シドニー雑記帳

私的な近況

〜 燃え尽き症候群、手術、就職活動 〜






     今年も残すところ2ヵ月となりました。早いですねー。なぁんにもしないうちにどんどん時間が過ぎていきますねー。本当に今年はなんにもしなかったなあ。・・というと、相棒に「何言ってんだよー、正月日本で過ごして、2月に引越すやいなや、2週間ニュージーランドに行って、4月に結婚して、6月に妊娠して、7月に流産して、8月から6週間世界旅行して、帰国するや入院して、どこが何もないんだよー」と言われるのですが。でも、当人の感覚としてはこの1年ほど「自発的な展開のない停滞状況」なのであって、なんかエネルギーが湧き出て来ないというか、要するにパッとしないわけです。特に、世界旅行から帰ってきてからですか、「ああ、人生終った」みたいな感覚に襲われたりする。

     別に幸せって言えば幸せなんかもしれないけど、厳しい見方をすれば「4年前にオーストラリアくんだりまでやって来ちゃった勢いの惰性で過ごしているだけ」という気もしなくもない。一種の燃え尽き症候群なんでしょう。オーストラリアに来ちゃうこと自体が「イベント」でしたから、すべてが日常化してしまった今となっては4年前に味わったような興奮や新鮮味は、もうない。とにかく海を渡って、新しい環境で生活するというプロジェクトは、3〜4年経過したあたりで徐々に終結していったのかな、という気がします。

     上記に挙げた出来事も、自分で選択してやってるというよりは、外から圧されてそうなるべくしてなってる、そういう「流れ」に乗っているだけ、という気もします。そろそろ、「自発的な展開」の時期が近づいているような気もするし、このまま流れていくだけという気もするし。まあ、こんな呑気なこと言ってられるのも、庭の緑を眺めながら昼間からぼーっとしていてられるという恵まれた環境にあるからであって、「やっぱり来てよかった」ことには変りないんですけどね。今までは単なる「前座」で、ここから先が「本番」で、今は本番前の「トイレ休憩」の時期なのかもしれません。しっかり休憩しておこう。





     抽象的な話はさておき、ところで、そうなんです、手術したんです。といっても、大したことはなくて卵巣に出来ていた腫瘍を切ってあげただけのことなんですが。この腫瘍は4年前、渡豪する直前に発見されて、一時はガンか?とも疑われ、「うわー、オーストラリアに行く前に急病死なんてカッコイイ!」とか赤いシリーズの百恵ちゃん気分で盛り上がっていたのですが、なんのことはない、単なるオデキのようなもんでした。「摘出しても再発するかもしれないし、場合によっては自然に消えてなくなっちゃうこともありますから、様子を見ましょう」というお医者さんの判断のもと、今まで放置していたのですが、今回の旅から帰国して直後に超音波で再検診したところ、結構限界までデカくなっていて、卵巣そのものまで押し広げる恰好になってました。

     早速手術ということになり、今回はプライベート保険も効くので私立病院で手術入院することにしました。公立病院だと順番待ちしなければならないのですが、切るって決めたらさっさと切ってしまいたいのがやっぱり人情ですね。自己負担金額が大したことないなら「もう私立でいいっす、なんでもいいから早く切ってちょうだい」という気分になりました。

     手術は掛かりつけの産婦人科を訪問してから2週間後に決定。その場で手術方法などを説明され、同意書(コンセント)にサインしました。いわく、「下腹部を5センチほどメスで切って、右の卵巣に出来た腫瘍を取り出す。もしかしたら卵巣まるごと取り出すことになるかもしれないが、万一そうなっても左の卵巣が右の分まで働いてくれるから、今までどおり毎月生理は来るし、妊娠も出来る。手術は1時間ほどの予定で、おそらく3〜4日入院することになるだろう。」
     そして、「この手の卵巣腫瘍はヘンテコリンなもので、中に髪の毛とか時には歯まで見つかることがあるんですよ」と、この先生、嬉しそうに話してました。

     お医者さんから「このフォームに必要事項を記入して病院に送っておいてね」と同意書にくっついた紙切れを貰いました。連絡先とか既往症について等記入させられるのですが、同時に「部屋は個室がいいか、相部屋がいいか」とか「新聞配達を希望するか」とか患者側の希望を記入する欄もありました。プライベート保険で個室滞在費までカバー出来るそうなので(定価450ドル/泊のところ50ドルになる)、贅沢にシングルルームを選択しました。

     実は今まで入院って一度もしたことないもので(前回の流産の時が初めての手術。だけど日帰りだった)、結構楽しみでした。日本では病院食というと「まずいメシ」の代表みたいに言われてますが、こっちの病院食は結構おいしいと聞いていましたし、私立病院のサービスには定評があるようなんですね。「なにか間違いがあってこのまま死んじゃったらどうしよ」という不安もあることはあるのですが、新しい体験をするという「わくわく感」も同居してました。

     当日の朝10時に病院にチェックイン。この8月にオープンしたばかりの新しい私立病院で、玄関なんかほとんど高級ホテル並の豪華さであります。まずはお部屋に案内されましたが、これまたホテルみたいなお部屋。ベッドが可動式の病人用であること、バスルームがやたら広いことを除けば、高級ホテルと遜色ない。すると、看護婦さんらしき人が部屋に入ってきて、血圧等計測したり、手術前の準備について説明をしてくれます(特別の殺菌用スポンジで身体を洗っておくこと、手術用の服に着替えること等)。執刀医は1時から手術を始め、私はなんと4番目の患者なので、手術開始は午後4時過ぎになるとのこと。なんだよー、朝10時に呼んでおいて。とはいえ、どうせ入院中は暇なものなんだから、持参してきた本でも読んで時間潰すしかない。

     仕方がないので、ベッドでゴロゴロしてました。折角だから気持ちよく昼寝しようと思ったけど、入れ替わり立ち替わりいろんな人々がやってくるんで寝てられない。「はろー、下の薬局の者ですけど、常備薬持ってきてるかなぁ?」「コーヒー、紅茶いかがですかぁ?(手術前で断食中なんですけど)」「私が今日、手術室までお連れしますからね、時間はちょっと押してるから4時半くらいになるかな」「ちわー、新聞、ここ置いときますよー」「本日の麻酔担当医です。手術室に行く前に錠剤飲んでおきますか?」・・・とまあ、実にせわしない。ちなみに、これ手術前だけじゃなくて、手術後の入院中もずっとこの調子でありました。

     はい、いよいよ時間となりました。可動式のベッドに載せられて手術室へと向います。あれ、イイですね。ベッドに寝転がりながら人が運んでくれるの。なんか「患者さん」になった気分で、ちょっと嬉しかったです。麻酔室に運ばれると点滴用の管を腕に付けられて、そのまましばらく待ってるんですが、手術室で前の手術してる様子が聞えてくるんです。ピッピッピという心拍モニターの音、ガシャッと金属製の道具を置く音、人が話してる声・・・。結構盛り上がりますね。

     で、前の手術の片付けが終ったところで、手術室にベッドごとゴロゴロと運ばれていくわけです。手術台の隣にベッドを添えたところで、自力で手術台に移動するんですね。麻酔師の人が麻酔を打ちながら「働いてるんですか?」「へえ、どんな仕事?」とか、世間話を持ち掛けるのですが、私の反応から麻酔のかかり具合を見ていたのでしょう。「えっと、インターネットを使って、オーストラリアの情報を集めて・・・」くらいのところで私の記憶は途切れております。

     意識が戻ったのは、回復室でした。目が醒めたと思ったら、すっげー痛かった。まず、喉がヒリヒリする。気持ち悪いなと口に手を充てたら、酸素マスクが付いている。気がついた看護婦さんがマスクを外してくれて、それから血圧とか体温とか測ってたみたい。うつろながら周囲を見回すと、広い部屋に数人の患者さんが寝てました。お腹のあたりがメチャクチャ痛いのですが、ちょっと動くと余計痛いからどこも触れない。「気分はどう?」と聞かれましたが、「うー、痛い」の一言しか出てこない。何度か血圧とか測定した後で、例によってベッドごと自分の部屋に移動させられました。行きは嬉しかったのに、帰りは痛いだけ。

     この晩は死ぬほど痛かったです。お腹から下に布やら管やらテープやらいろいろくっ付いてるみたいなのですが、なにがなんだか分からない。2時間置きくらいに看護婦さんが来て、血圧とか計りながら「どう、痛い?」と聞いてくれ、リクエストに応じて鎮痛剤の注射打ってくれたりするのですが、ちっとも痛みはおさまらず。ずっと「いたいよぉ(←日本語)」とうめいておりました。明け方になって、ようやく鎮痛剤が効いたのか、少し眠ったようでした。

     朝が来てみると、結構気分はフレッシュ。痛みも動かなければ大したこたないし、俄然食欲があります。早朝、執刀した先生が見舞いに来てくれました。「予定どおり腫瘍部分だけを切り取ることができたよ。全然問題ない。まずはジュースでも飲んでみて。気持ち悪くなるかもしれないから、まだ固形物は食べないように」と言われました。でも、朝食が運ばれてくると、メッチャおいしそうで、そういや前の日の早朝から何も食べてなかったんだよな、なんて思いながら、果物、卵、パンまで食べちゃいました。あとで看護婦さんに「気持ち悪くないの?」と聞かれましたが、いや全然。おいしかった。

     朝食が終った頃に看護婦さんがやってきて、「はい、おしっこの管取りますよ」「もう自分で飲めるから点滴もいらないわね」と、身体にくっ付いてた管の類を全部外してくれまして、「さあ、ベッドから降りてみよう」というわけです。手術12時間後ですよ。「え?そんな、こんな状態で起きちゃったり出来るわけ?」と疑いつつ、なんとか起き上がってみると、結構気持ちいい。「はい、歩いてみよう」おお、歩ける、歩ける。ちょっと痛いけど、ゆっくりなら歩けます。次は「はい、自分でトイレに行ってみよう」おお、おしっこだってちゃんと出来る。「いっぱい出たわね」と誉められて嬉しくなる。すると、今度は「自分でシャワー浴びてみよう」だって。えー、いきなりシャワーなんか浴びちゃっていいわけ? と思ったけど、やってみたら意外と気持ちイイんだな、これが。いや、本当に自分でも驚きました。夕べは今にも死にそうにうめいていたのに、翌朝になったらこんなに動けるなんて。

     オーストラリアの病院では患者さんを出来るだけ早くから自力で歩かせ、出来るだけ早く退院させるようにしている、という話は聞いたことがありました。私は日本の病院で入院した経験はないので比較は出来ませんが、「ああ、あれってこのこと言ってたわけね」と納得しました。もうこの日の午後には自力で病室を抜け出して、病院の外で煙草ふかしていたわけですが、そういう患者さんを沢山見掛けました。中には管を沢山腕から生やしながら、点滴ごと散歩している人がいたり、頭から沢山の線を生やしながら日光の下で読書している人がいたり。そして、看護婦さんは病室に来る度に「今日は歩き廻った?」と聞いてきます。
     ほとんど痛みがなくなった2日目に看護婦さんに「鎮痛剤いる?」と聞かれて、薬は出来るだけ飲まない方がいいと思い込んでいた私は「いい、そんなに痛くないから」と言ったのですが、「ダメよ、鎮痛剤飲まないでいたら。痛みは抑えて沢山動いた方がいいんだから」と勧められました。もうとにかく「動け、動け」攻撃で体力回復させようという発想なんですね。

     それから、特筆すべきは食事です。それはもう、おいしかったです。毎日翌日のメニュー表(右写真)が配られて、好きなメニューを選択出来るのも嬉しいところ。メニューもバラエティ豊かで、西洋料理からアジア・アラビア料理っぽいのまで、いろいろ。キンメダイのレモンクリームソースとか、スモークサーモンとほうれんそうとチーズのロールとか、普段自分の家で食べてる料理よりずっとおいしかったです。飲み物リストにもワインまであって、嬉しくなって赤ワインなんか頼んでしまったりして。なんでもこの病院ではプロのシェフを雇っているそうで、実に贅沢な食生活でした。

     暇な時間はビデオ観賞。家からビデオデッキを持ち込んで、「エヴァンゲリオン」をまた最初からおさらいしてしまったり。そう、持ち込みは基本的に何でもOKなのです。お気に入りの家具まで持ち込んで、自分の部屋にいるのと同じ環境にするという話も聞いたことあります。私はたった3日のことだから家具までは持ち込もうとは思わなかったけど(持ち込みたいほど立派な家具も持ってないし)、アロマの電気拡散器はしっかり持ち込んで、病室でアロマの香りを漂わせておりました。「あら、なんかいい香りするわね」と看護婦さんにもウケてました。

     そんなこんなで優雅な入院生活も、3日でおしまい。退院時には傷はまだ生々しいし、筋肉痛(手術中、出血を抑えようと上半身の筋肉が収縮することが原因)も残ってましたが、ゆっくりとなら動けるという程度でした。退院した翌日から近所を散歩したり、買い物に出たり、結構動いてます。本当に自分でも驚くほど刻一刻と回復しているのが判って面白いくらいです。





     お次はラース君(ウチのだんなさん)の就職活動のお話。私が病院で贅沢な入院生活を楽しんでいる頃、彼はせっせと新聞の求人欄をチェックし、履歴書をタイプしてはプリントアウトして郵送する、という地道な就職活動をしておりました。彼は電気エンジニアで、今でもアメリカとデンマークの会社とフリーランス契約結んで、インターネット通じて主にコンサルティングをしているのですが、経済的にはOKでも、やっぱり「一緒に働く同僚」「興味を同じくする仲間」が欲しいんだそうです。

     今まではデンマーク、アメリカでニューエネルギー関係の仕事に携わっており、就職に関してはもう引く手あまたでした。アメリカの会社からも「カネならいくらでもやるから来てくれ〜」と再三ラブコールを受け、デンマークでも元勤務先は勿論、取引き先各社からも「デンマークに戻るんならウチに来てくれ〜」とお呼びがかかる、という具合で、未だかつて就職活動で苦労した経験は皆無なのです。

     ところが、ここへ来て苦戦してます。一般に今、オーストラリアは就職難ですし、以前は日本語を武器に比較的仕事を見つけやすかった日本人永住者でも苦戦しているようです。が、特にエンジニア関係は仕事がない。景気がどうのという以前にもともと産業がないんですね。求人がたまにあっても海外で製造された商品を販売するセールス・エンジニアか、せいぜいソフトウェア関係。ラースがお得意のハードウェアのR&D部門というものがオーストラリアにはほとんど存在しないらしいんです。

     人材派遣の会社もあるこたありますが、電気エンジニアなんか需要がないから履歴書出しても反応が来ない。エンジニア関係の人材派遣会社がシドニーには3社あるそうですが、そのうち面接に呼んでくれたのは1社だけ。しかも、そこの担当者自身が技術的なことに暗いので、ラースの知識や技術を確認することもできず、ただひたすらプライバシーに関することを質問してきて、うんざりさせられたと言います。いわく「なぜオーストラリアに住みたいのか」「アメリカの会社からこんなにラブコールを貰ってるなら、何故アメリカに行かないのか」云々。「何のための面接だったのか分からない」とこぼしてます。

     この人材派遣会社も含めて、ラースが直接コンタクトをとった会社の人事担当者に「ボクが要らないワケ」を単刀直入に教えてくれ、というと、@オーバークォリフィケーションだから、Aガイジンだから、というこの2点が必ず出てくるそうです。

     オーバークォリフィケーションというのは、要するに学歴が高すぎるってことです。本格的なR&D部門が存在しないオーストラリアでは、せいぜいマスター卒業者で十分で、ドクターまで出ちゃった生意気なヤツは使いにくいだけ、ということでしょう。ドクター資格があるから永住権取れたというのに、なんとも皮肉な話です。

     また、「ガイジンだから」というのは、プラクティカルな面と、メンタリティに関わる面とがあるようです。前者としては「ガイジンだからいつまでオーストラリアに滞在するか分からない」という、一見納得できそうな理由が挙げられます。まあ、これも冷静に考えれば「オーストラリア人だっていつ辞めるか分からない」のは同じことで、こういう理由でガイジンだけにケチがつくというのは、やはり納得できないものを感じます。

     それよりもやはり「ガイジンはなんとなくイヤ」というメンタリティの影響が大きいような気がします。人事担当者が言うには「この仕事は工場の労働者ともうまくやっていかなきゃならないわけだが、連中はガイジンがキライなんだよ」と。ガイジンだというだけで何となくイヤというのは、日本社会にも共通してあるメンタリティだと思うので、オーストラリアのことをエラそうに批判は出来ないとは思うのでうすが、その一方でこれだけ移民を受け入れてきたゴッタ煮社会でありながら、そこがネックになるというのが興味深くもあります。

     ラースの話では、「そこらへん、やっぱりアメリカは違う」そうです。アメリカ人は「技術=実力」しか見ない、と。ガイジンだろうがなんだろうが、技術がある人は評価され、尊敬される。上は社長レベルから下は工場のおっちゃんまで、そこらへんがピシッと徹底していると言います。その代わり、最初は実力をテストするようなことを皆してそれとなく仕掛けてくるそうです。それが鬱陶しいと思う人はいるだろうけど、実力だけで評価される社会というのは、フェアだし、皆納得できる。結果として、経済は強くなる。反面、実力勝負に負けた人々の生活がすさみ、貧富の差がどんどん広がり、犯罪に結びついていくというデメリットもあるわけですが。

     オーストラリアにエンジニアリング産業が育たないのは、そこらへんに原因があるのかもしれませんね。反面、ウチワの気安さや共通の価値観をベースに仕事していた方が能率よく上手くいく場合もあるのでしょうが(日本なんかその典型かも)、これだけ各国から「使える人材」を呼び寄せていながら有効活用していないというのは実に勿体ない。

     そういや、永住ビザのカテゴリーに「独立ビザ」というのがありますが、審査過程で重視される職業経験、資格技術といったものは実際オーストラリア社会に入ってみれば使い物にならないというケースはいくらでもあります。

     私も独立ビザで永住権取得したのですが、日本での仕事経験が評価されて審査ポイントではほぼ満点でした。でも、一般的に言って(オーストラリアに限らず)違う言語圏以外から来た外国人がマーケターとしては職につくのはほとんど不可能。カルチャーや言語の裏に含められた意味がわからなければ、マーケターとしての勘は使い物にならないんですね。田村も弁護士という資格が評価されて独立ビザを取得したわけですが、国が違えば法律も違いますから、オーストラリアで弁護士やるにはまたイチから大学でオーストラリア法を勉強しなおさねばならない。先日APLaCのゲストルームに滞在された方も、液晶技術を専門とする化学エンジニアで、独立ビザはあっさり取れたものの、オーストラリアには液晶産業はないそうで、人材派遣会社では「事務でも販売でも何でもやります!」とアピールせざるをえなかったそう。なんだか勿体ないですよね。

     移民局としてはオーストラリアに不足している人材を海外から補完するために、「独立ビザ」というカテゴリーを設定しているわけですが、実際には「不足している人材=求人市場で需要がない人材」ということでもあるわけです。また、欲しい人材だからといっても、実際の市場で「ガイジンであること」を理由に雇ってくれないような分野なら、最初から採らなきゃいいのに、とも思います。ま、そんなこと言われたら、私も田村もラースも、絶対永住権取れなかったでしょうけど。

     どうせなら、技術だ〜資格だ〜と、どうせ実践で使えないような評価基準を持って来ないで、アメリカみたいに完全抽選式にした方がよっぽど社会は活性化するような気がしますけど、どうなんだろう? 移民局が移民を選ばず、人数枠だけ設定して抽選したら、この国はどんなふうに変わっていくんだろう? 第三者的立場から見れば興味ありますが、当局としてはそんなことリスクが大きすぎて出来ないんでしょうね。

     そういうわけで、今日もラースは昼間から、夕ごはんのメニューを考えながら、車検に引っ掛かったウチの12年もののマツダファミリアを修理しています(修理代600ドル浮いた)。もしかして、どっかの会社に就職するより、修理屋さんやってもらった方が儲かるかもしれないなあ・・・。


1998年10月21日:福島

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