シドニー雑記帳
「都会」について
そんなわけでオーストラリアでノンビリやっていますと、日本にいた頃よく抱いた感覚から遠ざかって久しくなるわけです。普段は「遠ざかってるなあ」とすらも思わないのですが、ふとしたことでそれを感じることがあります。例えば、その昔良く聴いていたCDなんぞをかけてみたとき。
「ああ、そういえば、こんな感じだったなあ」と懐かしく思うのは、例えば、都会独特なデジタルで透明な感じ。こっちもCBDとか行けば、日本以上に摩天楼がそびえているのですけど、どうも違う。なんかアナログなんですね。なんでなんかなあ。やっぱり昔ながらの古い建物が沢山残っているせいかもしれないし、細かな造りがどことなく大雑把なせいかもしれません。製図板の上に描かれた鋭角的な直線がそのまま巨大な空間に起き上がってるかのような「都会」というには、なんかとっちらかってるというか、ざわついているというか、良く言えば「風情」がありすぎるのですね。ピチッとしてない。
都会的な透明さ、デジタルさというのは、言葉を換えれば、非人間的とも言えます。僕は大阪の環状線の内側に職場も家もありましたので、梅田界隈の第三ビルとか、京橋のOBPとか、そこらへんの高層ビルは毎日のように見ていたわけです。で、毎晩のように飲み歩いていたわけで、深夜に梅新東の交差点あたり(関西以外の人にはわからんだろうけど)で、歩道橋から三ビルなんぞを見上げると、ビルのイルミネーションとかが奇麗に映ったりするわけです。あるいは、よく最終の新幹線で新大阪着いてからタクシーに乗ってましたが、タクシーの車窓から映る梅田界隈のネオンとか。
日本の都会というのは、なんというかすごい人工的なわけです。「これ、全部人間が作りました」というか、どこを見ても「必要あって、機能を求めて、こうしました」と一から十まで説明できちゃう感じ。
ところが、シドニーの場合、なんかそこらへんが徹底してなくてですね、すぐに木々が鬱蒼としている芝生の公園があってみたり、そこにポッサム(リスとムササビのアイノコのような小動物)が生息していてみたり、美しい海と港があってみたり、100年前からの煉瓦造りの建物をそのまま使ってみたりとか、どっかしら「のほほん」としてたりするわけです。地域的にも全然狭いし。なんとなく「都会!」と呼ぶには躊躇われるものがあります。ここらへん、ビルとか人口とか結構ある割には、いまひとつデジタル的な「都会」として認知されない京都あたりと事情は似てるのかもしれない。
周囲全部人工的だと、何となくテンションが高まるものがあります。息が詰まるとも言いますが、自然のものなど全然なくて(街路樹もデザインされてたりするし)、アーティフィシャル(人工的)なものばっか。自然の安らぎなんか殆どない。淀川見ても、全部コンクリで固めているし。「○○横丁」みたいな裏町もありますけど、あれも「デジタル的透明さ」はないかもしれんけど、「自然か?」と言われれば違うし。そういう都会の風景に周囲を囲まれていると、人間、なんとなくテンパってくるものがありますね。ちょっと気持ち戦闘態勢というか、盛り上がってくるものがあります。アドレナリン小さじ2杯。
「それが嫌で嫌でたまらん、自然がいいわあ」という人もいますが、僕は案外その人工的な感じが満更嫌いでもないのですね。オーストラリアに来たのも、別に自然を求めてコンクリートジャングル(英語でもそう言うらしい)からエスケープしてきたわけではないです。そら、自然は好きですが(嫌いな人なんかおらんでしょう)、それが主目的ではない。色んな所に住みましたが、根は都会っ子なのでしょう、都会の、あの冷たい、人工的でデジタルな雰囲気が、それはそれで一種透明な美しさと居心地の良さを感じてしまうタチなのでしょう。その感覚、ここ2年ほど忘れてます。
また、そういった人工的な背景だからこそ、人の息づかいみたいなものが却ってリアルになるという部分も好きなところです。自然と人間が調和しちゃってると、なんか一幅の絵みたいになって、その人の生々しい感じが逆になくなってしまいそう。「雄大な四万十川に釣糸を垂れる一人の釣人」というと、なるほど「絵になる」のですが、その釣人の人間的個性はもう殺されちゃう。本当は今日一日ボーズでムカついてるのかもしれないし、はたまた殺人を犯した後アリバイ工作として釣糸を垂れているだけかもしれないけど、そこらへんの個人的事情は全部無視。「自然と人間の調和」ということで、匿名的な「人間」にされちゃう。人物にリアリティがないのですね。
音楽でいえば、その昔はやったドリカムの「決戦は金曜日」という曲がありますが、あれなんか、都会の中の息遣いがよく出てるように思います。「ふくれた地下鉄が核心に乗り込む」「近づいてく、押し出される」とかね。歌詞には書いてないけど、あの地下鉄独特の金属的な空気やら、ムッとする人いきれとか、甦ってくるような気がします。
その対極にあるような牧歌的な歌、なんでもいいですけど、「おお牧場は緑」でもいいですけど、そこらへんの曲聞いても、あんまりリアルな人間の息吹が感じられないのですね。いや、ほんとうはこっちの方がリラックスしていて、のびのびした人間本来の姿なのだろうとは思うのだけど、逆になんか抽象的な気がする。決戦は金曜日の方が、毛穴まで見えるようなリアリティを感じます。
これはもう、それまでどのような環境で過ごしてきたかという、個人的な体験によって変わってくるのでしょうが、僕には、日本のあの非人間的な都会の方により強く人間臭さを感じてしまいます。なんだかんだ言って、あの雰囲気、好きなんでしょうね、自分は。川なんかもキレイすぎると何か落着かなくて、ゴミとか浮かんでいてくれた方がどことなくリラックス出来るというか。
シドニーを訪れる方に、「いいところですよ、緑が沢山ありますよ、海も山もありますよ」とは言うものの、じゃあ自分は野山を駆け回って遊んでるのかというと、別に。いや、週に少なくとも一度は、山なり海なり牧場なりを目にしますから、それでストレスが溜まらない、いい気分になってるというのは確かにあります。この、だだっ広い感覚は大好きでもあります。だから、要するに僕は贅沢抜かしてるわけなんですが、その自然部分が満たされて日々のんびりしてると、今度は、ちょっと張り詰めた都会的な感じが時として懐かしくなります。
考えてみると西欧系の都会と東洋系の都会というのは、違うのかもしれませんね。西洋系のは、ロンドンにせよ、パリにせよ、ニューヨークにせよ、(行ったことないのですけど)古い煉瓦造りの建物とかがどっさり残ってたりして、あんまりデジタル的ではない。観光地としても十分使えて、事実観光地になってる。
でもアジア系の都会は、過去の伝統的なスタイルを思いっきり断ち切って、ドワワと開発して作ってるから、絵に描いたような空中都市的な、マンガのAKIRAに出てくるネオ東京のような、街全体が一個のコンピューターのような、そういった都会になりがちのような気がします。アメリカでもロスアンゼルスなんかはそんな感じなのでしょうか。
オーストラリアも基本は西欧系ですので、ときとして、アジア的、東京大阪的な、SFのような都会の感覚を、「そういえば、そんなんあったなあ」と懐かしく思い出したりします。
ただそのことと、治安がどうとかいう都会的な「怖さ」「猥雑さ」はあまり関係ないでしょう。古い町並みが続いているからといって、「だから安全」というもんでは全然ない。全ての人が匿名的な都会だからこそ生息可能な、わけわからん人とか都会には沢山おりますので、どうしたって映画ブレードランナー的になっていってしまう部分はあると思います。デジタルだアナログだとかいうのは、都会を特徴づける重要なポイントでも何でもなくて、単に「なんとなくの雰囲気」レベルの話であります。
そうそう治安面でいえば、治安は悪くなってるそうです、統計上では。ただ、この統計上というのがクセモノで、「人々が積極的に警察に届けるようになったから」「警察の届出処理の電算システムがさらにアップグレードしたから」とかそういったうがった見方もあったりするようです。それでも、まあ、悪くなってるんじゃないでしょうか。殺人とかは減ってるようなのですが、ひったくりとかドロボウとかは増えてるのでしょう。個人的な実感は全然ないのですけど、世界的な趨勢としては下がるよりは上がるでしょうから。
シドニー市内で言えば、周知のキングスクロス辺りとか、そこから南下してのダーリングハースト、テイラースクエアあたりまで、あるいはジョージストリートのチャイナタウンとタウンホールの間の映画館が立ち並んでる付近とか、いろいろな事が新聞などには書かれているわけです。こんなの別に必死に覚えなくても、要するに「繁華街」とくに若者が多く集まる繁華街ということで、通行量が増えれば犯罪数も増えるだけというか、ある意味当たり前ともいえます。東京で言えば、「田園調布や成城よりも新宿、渋谷の方が犯罪発生率が高い(ほんとかどうか知りませんけど)」と言われても、「ああ、まあ、そうだろうね」という程度でしょ。そんな感じと違うかなという気もしますね。
そういえば、こないだ地元の新聞の報道がもとで、カジノに巣食う韓国系ヤクザのことが話題(&政治課題)になってます。要はローン・シャーク(高利貸、取り立て)でして、シドニーのカジノに通う韓国系の客で、のめりこんで首が廻らなくなった人に高利で貸し付け、ビシバシ取りたてるという。韓国系暴力団は、シドニーに4勢力くらいいるらしく、キングスクロスを根城にするやつ、カジノを根城にする一家、テイラースクエアあたり、そしてノースシドニーあたりが本拠地になってるそうです。言われないと(言われても)、「そんなん、おるかあ?」と全然ピンとこないのですが、そうらしいです。
もっとも論議の的は、「カジノ運営はこれでいいのか」論でして、地元の警察あたりはカジノに巣食ってる連中がいるというのは周知のことでありながらも、肝心のカジノ主催者の方は「初耳だ」とか言ってることから、「しらばっくれてるんじゃないのか」「いい加減すぎるぞ」という批判が寄せられ、今後どうしたらいいのかということで論議になってるわけです。挙句、州政府は「ちゃんと入国管理をしてない連邦政府の手落ちだ」といい、連邦側は「こっちはちゃんとやってるわい。でも警察側から最新情報を提供してこなきゃチェックできるわけないだろ」と言い返し、と、お定まりの責任のなすりあいをやってたりします。
まあ、黒い社会は韓国に限らずどこの国にもあります。香港系、ベトナム系、いろいろ。日本系は、皆さんリッチなのかオーストラリアくんだりまで来て街頭でチマチマ稼ぐよりは、国内で不良債権絡みの「地下げ屋」とか総会屋やったりとか、もっと大きくやってるのでしょう。
そういうプロ系の話は置いておいて、一般人の犯罪でいうと、こちらではまだ「おやじ狩り」なんてのは聞いたことないですね。でも、先々週だっけな、「ナイキのレアタイプのエアマックスを買った少年が、暴漢に襲われて靴を奪われた」という事件がありました。確か日本でも1年前?もっと前?そういう事件がありましたよね。インターネットで読んだだけですが。そこらへんは、どうも日本の方が「進んで」いて、シドニーは追いかける格好になってるような気がします。
殺伐とした治安話になってしまいました。こういう話をしてると、都会なんか全然良くないような感じになってきますね。まあ、それはそうですね。
ほんでも田舎がいいか?というと、地方に住んでみて「善良な村人」に囲まれればいいだろうけど、「頑迷な村人」に囲まれてたらツライものがあるだろうなあと。特に、誰もが誰もを知っているようなところで、いま一つ上手く溶け込めなくて、その挙句、アジア人だからとか、ちょっと変な奴だからとかいって、薄っすらと村八分されちゃうなんてのも、かなりツライものがありそうですね。
住んでる地域に「わけ分かんない奴」がウロウロしてるのも良くないかもしれないけど、全員「わけ分かってる」というのも息苦しいかなと。程度の問題ではありますが、どっちか一つを取れと言われたら、まだ、前者の方が対処しやすいかなと僕は思います。人ぞれぞれでしょうけど。
(1997年8月4日:田村)
★→シドニー雑記帳のトップに戻る
★→APLaCのトップに戻る