シドニー雑記帳

どこも同じ



     アメリカで生じている社会現象が一定のタイムラグをおいて日本でも生じる−−という話は、一般によく耳にします。勿論、社会構造も文化的土壌も違うので、全てがストレートにそうなるものではないのでしょう。でも、離婚率の上昇やら、社会の二極分化などを見てると、当たってるような気がします。

     戦後世界の状況というのは、国は違えどある程度は似たようなものとも言えます。大戦後に出生率が増加して、戦後生まれのベビーブーマーズという世代が存在しているのは、アメリカも日本(団塊の世代)も、オーストラリアも事情は同じですし、彼らが社会の中枢に入るにしたがって世の中もそれなりに変わっていくというあたりの事情も似ています。まあ、原因というか状況や環境が似ているなら、似ている限度で変化や結果も似てくるのは当たり前とも言えます。同じ種を撒けば、土壌や日光の違いはあれども、基本的には同じ花が咲くだろうということでしょうか。




     もっとも、世界各地で似たような状況になっているのは、何も戦後はじめて生じているわけでもない。ベーシックな部分では、人間(ないし動物)には人間の基本フォーマットみたいなものがあるので、地域民族文化の差はありつつも、大きな部分では同じといえる。

     基本フォーマットというのは、例えば、「一日に一定量のカロリーを摂取しないと死ぬ」とか、「眠くなる」とか、「ツライのはイヤだ」とか、「SEXしたい」とか、「美しいのがいい」とか、「おいしい方がいい」とか、「威張ると気持ちいいが、威張られると不快だ」とか、「同じことっばっかりやってると退屈になる」とか、そういうレベルの話です。ここらへんが同じだから、3000年前に地球の裏側で起きた出来事でも理解できたり共感できたりするのでしょう。また、他民族の開発したモノでも、時空を超えて広がっていったりもする(麻薬、資本主義、コカコーラ、たまごっちなどなど)。

     「海外に住むと誰でも愛国者になる」とか、「人種民族の違いに敏感になる」とか言います。それは一面真実だと思うのですが、その逆もあろうかと思います。つまり、「国家なんかどうでも良くなる」「人種民族の違いにこだわらなくなる」という変化もまた生じてくると思うのですね。他民族の人を見て「うわあ、違うなあ」と強烈に意識する機会も沢山ある のと同時に、「なんだ、俺らと同じじゃん」と思う機会もた〜くさんあるからです。

     そんな体験をミックスジュースのように混ぜていくなかで、人によっては「全然違う」と差異に着目しがちの人と、「結局同じ」と類似性に着目する人とに分かれていくような気がします。で、僕はどっちかと言えば後者。「なんでこんなに同じなんだろ」と思ってるうちに、「まあベーシックな部分が同じなら互換性があっても不思議じゃないわな」という具合に思うようにもなってきました。




     「ここが同じ」という部分を挙げていけば、そりゃもう枚挙にイトマがありません。「エレベーターに乗ると、何となく押し黙ってしまい、心持ち上の方を見てしまう」なんてのは結構誰でもそうなるみたいだし。

     これはもう見方一つという気もしますね。そりゃ、「誰だってゴハンを食べる」というところまでイチイチ「同じだあ」と数えていけば同じところばっかりになって当然だということになるでしょうし、違いを強調する人にとっては「そんなレベルの話をしてるのではない」と言うでしょう。みんな等しくゴハンを食べるのは当然として、そのゴハンの内容なり、食べ方なりに文化や習俗の違いが出てくるのだと言うでしょう。そんでも、僕は、「内容」「食べかた」とかいっても、美味しいものとマズイものの区別があり、普段は食べない「御馳走」という概念があったり、王様とか一番権力のある奴が一番美味しいものを食べてる状況とか、食べるのが早い奴と遅い奴とがあり、食べ方にそれなりのマナーがあるという部分では同じじゃないかと思ったりもするのです。

     そりゃ「中国では、客はゴハンを残すのが礼儀」とかいろいろ差異はあるのでしょうけど、その程度の差異だったら、同じ民族内での昔と今との差異の方がデカくはないか?とも思うのですね。その昔お母さんが早起きしてマナ板トントン叩いていた頃の食事と、電子レンジでチンしたり、コンビニの惣菜で間に合わせたりする昨今の食事風景の違いはもっとデカいんじゃなかろか、とかね。




     そう思って見回していると、突き詰めていけば「原理」は同じだということ、あるいは20世紀後半から21世紀に向けての展望/状況が同じだというようなことは、ほんと沢山あります。とりわけ、OECD諸国、いわゆる先進国と(自分達だけで)呼んでる国々においては、ここんところの変化というのは、非常によく似ている。もちろんお国柄によってバリエーションはあるけれど、それは日当たりのいい所とジメジメした所とではタンポポの咲き方も違うという程度のことで、「春になるとタンポポが咲く」という大元の部分では同じだろうと感じます。

     そのなかから幾つか考えてみたいのですが、これやりだすと収集がつかなくなりそうなので(現に一遍収集がつかなくなってボツにしたりした)、思い付いたままポンポンと挙げていきます。

     とりあえず思い付いたところで、「男女平等」なんてあたりから考えてみたいと思います。

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(1997年8月25日:田村)

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