シドニー雑記帳




盛り上がらないお正月





     いよいよ1998年という年も明けたわけですけど、観念的に「そうなんだろうなあ」と思うくらいで、全然実感がありません。このホームページでも、謹賀新年特集というのをやろうかとチラと頭をかすめましたが、「新しい年を迎える」という気分が何ら盛り上がらないのでやめました。

     どうしてこんなに盛り上がらないのかというと、色々な原因が考えられます。一つには外国にいるということ。子供の頃からインプットされてきた「年末→正月」という時期を彩り、ビジュアルに具体化された小道具がなーんもありません。

     例えば、除夜の鐘が鳴るわけでもなし、紅白があるわけではなし、初詣に行くわけでなし。別に、日本に居たって紅白なんか見なかったし、生まれてこのかた初詣なんか数回しかいったことがないので同じような気がするのですが、自分が行く/行かないに関わらず、世間でそういった出来事が全然無いというのはデカい。

     やはりTVをつけたら、NHKでは歌舞伎とかやってて、CMではお琴の「春の海」なんかが流れてて、どのチャンネル廻してもバラエティばっかやってて、和服で着飾った司会者が出てきて、「おめでとうございまーす」「いやあ、去年もいろいろありましたけどねえ」とか、馬鹿の一つ覚えのようにやっててくれないと気分が出ない。あの「とにかく年さえ変わればめでたいのだ」という白痴的な、どうしようもなく詰まらない番組には、毎年辟易していたわけで、それが見られない(見なくて済む)というのは喜ばしい限りなのだけど、雰囲気は出ません。丁度、選挙シーズンに登場する名前を連呼するだけの選挙カーのように、イヤなことムカつく事であっても、あれはあれで雰囲気作りには役に立ってるということなのでしょうか。




     第二の原因としては、これは南半球独特の事情ですが、「暑い」。30度を越える熱気と強烈な陽射で、こっちもTシャツ一枚で過ごしながら、『慌ただしい年の瀬を過ぎ、おごそかに新年を迎えます』という具合にはならない。オーストラリアの正月は今年で3回目ですけど、どんなに「新年なんだ」と思い込もうとしてもアカンですね。蚊が飛んでるんだもん。

     やはり、「慌ただしい年の瀬」「おごそかな新年」というには、「寒い」というスィチェーションが必要なのかもしれません。考えてくださいな。いきなり地軸が狂うなりして、日本も1月が夏になったら。扇風機廻して、クーラーきかせて、ビアホールは満杯で、海水浴に行って、学校は夏休み。セミがミンミン鳴いてる中、三輪そうめんなんかズルズルやりながら、「新年おめでとうございます」って違和感なく思えます?無理だと思うけどなあ。2世代くらい時代が下らないとナチュラルにそうならない。




     第三の原因としては、オーストラリアは西洋文化がベースになってるから、ニューイヤーはあまり重大な行事ではないのですね。とにかくクリスマスが一番であって、新年なんかそう大した出来事ではない。一応元旦は休日になってますが、これも、日本でも正月過ぎてすぐ1月15日に成人の日という休日がありますが、そんな感じ。「休日ということだけに意義がある休日」。元旦に比べれば、イースターの方が遥かに重大なイベントでしょう。

     また、そういった新年を祝う風俗習慣が少ないのは、新年にまつわる商戦がないことからも窺われます。抜け目のない商業主義は、何だかんだこじつけて商品を売ろうとしたり、イベント打ったりしますけど、こっちで新年となると殆どなにもない。クリスマス商戦はスゴイのですけどね。クリスマスカードも、年賀状にように、会社単位で印刷したり宛名書きしたり、「面倒臭い」とブーブー言いながら皆やるわけです。クリスマスプレゼントのためのチラシもこれでもかというくらい家に舞いこみます。でも正月は何もなし。

     そりゃニューイヤーで、ロックコンサートがあったり、花火大会があったりはしますけど、だからといって商戦が始まるわけでもない。ニューイヤーにちなんだ購買行動があるわけでもない。あるとしたら、クリスマス直後に始まる大バーゲンですね。クリスマス前は「他人にあげるもの」を買い、自分が欲しいものはクリスマス後のバーゲンに買うというパターンがあるようですが、いずれにせよバーゲンはバーゲンに過ぎないし、あれも新年だからやってるのではなく、クリスマス後だから(ないし学校が2月始まりだから「年度末だから」)やってるわけです。

     年賀状もない(クリスマスカードならある)、お年玉もない、お年玉目当の商戦もないしお歳暮もない(クリスマスプレゼントならある)、オセチも雑煮もない(クリスマスの七面鳥ならある)、初詣もない(クリスマスキャロルならある)、帰省ラッシュもない(クリスマスパーティーや夏休みの帰省ならある)、年末年始の海外旅行もない(夏休みの旅行はある)、、、という具合に、殆ど全ての行事はクリスマスか夏休みということに収斂されてしまい、「正月」ということに基づくものは殆どない。だから、いまいち正月気分が盛り上がらない。




     第四には、これは個人的な理由ですが、特に会社勤めとかしているわけではないので、ホリデーというのがないのですね。年末31日までお客さん来られますし。休みたい時がホリデーでもあります。但し、当然仕事しなけりゃ収入減ですから、宮仕えのときのような嬉しさは半減しますね。これは自営の方は、多かれ少なかれそうだと思います。ただ、まあ、取引先も休むので、そんなにせっつかれない、休んでいてもそんなに事態は変わらないという気安さはあるかな。

     と書いてきましたけど、よく考えたら、正月を海外で過ごされる方も事情は同じことかもしれませんね。ハワイとかタイとか行かれれば、そんなに「正月気分」は味わえないのでしょう。「毎年、正月は海外に決めてるんですよ」とか言ってハワイあたり行かれる人がいますけど、そうなると何年も正月気分は味わえないままということになって物足りなくならないのだろうか。それとも師走の慌ただしさと、帰国してからなお続く正月的雰囲気で十分なのかな。それか「外国に旅行に行ったから味わえない」という場合と、「普通に自宅に暮らしているのに正月気分にならない」という場合とで感じ方は違うのかもしれません。




     ところで、こうして考えていくと、また妙なことも頭に浮かんでしまうわけです。正月気分が盛り上がらないと書いてますが、別にそれを嘆いているわけでもないのです。「ああ、セイセイするわ」とまでは思いませんが、正月気分なんか別になくてもいいじゃないかという気はしますね。そういう「無くても構わん」というスッキリ系が70%、「ないと今イチ物足りないかな」という気分が30%くらいでしょうか。

     あ〜、思い出してきましたけど、子供の頃から、あんまり「楽しいお正月」という気分はなかったですね。あ、子供の頃は楽しかったか。そうですね、お年玉貰えなくなった頃からかな、あるいは時代的には「紅白」「かくし芸大会」がミラクルなものではなくなった頃からかな、正月といっても、「退屈」「詰まらないTV」「面倒臭い帰省と年賀状」などネガティブな彩りを持ちはじめ、そんなに心はずむものでもなくなっていきました。

     これは時代背景もあるのでしょう。一家総出で障子張り替えたり、畳パンパンやったり、お母さんがセッセとオセチ煮込んだり、近所で餅つきやったり(それかホカホカ温かい餅が米屋さんから届いたり)という、「ハレ」的要素が周囲から少なくなったように思います。これらのことも面倒臭いといっちゃ面倒臭いのですが、やればやったで盛り上がるものはありますよね。家もとりあえずはきれいになるし、気持ちいいし。ビデオもファミコンも海外旅行もなければ、紅白と初詣が最大の娯楽になるでしょう。みんなそんなにグルメにならなければオセチも立派な御馳走で通ったでしょう。

     豊かになったのか何なのか、今では選択肢が多いし、省略できることも多いし、環境も変わったので、正月を彩るものは徐々に減っていったような気がします。




     そうなると、なんとなく必然性のないまま世間皆で「めでたい、めでたい」と言ってるだけのような、思考停止のアホらしさみたいなものを、感じたりもしてました。特に「世間が馬鹿に見えて仕方がない病」にかかりがちな高校生の頃なんかそうでしたね。

     まあ、こんなこと思うこと自体が「阿呆の証明」みたいなんだけど、「年が明ける=めでたい」という非論理性に腹が立ってました。めでたいって言ったって、時間が経てば勝手に年なんか明けるじゃないか。太陽の周囲を地球が公転して、それを人為的に1周=1年と決めているんだから、年が明けるのは当たり前。当たり前の事態が発生したからイチイチめでたいとか言うなら、リンゴが木から落ちてもめでたくなければ嘘だろが、とかね。

     1年経過して無事に済んだからめでたいというなら分かるけど、これからどう転ぶか分からん年の始めにめでたいかどうか分かるもんか。もしかしたら、あんた今年死ぬかもしれないわけで、そんな不吉な1年になる可能性もあるわけで、マラソンでいえばスタート直後の状況なわけで、浮かれてる場合じゃないだろうと。緊張感がまるでないじゃないか。広く世を見渡せば、悲惨と不正が満ち満ちているわけで、全然めでたくない人も世界には沢山いるわけで、そこから目を逸らして、カレンダーどおりに当たり前に年が明けたというだけで、喜んでる場合じゃないだろうが。「めでたい理由がないじゃないか」と。
     あまりにもTVの番組とかで「めでたい」が大安売りされるもんだから、「何がめでたいもんか」と反発を感じたわけですね。また、その表面的に浮かれた馬鹿騒ぎ状況が、物事を真剣に考えない自堕落な大人達の自堕落な社会を象徴してるみたいに感じられて、ムカついたという部分もあります。




     まあ、良く言えば愛すべき少年の客気というか、悪く言えば只の阿呆というか。当時の自分に今会ったら、「バカのくせして、何リキでんだよ」と、とりあえず一発こづき倒したくなりますね(^^*)。

     でも、今から考えても、多少は「言えてるな」と思う部分もあります。正月がおめでたい必然性というのは、今あんまり無いのですね。もともとは太陰暦でやってたわけですから、正月といえば旧正月。2月から3月にかけての時期でしょう。そのシーズンにやるならば話は分かるのです。なんで、正月のことを「新春」「初春」というのか。暗く、寒い冬がようやく終わって、大地と生命の息吹が復活する早春にやるからこそ、おごそかな感じもするし、「ああ、新たに始まるんだ」というナチュラルな祝祭意識が出てくるんだと思う。

     それを明治維新のときに強引に西洋歴に合せてしまったから、どうしてもズレが出てきてしまいますわね。これからもっと寒くなる1月2月を控えながら、「初春」とかいっても嘘だもん。無茶苦茶だわ。年頭から全員で大嘘ついてどうするという気もします。

     ちなみにアジア諸国は大体旧太陰暦でやってて、中国では今でも旧暦で正月を祝います。マルチカルチャルなシドニーでも「チャイニーズ・ニュー・イヤー」ということで、そこにシルシがついているカレンダーもあったりしますし、それなりのイベントもあります。聞いた話ですが、アジアで太陰暦から太陽暦に替えちゃった国というのは日本だけとか?これをもって、伝統を大事にしない日本の嘆かわしさと解釈する人も多いですが、僕としてはそれが日本の「いいところ」とまでは言わないまでも「凄み」だと思います。1000年以上続いた民族的伝統も、「邪魔だわ」と思えばとっとと捨てるというのは凄い。なかなか出来ることじゃないです。

     また、クソ寒いだけの1月に、西洋社会で特にこれといった行事がないのも、考えてみれば自然なことなのかもしれません。それこそキリストの一人でも生まれてくれないことには何かする気も起きないのかな。で、西洋流の春の祭りは、それはそれでイースター(復活祭)みたいな形でやるのかもしれません。よう知らんけど。でも、誰がこんな時期を「1月」と決めたのだろう?春分の日等を1月1日にした方が遥かに分かりやすいと思うのですけど。故事来歴雑学に詳しい人、教えてください。

     それはともかく、暦は太陽暦、行事は太陰暦という「ねじれ現象」を起こしてますから、正月といっても違和感あって当然だと思います。もしかしたら、この特殊な事情のために、世界の中で日本だけこの時期騒いでいるのだろーか。




     それともう一つ。「めでたい」のは年が明けたからめでたいのではなく、「新しい年を迎えることが出来たから」、もっと言えば「新しい年まで死なずに生き延びられたこと」がめでたいのだと思います。

     その昔は、今よりも簡単に人が死んだのでしょう。衛生医療の面での貧困さもさることながら、食糧生産技術も備蓄も乏しいから、夏に干ばつになったり飢饉になれば、当然冬には食糧がなくなる。木の根かじって生き永らえるような生活を強いらることもあったでしょう。極端な低カロリー状態に陥りながら、暖房器具も暖衣も乏しい状況で苛酷な冬を過ごすのは、それはそれは大変だったでしょう。周囲では、お年寄りをはじめ、バタバタと脱落し、死んでいったのでしょう。それでも人々は頑張った。再び大地に息吹きが甦る春を、ただじっと待っていたと思うのです。

     で、春が来ました。これ、やっぱり嬉しいことだと思うわけです。今の基準で言えば、もう命がけサバイバルですから。「やっと死なずにここまでこれた。ここまで来たらもう大丈夫」という幸福感と安堵感は、それは相当なものがあったのではないか。だから、本当に自然に「おめでとうございます」という言葉が口をついて出るのだと思います。




     こちらに居て一つ気付いたことは、「新年おめでとう」を英語で "a happy new year"と言いますが、これ新年になってなくても、年末から言います。日本でいうところの「よいお年を」という言葉と「新年おめでとう」、これが同じなんですね。ところが日本では、どんなにボケた人でも、新年にならないと「おめでとう」とは言わない。12月31日11時59分59秒でもまだ言わない。おめでとうは新年にならないと言わない。つまり完全に完了しないと言わない。「have+過去分詞」の「完了形」的発想です。

     なんでか?ここで僕は思うのですが、やはりおめでたいことの実質は過去にあるのではないかと。「去年一年死なずに乗り切ってきたこと」がめでたいのだ、と。「よく頑張ったね」と。自動的にやってくる新年それ自体がめでたいのではなくて、去年を乗り切ったワタシとアナタがめでたいのだ。あたかもマラソンランナーの金メダル授与式みたいなもので、金メダルに意味があるのではなく、それを獲得するために走破し抜いたその過程と完了こそに意味があるのだと。だから完走する前には「おめでとう」とは言わないのかもしれません。

     めでたいのは抽象的な時間の経過ではなく、「生身の人々」であり、「生きていること」なのでしょう。何というのかな、自分が一つ所に留まっていて、ただ新年がトコトコやってくるというのではなく、時の道程を自分達がトコトコと歩いてゆくという主客の違いがあると思うのですね。正月とはスタートというよりもゴールとしての意味が深かったのではなかろうか。




     そういうスチェーションで「おめでとう」と言うならば、ひねくれたガキだった高校生の自分も納得してたと思います。「なるほど、それでめでたいんだな」と。いや、上記の仮説が本当かどうか知りませんけど、説明原理としては納得しやすいと思います。

     ただ、そうなったらそうなったで、ヒネてた過去の自分は、「ということは、状況も時期も全然違う現代においては、やっぱりちっともめでたくねーじゃん」と言ってただろうなあ。

     だけど、時代は違えど、現代だって1年生き抜いていくのはシンドイことだと思うから、素直に祝ったらええやん、と今は思います。現代だって、昔とはまた違った意味で大変なんだから。大変だからエラいというものではないけど、1年生きてりゃそれなりに紆余曲折はあるだろう、だからそれなりに一里塚を設けて一区切りとするのも悪くない話だとは思います。

     ただまあ「悪くないね」と頭で分かっていても、だからといって今このシドニーの生活において正月気分が盛り上がらないという事態は、何ら変わらないわけですけど。





1998年01月02日:田村

★→シドニー雑記帳のトップに戻る

APLaCのトップに戻る