オーストラリア人の肖像
"Reinventing Australiaより
Divided by the Dollar/貧富の二極分化
「富」と「ゆたかさ」と
The Story of Frances/フランシスの場合
★ 私が奥地の片田舎に住んでた頃には、結婚するまで電灯のスィッチなんか触ったことがなかった。私たちは自宅を持つのが夢だったし、そのために一生懸命働いて、ついに家を手にいれた。あの頃を振り返ると、本当に貧しかったんだなぁと今更ながら驚くけど、自分達が「下層階級」だなんて一度も思ったことはなかった。実際、考えててみても、当時の私たちは、ちゃんとした「豊かな」生活をしていたと思う。「物」なんかそんなに無くても心は幸福でいられたし、両親もきちんと働いていたし、その折り目の正しい価値観は私にも受け継がれた。私たちは、身なりにも気をつけたし、だらしない口のききかたもしなかった。確かに、牧場主さんほど財産があったわけではないけど、そのことを恥ずかしいと思ったことはなかった。
もっとも、社会からこぼれ落ちた人々も実際にはいた..その多くはアボリジニーの人々で、昼間から酒びたりになって公園で寝そべったりうろうろしていた。それでも、全体的にいえば、私たちは皆同じで、特に社会の階級があるだなんて思ってはいなかった。
しかし、なんて世の中は変わってしまったんだろう!
子供達は全ての物を持たなきゃダメだと思ってる。娘が結婚したとき、まず見栄えのする家に住みたがったし、便利な家電器具の全てを持って当然だと思っていた。なんだか娘夫婦を見てると自分たち親の暮らしが見すぼらしいかのように思わされたし、そのことで寂しい思いもした。
事実、娘夫婦は私達のときよりもずっと裕福なのだ。共働きで、年に1回は海外旅行に行く。海外旅行なんか私たちは一度もしたことないのに。
それでも私達は、互いに見栄を張り合うために借金漬けになりながら物を買いあさってる多くの軽薄な連中よりは、ずっと豊かな暮らしをしてきたと思う。ボートは最新の流行らしい−−ちょっと前まで2台の車を持つのが流行りで、今は2台の車プラス船が流行りなのだそうだ。私の住んでる辺りでもそういう風潮が出てきた。薄汚れたやたら大きなボートを家の前に置いているところが増えてきた。
基本的に私たちは全員、ミドルクラスとしての生活をしてきたわけだけど、今街角に立っていると、こういった「ミドル」という意識があちこちで崩れかけていると思わざるをえない。
子供たちがまだ小さかった頃、確かに、私たちの町の中にも、一度は訪れてみたいと思うような綺麗な家もあったし、出来れば行きたくないなという家もあった。確かに貧富の差というものはあったけど、それよりも皆同じような暮らしと価値観を共有していた。だから、とりたてて優越感とか劣等感とかに苛まれることはなかった、勿論他人とどこが違うかという意識はあったけど。多少、お金があるとか無いとかいうことは...そう、例えばあなたがRSL(※よくは知らんが有名なフットボール球場かなにか)に出掛けたとしよう。皆はあなたがフットボールに興味があるんだなと思うだろう。興味が無ければそんな所に出掛ける必要もないからだ。それは、別にエラいとか優れてるとかいう問題ではなく、好きか嫌いかという個人的な問題で、裕福かどうかということもそういうレベルの話であった。
もっとも、正直言えば、そうは言いながらも、私たちは日常の些細なことで「勝った」「負けた」とか結構意識はしていたのだけど。
オーストラリア人は、「階級/階層」という物事についてはかなり変わってるんじゃないかしら?私たちはいつも、オーストラリアには上流階級も下層階級もないんだと言い合っていながらも、お金や物にはかなりの関心を払ってきた。思うのだけど、物事は単にお金の問題で片づけられるんじゃないかしら。娘夫婦は何やらアッパークラスに昇ったなんて思ってるようだけど、私に言わせれば、それは単に「裕福」になっただけで「上流」とか階級云々の話ではない。実際、私たちは両親よりもずっと裕福ではあるけども、両親は他の誰よりも私達によくしてくれた。
しかし、そうはいっても、現在のこの高い失業率が一体社会をどう変えていくのか分からない。もし本当に多くの人々が真剣に職が得られないとしたなら、世の中の考え方も変わっていくだろう。失業保険の給付を受けながら、あるいはサルベーション・アーミー(救世軍・福祉団体)から食事を配給して貰いながら、「ミドル」だとは言いにくいだろう。最近、犯罪や暴力沙汰が増えてきているのも、世の中に貧しい人々が増えてきて、彼ら自身どんなに頑張っても何も出来ないという冷たい事実があるからなのだと思う。
それを思うと胸が痛む。でも、誰よりもお金を持ってる裕福な人に対しては、もっと哀れだなと感じる。かつてオーストラリアではありえなかったことだけど、最近では、単に大きな家に住んでいるとかボルボに乗ってるとかいうだけで、傲慢で鼻持ちならない連中が出てきた。片方では、生計のために四苦八苦してる人達も増えてきたのではないか。なぜなら、私達の育った町でも、農場の奥さんが生計を維持するためにスーパーとかでパートで働きに出たりしてる。こんなことは昔には考えられなかったことだ。
全て混乱してきている。これではまるで、全ての人が何らかの階級にいることを了解し、その階層にしがみついているイングランドのようではないか。私の育ったこの国では、全てのひとが豊かで、階級なんて考え方は必要なかった筈なのに、だんだんとこういった意識が社会に忍び込んできているように思う。それは良くないことだと思うけど、実際にも裕福な移民達がそこかしこに住み始めたりしてる−彼らのことをアッパークラスだとは思うことはないけども。こういったことは、単なる「お金」の問題に留まりそうもない。あと1〜2世代もしたら、本当にそれぞれ違った階級で暮らすようになるのかもしれない。
オーストラリアは階級のない平等な社会だと言われているし、私もそう信じたいのだけど、もうこの先はそれが本当のことだとは思えない。
私が今目にしている光景は、ある人々は上っていき、ある人々は落ちていく姿だ。
以前には、全ての人は皆同じところにいて、頑張って勉強したり働いたりすれば願いは叶うということになっていた。しかし、もはやかつてほど、そんなことが出来るような社会ではなくなったようだ。そして、私は、こんな風に世の中が変わっていくことが残念でならない。
★→オーストラリア人の肖像のトップに戻る
APLaCのトップに戻る