともすれば言う方だって不愉快な行為については、「やり慣れてるな」って感じはします。”confront”(対決) ということを日本は避けようとするメンタリティがありますが、西欧はそれは不可避的なもので、「やるときゃやんなきゃ」って意識が強い。だもんで、慣れてるから、言う方も言われる方も、緊張のあまり舞い上がったり逆上したりしないでも済むという。振り上げたコブシの下ろしかたみたいなものも判ってるという。
第三に、単純に肉体的な喧嘩の強さですが、日本では大体チンピラとかヤクザとか「悪い人」の方が、電車内のサラリーマンなど「善良な市民」よりも肉体的に強いケースが多いです。でも、オーストラリアの場合ではどうでしょうか?おそらく「善良な市民」の方が強いんじゃないかって気もします。少なくとも一概に「悪い方が強い」とは言いがたい。
マッチョの国オーストラリアでは、普通の人がガンガン身体鍛えてます。ラグビーなんかやってるのも、プロもいますが、普段の仕事は不動産屋とか弁護士だったり。大体オリンピックでも人口2000万足らず、日本の首都圏よりも少ないくせにメダルを50個も60個も取るわけですから、その裾野というのはかなり広く、ちょっと異様な感じがするくらい健康的だったりするわけです。
一方「悪い人」というのは、こちらはそんなティピカルな暴力団とか暴走族とか分かりやすいのは無いのですけど、大体がドラッグ絡みで、まあ、あんまり健康的ではないわけです。毎日ジョギングしてるジャンキーって、そんなに居ないような気がしますし。
ここ、興味深いのですが、なんで日本では悪い人の方が肉体的に強いケースが多いのでしょうか?つまり、「体力はあるけど頭はイマイチ」という子供が、良くない方向に行くパターンが多いという巨大なシステムが日本にはあるのでしょうか。宮台真司氏は「社会の学校化」とかいって、ここ30年ほど日本社会では、学校の成績「だけ」であらゆる局面で全人格的に判断されてしまう社会になってしまっていると指摘してますが。
まあ、ここもマンガみたいに一律に論じられませんけど、ここで僕が思うのは、「いい社会」ってのは、人の個性に応じて「ヒーローになりうる場面」が沢山たくさんある、奥行きの深い社会であるような気がします。足の早い奴、古代史に通暁してる奴、料理の巧い奴、力持ちの奴がそれぞれに同等にプライドを持てる社会。これは、人の生き方は多種多様であり、それぞれに素晴らしいというコンセンサスが、どれだけ浸透してるかどうかでしょう。
個人的なバロメーターとしては、僕が日本で弁護士やってたのを辞めてオーストラリアに来たのを、「もったいない」なんて表現をする日本人が一人も居なくなったら、結構日本も住み易くなってるのだろうなって気がします。
以上を通じてみると、こちらの「善良な市民」というのは、田舎度の高い素朴なオジサンで、同時に結構マッチョだったりするのでしょう。ああ、そうだな、あなたの田舎の親戚筋に、ファッションセンスはゼロでダサいんだけど、素朴な善人で、素朴な善人だからあんまり物怖じしないで人に接してて、しかも柔道五段とやたら健康な叔父さんがいたと想像して見てください。そんな感じかな。だから、電車内にそのテの叔父さんが5人も10人も乗ってたら、渋谷のチーマーもおいそれとは悪いこと出来ないってな感じなのかもしれません。
ああ、そうそう、オーストラリアの電車で痴漢ってのは無いと思います。準密室状態でのレイプまがいみたいな犯罪はあったとしても、満員電車で触るという形態は、ちょっとありえないでしょう。こっちだって、朝晩の通勤電車はそれなりに混みますけど、でもねえ、基本的に自転車持って電車に乗れるわけですから。
もう一点。こっちには生まれて一度も電車に乗ったことない人が結構いるようです。車オンリー。ノースとか電車網は貧弱ですもんね。だもんで、一度も電車乗ったことない癖に「電車はアブナイ」って注意するオージーも沢山います。オーストラリア人だからオーストラリアのことは良く知ってる、、というものではないのは、日本人だから日本のことを良くしってるわけでもないのと同じでしょう。
写真・文/田村
文責:田村