シドニー雑記帳



社内報




     今更ながらナンですが、日本では、神戸の小学生殺人事件、「酒鬼薔薇聖斗」がどうたらこうたらという話題でもちきりになってるそうですね。いや、こっちでも報道されましたし、僕個人もインターネットで新聞見たりしますから、知ってはいます。しかし、最近日本から来られた方々の話を聞いていると、日本国内での雰囲気と、単に「知っている」だけの僕らとは、随分とまた「温度差」があるように感じます。

     正直言って、僕個人としては、「ふーん」で終りで、そんな言うほどショックも受けないし、14歳と聞いても特にどうという感想もないです。これが例えば68歳の、退職して悠々自適で、近所でも「やさしいオジサン」で通ってる人の犯行だったとした方が、もっとショックを受けたでしょうね、多分。もともと多感で不安定な思春期の少年が、思い詰め、取り付かれ、アッチの世界に行ったとしても、それはそれでまあ「ありうるかな」と思ったりもします。まあ、これは事件慣れしてる職業柄からなのかもしれないし(報道されないけど、もっと悲惨な事件って結構あるようですし)、個人的に子供に対して特別な想いもないからなのでしょうけど(子供は大人よりも相対的に清らかであるとは全然思わないし、自分よりもピュアじゃないガキなんか掃いて捨てるほどいると思うし)。

     ところで、これらの感想は「報道されてることが客観的に真実だとしたら」の仮定で言ってます。ほんとに彼の犯行なのかどうかは、留保しておきます。自白してるっていっても、自白してるとここの目で見たわけじゃないもんね。




     事件のことは、しかるべきプロ達が、粛々とやっていかれるでしょうから、数年経過した頃に、纏めて精密な文献でも読めばいいわと思います。あの宮崎事件も、そろそろ資料も揃って(デマも淘汰されて)る頃だろうから、真剣に考えてもいい時期かなと思います。オウムはまだ早いかな?と。事件直後しばらくは、驚くほどガセネタだらけですし。自分が取り扱った事件などの経験でも、雑誌を見ては「よくまあこんな嘘八百」と思ったもんですし(身近でそういうことが起きた人なら御存知でしょうけど)、だから今時点で考えたって、殆ど時間の無駄だと思う。

     こちらでもニュースになってると言いましたが、連日やってるわけではないです。それどころか、「チラッと載った」程度ね。それも「最近の日本社会はこうです」という現地リポートみたいなノリで、事件そのものよりも、それに対する日本社会のリアクションが話題の対象になっているという感じ。そりゃそうでしょ。同じ国際面のページで、イスラエルでテロがあったり、カンボジアでクーデターがあったりしてる中に並ぶのだから、印象としては「平和な国だな、日本って」という感じですね。オージーでこの事件を知ってる人、100人に1人もいないんじゃないかな。だって、インドで同じ事件があったとして、日本の人、どのくらい注目しますか?100人に一人も知らんでしょ、多分。

     僕の感覚も、事件そのものよりも、事件に対する日本のリアクションの方に興味あります。「興味」というより、ワイドショー的なものに感じる「うざったさ」なんだけど。



     最近、ふと日本の雑誌(週刊文春とかフォーカスとかそこらへんのもの)をパラパラとめくって見たのですが、そこでも似たような感覚に襲われてしまいました。なんちゅーか、この、「接点がないっ!」って感じ。同じ瞬間に、同じ星に住んでるというリアリティがあんまり感じられないのですね。「どこの世界の話じゃい」という、極端な話、異次元空間みたい。

     知らんうちに、自分のなかでは日本は「外国」になってしまったのかもしれないのですけど、それだけでもないでしょう。日本のマスコミによって表現されているところの、日本社会のコモンセンスというか雰囲気というのは、全然知らない会社の社内報を読んだときの感じに似てます。そりゃ、その閉ざされた社会においては大問題なんかもしれないけど、一歩外に出ればそよ風一つ吹きゃしないような話題で目白押しだったりするわけで、それが居心地悪いし、また、それを全員が当然のごとく知ってて、皆が熱狂してるというのもなんかキモチ悪い。新興興宗の集会にまぎれこんでしまったときの感覚というか、「おい、大丈夫か?」と思わず言いたくなるというか。

     いや、こういったことはどんなコミュニティにもあるわけです。客観的には最下位争いで、大局的には「どっちでもいい」ような状況でありながらも、勝てば「猛打爆発!」、負ければ「惜敗!!」と、いちいち最大活字で阪神タイガースを報じる大阪のスポーツ新聞とかね。価値観/世界観に強力な磁場の歪みがあったりしても、それはそれで不思議じゃないです。

     でも、その場合、本人達はそれが強烈な主観世界での話であることを知ってるじゃないですか。意識的にせよ、無意識的にせよ、自分等でもそれがある種の「天動説」であることは、分かってると思うのですね。「野球に興味のない人にはどっちでもいいことかもしれんけど」と踏まえた上で熱狂してる分には、不安定な感じはしません。まず大きな世界があって、そのほんの一部に自分らが居るという位置関係を把握してるからでしょう。どんな熱狂的な虎キチでも、監督やコーチの去就問題を国会や国連で取り上げろとは言わないでしょう。

     この「ハタから見れば、どっちゃでもエエことなんだけど」というクールな認識がどっかにあるうちはいいのですが、それが無くなってしまうとツライ。全天候型ドームの天蓋がすーっと閉まって、空が見えなくなり、場は閉ざされ、一気に息苦しくなってしまうという。この息苦しさ、スティッフィな感じ、それを感じるわけです。




     なにがそんなに息苦しいのかなとさらに思うに、「全員これを知っていて当然」という最低限の暗黙の前提が多すぎるというか、「これを知らなきゃ日本人じゃない」みたいな、知らないと「げー、こんなことも知らないの?」と異星人扱いされてしまうという雰囲気。これはハッキリ言ってthreatですね。脅迫的な雰囲気です。構成員として認めてもらえないのだから。

     そりゃ、社会の構成員である以上、いやでも知ってること、当然知ってる事項はあるでしょう。「日本に東京と呼ばれる街があること」「新幹線という名の列車が走ってること」とかね。でも、事柄は異様なデテールまで及び、ちょっとひいて考えたら、「そんなんどうだってええやん」というような下らな〜いことまで、「知ってないと変!」と言われちゃうというのは大変ですよね。キャッチアップしてるだけで精力使い果たすわ。

     ええやん、そんなん知らんかて。神戸に地震があったことを知らん奴がおったって、10年くらい経ってから「ほ、そんなことがあったんか」というような奴がおった方が面白いやん?と思うのですけどね。たまごっちでも、「なにそれ?」「こんなん、なにが面白いの?」と言う奴もっとおったらええのに(僕も、聞くだに「げ〜、詰まんなそう」「メンドくさそう」としか思えんけど)。

     でも、そういう人物というは、社会の中に一定数必要だと思うのですね。そいつが、「それって、何がすごいの?」とクールにツッコミを入れてくれるから、醒めるものも出てくるわけで、それがないと全員で際限のないボケ合戦になってしまうように思うわけです。戦時中だって、「あんな竹槍でB29が墜ちるわけないやん?アンタ正気か?」とツッコミ入れてくれる人が、日本に3割くらいおったら事態もまた違っていたろうなと思ったりもするわけです。

     それをまた、どいつもこいつも似たような量と、同じような質の情報を共有してるもんだと頭から決めこんで、そこから話が始まっていくから、鬱陶しいわけです。最近の流行物とか見てても、なんか痛々しいのですね。心から楽しくてそれやってる奴が増えたから流行るというよりも、最初に「流行」ありきで、キャッチアップするために「やらねばならない」という感じで、入社試験に時事問題が出るから一生懸命勉強してるというか、楽しそうじゃないもん。流行というのはそういうものだというのかもしれないけど、昔の方がもうちょい楽しんでやってたような気がするのですが。つまり、「流行についていけない罪と罰」というのがあったとすると、前よりもそれが重くなってるような気がする。しません?

     僕らは、日本国外に住んでるから、そんなん知らんでもいいという「免罪符」がありますから気楽なもんだけど、知らんことにイチイチ「日本に居なかったから」みたいな「釈明と納得の手続」を経なきゃいけないというのが、何か鬱陶しくはないか?と思うわけです。考えて見りゃ、そんなガキの流行なんかどーだっていいじゃねーかと思うのですが、これがまた「知らないと年寄り扱いされる」「遅れてると馬鹿にされる」みたいな雰囲気があったりして。でもね、大体、日本の流行を知らなくて「遅れてる」奴というのは、この星に54億人くらいいるんですよね。



     子供社会で何かが爆発的に流行するのは分かります。だってあいつら世界狭いもん。彼らにとっては、クラスその他の友達が「世界の全て」だから、「アメリカに原爆が落ちて全員死んだ」という出来事よりも、「皆の話についていけない」方が遥かに一大事だったりするのは分かる。だから、イニシエより月曜の朝には「先週のドリフ見た?」と熱く語ったりするわけなんだろうけど、これが成長していくにつれ、「なにそれ?」「知らないよ、そんなの」という奴が周囲に増えてきて、自分の主観は世界にそのまま通用するわけではないことを知り、いわゆる「世界が広がる」わけだし、「大人になる」のだと思うのですね。

     日本のマスコミで語られている(というか暗黙に強制されている)、日本社会のコモンセンスなり雰囲気というのは、なんかクラスのゴシップ的というか、開き切ってないなあと思うわけですね。嘘だと思ったら、そこらへんの雑誌の記事、英訳してそのまま世界に流してそこそこ通用記事ってどのくらいあるか勘定してみたらいいでしょう。どれもこれも、その記事の意味を理解するには膨大な前提知識を要求されるようなものが多くないですか?あるいは、日本のこと全然知らない他国の人と、2〜3日一緒に過ごすとして、どんな話題を提供できるか考えてみたらすぐ分かると思います。

     そんなことはどの国、どの社会にもあります。オーストラリアにもある。で、そのままではオーストラリアでしか通用しない記事というのは、これはすぐに判別つきます。「ガイジン」たる自分には前提知識がありませんから、読んでもさっぱりわからないからですね。「あの○○が〜」とか言われても、全然分からん、知らん。でも、そのまま右から左に流しても、まあまあ通用する記事も結構ありますね。記事の中に、最低限の説明をしているものが多いからです。つまり、「読者は当然知ってるだろう」という前提が、それほど高めに設定されてないんじゃないかな。これ、バリバリの土着系になるほどに前提が高くなっていく。読者がローカルかマニアばっかりだから、そうなるのでしょう。だからその会社の社内報とか読むと、「○○支店閉鎖問題がどうした」とか全然意味が分からなかったり、「○○さんに二世誕生」みたいに「そんなん、どうでもええわい」という記事ばかりになってしまうのでしょう。




     というわけで、久々に日本の雑誌などを読むと、ぜーーーーーんぜん面白くなかったりするわけです。もう社内報状態。「それがどうした?」の嵐ですね。こんなもん、どうして皆さん金出して買うの?金余ってんの?という感じ。

     そのなかでも面白いのは、読者が知識ゼロであることを前提に書かれた記事です。「○○村では、○○という新しい試みに取り組んでる人達がいます」とか、そんなの。これは、もの凄いローカルなようで、実は開かれてます。世界のどの人が読んでも、そこそこ面白いと思う。例えばオーストラリアの田舎の小学校で、アフリカ文化を伝えるためにボランティアで頑張ってる若者がいるという記事と、シドニーの人気キャスターが局とトラブってどうしたこうしたという記事とでは、前者の方が開かれているし、面白いと思うのです。

     これは知識ゼロを前提に書かれている「から」面白い、理解しやすいだけではないと思います。知識ゼロの人でも面白い、なにがしかの感銘を受けるだけの「内容」があるから面白いのでしょう。前提知識のうえに書かれた記事というのは、その裸の事実だけを取り上げれば、実は出来事して全然面白くないものが多い。逆に言えば、前提知識が多ければ多いほど些細なことが面白く思える。例えば、クラスでも「○○さん、また遅刻!新記録達成」みたいなことでも十分ニュースとして楽しめる。が、よく考えたら「どっかの学校で遅刻がちの生徒がいる」というだけの話で、「それがどうした」てなもんでしょう。



     日本の一般雑誌を読むと、一応2年ブランクはありながらも意味が分からないということはないです。ほぼ理解できる。理解できた上で思うのですが、(しつこいですけど)「何でこんなに詰まらんの?」と。これ、単に前提情報だけじゃなくて、日本に住んでて、その話題を共有出来る人と話をするという「環境」も揃ってないと、面白くないんだろうなあと思います。でも、それがないと、「ねえ、ほら、分かるじゃないですか」「アナタはこれが知りたいんでしょ」という妙になれなれしい、生あったかい連帯意識を押し付けられてるようで、気色悪い部分もあったりして、単に詰まらないだけじゃなくて、ちょっぴり不愉快ですらあります。前の人の体温が残って、あったか〜い便座に座ってしまったような感じ。

     そこで思うのですが、その話を全然知らない他国の人に囲まれて、今後おそらくその話題で語り合う機会は限りなくゼロという環境にあなたが置かれていると仮定して、それでも神戸の殺人事件、朝から晩まで内容を知らせて欲しいですか?僕はノーサンキューですけど。結局のところ、「情報」が欲しいというより、「話題」が欲しいだけではないんか?と。ほんでもって、日本のマスコミ世界というのは、「その話題を共有できる環境がある」ということを大前提にして、全てが動いているような気がするんですけど、違うのかな。


(1997年8月19日:田村)


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