原理編に続いて応用編。
まず前回述べた男性の原理的特徴ですが、これは「男性に比較的多く検出される」というだけのことで、男性の専売特許ではないと思います。男だったら全員こうで、女だったら全然違うというものでもない。
ミクロに見ていけば、男性よりも「男らしい」女性は幾らでもいるでしょうし、その逆もしかり。
「本当にそうか?」と言われると怪しいんだけど、考え方としては何となく腑に落ちるものとして、ユングが唱えたアニマ・アニムスの概念があります。アニマは男性の中の女性人格、アニムスは女性の中の男性人格のこと。筒井康隆氏の作品にも出てきますね。
自分の中にもう一人の「女性である自分」が潜んでいるという発想は、どこかしら妙にしっくりくるものはあります。人は皆、生まれるときにジャンケンをして、男と女、どっちが「表の人格」をやるか決めて、もう一人は裏に廻る、、、どっかしらリボンの騎士みたいなおとぎ話(ユングはそんなジャンケンなんて言ってませんよ。念の為)。
アニマ云々の呼称はともかく、男100%/女100%なんて、そんな天然果汁みたいなことってないと思います。聞きかじりの生物雑学では、カタツムリのような雌雄同体の生き物というのは結構あるというし、ある動物(魚だっけな)は、ある環境下でオスばかりの群れになると、オス達の一部が変身してメスになってしまうという。オス・メスというのは、基本的に機能分担であり、それほど絶対的なものではないらしいです。
人間の世界でも、刑務所や軍隊など閉鎖された男社会では、構成員の一定の部分が女役をするようになる。つまりホモセクシャルが流行るといいます。これは単なる与太話ではなく、大学のときの刑事政策の講義でも出てきました。懲役という自由刑は自由の束縛にのみ刑の本質があり、性的嗜好の改変まで強制されるのは刑罰としては逸脱してるとかなんとか、「自由刑の純化論」というあたりで出てきます。
人はみな、男性と女性、二つのソフトウウェアを持って産まれてきて、最初に走らせたソフトでそのまま一生をいくのだが、だからといってもう一つのソフトが無くなるものではないという。条件さえ整えてやれば、そのソフトが解凍され、走り出す。まんざら嘘っぱちでもないと思います。
そもそもなんで生き物にオスメスの区別があるのか?ですが、環境適応・進化のためなんでしょう。自分が丸々クローン複製やってるだけだったら、DNAは同じまんまで進化が止まっちゃう。だから一世代ごとに他の個体の遺伝子と半分づつ出し合ってDNAの組み替えをやる。勿論ハズレもあるだろうけど、アタリもある。ハズれた奴は強烈な自然な淘汰圧によって消えていき、大量に生産された新型モデルのうち、もっとも環境に適応した個体だけが生き残っていく。ようするに、リプロダクション=生殖とはそーゆーことであり、DNAのガラガラポンなのでしょう。
だとしたら必要なのは「他の個体のDNA」なのであって、それは別に相手が誰であってもいいはず。必ずしも異性である必要はない。だって48ある染色体のうち、オスメスで違うのは最後の一つかそこらなんでしょ?あとの遺伝情報、例えば目がいいとか、髪の毛が多いとかいうのはオスメスに関係ないもん。だから、オスやメスは、このガラガラポンというインストールをするためのユーティリティみたいなものでしかないのかもしれません。精子と卵子、オシベとメシベ、生殖器の差なんてのも、煎じ詰めれば「フロッピーディスクを挿入してインストール」みたいな最初の形式でしかないのかもしれない。遺伝子工学が進んでいけば、男性同士のDNAを組み合わせて新たな個体を作ることも可能かもしれない。
まあそこまでいくと話が広がりすぎますが、ここでは「男性というものは〜」と言ったところで、実はそれほど多くを語ってるわけではないし、それほど絶対的なモノサシになるものでもないんじゃないかというところで、ちょっと釘をさしておきたいと思います。
それに男が男しか理解しえず、女もまた同じだったら、男性作家の作品の登場人物は男ばかりになったり、女が出てきても全然リアリティがなくなったりする筈です。しか小説や歌詞のなかには異性に「そのとおり!」というシンパシーを与えるものも沢山あります。なんでそんなことが判るのか?それは、豊富な人生経験があるからということでしょうが、そればかりではないと思います。「自分が女(男)だったとしたら」ということで、「自分のこととして」判る部分もあるのではなかろうか。前回やや誇張して書いた男性の特徴も、女性からみてまるっきり100%理解不能ってことはないと思います。
さて、男の子的特徴に戻ります。骨格をなす原理的特徴はありますが、常にそれが露出しているものでもないです。また人間を構成する原理は性別特徴だけではなく、もっと普遍的な人間的特徴だってあるだろうし、いま述べた「もうひとつの人格」としてのアニマなんかもあるかもしれません。それぞれの原理同士が衝突することもあるでしょう。また、教育、環境、経験、自己啓発によって、これらの動物的な骨格を覆い、修正し、洗練させていくのでしょう。これらの統合的なものが人格なり性格になるのでしょう。
男性的特徴は極めてシンプルだと思いますが、それが判ったからといって具体的にあなたの目の前にいる山田君や鈴木君が判るというものでもない。でもそれは「男性が判らない」のではなく、統合人格としての「山田君がわからない」のだと思います。
骨格原理の修正について。
@浮気者でA喧嘩好きなんて特徴は、最も初期の段階から躾によって矯正されていくでしょう。
肉体の攻撃力を増強を目指す武道でも、技の伝授と同時にその技術を「いかに使わないか」をも叩き込まれます。空手でも「私闘に使ったら破門」「空手に先手なし」「押忍」などの抑制原理もいっしょにインストールします。武士道も騎士道も、「強きゃいいんだ」とは言わず、強さ以上に立居振舞の美しさを求めます。攻撃本能の権化のようなヤクザでも、「カタギには手を出さない」という任侠道のような倫理があったりします。これらが守られてるかどうかはともかく、全く野放しにされてるわけではなく、何らかの抑制をしようというアプローチはくっついてきます。
原理C男のロマンみたいな規律も、男が持ってるケダモノ性をいかに人間らしく昇華させていくか、美学や価値観が詰ってるのだと思います。「据膳食わぬは男の恥」という@浮気者的な言葉もあるかと思えば、「据膳食わぬは男の意地」というC的な言葉もあります。
男の子というのはこの種の規律が沢山あります。曰く「気はやさしくて力持ち」「弱いものイジメはしない」「卑怯な振舞いはしない」「女の子を泣かしてはならない」「感情に振りまわれてはならない」「相手がいかに強くても逃げてはならない」「生きざまが美しい詩として完結してなくてはならない」「命を惜しむな名を惜しめ」「何でも出来なくてはならない」、、、などなど。
個々の内容の一人よがり性やアナクロ性はさておき、これらの抑制原理が強力にインストールされたりします。それは家庭のシツケもそうですし、TVや映画、小説などからも多大な影響を受けます。そして実際
これがあるから、社会的になんとかやっていけてるという部分も大いにあると思います。
男の子にとって「男であること」は強烈なプライドと共に語られる高度な倫理規範でもあります。英語では、ManとBoy の差。もっともこれは男性だけの話ではなく、女性だってGirlとLadyの差があるのでしょう。「一人前と認められるためのsomething」ですね。
これらの「男のオキテ」は、女性からすれば、時としてナルシスティックだったり、硬直的で融通がきかないもののように映るでしょう。しかし、これらは、男性の獣性を締め付けるタガでもあると思います。戦争などでこの締め付けが消滅した場合、地獄のような有り様になったりします。古来、無法状況になったらもう略奪や強姦の嵐。木曽義仲の軍勢が京都を占拠したとき、京都中の女性が強姦されたといいます。直接原典にあたってないですけど、史書によれば、強姦だけでおびただしい女性が死んだそうです。つまり生命機能を停止させるまでファックし続けるという、ちょっと想像のつかない凄まじさです。ドイツが降伏したときもロシア軍兵士によってすごい状況になったそうですし、日本の戦後もそこかしこで起こったそうです。沖縄もそうですし、つい最近の神戸の震災のあとも表にはあまり出ないようですが色々あったようです。
この悪魔のような男性のケダモノ性を統制するのは、一つは暴力と恐怖による規律、もう一つは内面的なロマンチシズムだと思います。おなじ上洛を果たした義経軍、あるいは信長軍はこの種の乱暴狼藉は非常に少なかったようですが、それは指揮官が厳しくこれを禁じたからだと言います。厳しい軍律、というか、より強大な統制された暴力が小さな暴力を押さえた。
国家社会の最も本質的な機能は「組織化され抑制された暴力」であり、それは対外的には防衛力(自警団)、対内的には警察力だと言います。外敵を排し、ルール違反をした者を罰する「力」。これはどんな社会にも、人が3人以上集まれば自然に出てくるもののようです。
しかし、この力による統治/外的規制には限度があります。なぜならどーしたって構造上「見つからなければOK」になっちゃうからです。発覚の恐れの少ない状況、例えば警察自体の腐敗、情報が外に漏れない閉鎖組織ではあまり抑止力を発揮しません。また発覚を防ぐために、さらに被害者を脅したり殺したりという逆効果も出てきます。
また社会が成熟し、洗練されていくに従って、この機能も必要性も相対的に低下します。昔みたいに見せしめにむごたらしい刑罰を課さずとも、社会的制裁だけで十分な抑止力になったりします。つまり社会が発展し豊かになり、多少の我慢をしてもルールを守っていた方がハッピーになれるのが明らかであれば人はそんなに罪を犯さない。逆に、一見豊かにみえていても、人がハッピーになるための「なにか」が欠落している社会では、人の心はスサむ。
そしてスサんだ社会で声高に唱えられるのは、いつだって警察権力と刑罰の強化。そして見せかけだけの国民の統合、ナショナリズムの高揚。パックリあいた傷口に貼り付けられる大きなバンソーコー。隠すためのだけの、解決したことにして束の間の惰眠を得たいがためのバンソーコー。国家社会の成熟は、男の子と「力」の関係に似てます。その強さの追求と同時に、それをいかに使わないか、いかに洗練させるか。
一見まどろっこしいけど、それよりももっと完全な形で抑制を行なうのが、内的規範、つまり「良心」とかいうやつで、個々人の倫理水準をあげていくことなのでしょう。倫理というとなにやらお仕着せがましい道徳教育のようなイメージがありますが、その実態は例えば「プライド」だと思います。そしてその一つが男のロマンチシズムなのでしょう。「ああ、本当の男はこんなカッコ悪いことしちゃいけないな」と、勝手に思って、勝手に酔いしれる。それが結局一番強い抑制力たりうるようにも思います。
指一本触れたことない彼女が何かの拍子に自分の部屋に泊ることになった。「わたし、○○君信じてるから」とか言われちゃったもんだから、ソファの上で歯噛みしながら一晩を過ごす。狂おしいほどの欲望と闘いつつ、まんじりもしない夜は、時計の針はなかなか進まない。エネルギーが有り余ってる若い時分には、結構拷問だったりしますが、それでもいじらしく約束守ったりするもんです。悪鬼のように輪姦するのも男なら、じっと我慢してるのも男。その差はどこにあるかといえば、プライドだと思います。
余談ですが強姦を犯した男は、男社会では最低の扱いを受けるようです。司法統計でも強姦罪の実刑率は殺人以上に高かったと記憶してます(殺人の方がまだ執行猶予がつく率が高い)。また刑務所内でも、強姦して入所した者は最下層にランクされ、ヤクザ社会においても強姦前科がある者はゴミ扱いされるとか。これある種動物的な感覚だと思うのですが、力づくでメスをものにするのはオスとしては無能の証明みたいなものなのでしょう。動物でも、いくらオスが力が強くても選択権は絶対にメスにあるそうですし、サル山のボスはよりどりみどりかというと、実はそうでもないそうです。
ただその抑止力としての男のヒロイズムやプライドは、常に女性に歓迎されるかというと、全然そんなことないみたいですね。面倒臭い「決めごと」を沢山作って、自分で自分の手足縛って、それで「どうもうまく動けない」といって悩んでるという、「何やってんだか」みたいな感じ。
それによく男の人は理屈っぽいとか、何でも理屈にして解決しようとするとか、女性に非難されます。「そんなのいいじゃん、いちいち言葉にしなくたってわかるじゃん」とか言います。でもね〜、ここらへんはロマンチシズムの副作用でもあると思うのですね。理想的な「男道」みたいなものをキチンと構築して体系化しておかないと、全部理屈で抑制しておかないと、どっかしら破綻してケダモノ的な部分が出てきちゃうのよね。言葉とか理屈とか理想とかを放棄させて、「自然のままにのびのびと」させるのもいいけど、その代わりどうなっても知らんぞ。
ところで、Sophiaというバンドの「せめて未来だけは」という曲には、この滑稽なまでの暑苦しい「男の子道」を的確に描写した一節があります。曰く「精神鍛練 空手道を志し」「蟻ん子は踏み潰さないように」「一人で部屋でオナニーはしちゃいけない 絶対」などなど。男の子が持ってる、馬鹿馬鹿しさと、純粋さと、一本ズレた感じを、すっごく上手に歌ってる。さらに、「間違いに気付いても 途中で諦めず初志貫徹」なんて一節に、どうしようもない不器用さとアホな部分がよく描かれてる。
横道逸れますけど、このバンド、男の子魂が溢れてたりします。野郎同士で酒飲んでバカ話してるような、でもちょっぴりマジに語ったりするよな、そんな感じがして好きですね。「女ばかりの家庭で育って誰よりも強くなろうと決めたお前」「最後まで最後まで 一人は一人だけど」「両手を挙げて喜べば こんな筈じゃないとダメ出し人生/謙虚でかわいいじゃない こんな僕誰かいりません?」「失恋だとか挫折だとか 皆そりゃ楽しそうね」「生涯無縁のsexy不二子と寝てみたいのさ」とか、この一行をネタに1000行書けといわれたら楽勝に書けるくらい、込められた情報量は膨大。でも、女の子が聞いてもわからんかもね。
また男が饒舌に喋ってるうちが花というか、聞く方は鬱陶しいけどまだしも安全。あまり喋らなくなったり、沢山喋っていても温度が低くなったり(暑苦しくなくなったり)するとヤバいんじゃないかなあ。男がロマンを語ってるうちは、いわば思考の整理、デフラグをしてる段階で、逆に「やるのみ」という実行段階になると急に口数が減る傾向があると思う。で、翌朝起きたらベッドはもぬけのカラで、いきなり旅に出てたり、いきなり自殺してたり。
饒舌だけど妙に暑苦しくなくなったときは、大体浮気してるときなんじゃないかなあ。ま、こんなのは女の人には釈迦に説法でしょうね。この微妙な温度差を的確に感じるみたいね。「なんで判るの?」といっても説明できないだろうし、本能としかいいようがないけど。でも浮気してても温度下げないという技を持っててしたたかに隠し切る男もいるけど。このへんは経験値なんかな。
またまた余談ですが、浮気の発見法と隠す法、学校では教えないみたいだけど(当たり前か)、いろいろあるみたいですね。パターン化させないとか、ダミーを使うとかいろいろ小技はあるけど、基本的には良心の呵責を100%殺せるかどうかじゃないでしょうか。どっかしら「バレて楽になりたい」という意識があるうちはボロが出ますからね。
もう騙すんだったら死ぬまで完璧に騙す。罪の意識と孤独感が強烈に襲ってくるけど、そこさえクリアすれば大丈夫なんじゃないかな。巧い奴はそのへん徹底的ですし、「哲学」レベルにまで腹括ってる。結局浮気をするということは、その辛さを共有してくれる人はこの世に一人もいないわけだから、一人ぼっちになることだと思います。それこそ「最後まで最後まで、ひとりはひとり」というのを無意識レベルまで徹底する。というか、ここまでくると元々そういうタイプの人間でないと無理なんかもしれんけど。でもそこまでいかないと、寝言みたいな初歩的なところでボロが出たりするんだよね。
あ、それと、いま「饒舌」といったけど、無口な男もいますよね。でもそれは、単なる癖とスピーキング能力の問題でしかなくて、無口な奴でも実は頭の中では色々鳴ってるんだわ。ただそれが出てこないだけ。
それはもうじっくり腹割って話せば、色々出てくるし、その考えてるパターンみたいなのは一緒だもん。ただ、一般に出て来かたの特徴としては、ときどき前後の脈絡のつきかねることをボソリと言って、あとはもう頑固、という感じかな。「俺はあんまり出ない方がいいんだよ」とか、「え?何の話?」みたいなことをボソッという。
さて、ここまでを整理すると、男性の構造というのは、
(1)ベーシックには前回書いたようなケダモノ的な男性的特徴がある
(2)その上部にそれらをコントロールする(一人よがり気味な)ルールがある
わけです。
でもそれだけだったら駄目なので、さらに第三段階として(2)のルールをさらに洗練させるというステップがあると思います。
しかし、勿論、そんなに物事美しく進みません。色んな段階でいろんな破綻が生じ、歪みます。そして、それが一人ひとりの個性や行動を形作っていくのでしょう。
例えば「強くなりたい」「モテたい」と願い、見事そうなれば次のステップに進めます。強さを得たら今度はその強さをいかにコントロールするかを学びます。で、「ひとつ、男たるもの〜」とか硬直的で朴念仁みたいになっちゃうのを、女性の緩急自在で柔らかで非論理的な凹凸に合せて自分を出したり引っ込めたりするのを覚えていくのでしょう。
でも、そもそも最初のステップで思うように強くなれないし、そんなにモテもしない。ここでまずヘコみます。処理しきれないくらい膨大なコンプレックスを抱えてヨロヨロ歩く羽目になります。人によってはこれが一生尾をひく。
「東大に入れなかった」ということを抱え、それ以外の局面で「見返してやる」と思う。代償機制ですが、仮に他の局面で成功しても「所詮代替物じゃないか」という意識がつきまとう。あるいはめでたく東大に入っても、その後巧く進展しないから、過去の最大瞬間風速みたいな「痩せても枯れても俺は東大」でそこにこだわる。こだわる余り、誰と会っても「君、大学どこ?」からコミュニケーションが始まってしまう。
強くなれなかった屈辱。それを打破しようとすれば頑張るしかない。で、頑張って成功すれば成功したで、今度は過剰なガンバリズムに陥り、ブレーキがきかなくなってくる。人を強い/弱い、有能/無能だけでしか見れなくなったり、出来ない人の哀しみを理解せずに「それは努力が足りないからだ」と蔑むようにもなる。
逆に努力してもダメだった場合は、それなりに屈折するし、出来ない自分を正当化しようとするし、針の先ほどの狭い領域に「自分の王国」を作りそこの王様になろうとする。「○○については異様に詳しい」とか。男の子のA強さコンプレックスと、Bムキになる症候群とが合体する。
はたまた、強さと自信に裏打ちされた優しさと、弱さの変形物としての優しさ。後者の場合、強さをコントロールするステップを経てないから、何かの拍子に強い立場に立った場合、その抑制がきかなくなり、日頃の屈辱の鬱憤ばらしのように権力をカサにきるようになる。内弁慶のように家族や部下に暴君として振舞う。
女性とも全然付き合えない時期があまりにも長くなると、もう付き合うなんてことはありえないように思え、あとは物体としての興味に傾く。ストーカーになったり、昆虫採集のように女体を求めてみたり。
もう、ありとあらゆる変形、歪曲形態があると思います。変形してない奴なんて一人もいないだろう。また、変形しても、条件さえ整えばまた変わるだろう。まあこれは男に特有なものでもなく、「願望不成就ストレスの処理と変形」という一般的な話でもありますが。
さて、ここを何とか乗り切ったとしても道はなお続きます。なんとか獲得した強さと自信。今度は常に安定していることが課題になります。強さが安定してくれば、コントロールも少なくて済む。だから不自然にリキんだりすることも少なくて済む。
そうなってくれば、自分が最高理念と信じるロマンチシズム、それがあったからこそ自分がここまでやってこれたこれたというバイブルのような倫理、それが最も身近であるべき恋人に全然理解されなかったりするというキビシー現実も受け入れられるようになるのでしょう。また10年前だったら「くっだらねえ」の一言で吐き捨ててた少女趣味的な世界も、本能を殺し、あるいはロマンチシズムを殺し、歯の浮くような事を言って付き合ってあげられるようになる。そこまでのプロセスは、腕一本、脚一本持っていかれるような苦痛と喪失感を産むのだけど、にっこり笑って「いいよ」と言えたりする。ここまできたら、とりあえずイッチョ前なんでしょうかね。
さらに名人達人の域になると、24時間、365日それを無理なく持続できるようなる、、、のだろう。気が遠くなりそうだ。面と向って絶対に傷つけられたくないプライドを傷つけられ、その気になれば5秒で沈黙させられるだけの腕力を持ちながら、腕の筋肉が爆発的にたわむのを強引に押さえつけ、さらにその押さえつける倫理力である男の美学すらもゴミ扱いにされてもヘラヘラ笑ってられるようになるには、相当に修行が必要なのでしょう。
ところで、いわゆる気がキツいと言われる女性の中には、「男なんか意気地なしばっかりよ」とばかりに無闇に(←この「無闇に」というのがポイントだけど)男のプライドを傷付けまくって、本人はそれが颯爽としてカッコいいと思ってる人がいますが、これはこれで馬鹿だと思いますね。人のプライド傷つけることなんか子供にでも出来ます。十代だったらまだしも、30歳超えてこれやってるということは、いい年こいてその程度の異性知識しかないと自白してるようなものです。今まで何考えて男とつきあってきたんだろう? そんで「いい男いないわねえ」とかのたまうのですが、一言だけあなたとやってるのと同じように女のプライド傷つけさせていただくと、いい男は掃いて捨てるほど居ます。ただあなたに近づかないだけ。理由は簡単、あなたが「いい女」じゃないから。
こんな話、いっくらでもできますが、もう長くなってきたのでそろそろ止めます。最後にもう一点。
男の子のダメさ加減と成長への指針を(自戒を込めて)書いたわけですが、全てのベースになるのはやっぱり前回述べたケダモノ的な特徴だと思います。浮気者で粗暴で無駄なことに熱中するというアレです。なぜなら、結局、男の子を男の子たらしてめてるもの、男の魅力ってそこに帰着すると思うからです。
コレがなければ、確かに表面的には肌触りがよく付き合い易いとは思う。だから、「男の子ビギナー」である女性にとっては、男性性が少ない(ように見える)男性の方がとっつきやすい。スベスベお肌のサラサラヘアみたいな、マッチョでない優男。攻撃的でなく、女の子の趣味にもよく付き合ってくれる男の子。とにかく「やさしい人」。だけど、ビギナーから進化すると、だんだんそれが物足りなくなるみたい。
暑苦しく粗暴な男性性だけど、これが全く無くなってしまえばどうなるか。ブザマなまでに一心に求愛するひたむきさもなければ、人生に何度か訪れる修羅場に立ち向かう覇気もなく、寝食忘れて何かに打ち込む真摯さも失われる。「あ、そ、キミが嫌だったらいいんだ」とか軽いプロポーズをし、ここ一番というときに「詰まらない争いはしないんだ」で逃げ、なんでも万遍なくチェックしてるけど何一つ本質的なことを知らないという薄っぺらな人間になっちゃうような気がする。
前回、やや悪く描いた男性的原理も、それが魅力的な形で現れることはいくらでもあります。@セクシャルな面でも、本人すら気づいていないその人の豊かな女性性を的確に見抜き、導き出すのは男だし(誤解して押し付けるのも男だけど)、奔流のようなエネルギーでさらっていくのも男。A攻撃性だって、絶対負けない鋼鉄の意思、狼のようにギラギラした瞳。子供の頃から修羅場慣れしてるから、緊急事態でもヒステリックにならず沈着に振舞う。Bのムキになる部分だって、欲得抜きに一芸に打ち込めば、それなりの深い視野も出て来るし、精神の高みにも達するだろう。Cのロマンチシズムも容易に世俗的なことで妥協しない高潔さとして現れることもある。だから男性的特徴といっても、その人のレベルによって、良くも悪くもなるのだと思います。
ロマンチシズムで本能を抑制し、多くの人間との衝突の中でそれを洗練させていくことは、幾つになっても出来る。一生修行。でも、最初の根っこの本能は、人生の最初の頃に適当にほったらかしにして伸ばしてやらないと萎れたまんまになっちゃうんじゃなかろか。
何を言ってるかというと、例えばマザコンです。マザコンの正確な定義は知らないけど、男性の面倒臭い上記の本能を、母親の女性性によって初期に摘み取られてしまった人格類型なんじゃないかと、ふと書いてて思いました。
それをマザコンという言葉で呼ぶかどうかは別として、男の子は幼くても「小さなケダモノ」のような、女性生理に反するような、ワケわからんことするでしょう。毎週血だらけになって帰ってくるでしょう。妙に静かだと思ったら部屋の中でエロ本を友達と見てたりするでしょう。それを女性的な感性で妙にニート&タイディに矯正しちゃわない方がいいんじゃないか。ピストルをバンバン撃って人を殺す真似をして遊んでていいんだと思う。妙に「いい子」にせん方がいいと。そして獰猛な野性を統制するのはさらに獰猛な野性だと思う。いやそんなに確証はないのですが、何となくそう思う。
それがいわゆる家庭における父性の存在とか言われるものなのでしょう。しかし、父性は別に父親でなくてもいいと思う。たとえシングルマザーであったとしても、その父親とかつては愛し合った筈であり、その交合を通じて男性性の何たるかは刻まれるんじゃないかとも思うのです。だから女手ひとつでも立派に育てられるし、実際に育ってる人は幾らでもいます。ただその父親自身が最初から男性性が希薄だった場合、資源がないからしんどいのかなと。だからマザコンというのは再生産されるのかもしれない。
そういえば女性はマザコン男性が嫌いなようですが(好きだという人は今まで一人も会ったことがないけど、いるのかな)、なんでキライなの?そりゃ姑の影響力が強かったら気分悪いですけど、それだけ?もしかしたら男性性が欠落ないし未熟な部分を本能的に察知して嫌ってるのかな。
さて色々男のことを書いてきましたけど、次に発展する話題が二つ。一つは「じゃあ女はどうなのか?」という点。もう一つは近頃よく考える「野性の欠落」ということです。いずれも本稿で語るには既に紙幅も尽きました。また日をあらためて。
それでも前者(女はどうなのよ?)について備忘録替わりにラフスケッチしておくと、これ、本当にようわからんです。だって、僕は女じゃないもんね。でも、女の人に「女ってなあに?」って聞いても、ピシッとした答えが返ってくる気がしないのですね。
男は、超合金メカロボットみたいなもので、意識的/無意識的に自分の全人格というかプログラムを作り上げてるように思います。その気になれば、量は膨大になるけど、自分の全人格プログラムを記述し尽くすことすら可能ではないか。だけど女の場合はあんまりそんなことしないというか、そもそも記述法が全然違うんじゃないか?
「理想的な男」というのは割とスラスラ書けるんだけど、「理想的な女」ということになるとパタと筆が止まる。男からみて「こうあってほしい」というリクエストは幾らでも書けるんだけど、でもそれはリクエストであって本質じゃないだろうと思うのですね。それは例えば「男らしく」と言われると男は素直に受取れるけど、「女らしく」と言われると女は素直に受取れない。なんで?と考えるに、おそらく、その「らしい」という部分が、単なるリクエスト、もっと言えば「命令」であって、本質に根ざしてないからなんじゃないかと思うわけです。
じゃあ女の本質って何なのよ?というと、やっぱり判らんです。僕が知ってる女性のあれこれの断片記憶、何百何千とあるそれらを床にブチ撒けて、「さて」と分類整理し、法則性を見つけようと思っても、糸口がつかめないでいます。
それでも薄らぼんやり思うのは、もしかしたら本質なんて無いんじゃないかなということ。あるいは全部本質とも言えるし。なんつーのかな、英語で言えば、”as it is”というか、「それあるまま」。男というのは構築していくもので、その強度や緻密さ、構造美/機能美で成り立ってる感じがするのだけど、女は構築しないで、出来るだけ生のまま、素材としてのピュアさとその存在美学で成り立ってるような気がするんですね。
だから何ていうのかな、女って自然界とのチャネリングみたいな感じ。それは全然「理想」でもなんでもないんだけど、本質として突き詰めていくと、そんなものに行き着く。巫女さんみたいな。つまり自然とか周囲とか本能とか内的感覚というか、そういったものとブッ太いコードでダイレクトに直結されてて、肉体/実在としての女性は単なるスクリーンみたいなものではないかな。それがもう「分離不能」という感じ。「女ってなあに?」という問いは「自然とはなにか」というのとやや似てる気がする。
だから女の人は理屈が嫌いなんだろうな。論証不要というか、目の前にリンゴが置かれていれば誰だって「あ、リンゴだ」と判っちゃうくらいダイレクトに判っちゃう。だから「この物体はどうも赤くて、丸くて、、」とか男がやるような論証とか構築とか、そういうしゃらくさい作業がいらないんじゃないか。
目の前に明々白々にリンゴがあるのに、男はそれが見えないのか、「え、それって丸いものなの?食べられるものなの?」とか色々聞くから、女の子は「もう、なんでわかんないの?」とキレたりするのでしょう。
精神構造がもともとメカニカルな男は、だから機械が好きで、機械に「俺と同じだ」という親近感を感じる。僕の書く雑記帳でも、この男性的メカニック性が強烈に出ていて、機械的なアプローチをして、なんでもメカニカルな構造分析をしていきますもん。でも女性は、「かわいい」「きれい」「おいしい」とか、存在それ自体を愛でる傾向があります。男は存在それ自体には大した価値を認めず、それが「何が出来るか」「いかに凄いか」という形に置換えないと感動しない。美味しい料理を食べても、「ここのシェフは並々ならぬ腕前だ」という部分に感銘を受ける。だもんで、どうしても男はウンチク垂れになりがち。グダグダ言ってないで美味しかったらそれでいいじゃないの、にはならない。
ただですね、個別具体的な女の人が常に「女」であるかどうかは自ずと別問題のように思います。女の人の背中には自然界と直結してる大きなチャネリング・パイプが装着されてるんだけど、そこにはバルブがあって、そのバルブが閉まってる時間が結構長い。特に男性原理で動いてる職場などの環境に適応しようとすれば尚更。で、閉めっぱなしにしてるから開け方忘れちゃったり、しまいにはパイプがあることすら忘れちゃったり。だから、日常接する女の人の90%以上の時間は、単に「そういうポテンシャルを持ってる人間」ということで、ごく普通の性別関係無い「普通の人間」だと思います。
それはそれでいいんだと思います。僕も普通に女性と接してても特に女性とは思わないし、ひとりの人間としてしか接しない。特に仕事の局面では。だって本人がバルブを開けてないんだから、それはもう性別関係ない世界だと思うし、それが人間関係の礼儀だとも思うし。
女性が意識的に「わたし」として認識してる自我というのは、あんまり性別関係ないような気もする。男性が、自我を確立するにあたって強烈に男性性を意識して取り込んでいくほどには、取り込んでないように感じます。その男女差というのは、かなり自覚的に弁えておかないと、女性が何かやる度に、「女だからそういうんだ」みたいに過剰な意味付けをしがちで、それで鬱陶しがられるんじゃないかしらん。
でも、性別とあまり関係無い女性の通常人格と、背中のバブルを開いてチャネリングをしたときの(例えば凄く好きな男性の前に出たときとか)、そのミックス感覚、ブレンド感覚ってどんなんなんだろう?これはもう、僕の想像を超えてる。またそのバルブというのは意図的に開閉調節できるもんなんだろうか?さらに背中のウィンドウが開いてバーッと「なにか」が身体に入って来るときの感覚ってどんなんなんだろう?そのチャネリングだって時と場合によって何が入って来るか違うだろうし、個人差があるんだろうな。
そもそも僕が女に惚れるときって、その人の通常人格が好きなのか、それともその人がチャネリングによって見せてくれる自然界の感覚が好きなのか、考えてみたらようわからん。ようわからんけど、おそらく後者なんだろう。理屈好きのメカゴジラみたいな人間が、「あ、これは勝てんわ」とすぐわかっちゃう「天然物」のすごさ。うーん、だったら「いい女」とは、まずもって自然界のどこにチャネルを持ってるか(しょーもない所とチャネルされてもヤだし)、チャネルの開閉時期や程度の絶妙なコントロールとか、ブレンド具合の妙とか、、、、、、、なーんて、すぐにこうやって機能分析に入ってしまう僕は、どこまでいっても男の子なんでしょうね。
1999年08月21日:田村