オーストラリアつれづれ




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カンガルー,コアラの飛び出しに注意!
カスタマーサービス
誕生日
性教育
お葬式
ストリッパーの出前
文化伝達のゆがみ
伝統を守る
複雑な人間関係







    カンガルー、コアラの飛び出しに注意!

    オーストラリアの高速道路を運転していると、こんな道路標識をよく見かける。まさか車が80ー100キロで飛ばしているところに、野生のコアラやカンガルーが出てくるはずない、観光客を喜ばせるものだろうと思っていたが、実はそうではなかった。



    カンガルー編

    あれは四年前、マティはナーシングホームで夜勤看護婦をしていた。朝七時に仕事が終わり、家路を急ぎハンドルを握るマティの目の前をカンガルーがぴょんぴょんと横切っていった。マティはアデレイドヒルという郊外に住んでいるが、市街から車でたった30分の所だ。カンガルーは何十回と見たりさわったりしたことがあったが、さすがにこの野生のカンガルーを見たときは感動した。

    コアラ編

    ある夜、マティの夫チンは、友人を送って高速道路を運転していた。すると悪魔の肘と呼ばれる急なコーナーに入る手前で1匹のコアラが立ち往生していた。道路の真ん中にでてきてしまい、次から次へとくる車におびえて動けなくなっていた。チンは車を止めてそのコアラを抱き上げ道路脇の茂みに放り投げて助けてやった。チンは手に傷をつくって誇らしげに帰ってきた。コアラは長くて鋭い爪を持っているのだ。





    カスタマー・サービス

    オーストラリアのサービスはひどい。頭から火が噴きそうになったことが何度もある。

    その1;街の中の大きなスーパーマーケットでTシャツを買った。安物だが柄がかわいいので友人へのプレゼントにしようと思った。Tシャツは1枚ずつハンガーに掛かっていた。何枚かを選びレジへ持っていくと、店員はTシャツの首をグーンと伸ばしてハンガーを取りはずした。「いくら安物でももう少し気を使ってくれ」と口まででかかったが、小心者のマティは言えなかった。

    その1・続き;J.Mというアデレイドで2ー3番目に大きいデパートで母にプレゼントを買った。花柄の伸縮性のスカートと丸首トップのアンサンブルだ。レジの持って行くとなんと首をグワーンと伸ばしてハンガーをはずすではないか。「そりゃあ、高価な服を買ったわけではないがデパートなんだからもう少し気を使ってくれ」と言えないまま、ムッとして帰ってきた。

    その2;なんと言っても腹の立つのが、レジの定員がお客が待っているのに、私用電話をやめようとしなかったり、友達とおしゃべりをしてお客を無視することだ。街の中のW.Wという大きなスーパーマーケットの若い店員に多い。中には買った物をビニール袋に詰めるとお客にサンキューも言わずあっちを向いて、袋をただレジに置きっぱなしにするいやなやつもいる。日本に行ったことのあるオーストラリア人が声をそろえて言うことが、日本のサービスの良さだがうなずける。

    その3;マティがM病院に就職が決まったとき、そのオリエンテーションでこの病院はプライベート(私立)なので、看護もサービス業だと思って患者さんや医師と接するように言われた。この時、「お客さんを自分のボスだと思って接するように」と言う言葉を聞いて思わず鼻で笑ってしまった。「日本はお客様は神さまです」と言って接しているのだぞ。イヤーなボスだと思って誰が親切に対応できるものか。だからオーストラリアのサービスはひどいんだ、と喉まででかかったが、やはり小心者のマティには言えなかった。

    その4;コンピューター編

    夫のチンはコンピューターなしには仕事ができない。ある日、その大切なコンピューターが故障し修理に出した。2週間かかると言われ、仕事に支障があるが仕方がなかった。ところが2週間たっても何の音沙汰もなく、電話をすると今度の月曜日までに必ず仕上げますと言うことだった。その月曜日が来ても連絡がなく電話では埒が かないため会社まで行くと、まだできていないという。必ずできますといって何かの都合でできないのなら電話で一言ことわるのが、常識ではないか?そしてできあがるまで、代わりの品をだすべきではないか? あきれて物も言えなかった。それから1週間待ってようやく修理ができ、1カ所の部品交換に$700ドル(約7万円)もとられて開いた口がふさがらなかった。

    その5;コンピューター番外編(日本にて)

    チンのコンピューターがこわれた。アデレイドに支店を持つ日本の会社のものだったが、その支店が閉鎖されたためシンガポールやアメリカの支店に連絡したが部品が手に入らなかった。その後チンは日本へ行く機会が り、幸運にもこの会社の本店がある横浜に行くことになった。

    コンピューターに詳しいチンはあるチップ(部品)を手に入れたら自分で直せると言うのでマティはその会社に電話をした。何人目かででた部長(課長?)という人は、実際にコンピュータをみてからでないと部品を売らないと言い張った。チンはせっかくここまで来ているのにと悔しがった。それで馬車通り(そんな名前だったと思う)にある会社まで行ってチンが直接交渉することになった。

    受付へ行くと「英語を話せる人を呼んできます」といって、奥からワンレングスにミニスカートをはいた女の子がでてきた。チンが状況を説明するとアメリカンアクセントで係りの者に聞いてみますと行っていなくなった。しばらくするとなんとそのほしかった部品を持ってやってくるではないか。

    チンが喜びを押さえて値段を聞くと「無料です。あなたはラッキーですね、これが最後の一個です」
    こうして念願の部品はタダで簡単に手に入った。帰り道、チンが「あの娘の英語はたいしたことないね」という。彼が「会社でここのコンピューターを使っている者が何人かいるが、彼らも何か問題があったとき、苦労するよ」と言うと、'That's good.' (それはよろしいですね)と答えたそうだ。

    その6;コンピューター編 その2

    チンのコンピューターがまたこわれた。近くの店に修理を頼んだ。翌日行くと、そこの主人は「たった今原因が分かった」と言って興奮していた。代金は1時間$75ドル、2時間半かかったが$150ドルでいいと言われ払った。家に帰ってコンピューターを使ってみると何にもなおってなかった。チンは仕方がないと言って文句も言いに行かなかった。だからこっちのサービスは良くならないのだ。

    その7;玄関到着料金編

    中古で友人から買った洗濯機がこわれ、修理を頼んだ。なんと玄関にくるだけでなにもしないで$45ドル取るというが仕方がない。修理と言っても15分くらいで原因を見つけ、部品交換に$150ドルかかると言われた。買った値段と同じ料金を払って直すくらいなら新しいのを買おうと決めた。結局トータル$85ドルもとられ、こわれた洗濯機はそのまま残り、とてもこの国には住めないと思った。

    追記:オーストラリアのサービスはやっぱりひどい。


    その8;電車のチケット編

    7月にメルボルンへいった。電車で職業専門学校へ行かなければならず、メルボルン駅のインフォメーションへ行った。前に2人の人がいたので並んで待っていた。インフォメーションデスクは、背より高いところにあった。

    前の人が行ってマティの番になったが、デスクのおばさんは熱心に下を向いて何かを見ているので調べ物でもしているのだろうとしばらく待った。全くこっちを気にかけてくれそうにないので、背伸びをしてのぞき込むと、なんと女性ゴシップ雑誌を読んでいた。完璧にムッとした。行き先の名前と住所を見せると、X番線の****行き、20分ごとにでていると早口で言われ、「ハイ、そうですか。」といって後ろを向いたとたんに、聞き慣れない地名だったのでパット忘れてしまった。

    もう一度行って紙に書いてと頼むと、X番だけ書いてくれた。どこ行きかも書いてと頼むと、私は知らない、下で聞けといわれ、地下に降りて切符売り場で、もう一度住所を見せるとどこで降りるのかと聞かれる。それがわからないから、住所を見せているんじゃないか・・・結局切符は手には入ったが、不安なままホームへはいる。おばあちゃんを見つけ、同じ方向なので、一緒に行くことにし、ようやくホッとした。あきれて物がいえない体験だった。


    その9;洗濯機がなおった (99/11追加)

    洗濯機が故障したのでメーカーに電話をしたら、翌日修理に来てくれ、二日でなおった。「それがどうした、あたり前だろう?」と思っていたらとんでもない。オーストラリアに暮らしていると、これはすごいことなのだ。「洗濯機がなおった、良かったね」と2、3日言いつづけたMattieに、夫のチンは「まだ言っているのか」とあきれていたが、本当にこれは記録に残すくらい大変なことで、オーストラリアで暮らすということは、そのくらいストレスが溜まるのだ。

    まあ Mattieの経験を聞いていただければ、これがどういう意味を持つのかわかっていただけるだろう。去年も洗濯機の脱水がうまく動かなくなった。メーカーに電話すると忙しくてすぐにいけないから近所の代理店に頼むようにといわれた。そこから若い人が3日後に来てくれ、スプリングを一箇所付けなおすといいということで、$3のスプリングを取り寄せるのに4〜5日待って修理代に$65ドル取られた。生活必需品の一つである洗濯機が2〜3週間使えないことは当たり前のことなのだ。

    今年始めに掃除機が壊れた。メーカーに行くと「後二週間は忙しくて修理できないので、市内の代理店に持っていくよう」言われ、そのままメーカーから車を走らせ代理店に行った。普通、ただどこが壊れているのかを見るだけで一時間$40〜50ドル取られるから覚悟して行ったら、たった$10ドルで調べてくれ、その店で修理したらこの$10ドルは取らないと聞き「何と良心的な店だろう、やっとまともにきちんと修理してくれる所を見つけた」と喜んで帰ってきた。
    翌日、電話が入り修理代は$45ドルで部品が入れば今週の金曜日にできるので、修理が終わり次第電話で知らせてくれるということだった。「何といい会社だろう」とまたまた感動していた。ところが金曜日になっても何の連絡もなかった。翌週始めに電話すると、まだ部品が届いていないが、たぶん今週中に届くので、金曜日までにはできるだろうと言われた。まあ部品が届いていないのなら仕方ないし、今週中にできるのならいいかと全く軽い気持ちでいた。しかし、その週の金曜日にも何の連絡も来なかった。

    3週目の火曜日になっても何の連絡もないため、また電話すると「まだ部品が届いてない」という。「部品を取り寄せるのにどのくらいかかるのか」聞くと、「シドニーから送られて来るが、普通1週間でつく」という。今週届いたダンボールを見てみたが見つからなかった、という。「一体どうなってるの?」と聞くと「もうつくはずなのですが、おかしいですね」との返事。「出来次第、きちんと電話連絡してくださいね」というと、「もちろん、それは当社のポリシーです」ということだった。

    そのまま3週目も何の連絡もなかった。4週目に再度電話を入れても同じ返事が戻ってくるだけだった。「何でお客の私が電話代をかけて何度も問い合わせなくてはならないのだ」と腹が立ち、もう連絡を取るのはやめた。

    6週目に出張中だった夫のチンが帰ってきて、もうこれ以上待っていても仕方ないと、その会社に行くと、一個所、部品が届いていないためまだ完全に直っていなかったが、掃除機はその部分が壊れていても使えるということで、そのまま持って帰って来た。

    オーストラリアで暮らしていく時、少なくてもアデレードで暮らしていく時は万事がこういう調子なのだ。まだまだ例をあげるときりがない。オーストラリアにあこがれる皆さん、現実は厳しいのですよ。




    その10 番外編:日本にて
    フジヤの女の子はコピーを取るのが上手?
    (99年11月追記)

    今年(1999)3月、東京で開かれた「ヘルスケア99」という医療品展示会の通訳として帰国した。展示場は「フジヤ」という会社が準備・管理していた。展示場で渡すパンフレットのコピーをしに行ったら、何枚かしたところでペーパージャムで止まってしまった。コピー機のすぐ前にフジヤが机を出して展示会社の援助にあたっていたので助けを求めた。20代後半ぐらいの女の人が出てきてコピー機をいじりこれでOKということで使い始めたがまたすぐ止まってしまった。

    病院でコピーを取ることはあるが、毎日使うわけではないし使ったことのない機械のトラブルの処置はわからずまたその女の人を呼んだ。彼女は机でワープロを打っていた。彼女は迷惑そうにやってきていきなり「お姉さん、機械に負けたらだめでしょ。何でも自分で試した見なくちゃ。」とのたまわった。ムッときて「私はコピーをする人間じゃありませんから。」というと、「ワープロにだって何だって負けていたら何もできないでしょ。工夫しなくては」と完全に人を馬鹿にしていった。私は完全にお客の立場でそれを示すバッジをつけていたし、私のボスはこの展示に出るため、A$3000ドル位払っているはずっだった。

    「アンタは困った人を助けるため、ここで机を出してお給料をもらっているんでしょ?アンタのように女のこは皆コピーをできるのが当たり前、それが女の仕事と考える風潮が女性の社会進出を妨げているのだよ。」と口まででかかったが、小心者の私はここでケンかをしてもつまらないと思い戻ってきた。ボスのテリーに話し「私はもう一切コピーを取りには行きません。」というと、ジョークのわかるテリーは「わかったよ、今度は僕が持っていて、これは女のこの仕事だからやっといてといっておいてくるよ。もちろんそれは君には絶対言わないよ、言ったら張り倒されるよね。いや自分は頭が悪いからコピー機を使えないというのもいいな。」と笑っていた。こうしてその後はコピーを一度もしないですんだ。テリーは「ボスと呼ばれるのはいやだから名前で呼んで。」といい、フランクでとても働きやすかった。




    誕生日(99/07追加)

    オーストラリアでは誕生日を本当に大きなイベントとしてよくお祝いする。こちらでは日本で言ういわゆる成人式というのは20歳ではなく21歳だ。その後は「0」のつく誕生日、つまり30歳、40歳、50歳など大きなパーティを開いてお祝いすることが多いようだ。数年前、マティが自分の誕生日に働いていたら、「なんで誕生日に働くの?」と驚かれ、あっという間に病院にその日が誕生日だと知れ渡った。はっきり言ってこの年になってみんなに、「今日は私の誕生日で・・才なのよ」といって歩くつもりはない。みんながうるさいのでそれからは誕生日はできるだけ休みを希望して静かに過ごすようにしている。

    そういえば結婚したての頃、夫のチンが「ぼくはこの4年間ずっと誕生日は出張して働いている。」と寂しそうに友人に言うのを聞いて「アンタ、なに言ってるの?誕生日のたびのみんなが仕事休んでいたら生産率があがるはずがないでしょ?」と心の中で驚いたのを思い出す。長く住んでいるうちにこれがこの国の文化のひとつなのだなーとわかってきた。






    性教育(99/10追加)

    その1:

    同僚のリズは2歳になったばかりの息子サムがいる。ある日の準夜で、リズが「可笑しいのよ」といって話し始めた。

    サムとお風呂に入っていると、リズの腰のあたりを見て不思議そうな顔をして、自分のオチンチンと見比べていた。それで「マミーは女の子だから、ヴァジャイナ(膣)があって、ダディは男だからペニスがあるのよ。」と教えてあげるとサムはリズの股の下を覗こうとしながら「ヴァジャイナ」という言葉を言えず、「ヴァイナ」といっていたと笑っていた。そして「何も隠す必要はないわ」と言う。そうか、性教育はこんなに早くから始まっているのかと感心してしまった

    その2:

    近所で親しくしているジョーはベテランの小学校の先生で、16才の双子と14才の娘さん3人の母親だ。これは知り合って間もないまだ子供たちが7才から9才くらいの頃の話しだ。ジョーは私が看護婦だということを知ると、「今度、性病のグロテスクな写真が載っている本を貸してね。娘たちに見せて性病がどんなに恐ろしいものか教えておきたいから。」と私の顔を見る度に言っていた。まあ確かにそれも性教育の一つだなとは思ったが、この歳から始めるのか?と驚いた。残念ながらそんな本は持っていなくて役に立てなかったが。

    話は変わって、これもこの子供たちがまだ小学校の時の話。夏休みに遊びに行くと、ジョーは子供達が髪を赤茶に染めるのを手伝ってあげたといって、「なかなか似合ってて本当にかわいいでしょ?。」と自慢していた。「学校の先生がこんな若い子に髪を染めるのを奨励するのか???」とかなりのカルチャーショックを受けたものだ。もっと驚いたのは、学期の終了時に、学校主催のディスコパーティがあるということで、1番下のまだ7才のアニ−タが、何を着ていこうかと悩んでいるのを見たときだった。このように親や先生が奨励していろいろ体験させると隠れておかしな所へ行ったりしなくなるものなのだろうか?

    この子供たちは16才と14歳のなった今も素直なとてもいい子で非行に走ったりしていないし、ボーイフレンドもいないようだ。確かに耳に3つも4つもピアスをつけて、中学校入学とともにアイシャドーや口紅、マニュキュアをつけるようになり、制服のスカートを今流行りのくるぶしまである長さにして引きずりそうにしながら歩いているが、学校はとめようともしないようだ。ちなみに親が送った去年のクリスマスプレゼントはお化粧道具だった。

    親であり先生であるジョーがそれでいいというのだから、他人が口出しすることはない。ただこの子達はスマートで足が長く自然のままでとてもかわいい子達で、アイシャドーをつけた顔はどうしても好きになれない。






    お葬式(99/10追加)

    近所に住むレスリーのお父さんが亡くなったので、オーストラリアではじめてお葬式に行くことになった。レスリーとは親しくしていて、子供の誕生日に呼ばれたり一緒に夕食をとったりしていた。お父さんは変わり者ということで。レスリーの子供たち、つまり孫の誕生日に来ることもなく、レスリーが再婚の結婚式をあげた時も来なかった。だからレスリーのお母さんとは何度か会ったことがあったが、このお父さんには会ったことがなかった。

    オーストラリアのお葬式は黒い服を着なくてもいいと友人から聞いていた。では何を着ていったらいいのか? 結局、「無難かな?」と思い、紺のブレザーとパンツ、夫のチンも紺の一張羅のスーツを着て式場へ行った。

    前に壇上があり、まるで幼稚園の学芸会会場を思わせるようなところだった。そしてお棺に入った体が一番前の段のすぐ前に置かれていた。その後ろには教会でよく見る木の椅子が両側に置かれ、近しい家族から前に座っていった。私たちは一番後ろの席についた。そして音楽が流れる中、花を持ってきた人はそのお棺に入れていった。牧師様らしき人が、このお父さんを回想する思い出話を15分ほどした。といってもこの話しは、小学校の先生をするレスリーがすべて書いたものであった。

    ところで服装であるが、これはカルチャーショックだった。みんな完全な普段着、死者の妻であるレスリーのお母さんでさえ、藤色のスゥエット・スーツ、つまり早い話がジャージーの上下、娘のレスリーやその妹さんもみんなセーターやジャンパーなど普段着、ネクタイをしているのは、チンとレスリーの前夫ケンだけだった。そしてこの参列者の中で最も正装していたのは、ご本人とは会ったこともないMattieと夫のチンだった。

    この後、お父さんんの体が焼かれている間、参列者はコーヒー・紅茶とビスケットでくつろぎながら、雑談をして終わった。本当にオーストラリアはなんでもカジュアルなのだなと思った。ちなみに日本では法律で死者の体は火葬にしなくてはならないが、オーストラリアでは埋葬もいいそうだ。





    ストリッパーの出前(2001/1追加)

    オーストラリアではストリッパーの出前ができる。同僚のカレンが友人の誕生パーティにストリッパーを呼んで、大笑いをしたという話しを聞いてびっくりしたが、そのストリッパーが男だと聞いてまたまた驚いた。カレンの家でダンスをしながら、裸になってくれたそうだ。

    オーストラリアではよく、結婚式直前に、花嫁は「ヘンズナイト」…「めん鳥の夜」と称して女の子だけが集まってパーティをする。それに友人が気を聞かせて男のストリッパーを呼ぶ話しもその後何度かきいた。同僚のアリ−の30才のバースデーパーティホールを借りて盛大に行ったようだが、そこにもストリッパーが来たという。結構流行っているのだ。ただしやはり一回呼ぶのに、日本円にして数万円と決して安くはない。

    アリーのバースデーパーティに行ったケリーは、「私はあんなことにお金を使ってほしくはないわ。大体、ご主人のアダムがどう感じているのかと思うと見ていられなかったわ。」と言っていた。現実的な私もストリッパ−にお金を使ってくれるくらいなら、何か記念に残る物をもらったほうがうれしいと思うのだが、それじゃあ何がほしいのと言われると特にこれといって必要な物はない。恵まれすぎた社会住んでいるということを認めざる得ない。

    日本ではヌード写真の「ヘア解禁」となってまだ新しいが、西洋の国ではどのような制限があるのだろう。とにかくあまり厳しくないのだろうと思う。アデレードでは2年に1度の芸術祭があり、世界中から役者や演奏家がやってきてコンサートや催し物が開催される。2年前の芸術祭の時、新聞に何度か取り上げられて面白そうだから見に行こうと友人に誘われてカナダからきた演劇を見に行った。小さな会場は満員でやはり人気は高かったが、手早く話すと、結局、英語の意味がわからず、何がいいたいのかよくわからない演劇だった。精神病患者の主人公が病院で、過去を回想し、その中で昔の恋人が登場し、彼女の様子が描かれる…・?というような内容だった。

    この演劇の中で、主人公の男性は、突然パンツを脱いで真っ裸で会場を走り出すシーンがあり、恋人役も途中で真っ裸になるシーンがあった。どうしてこの劇の中で裸になる必要があるのかもよくわからず、とにかく訳がわからないまま終わった演劇だった。ただ劇の中でも、堂々と裸になるのだから、ストリッパーが色々な所で色々なことをするのも許されるのだろうと思う。





    文化伝達のゆがみ その1(2001/3追加)

    文化が他国に伝わる時に、様々なゆがみが生じていくものだナと感じる体験をオーストラリアに来てからいくつかした。何といっても驚いたのは、オーストラリアに住んで一年もたたない頃のことだった。知人に会いにシドニーに行った時、友人の娘さん、クリスの誕生日に日本レストランに行くので一緒に行こうと誘われた。クリスが「日本の食べ物投げ」は見たことがないから是非行ってみたいと言っているんだという。この頃の私の英語力はかなり低かった。そして「日本の食べ物投げ」とは何のことだろう???と全く訳がわからないままそのレストランに行ったのだった。

    そこは「Tepanyaki」という名の文字通り「鉄板焼き」レストランだった。大きな鉄板を囲んで6人から10人が座れる席がいくつかあり、それぞれの鉄板にシェフがいた。私達のテーブルについてくれたシェフは、おとなしそうな男性で一目で中国系の人だとわかった。

    飲み物を注文して雑談に花を咲かせていると、突然、後ろの席で「ワーッ」という歓声と共に鉄板をバンバン叩くけたたましい音が聞こえてきた。思わず振り向くとそのテーブルのシェフが両手に鉄のフライ返しを持ち、それで鉄板焼きの鉄板をまるでドラムでも叩くようなリズムをとって叩きながら、炒め物を作っているではないか?そしてその後、その鉄板で焼いた物を、お客さんのお皿に向けて投げているではないか?そのテーブルの人達は大喜び、周りのテーブルの人も面白がってその様子を見ながら、次は自分達の番だとワクワクしている。

    これがクリスの言っていた「日本の食べ物投げ」の正体だったのか? 私の顔は思わずひきつった。日本は今でこそ豊で食べ物を粗末にし、どんどん捨てるという生活を送っているが、昔はお百姓さんが精魂かけて一生懸命作ったお米に感謝し、茶碗に一つぶのお米も残さずに食べるよう子供に教えるという貧しい国だったはずだ。大切な食べ物を投げるなんてとんでもない。こんなのは絶対日本の文化ではない。私はつたない英語で必死にそれを一緒に行った友人達に説明しようとした。それなりにわかってくれたとは思うが、このレストランはこの「食べ物投げ」が名物で、クリスも自分の誕生日にそれを楽しみにやってきたのだから、私一人がすねてムッとして食べるのを拒否するわけにもいかない。

    そしてとうとう私達の番となった。幸い、私達のシェフはおとなしい人だった。控え目に鉄板を叩き、肉や魚を焼いてそれぞれのお皿にうまく投げ入れてくれた。最後にチャーハンを作ってくれることになり、まず生卵を小さなボールに割り入れた。そしてもう一つの卵を割り、半分になった殻に入った生卵を投げるから、ジョニーに茶碗で受け取るようにと言った。そしてその生卵はボールには入らずなんとジョニーの胸ポケットにすっぽりと落ちた。しかしこれも余興の一つとして、ジョニーも笑いながらハンカチでシャツをふき取った。

    生卵が焼かれチャーハンができあがるとシェフは、手元にある茶碗にチャーハンを盛り、それを15cm位、上に数回投げ上げ、おにぎりのように丸くした。そしてそれを各自の茶碗に投げるから受け取るようにいう。皆、茶碗を両手で持ち胸の高さにおいておにぎりチャーハンが飛んでくるのを待った。全員うまく受け取ることができた。でも私はご飯を投げ入れられるのは絶対にいやだと拒否して、直接茶碗に入れてもらった。

    私だって買いすぎた野菜を腐らせて捨てることもあるし、レストランに行って食べきれず残すこともある。でも出きるだけ食べ物を粗末にしないようにと気をつけている。食べ物を投げつけるというのは絶対に許せないし、ましてそれが日本の文化として、そして余興としてこのレストランのセールスポイントになっているというのは悲しかった。

    このレストランに日本人のシェフがいるのか聞いてみた。いくらお金のためとはいえ、こんなゆがんだ文化を他国に伝えている日本人がいたとしたら許せないと思った。以前はいたがやめてしまって、今は日本人は一人もいないと聞き少しホッとした。大体考えてみれば、「鉄板焼き」は日本で始まったものではないはずだ。それが、日本の代表的な料理として海外に伝わり、言葉までそのまま「Tepanyaki」と使われ、そしていつのまにか食べ物を投げ渡すことだと伝わっている。たぶん、店のオーナーがお客をひきつけるために始めたものなのだろうが、日本の文化を何も知らない一般の人はこれが日本の日常であり文化だと覚えてしまう。なんとも罪なことだ。勝手に人の国の文化をゆがめて伝えるのは許せないとかなり頭にきた出来事だった。今でもそのレストランが同じ事をして繁盛しているのかどうかまでは知らないが。





    伝統を守る(2001/3追加)

    最近、イタリア系移民のジェフと結婚した日本人のAさんに会った。始めは雑談でどこからこんな話しになったか覚えていないが,「伝統を守る」,もっと簡単に言えば「家風を守る」ということは何と大変なのかとつくづく感じた。 Aさん自身は私が思うほど感じていないのかもしれないが、北海道生まれの北海道育ち、自由気ままに生きてきた私にとっては全く驚きだった。

    私の夫はニュージーランド人で、「国際結婚は大変ですか?」などとよく聞かれるが、私にとっては、九州などで育った日本の男性と結婚するほうがもっと大変なのではないかと常々思っているし、そう答えている。同じ言葉、日本語を話せばわかりあえるものではないと思う。その点、たった200年あまりの歴史しかなく、「イージーゴーイング」のオーストラリアで暮らすことは、何かと周囲の目を気にして、風習やしきたりにこだわる日本の生活よりずっと楽だと感じている。

    さて、Aさんの話に戻ろう。イタリアの家族は非常に親密で、例えば患者さんが入院した時、山のような人がお見舞いに来たりするのを見て、独特だなとは感じていた。Aさんの夫は日本食は食べるがあまり好まない。そうなるとやはりパスタ類が多くなる。さてこのパスタのソースであるが、すべて手作りのトマトソースを使うのだそうだ。お義母さんが自分の畑でトマトをいっぱい作っていて、1年に1回娘さん達、つまりAさんの義理の姉妹が手伝いに来て,トマトもぎからトマト洗い、そしてそのトマトをぐつぐつ煮込み、消毒したビンに詰め、ソース作りをするというのだ。お義母さんとAさん宅の1年分のトマトソースというから並みの量ではないだろう。

    しかしそれだけではなかった。お義母さんの家にはオリーブの木もあって、時期が来ると男性は木に登って枝をただいて実を落し、女性はその実を拾って洗い、自家製オリーブオイルとオリーブのピクルスを作るんだそうだ。手作りのオリーブオイルは非常に体によく、味も抜群だ。



    こんな手作りの味しか食べてこなかったジェフにスーパーで売っているものを食べてといっても無理な話だろう。

    さて、Aさん宅ではそれだけではなかった。なんとワインも自家製だという。お義母さんの所で取れたブドウを昔風の「足踏み」でつぶしてジュースを絞り、1年分のワインを造るという。この話を聞いて、日本でも梅干を作ったりお味噌を作る家庭はよくある(北海道では少ないが)と聞いたのを思い出した。手作りトマトソースの話しを聞いて、どんなにおいしいことだろうと思わずよだれが出そうになったが、日常の生活にこの伝統を取り入れていくということは大変だろうナーと思わずにいられなかった。





    複雑な人間関係(2001/7追加)

    日本では離婚率がどんどん高くなってきているが、それはオーストラリアも同じだ。両国の違いはオーストラリアでは結婚しないまま何年も一緒に暮らし、子供も何人か生んで生活しているカップルがたくさんいることだろう。正式に結婚していようが子供がいようが、カップルの間に亀裂が入り別れが来るのは良くあることだ。そしてそのカップルに子供がいると、なんとも複雑な人間関係が生まれる。

    近所に住んでいて親しくなったケイとポールは、知り合って4ヶ月でお互いを気に入り一緒に暮らし始めた。ケイは42才の小学校教師で離婚しており、8才の双子の女の子と7才の女の子の母親だ。4才年下のポールはずっと独身だった。ケイが教師としてフルタイムで働き、ポールはハウスハズバンド(結婚はしていないが)として、生活し始めた。ポールは子供達のためにお弁当のサンドイッチを作り、夕食を作りとがんばった。

    3人の女の子たちは2週間に1回、実の父親のマークの所に行き、1〜2泊して親権を持つ母親のケイにの所に戻ってくる。50才のマークには結婚はしていないが離婚歴があるシェリーと暮らしている。シェリーにはすでに独立した子供がいる。

    ある年のクリスマスの晩餐に呼ばれた私達は、そこでケイとポール、マークとシェリーのカップルに囲まれた子供たちを見て、この子達は一体どう感じているのだろう?と思わずにはいられなかった。子供達にとっての父親はあくまでもマークであり、一緒に暮らしているポールが学校やスポーツ活動への送り迎えや、食事作り、そして子供達の勉強を見てやったり、時には躾役として子供達にかかわってきても、子供達にとっては義理の父というよりは、母親のパートナーという感覚のほうが強いように感じられた。

    さて、一緒に暮らしていたケイとポールは、うるう年にケイがプロポーズして結婚することになった。なんとオーストラリアではうるう年の2月29日は女性がプロポーズしてもいいということになっているのだそうだ。これはケイから聞いた話しで、オーストラリアだけの話なのか他の西洋の国でも一緒なのかは定かではない。何はともあれ、一緒に暮らして4年後にとうとう二人は正式に結婚した。

    しかし、人生はどこで何が起きるかわからない。結婚して2年後、一緒に暮らし始めて6年後にケイは昔の恋人と再会し浮気をはじめた。そのころ子供達は14才と13才という非常に感じやすい年頃になっていた。他人の出来事をどうこういうのは気が引けるので、結論から言うと、ケイはお金を払ってポールを家から追い出し、昔の恋人ビルが今までの家で暮らすようになった。ケイとポールの離婚騒動を見ていて驚いたのは、私達から見たらポールには何の罪もなく勝手に浮気したケイが全面的に悪いように感じたが、オーストラリアの法律では、(まあ例外はあるだろうが)離婚理由はどうあれ、別れに関しては財産をほぼ平等に折半するということになっているらしい。もちろんポールが裁判に持ち込んで自分に落ち度はない、慰謝料を払えということになると違うと思うが弁護士にかかるお金が並大抵ではないので、多くの場合、適当な所で話し合いで終えるらしい。

    こうして3人の女の子達は、父・母そしてそのパートナー達との人間関係を続けていくことになる。ただオーストラリアのいいところは、子供の家庭環境でその子をいじめたり差別したりしないことだろう。でもやはり子供にとって離婚は大きなショックと精神的ダメージを与えることはどこの国でも同じだと思う。かと言って、子供のためだけのために冷たい夫婦関係を続けていくことがいいことかとなるとそれもまた疑問だ。

    夫の友人のパットはなかなかいいパートナー(恋人)が見つからず、誰かを見つけても長続きせずにいた。ようやくサムと出会い、一緒に暮らし始めた。サムには4歳になる女の子サリーがいた。パットはサリーのことをとてもかわいがりサムとの関係もしばらくうまくいっていたようだったが3年ほどして別れることになった。(事情は知らない)
    その後、またしばらくしてパットは別の恋人ビルと暮らし始めた。ビルには9歳になる女の子がいた。今年始めに、パットがビルとその子供のリンダをつれて遊びに来ることになった。その前の日にパットから電話がきて、昔の恋人サムの子のサリーもつれて行っていいのかと聞いてきた。サリーとは4年前、まだ彼女が4歳のときに会ってきりだ。もちろんいいといって翌日皆でやってきた。話しを聞くと、サリーの父のサムはサリーの面倒をよくみないので、サリーはアルコール中毒の母親のもとにひきとられた。そしてその母の子供達(サリーにとっては腹違いの兄と姉にあたる)に面倒をみてもらっているという。そのため人のいいパットはサリーと3年ほど一緒に暮らしたこともあり、サリーの母親の許可を得て1〜2週間に一回、家から連れ出して面倒を見てやっているんだという。そしてサリーは今のパートナーの子供のミシェルとも仲良くやっているということだ。何とも複雑な人間関係に驚くしかなかった。結局はそれぞれの子供達が幸せに育ってくれれば周りがどうこう言う問題ではないが、一体子供達は何を考え何を感じているのあろうと思わずにいられなかった。





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