オーストラリア人の肖像
"Reinventing Australiaより
Managing Invisible Money/「見えないお金」
油断できないマーケット
The Story of Margaret/フランシスの場合
★ ここ最近、買い物に出掛ける度に、色々と気を張って「防衛的」でなければならなくなったのは、何ということだろう。それは、単に店員のぞんざいな応対をされたとか、無視されたとかいう話ではない−そんなことは、昔からあったことだし、そういったマナーはむしろ昔よりも良くなってると思う。私が言っているのは、全体の雰囲気やシステムが、何とはなしに客に対して「攻撃的」になっている、ということだ。
その地域ごと郊外に出来てきている巨大なスーパーマーケットがいい例だ。
その店舗施設をよ〜く知ってないと、あっという間に迷ってしまう。施設の飾りつけや内外装は、確かに綺麗で魅力的なのだけど、どことなく、方向感覚や現実感覚を失わせるように感じる。何か宇宙船の中に迷い込んだかのようだ−−こういった巨大店舗群は、どこも非現実的な雰囲気を漂わせている。最初足を踏み入れたときは、自分がちょっと頭が悪くなったのではないかと思ったが、廻りの人達も同じように道に迷ったり混乱していた。そのうち、私は、これは買い物客を幻惑させるために最初から仕組まれて設計されているのではないかと勘繰るようになった。おそらくは、意図的に客を迷わせ、あちこち歩かせて、そのうちに偶然目についたものを衝動買いさせるためのものではないのだろうか。
確かに、私たちが分からないような、さまざまなトリックが張りめぐらされているのだと思う。スーパーマーケットの中であっても、店内の商品の配置が予測不可能に頻繁に変えられているというのも、トリックの一つなのだろう。
それにしても、あのバーコードというのは、一体どういう仕組みで作動しているのか皆目分からない。これも、客が何にも分からないようにする為の仕掛けの一つなのだろうか。
こういったシステムは、全て効率的に、簡便にするために考えだされたものなのだろう。しかし、私が小さかったとき、いつも午前中に、近所の食料品屋がやってきて母が買い物をリストを渡し、午後になると届けてくれていたことを思い出す。そっちのほうが、よっぽど便利じゃないのだろうか。
銀行も又、「油断がならない」という意味では、同じだ。
「壁の穴のマシン(ATM)」は確かに、銀行が閉店したあと預金を下ろしたりするときには素晴らしく便利なのだけど、一つトラブルが起きると、本当に大変な騒ぎになってしまう。
あの銀行の連中ときたら、いつだって自分たちの機械がおかしいのではなく、悪いのはむしろ客の方で、妙な操作をしたり、不正使用を試みた犯人であるかのように接したりする。機械が故障してトラブルになった場合の2回に1回は、銀行の支店の連中自身、機械について何にも知らないんじゃないだろうかと疑われる。そして、そのことが又、彼らを一層防衛的にしているのではないか。
一度、ATMを利用していたとき、そんな筈は絶対ないのに、マシンには私が預金額以上に引き出そうとしたという表示が出たことがある。そのときは、銀行の窓口に何かの用紙を提出し、イチから事情を説明させられるハメになった。彼らが、客よりもコンピューターを信頼したがっているのは明らかだ。そんな事柄が、私たちが何やらチッポケな存在であるかのように思わさせるのだ。
従業員を採用するのか高くついたり、セルフ・サービスにもそれなりに沢山の良さがあるのは私自身よく分かっているけど、何かが聞きたいことが出来たような時には、せめてもう少し多くの店員がいてくれないかと思う。
生活が豊かに便利になったりいいことも沢山あるのだろうけど、時として私たちの生活が全てコンピューターに管理されているように感じるし、こういったシステムは、決して客の視点から作られてはいないのだ。
一つだけ、確実に簡単になったこと−−それはお金を遣うこと、だ。
つまりクレジットカードのことである。確かに、以前に比べて支払はずっと簡単になったが、それがまた多くの人々にトラブルに陥れるトラップでもある。
そんなこんなを考えていくと、全てのことに何かのトリックが隠されてるような気になってくる。セルフサービスの店や、クレジットの買物が広まれば広まるほど、逆に私たちはますます油断が出来なくなってきている。私たちの子供の世代は、小さなときからこういう環境で育ってきてるから、もっと巧いこと対処していけるだろう。しかし、こんなことをしてたら、子供たちはお金の大切さを本当に理解できるのだろうか?
少なくとも私に関しては、財布の中にお金を持っていることが一番いいようだ。
なぜなら、財布の中にお金がなければ、それを遣ってしまう心配もないのだから。
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