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僕は男の子であります。「子」をつける年ではないのですが、原型は鼻垂らしてチャンコこいでたガキの時分と変わっていないという意味で「男の子」です。多分、僕だけではなくほかの男連中もそうだと思う。
よく女性の間から「男の人はわからない」とか聞きますが、僕なんかからすると女性の、軟体動物のような、全てが曲線で作られてるような複雑さに比べれば、男なんぞ直線ばっかりだし、かなり簡単なんじゃないかと思うんですけど。もしかして難しく考えすぎているのか、「まさかそんなシンプルな人間がこの世にいる筈はない」と盲点に入っちゃってるのか。
男の子というのは、合体ロボットみたいなもんで、幾つかの原理原則があり、あとはそれを組み合わせているだけという、極めてシンプルな構造を持っていると僕は考えています。
すなわち、男の子のプログラミングというのは、
@女:生涯通じて一人でも多くの、ちょっとでも「いい女」とセックスすること
Aケンカ:「強くないと気が済まない」=優勝劣敗思想の権化
Bクルマ(その他):どっちでもいいようなことにムキになって暇潰しをすること
Cロマン:@〜Bの行動について、「男の美学」みたいなルールを嬉しそうに作ってそれに命を賭けること
男性の行動/思考法則というのは、結局この@〜Bの基本特性と、それを動かすCというOSという組み合わせに過ぎないんじゃないか。我身と多くの男友達を見るにつけ、僕はそう思っています。
@については多くを語る必要もない、、、こともないんだろうなあ。
あの、後でも述べますが、これらはあくまで原理原則。人間でいえば骨格みたいなものです。実際の人間には骨格の上に肉がつき、太ってる人も痩せてる人もいるように、大きな個人差があります。あの〜、それにですね、適当に思い付きを書いてるだけですので、そんなに真剣に読まれても困るんですけど。
さて、一般に男の方が女性よりも性衝動は強いと言われます。それは月に一回卵子が製造され使わなかったら排出される女性と違い、男の場合は刻々と精子が数億単位で製造されています。今こうして書いてる間も、あなたが読んでる間もガンガン製造してるわけです。で、貯めておけないから排出する。セックスでもオナニーでも夢精でも何でもいいから、出したくなると。その意味ではオシッコと似たようなもんなんだろうな。実際にセックスの肉体的快感といっても、ガマンにガマンを重ねてオシッコするときの「はあ〜」という解放感に毛が生えた程度でしかないし。
で、その排出欲求が性欲と結びつき(というか同じかもしれんけど)、絶えず一定のリビドーで背中を押されつつ日々生きてたりします。従いまして、この排出欲求への対応というのは、食事や睡眠のように、極めて当たり前のものとして、極めて当たり前に認識され、当たり前に処理されます。オシッコが出ちゃうからトイレが整備されるように、当たり前の成り行きとしての性。
男性向けのセックス産業、それはエロ本、AVビデオ、風俗とムチャクチャ膨大にあります。スポーツ新聞でも週刊ポストなどの雑誌にも、かならずエロ記事やヌードグラビアがあります。表紙もなぜか美しい女優さんだったりします。車雑誌の表紙はなぜか常に水着姿の女性が写ってます。女性向けの雑誌や風俗などもあることにありますが、質量ともに男性のそれに比べたら100対1くらいのものでしかないでしょう。
どうしてこんなに、右を向いても左を見ても、女の裸、裸、裸ばっかりなのか。ニーズがあるからとしか言いようがないです。男社会だから、差別社会だからというのも、勿論それを助長することはあるでしょう。でもそれは助長程度のことに過ぎず、根っこはもう「男はそういう具合に作られているから」だと思います。
この傾向を女性をセックスオブジェクトとして見てるといえば、まさにそのとおりです。女性を性欲の対象物して見るその人格侮蔑の当否は、ここでは本題に関係ないのでパスします。それよりも男ちゅーのは何でそんなに四六時中セックスオブジェクトがあるとうれしいのか?という方がずっと問題だと思います。なんというか、ここがわかってないと、この種の議論は不毛になりがちだと思うのですね。「クジラを食べるのは可哀相、野蛮人」みたいに、何でもかんでもたった一つのモノサシで一刀両断すればいいというものでもないんじゃないかと。
ちょっとだけ言っておくと、女性の人って、男性のリビドーをどのくらい理解してるんだろう?例えば男がヌード写真を見ると興奮するとかいいますが、常にそうなるわけではない。逆にホッとするとか、心が落ち着くとか、鎮静作用もあります(そっちの方が実は多いかも)。カレンダーで美しい風景写真を見たときに心がほっとしますが、あれと似たような感じになることもあるのです。全ての男性がそうかどうかはわかりませんが、僕はそうですね。可愛い小猫のポスターを見たときのように、心がちょっぴり満たされるというか。「ああ、いいもん見たなあ」という。そういう側面もあるのですね。だから、同じヌードでもエロになったり芸術になったりその両方になったりするんでしょうね。「オブジェクト」っつっても、サブジェクトあってのオブジェクトですから。それを「イヤらしい」の一言で括ってしまっっていいのか?とかね。
男性の性的特性は、文字どおり生理的なものですから、これはもう「あるんだから仕方がない」と諦めるしかないです。開き直ってるワケじゃないくて、あなたがいかにイヤだろうがなんだろうが、あるもんはある。そりゃ隠すことも、誤魔化すことも幾らでもできますが、隠したからって無くなるもんじゃない。
さらにヒドいことに、男性はその本質において浮気性です。どのくらい浮気者かというと、それはもうイチイチ「浮気」だなんて考えないくらい浮気モンです。食欲と同じく、「昨日は焼肉を食べたら、今日は寿司が食いたい」というのと似たようなもんで、寿司を食べる度に「ああ、オレは今 焼肉を裏切っているんだ」とは考えないとの同じ。
男性の性欲の方向は、@基本的には誰でもいい、Aできるなら美人の方がいい、Bバラエティに富んでた方がいい、というものでしょう。これも食欲と同じで、@食べれれば基本的にOK、Aでもおいしい方がいい、B色々食べたいという。
「いや、俺は違う」とか「私の彼は違う」とおっしゃられる人は沢山いるでしょう。もちろんそういう人は沢山いらっしゃることでしょう。でもそういう人ばっかりじゃないし、そうでない人の方が多いと僕は思います。
例を挙げます。例えば、古今東西、男性が権力を持つとハーレムを作りたがる傾向があります。一夫多妻
というか、かの聖徳太子でもカミさんが4名いたそうですし、その種の例は枚挙に暇がありません。勿論一夫一婦で過ごした無名の庶民は確かに膨大な量いますけど、ミもフタもない言い方をすれば、多くの女性を養えない&モテないという客観条件によって制約されたのではないかとも思われます。どう考えても、男というのは、リッチになり且つモテるようになるのに比例して関係する女性の数が増えるというのは、これは「人類の法則」として言えるのではないでしょうか。「酒池肉林」という言葉がありますが、これだってやっぱり「林」のように沢山いた方がハッピーだということでしょ。
例証その2:そんな権力のない普通の男性だって、例えばオナニーをするとき眺めるヌード写真(いわゆる「オカズ」ですね)は、いつも同じお気に入りの一枚というよりも、常にもっといいのがないかを物色してます。いや、別にアンケート調査をして出てきた結果でも何でもないんですけど、そんなの、わかるじゃないですか。なーおい、そうだよなー?(と男同士のノリになる)。そうやって物色するからこそ、毎週毎週膨大な量のエッチ系雑誌やメディアが発売されてるわけでしょ? というわけでオナニーのオカズという、このときばかりは無制限(まあ経済的限界はあるけど)の権力を手中に収めた男がやることといえば、結局「女漁り」であるわけです。
例証その3:風俗関係でも、どんな相手が出てくるか分からない状況でも男はいきます。こんなの誰でもいいと思ってないと出来ないですよ。女性だって本音はそうだ、今は女性用の風俗が少ないだけだと言う人いるけど、そんなことないと思う。仮に女性用ソープランドが大量に出現しても、そんなに流行らないと思う。これはそれだけ女性が「貞淑」だったり、倫理的に高度だったりするからではなく、単に男に比べて物凄く選り好みが激しいからだと思います。「嫌いな人には触わられるのもイヤ」「生理的に嫌」とか女性はよく言いますが、男はそんなこと言わないもん。男は人格的に大嫌いな女とでもセックスはしたいと思うもん。だから「誰が出てくるか判らない」ような風俗も成り立つのだと思います。
ただ、まあ、女性はよう判らんわ。女性の性愛対象の「好き嫌いの激しさ」というのは、本能的なものなのか、後天的なものなのか。ナンパに苦心惨澹してる男連中は、よく「俺が女だったらもうヤリまくるんだけどなあ」と言います。俺もそう思ったわ。だって他人の芝生はよく見えるのかもしれんけど、セックスしてても女の方が気持ち良さそうじゃん。演技とかじゃなくてマジで失神とかするじゃん。ふと「俺、何やってんだろ」とかアホらしくならへん?>男性諸氏。だから「そんなに気持ちいいなら、もっとガンガンやりゃあいいのに。俺だったらやるけどな」って思ったりもするわけです。まあやってる人もいるんだろうけど、それでも(男からすれば)選り好みしてそうだなあ。
そういえば余談ですが、学生時代の友人で、メチャクチャもてる奴がいました。どのくらいモテるかというと磁石引きずって砂場歩いてるようなもので、電車乗りゃ話掛けられるわ、飲みにいけば声かけられるわ。でも、そいつも言ってたなあ。「あんなんホテル連れてって、服脱がすところがピークで、あとは仕事。残務整理。奴隷みたいなもん」って。だったらやめときゃいいのにやっちゃう。女性がどんなにお腹一杯でも美味しそうなデザートが出てきたら「これは別腹」とかいって、つい味見したくなっちゃう心理に似てるのかもね。
ところで、男性はある特定の女性を愛していたとしても、Aさんはルックスはいいけど性格がちょっと、Bさんはルックスはイマイチだけど性格が可愛い、Cさんは、、という具合に、女性の良い部分をピックアップして「全部満たされていたらいいのになあ」とか考えます。
僕は男ですから、以上述べたようなことは、「そんなん当たり前じゃん」ということで、若かりし頃は、男女を問わず人間というのはそういうもんだと思ってました。ところが、だんだん解ってきたことには、女性はどうもそうではないらしいと。大体、女性というのは一旦その男性を本当に愛してしまえば、「もっといい男幾らでもいるだろうが」というような相手でも、それで満足してしまえる傾向があるようです。
いやそれがダメだとか言ってるんじゃなくて、もちろん一夫一婦制ですからその方がいいんです。そんなに浮気ばっかりしてたら駄目なんです。だから男性も浮気はしないようにしてます。でもそれは結構努力してそうしてるというか、より高次の哲学とか愛情なりで押さえつけている部分が多かれ少なかれある。しかし、女性は、それで満たされたら、もう本当に他の男に興味がなくなる。もっとルックスがいい男が幾らいても、興味そのものがなくなるようです。
これ、別にそーんなに努力せんでも自然とそうなるみたい。驚異ですよね。「そんなん嘘だろ」と思ったもんね。これを「驚異」と感じる男の方が、女性には逆に驚異かもしれんけど。毎日毎日違う男をとっかえひっかえ、、というのを、男が考えるほど極楽だとは思わないみたいね。もちろん例外はあるでしょうけど、少なくともAVビデオで男の妄想に合せて都合よく登場してくるようなドエッチなお姉さんというのは、男が夢想してるほどには多くはない。
ちなみに女性のいう「愛情」と男性の思う「愛情」とは、その原型において違うような気がします。女性の愛情は、自己の開放というか、通例締め付けている本能を解放してやる、その拡散的な部分に喜びがあるような気がしますが、男性の場合はその逆。いつも拡散してる本能を逆にタイトに締め付けてやるという。男も女も「あなただけ」と言葉では同じことを言いますが、「常に閉ざされている門だけどあなただけ入れてあげる」という意味なのか、「いつもは全開にしてる門だけどあなた以外には閉めることにするよ」という意味なのか、ベクトルとしては正反対だったりするのではないかと思います。だもんで、男側から言えば、「愛」とは常にどことなく窮屈なイメージがあり、愛とはすなわちガマンであるみたいな感覚もちょっぴりあります。
この原形質の差異が、いろんなすれ違いやドラマを産み、、、ああこんなこと喋ってたらページがいくらあっても足りない。とっとと次いきます。
そのAの優勝劣敗原理に移ります。
男は闘争が好きです。喧嘩が好きです。コケンやプライドに異様にこだわります。序列や席次にもこだわります。なぜか?
これは本能なのかカルチャーなのか、あるいは両方なのか、男の子というのは「強くてなんぼ」の存在としてアイデンティティを作る傾向をあります。「強い」というのは、腕力だけでなく、精神力にしても、才能にしても、知識知能にしても、美しさにしても、全ての局面で適応されます。「優れていること」がすなわち自己の存在理由になります。
これはものすごく動物的です。自然界でも群れを作る動物のオスは、総当たりで喧嘩して一匹残らずキチンとしてヒエラルキーを作るといいますが、それに似てます。DNAの淘汰という自然界の法則でしょうか。弱いオス、劣ったオスには生存は許されないという。そのオス同士の争いは当然厳しいのですが、でも弱い男性に対する態度は、女性の方がずっと冷酷だとも思う。男はまだ競争者同士のどっかしら連帯感みたいなものがあるけど、女の子なんて残酷だもんね。平気で笑い者にしたり、一顧だにせず切り捨てるもんね。そういう女性の視線が、男を益々「勝たなきゃ意味ない。勝てば全て」という方向に追い込んでいるという部分はあると思う。それは男の視線が女性をある一定の方向に追い込んでいるのと同じ。
というわけで、男というのは、「自分が強い」ということを絶えず確認していないと気がすまない生き物のようです。だから嬉々として喧嘩したり、よせばいいのに果たし合いとか決闘とかやります。自分より強い奴がこの世にいるというのが、どうにも許せない。許せるのは、ボコボコにやられて身体で納得した場合だけだと思います。尾崎豊の「卒業」にも「友達にも強がってみせた/自分がどれだけ強いか知りたかった」と歌われてるように。
かくして女の子は、念願のデートの場で「あれ?」という違和感を感じたりすることもあるのでしょう。なぜって彼氏の口から出てくる話題は、煎じ詰めれば「ケンカの強弱」ばっかり。自分がどれだけ強いか、いかに物知りか、いかにアイツが凄いか、ダメか、そんな話ばっかり。音楽の話題に転じて、女の子が「あたしこの曲大好きなの」と、曲を聞いたときの自分の心に訪れる切ない豊かさを共有したがっていても、彼氏の答は、いかにそのミュージシャンが本物か、ニセモノか、いかに巧いか、ダサいか。そんなことばっか。強い/弱い、凄い/ダサいという基準だけで世界が見えてるんだから仕方ないのよね。だからエンジニアが歯車バラして調べるように、強さの構造分析、凄さのレベルとかは幾らでも語れる。「ケンシロウとラオウは結局どっちが強かったのか」をテーマに一晩でも語れる。
じゃあ「強い自分」が確認できない男はどうなるか?当然それだけナーバスになります。アンデンティティの危機を迎える。これを女性からみると「男のプライドは扱いにくい」と感じられることでしょう。妻の方が何らかの意味で優れたりした場合、その夫婦関係は微妙になったりします。また、女性上司として部下の男性を掌握するのも難しくなります。
女性として部下や後輩の男性を従わせることは、ある意味本能に逆らうことなので難しいんだろうなと思います。よく女性の方で「あたしの方が有能」とか不満を持たれるでしょうが、多分男を従わせる優勝劣敗の原理に即してないからかもしれません。オス同士の闘争はさらに熾烈ですが、それに勝ち抜くオスは、他のオスに対して、動物的な圧倒的な威圧感やオーラを発散するんだと思います。人間でもそうです。「逆らうとぶっ殺すぞ」という殺気のようなものです。僕の経験では女性でこの殺気を発散してる人はあんまり居ない。もっとも発散しないからこそ、知らない世界にいってもすぐに受け入れられやすいし、海外で暮すには最初の一歩で一日の長があると思うのだけど。
でも職場とかの男性社会では、この有無を言わさぬ威圧感がないと部下の男性は生理的に納得しないんじゃないかな。動物世界と同じく「自分よりも強い奴」として認めてもらってない。それは、単に昇進したとかテストの点がいいとか、そんな第三者に決めてもらったような序列ではないです。一対一で果たし合いをやっても食い殺されてしまうという恐怖感を与えるかどうかだと思います。
非常に誇張して書いてますが、これもあくまで原型です。また、動物的序列関係は、別に暴力と恐怖だけではなく、包容と認証、「高貴さ」とか他にもいろいろあるでしょう。実際、女性で押しも押されぬボス役をやってる人は幾らでもいるもん(英国女王とか)。
ただ、男の方が喧嘩闘争や序列について、動物的なこだわりが強いんじゃないかということです。逆にこのツボをおさえたら男の方が統率しやすいのでしょうねえ。企業が男性を採用したがるのも一面無理からぬ部分もあります。だって言うこときかなかったらブン殴っておけばいいんだから簡単ですもん。
また、男性の方が概して闘争慣れしてますし、そもそも闘争が好きです。女性でも気が強い人やキツイ人は幾らでもいますが、好きでケンカしてるというよりは、「頑張って」喧嘩してるという部分があるような気がします。心底三度のメシよりも喧嘩が好きって人は、男ほど多くはないと思う。
古来人類はケンカばっかりしてます。戦争、戦争、また戦争。ミクロにみていけば、それなりの経済的要因やら、人脈的原因やらがありますが、どうもそれだけではないような気がする。「そういうことが好きだから」という部分がどっかにあるのではないか。
戦闘機の撃墜王なんか撃墜した敵機の数だけ愛機に星印を刻んだりしますが、要するに「殺した人の数」なわけでしょ。人殺しでしょ。でも、あまりそんな文脈で語られず、単純にカッコいいなあという感じで語られます。なぜか?
やっぱり、一対一で正々堂々と殺し合うことは「いいこと」であり、どこかしら神聖なことであるような感覚があるんだと思います。宮本武蔵と佐々木小次郎が、互いに何の私恨もないにも関わらず果たし合いをする。「なんでそんな愚かなことを」と思う人もいれば、それに感動しちゃう人も多い。格闘技や武道も、「精神鍛練」「健康のため」「護身術」など色んな理由はあるけど、絶対それだけじゃないと思う。「強い」ということに無条件に価値を認めているのだと思う。
どうも人間には、防衛本能や食餌の場合以外にも、攻撃欲求や闘争本能を持ってるとしか思えない。それがあるということは、自然がそれを求めてるということなのでしょう。確かに生きていく色んな局面で闘争は必要だと思います。無駄な争いはすべきではないにせよ、全ての争いを避けるわけにもいかないし、また避けるべきでないこともある。
闘争本能もそれなりに必要性や合理性があるのだとは思いますが、ただ、男性の場合、それが趣味的に突出してるキライが女性よりも強いように思います。
Bの暇つぶしですが、これも男性の大きな特徴でしょう。一文の得にもならないことにイノチを賭けてしまうという。大体冒険とかやってるのは男性が多い。異様なまでにのめりこんでるマニアとかコレクターというのも男性が多い。
別にそこまで打ち込まなくても、クルマやバイクが好きとか、鉄道が好きとか。
クルマなんてねー、幾ら最高速200キロ越えても、そんなの違法行為だし、第一そんなにスピード出せる場所なんか日本にないし、排気ガス撒き散らして環境壊すわ、うるさいわ、一日中乗ってても座ってるだけだから足腰弱くなって健康にも悪いわ、ガソリン食うわ、金かかるわ。で、大汗かいて何処に行くわけでもなく、走るだけ走ってまた元の自宅に戻ってくるだけなんだから、最初から行かなきゃいいのにってなもんですよね。実益ゼロどころか大損ぶっこいてるようなもんなんだけど、でも、好き。「コーナーは死ぬ気で突っ込まなきゃ」なんて嬉しそうに語るんだわ。
女性はもっと生産的で建設的だといいます。そうですねえ、女性ってあんまり下らないことしないですよね。芸術でも趣味でも、破滅するまでやる人は少ないですよね。好きなことに打ち込んで、人格も生計もメチャクチャ破綻しちゃうというのは、男性が多い。
なんでそんなに男性は非生産的なのか。多分、この世にセックスとケンカ以外にやることが無いという生物学的宿命のなせるワザなのかもしれません。最近、産むんだったら女の子が欲しいという人が増えて、男の子は手がかかるだけと人気ないようですが、まあ、わからんでもないけど。
僕の子供の頃でも、どれだけ高い所から飛び降りられるかでムキになったり、自転車で坂道を高速で駆け降り疾走する自転車から飛び降りるスタントマンゲームに熱中したり、石段を自転車で下ろうとして自転車ごと転げ落ちたり、鉄条網の上を綱渡りしようとして失敗して血まみれになったり、学校帰りにプロレスの四の字固めを掛け合って足が抜けなくって友達と二人して暗くなるまでピーピー泣いたり、探検とかいって知らない町までいって道に迷ってこれまたピーピー泣いたり、根性試しとかいって万引きしたり、突如として「千本ノック」とかやりだしたり。怪我して縫った跡も全身に10ヶ所くらいあるし。毎週なんかかんかで流血してたし、今でも包丁で手を切ったりして血の味がすると、妙に懐かしいです。
まあ、お母さんは大変だろうなあ。でも、基本的に子供の頃と何も変わってないですよね。規模が大きくなるだけの話で、やってるこたあ一緒。出世競争も、起業も、選挙戦も、政治も経済も、遊びっちゃ遊びですよね。で、遊びというのは、生死がかかってるくるほど面白いんですよね。危なければそれだけ燃えてくるという。「あれだけ苦心惨澹して司法試験合格した資格を、ポンと捨てちゃったらすげーだろーな」とか、そんなこと思い付いちゃったらもうダメ。もうやるっきゃないみたいになっちゃう。
また男はクリエィティブな喜びも知ってますが、破壊することの喜びはもっと知ってる。巨大なミサイルを東京に打ち込んで跡形もなくブッ壊す!なんて話をきくと、やっぱりゾクゾクくるものがありますもんね。男の子の永遠のオモチャは「大きな爆弾」。女の子は花火が美しいから好きだけど、男の子は花火が危ないから好き。点火するとき息を殺す瞬間が好き。
要するに、男というのは「面白い」ことが一番大事で、それが面白かったら、何の意味もなくても、何の役に立たなくても、ひょっとしたら死ぬかもしれなくても、やっちゃう。裏を返せば、「面白くないから」「詰まらないから」という理由だけで自殺するのも男。生活の役に立とうが立つまいが、好きなことやらせないとすごく怒るのも男ですし、やることが無くなるとすぐ死んじゃうのも男。
もう地に足がついてないというか、生命をなんだと思ってるのか?というと、実は何とも思ってないという。命を粗末にし、生産よりも破壊を好み、やりたい放題やって勝手に死ぬという、こんなに「生きる」ということに不真面目な人種はないだろうと。だからまあ、たしかにまっとーな女性から見たら、「男の人ってよくわからない」と思えてしまっても仕方ないのかな。
女の子の心が「傷ついた」とかいっても、もともと生命自体を粗末にしてるんだから、他人の人格や繊細な心のヒダなんかわかりっこないよね。「生きてるんだから別にいいじゃん」って。心の目盛りが女の子より10倍くらい粗雑に出来てるから、興味を抱くためには、女性の10倍の距離を走らなければならない。おいしいケーキと紅茶では幸せになれず、「ついに人類の終焉のときは来た〜」なんてくらいの大道具をもってこないと面白がらない。お花畑に目もくれもせず、ばーっと一目散に駆けていって、わざわざ崖っぷちまでいって、千尋の谷底を恐る恐る覗いてる。「うひゃ〜、ここから落ちたらイチコロだあ」なんて嬉しそうに呟いては、ズルズル鼻をすすってる。
そして、どんな変なことも美化できるように、これら「異常性格者の軌跡」のような男性的特徴も、ことごとく美化できますし、古来されてきました。「男の美学」「男のロマン」というやつですね。
「七つの海を股にかけ〜」とか言われるともう目がキラキラしてイッちゃうのが男。そんなアチコチ出歩いてないで、家族はどうするんだ、生計はどうすんだ?とか言われても上の空。
またロマンとか美学とか、頭で考えたような人工的なルールにうるさいので、生き方や行動が不自然なまでに筋道通ってたり、妙にシンプルになったりもします。全然恨みはなくても、「筋が通ってたら」殺しちゃう。「あんたさんには何の恨みもございませんが、これも渡世の義理。死んでもらいます」というのは、イニシエの仁侠映画のセリフですが、そこには殺人を正当化しうるような「義理」ってどんなんじゃ?という疑問もない。哀しみと苦味走った健さんにシビレてしまうわけです。
ただ、男性は非現実なことに命賭けられるだけに、逆に妙に現実的なことにからめとられることが少ないので、それがいい方向に転がる部分もあります。例えば研究とか、社会変革とか、自分の生計とか日常生活に殆ど関係ないようなこと、「人類のため」みたいな抽象的なことに平気で一生を棒に振れたりもします。家族はたまったものではないし、大抵カミさんは逃げちゃったりするんだけど、人類全体としては確かに恩恵を被ってる部分もあるのでしょう。でも、ほんと、家族は大変だろうなあ。
このように男を構成する原理というのはそんなに難しくないと思います。え、十分難しいって?そうかなあ?でも、そうかもね。
あなたからすれば不誠実な浮気者で、なんでも「力」で物事が解決出来ると思い込んでいる救いがたいコドモ。何が面白いのかアナタにはさっぱり理解できないような下らないことに熱中し、口を開けばロマンを熱く語るが、あなたにはそれが只の狂人の繰り言のようにしか聞こえない。「ちょっと頭の弱いケダモノ」ってところっスか?
というわけで駆け足で男の特徴を見てみましたが、これがそのまま目の前の現実に直結するワケでもないです。そんなこと当たり前です。今までのはただの骨格。骨格標本のような姿で生きてる奴はいませんから、そのうえに様々な肉付けがなされます。
以上が初歩の原理編だとしたら、以下は応用編です。つづきます。
1999年08月17日:田村