オーストラリア人の肖像
"Reinventing Australiaより
New Women & Old Men(新しい女性と古い男性)
ワーキングマザーの肖像
■□The Story of Carol/キャロルの場合□■
私が職場に復帰しようと決めたのは35歳のときだった。
最初の子が出来たとき退職したけど、それまで私はフィジオセラピスト(物理療法士)として働いていた。3年後に二人目の子ができ、私は育児に追われながら、気が狂いそうな思いに苛まれた。昔の職場が恋しかったし、沢山の女友達とのつながりも全くなくなってしまったからだ。子供の保育園で知り合った他の奥さん連中とは今ひとつ波長が合わなかったし、「自分は母親だ」という意識を常に保とうとしていたけど、何やら自分の人生が自分の手を離れてどんどん変わっていってしまうような気がした。
夫は、子供ができたら永遠に勤めを辞めるべきだという考えに固執していて、私がパートとして元の職場に復帰することに難色を示した。それでも私は譲らず、こうして私は「ワーキング・マザー」となった。二人の子が学校にあがるようにって多少はマシになったとはいえ、子供を託児所に預けて働きに出ることに些かの罪悪感も抱いたりした。それでも、私と同じ状況にある、多くの職場の同僚の女性達の存在が力強い励みになったし、私たちはよく「家庭の中に埋没していってしまうには私たちは高度の教育を受けすぎてしまったのね」等と話していた。
給料もかなりのものだったし、仕事も面白かった。また、夫の考えも徐々に変わっていくだろうと思っていた。実際、彼は新しい環境で上手くやってくれてはいた。しかし心の底から同意してくれているわけでもなかった。彼は、彼自身の重心を半歩たりとも家事に移そうとはしなかった。彼の本音は、この状況は全て私の一方的な考えによるものであって、私が責任をもって切り回すべきだというものだった。そのことが分かるにつれ、私は彼の発想が信じられなかった。
少しづつ、私は夫に、もっと父親として家事に参加してくれるように説得していった。彼もまた、父親として子供達とより多く接することを喜びを見出してくれたかのようだった。このことは私にとっては救いであったし、これで徐々に万事は好転していくだろうという望みも抱いた。
しかし、そうかと言って、彼が家庭での責任を全うするようになったというわけでは全くなかった。
数週間前、私はそのことを嫌というほど思い知らされた。知人達を夕食に招待したとき、客が来るまでの間に、私が子供の世話と晩餐の準備だけで手一杯になってしまうことが、彼には十分に分かっていた筈だ。そして、驚いたことに、彼は掃除機を取り出して床を掃除しはじめたのだ。普段ならブツブツ文句を言う夫が、何にも言わずに黙々と掃除機を動かしていた。そのとき私は、夫が言われなくてもちゃんと出来るようになったこと、つまりイチイチ私が頭を撫でて「グッドボーイ」と褒めてやらなくても進んでやるようになったことを誇らしく思ったものだった。しかし、いざ客たちがやってくると、彼は、他の客の夫達に、いかに自分が頑張って掃除機をかけたかを延々と自慢しはじめたのだ。
こういったことは料理に関しても全く同じことだった。私は、夫に料理をやらせるまでに成功していたのだが、しかし、彼の料理はいつもいつも「偉大な出来事」として扱われた。彼は私流の食事の準備をせず、彼流のやり方にこだわった。つまり、彼はごく普通の食卓の準備をしない。それは常に「大事業」おなり、私は子供と共にその成果をほめ讃えねばならなかった。そしてまた、彼は後片付けをやった試しがない。彼は新しいルールを開発したのだ。『料理を作った人は、洗わなくてもよい』というわけだ。ところが私が料理を作った場合、このルールは彼には適用されず、洗うのはいつも私が後ろから監督している子供達になるのだった。
いろいろな意味で、休日は最低だったりする。私たちは、休日に、田舎の小さなコテージを借りるのだが、私にとっては、それは普段の家と何も変わらない。彼は釣りに出掛けて、十分に楽しんで帰ってくるなり、私にこう聞くのだ、『今日の晩飯は?』と。私は一日中子供の相手をし、掃除をし、その合間にランチを作っていたのだ−いつもと全くおんなじ。彼が帰って来るまでの、私は庭の木で首を括りたくなってしまう。たとえ、私が夫と一緒に釣りに出掛けた時でさえ、私たちが帰ったとき、彼はこう聞くのだ、『さて、今日の晩飯は?』と。『一日中あなたと一緒にいる私が、どうして食事の準備なんか出来るのよ!』。
結局のところ、全ては元のもくあみになり、それは彼が望んだことだし、子供達もそれを望み、わたし一人で我慢するしかないのだ。
復職した頃の性生活の悲惨なものだった。私はいつも疲れててそれどころではなかったし、彼はいつも不機嫌だった。私がなんとか仕事に慣れて体調も回復したころには、彼はもうセックスには興味を無くしたようだった。私は、よく彼が彼の友達に、うちのゴーカイなカミさんは昼間にがむしゃらに働き廻って夜にはヘトヘトに疲れているよと、冗談を言ってるのを聞いたものだった。次第に物事も慣れて落ちつきつつあるのだけど、今度は、私が以前よりも自信を持ち、自立していくことに対して、夫は脅えを感じはじめているように思えた。
私の母は、私のこういった行動をあまり快く思ってなかった。母は、私がもっと「伝統的」な母親として振る舞うことを望んでたし、子供(孫)達を自分の手元に置きたがった。母は自分の方が子供を正しく育てられると思っているからだ。考えてみれば、私に高度な教育を受けさせ資格を取得させるのに最も熱心だったのは母自身だったのだが、母はそのことについては触れたがらない。
時々、私は、本当にこれで良いのだろうかと疑問に思うこともある。テニスを楽しんだり、一日中家に居て、子供が帰ってきても迎えられるような友達を見ていると、彼女たちを羨ましく思うこともある。そのときは、この「ウーマン・リブ」の思想や風潮に対して、少しばかり懐疑的になる。
子供達がまだ小さかったとき、私はよく自分には子供がいないかのように振る舞った。職場では、自分が母親であることを殆ど忘れていたかもしれないし、そのことに多少の罪悪感も抱いていたのかもしれない。人々から私のことについて尋ねられたときは、いつも「フィジオセラピストです」と答えた。特に男性から問われたときはそうだった。私は、どうしてか、「母」でもあると答えることに躊躇いを感じていたのだ。
でも、子供たちが成長するに連れて、私は自分が母親であることに誇りを感じるようになっていった。友達の中には、子供を持たなかったこと、そして人体生理の時計は既に過ぎ去りもはや出産は不可能になったを後悔している友達を何人か知っている。そして、私は、子供たちと一緒に過ごす時間が少なかったことを後悔しているし、子供達が巣立つまで、まだ多少の時間が残されているのだと望んでいる。
私は、子供たちに、両性の平等という考えを良く教えて育ててきたのだが、当然というか、息子は娘ほどにそういった考えに興味を示さない。彼にとっては父親の姿が一つの範例になっているのであり、私の言ってることと現実との間には少なからぬギャップがあるのである。私は、つねに息子に自分のシャツのアイロン掛けを教えたが、しかし、私は息子のために自分がアイロンをかけてる自分に妙に幸福を感じてしまうのだった−−いま、私は母親なのだ、と。
娘は、子供が出来たら勤めを辞め、子供が卒業するまで家にいるべきだという考えだ。全くそうなのだ。いずれにせよ、娘に子供が出来たとしても、私はその子(孫)の面倒をみることも出来ないだろう。なぜなら、そのとき私は「ワーキング・グランドマザー」になっているのだから。かつて私は、子育ての為の奴隷にはならないと決めたのだ。そしてそんな私は孫育ての奴隷にもならないだろう。
もし、魔法がかけられるならば、私が一番望むのは、夫の態度を変えることだ。もし、彼が最初からもっともっと協力的だったら、これまでの困難はかなりの程度軽減されたであろうし、また私自身もここまで疲れ果てはしなかっただろう。しかし、夫は、本当に私が望んでることを私自身未だに知らないままなのだと思っている。そして、時々思う。彼の方が正しいのではないかと。だけど、時計の針は逆には進みもしないし、私の母が父に対してそうであったような、あの昔ながらの「準召使」的な境遇に女性が戻るべきかというとそうも思えない。
それにしても、ジャーマイン・グリア(※この人誰なのかよく知らん)は、どうして子供を持たなかったのだろうか。不思議だ。
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