シドニー雑記帳




キサラギ99/日本にて(3)







     日本訪問記第三回目です。

     前回は、日本の消費構造の、何といいますか「歪み」とまでいったら大袈裟かもしれませんが、特徴らしきものを述べましたが、引き続き「どうしてそうなっちゃうのか?」について考えてみたいと思います。ここから先、ちょっと水深が深くなりそうです。





     オーストラリアから日本に一時帰国すると、もう2〜3日でオーストラリアに戻りたくなります。「ああ、もうヤダ、こんなところ」とか思うのですが、しばらくしたら慣れます。最初から結論めいたことを言ってしまうと、日本におけるシアワセのなり方、というか快楽の方法ですね、これとオーストラリアにおける快楽の方法がかなり違うと思うのですね。だからオーストラリア式の快楽方法のまま日本にやってくるとすぐに煮詰まってしまって、「もう堪らん」状態になるんだと思います。また、その逆も当たってると思います。

     子供みたいな比喩を言います。海幸彦山幸彦の神話ではありませんが、海辺に暮す人は海辺なりの楽しみ方を知ってます。ところが山の楽しみ方はあんまり知らないから、山に行っても楽しいのは「珍しいなあ」という珍奇性だけだったりします。でも新鮮味はいつまでも続かない。次第に飽きてくると、やれ新鮮な魚が食べられない、やれ海のような解放感がないとか不満が出てくるのでしょう。何年か暮せば、山には山の楽しみがあることが判ってくる。例えば海よりも鮮烈な四季の移り変わりとか、気候の複雑さとか、奥深い動植物群とか。

     都会には都会の楽しみ方があります。溢れんばかりの情報と商品とイベント、人間の多様さと関係の淡白さ、夜の長さと深さ。その楽しみを引出す方法を知らなければ、都会は単に非人間的な環境に過ぎないということになるでしょう。都会に来て「海が汚い」とか文句を言っても仕方がないし、田舎に行って「コンビニが少ない」と言っても仕方がないわけです。

     これと同じようにオーストラリアの楽しみ方、日本の楽しみ方というのがあると思います。「何を当たり前なことを」と思われるかもしれませんが、この楽しみ方を全うしようと思ったら、単なる一時的な「楽しみ方」というレベルに留まらず、「人生の組み立て方」というレベルから変えていかないと適応できないんだなと思いました。これまで薄っすらと思ってたことですが、今回、かなり明確にそう思いました。





     色んな表現の仕方があると思いますが、例えば人間の活動を@睡眠食事などベーシックな生活時間、A仕事などの本業時間、B余暇時間、の3つに分けるとします。オーストラリアの楽しみ方は、@が一番強く順次ABになると思います(ABの順番は一概に言えないけど)。日本の楽しみ方は、@が一番薄くBが一番強い。ものすごく乱暴な言い方ですし細かな例外は沢山あるでしょうが、話を分かりやすくするために誇張して言います。

     日本の場合(ここでは人口の70%が集中している三大都市圏をメインに想定します)、@の楽しみが非常に乏しい。何もしないでボーッと住んでても全然楽しくない。僕は親の住んでる京都駅南のマンションにおりましたが、こんなマンションの一室にボーッとしてても全然楽しくない。サンダルつっかけて外に出ても、ガランとした駐車場の向こうには、また小さなマンションがあって、コンビニがあって、会社があって、ゴルフの打ちっぱなしがあって、、、ということで、ちょっとばかり歩いても何にも楽しくない。五重塔で有名な東寺まで歩けばちょっとほっとするけど。

     一方オーストラリアで僕らが住んでるシドニー、レインコウブの場合、緑が豊かというよりも、ちょっと目を離すと暴力的なまでに繁茂してきます。芝刈りはコマメにやらんとならんわ、洗濯干し場も月イチくらいで周囲の枝を払ってやらなければ干すスペースを侵食されてしまう。藤棚の蔓は屋根までガンガン進入し、常緑樹だから落葉は年中舞ってるわ、レンガ敷きの隙間から生えてくる雑草。真剣に整備しようと思ったらもう一日中やってないと駄目です。実際お隣の老夫婦は本当にマメに年がら年中手入れをしてます。

     それに加えて鳥の声。このパソコン打ってる部屋からでも4〜5種類の声は聞えてきます。こんな家が、森のような斜面の一帯を覆ってますが、さらに自然保護林なんてのがすぐ近くにあります。夜も昼も静かだし、一番うるさいのはお隣さんが催す裏庭でのパーティーの笑い声くらい。


     シドニーの気候は総じて温暖で、海が近いせいか、どんなに暑くても夕方頃には気持のいい涼風が吹きます。えらく風の強い日もありますが、概ね穏やか。最初、オーストラリアにやってきてグリーブというところのフラットに住んでましたが、ビール飲んでから、ベッドに横たわって、窓から見える真青な空と緑の樹木から渡ってくるそよ風に吹かれていると、「うわ、こら幾らでも昼寝できるわ」で寝まくったものです。

     「その1」に二回昼寝の話をしましたが、単に不精なだけでは2回も寝られません。寝られるだけの快適な環境あっての話です。実際、僕らのゲストルームに来られた人でも、「滅茶苦茶よく眠れました」「なんかここにいると、せっかく来たのに寝てばっかりになりそう」とかよく言われます。

     オーストラリア平均からすれば、シドニーなんか超過密都市なのですが、それでも全体の人口密度が日本の100分の1ですから、日本人からみればスカスカです。高いビルなんかそんなにないから空が広い。家のなかも造りが広いし、天井高いから、これまたガランとしてます。これがベーシックなレベルとして「標準装備」されています。格別金持ちでなくてもこの位は享受できます。

     さらに気軽なオプションとして、車で30分〜1時間も走れば海でも山でも牧場でもあります。海といっても東京湾みたいな「大きな水溜まり」じゃなくて、世界三大美港のシドニーハーバーがあります。「三大美港」という表現は嘘臭いのですが、でもよく晴れた日に見るシドニー湾は、嘘みたいに綺麗なのは事実です。絵葉書なんかよりもずっと綺麗だと思います(晴れないと駄目だけど)。

     ここまでしつこく述べたのは、@生活基礎部分、要するに「単に住んでるだけ、居るだけ、生きてるだけ」でどれだけ快適かということを言いたかったのです。ずっと昔の雑記帳に書いたと思いますが、オーストラリアにやってきたての頃、2週イチでエクスチェンジをしていた友人のオージーが、会う度に「やあ、今日はいい天気だよ、空は青いし最高だよ」と芯から嬉しそうな笑顔をいつも浮かべてました。最初は「いい天気なんか珍しくないじゃん、それがどうした」と思ってましたけど、段々「この人たちは、空が青いという、ただそれだけのことでここまでハッピーになれるわけね」ということが判りました。




     そう、それがオーストラリアの一番の特徴だと思います。人間の最高の幸福状態を100とすれば、オーストラリアの場合、ただそこに存在してるだけで30くらいは幸福度が稼げるのですね。これ、何となく「そうだよなあ」と思ってましたけど、今回改めて思うと、全てに通じる根幹的な特徴なのかもしれません。

     ほっといても30%くらい幸せになれると人間どうなるか?ヘラヘラしてきますね。ヘラヘラという言い方が語感悪いならおっとりしてきます。あんまりムキにならなくなってくる。細かい事を気にしなくなるし、細かな作業をしたくなくなる。「どうでもいーじゃん、何もせんでも気持イイんだから」みたいな感じになってきて、だからレイジーにもなります。時計なんか短針だけあればいーんじゃないかってな気にもなります。

     もう言わなくてもお分かりでしょうが、これに対照的なのが日本の都会です。何もしないで居るだけでは楽しくない、下手すりゃ滅入ってくる。近所を歩いてもそんなに楽しくならない。かえって放置自転車に躓いたりして不快になるとか。だから何かしないとゼロないしはマイナス。この差はデカいと思います。

     オーストラリアの感覚で、「今回はのんびりしようかな」で日本に帰ってくると、自宅でのんびりしてても全然楽しくない。まあ親に会えるとか楽しみはあるけど、自室でぼっとしてても楽しくない。それどころか憂鬱な気分にさえなる。近所を散歩しても、海があるわけでも、樹海があるわけでも、草原があるわけでもない。どこまでいっても人、車、ビル。だもんだから、「なんじゃこりゃあ、気持悪い。こんなところに二週間もいるんか」みたいな気分になってくる。




     しかし、日本には日本の楽しみ方があります。これがB余暇時間の充実です。余暇/レジャーといえば、ゴルフとかキャンプとか乗馬とかサーフィンとかを想像しますし、その意味でいえばオーストラリアの方が遥かに安・近・短でできます。だからオーストラリアの方がB余暇も強そうですが、僕がここでいってるのは、そんな手間のかかるレジャーではないです。通勤電車の途中とか、夜会社が終ってからとか、もっと日常的な日々の生活レベルでの手軽な余暇です。何かというと、本、音楽、パチンコ、カラオケ、居酒屋、パソコン、コンビニで発見する新しい商品、風俗、ファミコンなどです。

     この種のお手軽な余暇時間の楽しみに関しては、日本はダントツで世界一だと思います。もうオーストラリアなんか話にもならない。本の数は少ないし、雑誌数なんか10分の1以下だろうし、CDなんか品揃えが少ないわりにクソ高いし、飲み屋は基本的にビール&ビリヤードのパブしかない。そこそこあるのはレンタルビデオくらいだけど、これもあたりまえだけど「洋画」しかない。日本のように洋画と邦画をダブルで楽しめるという広さはない(これは音楽も同じ)。この種のカジュアルな楽しみに関していえば、日本の広さと優秀さに比べたら、もうオーストラリアなんて「ゼロ同然」というくらい何も無いです。

     僕も日本に居る頃の「楽しみ」といえば、その90%が上記のカジュアルな楽しみでありました。レジャーだなんだといかいっても、日本のバリバリ働いてる30代の都市生活者にとっては、そんなにスキーだ釣りだゴルフだなんて行ってらんない。スキー好きな人でも、現地に暮してる人のようにシーズン100日は滑らんでしょう。日々のレベルにしてみれば、新刊本の面白そうなのを覗いて、週刊誌をチェックして(僕も30誌以上チェックしてた)、美味しい飲み屋や食べ物屋を開拓して(100軒以上は知ってた)、ビデオとCDをチェックして、、というのが楽しみの大半だったりします。それはそれで面白いのですね。

     だからそんな感覚でオーストラリアにきたら、あまりの何も無さに呆然とするでしょう。本だのビデオに関しては英語という壁がありますが、仮に英語ができるようになっても、日本みたいに面白い読み捨て本が出てるわけじゃないです。もう、ほんと、日本的快楽についてはゼロレベルまで下がります。

     この「日本的な楽しみ」が、消費生活に反映されれば、前回いった「980円のコチャコチャ快楽」になるのであり、信じられないほどキメの細かな商品群になっていくのだと思います。

     なお、ここでオーストラリアにもナイトライフはあるとか、オペラその他の文化的イベントは非常に多いという指摘もあるでしょう。確かに、クラブもありますし、それなりに男女の出会いやナイトライフもあるでしょう。でもね、そんなの一部でしょ。シドニーだったらシティとテイラーズスクェアからキンクロまでの一角くらいでしょ。シドニーの人口400万。400万といえば大阪市と京都市併せたよりもちょっと少ないくらいの人口です。京阪エリアに一体どれだけのナイトライフエリアがあるか。梅田、心斎橋、難波、京橋、天王寺、河原町、木屋町、祇園、一体どれだけの店とキャパがあるか。人口比で考えたらやっぱり全然少ないと思うのですね。オペラその他の文化イベントについては、これもゴルフと同じく安近短であるけど、そんなに一般的なものじゃないでしょ?少なくとも本屋やコンビニに比べれば。





     @生活ベーシック VS B余暇カジュアルということで、非常に鮮明な日豪の差なのでありますが、冒頭の疑問、「どうしてそうなっちゃうわけ?」が未解決です。

     WHY?の理由の一つは、やっぱり@の生活ベーシックの気持良さだと思います。家や近所でボーッとしてるだけでそこそこ快適になるんだったら、自然とあんまりそれ以上を望まなくなるのですね。暇というのがそんなに苦痛じゃなくなるし、手持ちぶさたという感じがしなくなる。それが証拠に、日本に居る頃あれだけ飲み歩いた僕でも(今回もほぼ連日飲み歩いた)、オーストラリアに来ると夜どっかに出掛けるのが「ああもう面倒臭え」と思ってしまう。行くとしてもレストランだし、友達と飲むにしても自宅に行って飲んだ方が空間も広いしくつろげる。せっかくの休日に家や近所でぼーっとしてるだけでも、そんなに「時間を無駄にしてる」とかいう焦りはありません。日本だったら「うわ、何もせんうちに日曜が終わってしまう」って思ったもんでしたが。

     何というのかな、そんなにセコセコ・チャカチャカしてなくても間が持つのですね。エレベーターの「閉」のボタンをつい何度も押してしまうという人一倍イラチな僕にしてこうです。ましていわんや相棒福島をや。悠揚迫らぬ食っちゃ寝生活。ちなみにオーストラリアのエレベーターでは「閉」ボタンのついてない機種も半分くらいあります。





     ここから話がシビアになっていくのですが、日本の場合、@Aについては既にどこからかバシッと決められちゃってるから、結局僕らが自由に工夫して楽しくやっていける領域というのはBのカジュアルな楽しさくらいしか残されていないとも言えます。本来、人間が生きていくなら、@からBまで全ての領域にわたって自由に工夫できなきゃ嘘だと思うのですが、@Aを変革不能のように押さえつけられてしまっているから、思考発想もBの域を出ない。すごい意地悪く言えば、水槽に飼われていた金魚が広い川に出ても水槽の広さしか動かないとか。そう、それこそが問題なんだと思ったわけです。

     本来日本の風土は、オーストラリア以上に@の快適さを提供すると思います。日本の繊細で美しい自然からすれば、オーストラリアのそれは「残酷で荒々しい大陸」と言ってもいいくらいです。だから本来日本だって「居るだけで幸せ」という環境は幾らでも構築できると思います。実際、京都だって昔銀閣寺の近くに住んでたときは気持よかったですもん。なお、銀閣寺の入り口脇から入ってけば大文字山に上れます。「大」と書いてある中心部に簡単な展望台があるのですが、そこまで20分くらい。鴨川から御所から嵯峨野まで一望にできて非常に気持イイです。おススメですね。京都というところは不思議なところで、鞍馬、比叡、鷹ケ峯など、ちょっと北に進むだけど、信じられないくらい山奥になります。

    天の橋立の落陽

     僕はこちらに来てから(来る前も)「海外旅行」なんて殆どしてませんし、今後も興味がありません。そんな金があるなら日本に帰ったときに、日本国内を旅行したいです。昔からそういうタチだったのですが、年とともにさらに「珍しいもの」よりも「美しくて、心安らぐ深いもの」の方が好きだからです。今回も、京都から北山杉の森を抜け、日本海まで雪深い道をドライブしてきました。よかったですよ。

     だからオーストラリア程度の快感は、日本という国土マテリアルを使えば達成できると思います。でも、出来てない。なぜか?政治と産業構造が中央集権だからなのです。「都市部にいかなきゃ働けない」というのは、オーストラリアでも同じですが、それでも強力な自治権を持ってる州制度をとってるのでまだしも人口が分散できてます。日本みたいに東京圏に圧倒的に集中するということはない。何度も言ってますが、日本の人口の約70%は三大都市圏を始めとする都市部にいますが、この面積は国土の3%に過ぎない。だから東京圏では通勤2時間やってる反面、多くの日本の過疎村がガン細胞が広がるように死に絶えつつあるわけでしょ。壮大な国土の無駄遣いと言えます。そこに居るだけで気持いいエリアなんか日本に腐るほどあるのに、わざわざ住んでて不愉快なところにひしめきあって住んでいるという。

     この数字をもう少し正確にいいます。出典は酒田哲著「地方都市自立・分権への道」東洋経済新報社ですが、その35頁以下です。すなわち、日本における「人口集中地区」(市区町村の境域内で原則一平方キロメートルあたり約4000人以上という人口密度の高い地区がお互いに隣接し、かつその人口が5000人以上となっている地域)の人口動態は、1960年時点では総人口比43%程度であった。つまり、1960年/昭和35年には人口が密集している市街地に住んでる日本人は43%くらいであったと。「都会っ子」は二人に一人もいなかった、と。その後1970年(万博の年ですね)には54%と都会っ子が過半数を超え、1980年には60%の大台に乗り、1990年には63%になっているとのことです。

     この本によると『90年のわが国の総人口1億2360万人のうち7815万人の人口が国土のわずか3.1%の、都市のしかも市街地に住んでいるということである。都市化が今後この勢いで進むとすれば、これからの都市の整備の進展状況を考慮すれば、2000年頃には総人口の80%近くの人口が都市に住む事になろう』とのことです。一方増えるところもあれば減る所もあるわけで、同書によれば、人口減少市町村は、90年段階で全市町村の61%に達します。地方圏だけみれば全体の68%の市町村の人口が減少してます(以上各統計数値の大元の出典は国勢調査)。





     都市部に住んでる日本人だって、全員が全員好きで住んでるわけはないと思います。子供の健康と成長を考えたら、自然が豊かな所に住みたいという人は沢山いるでしょう。サンダルつっかけて親子で浜辺に遊びにいけるような所の方がいいでしょう。リラクゼーションものに金を費やすくらいなら、奥入瀬渓流のほとりに暮せた方が気持イイでしょ。でもそんな環境には仕事がない。あったとしても人間関係がうざったかったりします。

     どうしてそうなっちゃうのか、これは色んな本(地方分権を推進しようとか)が解説してるから、今更僕が繰り返すまでもないでしょう。地方に財源と権限と人材を再配置し、地元のボスが全部仕切るみたいな閉鎖性をブチ壊し、新たな産業を興すという事になるのでしょう。そういえば、大学の頃「もう強制的にもう一回廃藩置県−というか住民根こそぎ強制引越−をしないと駄目」とか議論してたのを思い出しました。

     ともあれ相当の大ナタふるってこの集権構造をブチ壊さないと、有効な国土利用はできないんじゃないかと思います。そうでないと、「居るだけで気持いい」生活は中々やってこない。日本は山が多いから活用可能な国土が仮に30%だとしても、それでも3%が30%まで広がれば、人口密度は10分の1近くまで下がる。地価もまた革命的に安くなるでしょう(地方は上がるだろうけど)。だいたい「一人あたりの家の占有面積」やらの基準ではじき出される「一番暮しやすい県」では、富山県が常連でノミネートされてるくらいですもんね。ぶわっと散開すれば相当しのぎやすくなると思います。地方は土地はあるけど人がおらず、都会は人はいるけど土地がないんだから、子供が考えたって「均せばいいじゃん」ということになるでしょう。

     もう一つは情報の中央集権。マスコミは都会にありますから、マスコミというのは基本的に都会派です。これはオーストラリアでもそうです。マスコミが提供する情報、提案するライフスタイルは、基本的にみな都会バイアスのかかったものです。国土3%の発想があとの97% を支配する。するとどうなるかというと、せっかく海が近くにありながらも、皆さんカラオケやパチンコやったりするくらいしか楽しみがなくなり、「やっぱり都会はいいよなあ」となる。マスコミは、「海が近くにある場合の快適なライフスタイル」なんて提案しませんからね。カラオケの新曲が早いことより、海が近くにあった方が百倍カッコいいと僕は思うけど、そういう価値観は提供しませんもんね。

     しかしこのあたりの話は、すぐれて政治の話です。僕ら庶民が個々の生活のなかで工夫してどうなるもんでもないです。




     さらに、残しておいたAの仕事本業時間があります。これは日豪一長一短だと思います。オーストラリアの一次二次産業への傾斜という産業構造の貧弱さ、仕事の規模の相対的な小ささとやりがいの無さなどから、キャリアバリバリでやりたかったらオーストラリアなんか出てアメリカいった方がいいと思います。福島のダンナのラースの世界トップレベルの技術を使いこなせる企業はオーストラリアには一社もないし、こないだまで僕らといっしょにシェアしていた液晶技術者の方のスキルを生かせる企業も一つもない。その意味では、そのあたりの町工場でも世界最高峰がゴロゴロしてる日本とは、やりがいが違うと思います。

     そのかわり、西欧的ドライさと独特のレイジーさがミックスしたオーストラリアの仕事観というのは、個人の人生を組み立てるにあたっては、非常にやりやすい。部屋の電灯を点けたり消したりするくらいの感じで、「あ、やっぱ別に会社にしよ」「今は子育てに専念しよ」「また働いてみよ」「別のジャンルに挑戦してみよ」が気軽にできます。失業率8%ですから成功は全然保証されてませんが、失業保険が一生出るという社会保障の安全ネットとあいまって、少なくとも「トライ」することだけは、日本にいるよりも遥かに気楽にできます。

     これは大きいと思います。気楽に本業をトライできるということは、人生の根幹部分を絶えず考え、絶えず組み替えていく事が出来るということを意味します。人間、一番面白いのは、自分の人生そのものので遊ぶことでしょう。やっぱりこれが一番夢中になれると思います。

     となると、@居るだけで適当に幸福になれて、A仕事という人生の根幹部分で比較的気楽に挑戦できるという環境にあることになります。このような環境におったら、それ以上にカラオケの曲数とか日本独自のコチャコチャした商品とかを余り求めなくなるのだと思います。

     逆に日本の場合は、大分事情は変ってきたとはいいつつも、狭い地域に押し込められてベーシックの気持良さを奪われ、それなりの根性を入れないと「自分の人生をいじくって遊ぶ」ということが出来ない。だから、僕らが自由になる領域というのは、ほんとに限られてしまう。

     そんなこんなの背景事情があって、僕が「末端肥大」と形容したような消費構造になってるんじゃなかろかと思うのです。




     そして、これは変革は可能だと思います。大元の部分は政治がやらんと駄目だと思いますし、そのためには、僕らがもっと自分のライフスタイルや人生の可能性は、政治によってかなりダイレクトに規定されているのだという切実な感覚を抱くことだ思います。はっきりいってシラけてる場合じゃないのだ。

     ただ、全体は全体として、個々人レベルではもっと自由にいろんな組み替えが出来ると思います。出来ることに気付いてないだけだと思う。だって、週刊誌30冊以上毎週チェックして、飲み歩いて、仕事してた、まさに日本人的快楽の典型みたいな僕だってできたんだもん。勿論それなりに紆余曲折はありますが、その紆余曲折は意味があろうし、やってみたらその紆余曲折自体が「面白い」と思えたのですから。

     また、こちらに住んでるベトナムからボートでやってきたバーちゃんや、ボスニアから身寄りもなく逃げてきた人々が何とかやってるのを見れば、人間というのは相当タフなもんなんだなというのが判ります。日本では勤め先が倒産するのが一大事ですが、彼らは祖国が倒産したんだもんね。それでもなんとかなるもんね。人間のダイナミックレンジは思ってるよりも広い。山あり谷ありだけど、山でも谷でも何とか生きていける。

     日本の商品のダイナミックレンジが狭いと言いましたが、その狭さは、突き詰めれば日本の僕らの生き方のダイナミックレンジの狭さに由来してるのではないかと思うのでした。

     だって「一生の間に、4回転職して、4回家を買い替えて、1回離婚して再婚して、3ケ国に居住経験を持」ってる人って、こっちでは別に珍しくもないけど、日本じゃまだまだ珍しいでしょ。普通の高校生が、「僕はこれからこれだけのことをするんだなあ」と自然に思えたら、自ずと人生の組み立ても変わるだろうし、興味の対象も変わるだろうし、また消費性向も変わると思います。たまごっちなんかやってる場合じゃないんじゃないの?

     こういう話になってくれば、何よりも考え方のフォーマットが変わるでしょう。今までは逆でしたもんね。高卒時と大卒時にこれから50年をびったりアロンアルファで固めちゃうような感じ。そんなの18かそこらのガキに出来るわけないもん。僕もえらいプレッシャーだったし。何によらず「一つ選べ」というのはえらいプレッシャーだと思います。だったら「仕事4つ」と言った方がいい。最初から4つならば、「まず最初にこれやって、それからこっちにいって」という組み立てをしようかという気になるんじゃないかな。「最初に世間全般を知る為にマスコミに入って、あるいはバリバリの営業職で世間修行して、それを5年くらいやって、その間に貯金もしておいて、そこで世間全般が見えた時点で、自分の専攻を決めてからどっかの大学院に入ろう。海外の大学ということもあるだろうから、今のうちに英語もやっておこう」とかね。その方が健康的だと思います。「安定していて恩給もつくから公務員」なんて決め方するよりは。

     ちなみに中高生の進路指導や相談も、アロンアルファでやってきた教師や親には荷が重いと思う。自分でそんな生き方してないから、それがどういうもんだか判らない。だから「とにかく慎重論」しか言えない。思い出したけど、僕らが高校くらいのときに親や教師に反発したときって、単にエラそうだから反発したわけじゃなかったわ。もっとエラそうな部活のOBの言う事は素直に聞いたもんね。反発したのは、言ってる事が間違ってる、現実に通用しないと思えたからだと思う。逆に家業の経理論とか「さすがだなあ」と思えることは耳傾けたもん。だもんで、学校も嘱託でもワンポイントでもいいからそういうフレキシブルなことしてきた人を雇ったらいいと思うわ。板前さんでも、俳優でも、極道でも。そういった人たちが進路指導の面接して、「おまえ、死ぬ気で努力した事あんのか?」「毎朝4時に起きれるか?」と突っ込まれた方が手応えあって納得しやすいと思うのですが。

     これからどんどんそのレンジが広がってくると思います。離婚も、転職も、転地も、海外移住も、国際結婚も、別に珍しくも何ともなくなってきつつあります。それは単に無秩序になるというネガティブな側面も併せ持ってますので手放しで喜ぶ事はできないけど、それを嘆いているのであれば、それは積極的にチャンスと捉えた方がいいと思います。そう思えなければ、どんどん世紀末的ペシミズムにヤラれちゃうだけだとも思いますから。世も末と思うか、世の始まりと思うか、ですね。「末端肥大」といいましたが、末端を肥大させることが出来る力を持ってる民族は根幹もまた豊かにできる筈だと思います。



1999年03月06日:田村


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