シドニー雑記帳




キサラギ99/日本にて(2)






     引き続き日本訪問記です。個人的に一番感銘を受けたのは「その1」で書いたことですけど、パーソナル過ぎて分からん人にはさっぱり分からかったんでしょう。深度はあるけどその分狭いという。以後、もう少し間口の広い話をします。そんなに激しく感銘を受けたというよりは、「ふーん」程度のことですけど。

     ランダムにいきます。





     いきなり浅薄なことをいいますが、単純にポコッと思ったのは、やたら背の高い女の子が多いなということでした。10ヶ月前にはそんなこと思わなかったけど、なんぼなんでもそんな短期間に体位向上するわけないよなと思ったら、何のことはないヒールの高いブーツが流行ってるわけですね。それも、舞妓さんのポックリ下駄のような、その昔ロンドンブーツとか言われてたやつ。「あれ何ていうの?まさかロンドンブーツじゃないでしょ?」と友人に聞いたら、「いやあ、ただのブーツって言ってるけど」とのことでした。

     しかし、「流行は繰り返す」とか言いますけど、これまでピンと来なかったけど、ここまで生きてると一巡するのを目の当たりにするから「お、なるほど」と思いますね。微妙にモデルチェンジしてはいるものの、ダッフルコートとか、高校の修学旅行に着ていきましたわ(私服だったもんで)。ちょっとだけ裾の広がったジーンズとかね。なんか、そういった人々の群れのなかで、駅の階段なんぞを上がっていくと、昔むかしの大学受験の頃を思い出します。



     で、クダンのポックリ下駄ですけど、「おお、あそこまでいくともうステージ衣装の世界やぞ、KISSみたい」とか思うくらいヒールの高いの履いてた人も居ますが、ようコケないなあと感心してたらやっぱりコケたり、ヒールが折れた人も見ました。

     左に参考用に撮った写真があります。「話のネタになるかも」くらいの気持で撮ろうと思ったのですが、アングルがアングルなだけに、「その趣味の人」だと思われるんじゃないかと、まあキライじゃないですからそう思われてもいいんですけど、やっぱり根が小心なもんで、いざ撮るとなると結構気になるもんです。よくホームページにその趣味の人の写真が掲載されてたりしますが、いやあ、大変な思いをして撮ってはるわけですね。エラいわ。



     昔は流行モンとか好きじゃなかったけど、今はそんなんで目くじら立てる気はないし、本人がそれでいい気持だったらそんでええやんと思います。しかしねえ、あんなん見てるとつくづく「流行って何だろうね」という気持になります。

     ヒールが折れて恥ずかしそうに小走りに駆けていく方を目で追いながらふと思ったのは、「本当は皆変なカッコしたいのかな」ということでした。


     実際、変なカッコするのって妙な快感がありますもん。僕だって、頭立たせて、ギンギンに化粧して、豹柄やトラ柄のバンダナを手首に巻いたりして、ギター弾いたりしてたから判りますけど、変なカッコするのって楽しいですもんね。

     「他人のことは言えない」ということで、この際、恥をしのんで右に載せますが、要するにこんなヘンなことやってたワケですが、客観的には恥ずかしかろうとも、やってる本人はこれが楽しい。ちなみにこんなカッコしてますが、スデにこのときは弁護士やってました。本チャンのライブじゃなくて、友達の結婚パーティーかなんかでの余興のヒトコマです。しっかりX(この時期はまだjapanはついてなかった)の「サイレント・ジェラシー」を完コピして臨んだのを覚えてます。練習したもん。何やってんだという気もしますね。


     オペラのゴテゴテなんか、「変」といえばメチャクチャ変ですよね。歌舞伎だって、ストーリーに全く関係なく、異様に肩衣がデカかったりして、そんなデカくちゃ邪魔でしょうにというくらいのもの着てます。そこまで極端でなくても、程度の差こそあれ、誰だって変なカッコしてます。別にトレーナーの上下みたいな部屋着が一番楽なんだからそればっか着てりゃいいのに、皆さん頑張っちゃうのはなんでかな?と思うと、やっぱり楽しいんだろうな。




     で、流行ですけど、別にそれが客観的にカッコいいから流行があるのではないと思う。普通だったら恥ずかしくて出来ないような妙チキリンなカッコを、「流行ってるから」ということで堂々と着れるというのがポイントなのではないでしょうか。だって、外国から帰ってきていきなり見たら、あのポックリ下駄ブーツ、相当「変」だよ。

     シドニーで多民族に囲まれて、インド系のサリーやターバン、中近東の女性の白い被りものとか日常茶飯事に見てます。ニュータウンで七色のモヒカンの女性も見ました。だからヘンなカッコは見慣れている筈なんだけど、それでもあのポックリ下駄は、滑稽感が漂うような「変」さがありました。フィギアとしてはそう極端に変じゃないのに、どこに違和感を感じたのかというと、気合というか確信というか必然性というか、そんなもんが足りないからかもしれません。七色モヒカンのおねーちゃんは、やっぱり「あたしはコレが好きなのよ!」という気合が入ってます。思わず周りも納得してしまうオーラがでてるような気がする。ターバンでもサリーでも、本人にはそれを身につける確信があります。

     スカートというのは、女の人の場合は当たり前ですが、男がはいてると何か妙な不安定感があります。ああいう形態の服が客観的に変かというと、別にそんなこともないと思いますが、男がはくと何か変でしょ?なにが変なんだろうなというと、単に見慣れてる見慣れてないという問題もありますが、着てる人間に確信がないからちゃうかと思うわけです。ニューハーフみたいに人生賭けてはいてる人を見れば、(まあそれなりに化粧もきれいということもありますが)何となく納得しちゃんだけど、それがないと只の仮装大会的なものになってしまう。

     ファッションには詳しくない僕ですが、こう考えると難しいもんですね。よく新入社員などに「スーツが板についてきた」とか言いますが、スーツでキメてるつもりがただの七五三になってたりする人も、年季が入ればそれなりに見えるようになる。不思議ですよね。着てる側の主観的なものが、客観的なビジュアルに影響を与えるというのが。ともあれ、変なカッコを変と思わせないようにするのは、それなりに年季がいるのかもしれません。

     で、クダンのポックリ下駄でありますが、皆さん「あたしは一生これしか履かない!」という気合は、当然ながらありません。本来そういう気合で強引に似合わせてしまうべきものなのでしょうが、そんなこといってたらそんなに色んな服を着る事ができない。気合ゼロで、もっと気楽に、カジュアルに変なカッコしてみたいならどうしたらいいか?それが流行なんだろうなあと思った次第です。「ちょっとやってみたい」程度の欲求、別に一生それで行くとかいうわけではなく、つまみ食い的にやってみたいという欲望を叶えるには、流行というのは非常に都合がいいのです。

     流行というと横並び意識とか、バスに乗り遅れるな的強迫観念とか言われますが、そればっかりじゃないんだろう。古代から人間社会に流行というものがあるというのは、やっぱりそれなりにニーズあってのことなのでしょう。それが判ったような気がしました。やっぱり流行というのはカッコいいから流行るのではなく、カッコ悪いから流行るんだろうな。カッコ悪いものが何故かカッコよく見えちゃうという洗脳的快感というか、価値観キックの快感というか、トリップというか、そこらへんがあるのだと思います。だって本当に完成度の高い、誰が見てもカッコ良いものだったら流行って廃れないと思いますもん。ロールスロイスやポルシェのフォルムのように。でも、それじゃアパレル業界も困るから、飽きたり、催眠状態が醒めたら恥ずかしくて着れないような、どこか不完全なものを売り出してるでありましょう。進歩しちゃダメなのですね。冷蔵庫の電球は切れないけど、灯りの電球はすぐ切れるようなものでしょうか。

     だったら、そんなに目くじら立てることもなく、思いっきり変なカッコが流行るとおもしろいですね。トランプの王様みたいなカッコとか。ただ、流行が早ければエラいとか、遅れてる人を馬鹿にしたりとか、そこらへんの優劣関係が入り込んでくるとイヤらしくなっちゃうんだと思います。そういう邪念を持ち込まず、純粋に変なカッコする楽しさをエンジョイしてた方がいいじゃないかなとか、ふと思ったわけです。

     書くと長くなっちゃいましたけど、現場で実際にこんなことが頭に浮かんだのは10秒程度のことでしたが。次の話いきます。







     久しぶりに見る日本はですね、相変わらず激安大会になってました。TVなんぞをたまたま見てたら、どっかのレストランを紹介してて、「これでなんと680円!!」とかいって、”680円!!”という字が画面にデカデカと出たりして、なんか妙に気分になりました。これもちょっと「変」じゃないの?と。広告なら分かるけど、普通の番組で値段ばっかり気にしてるというのって。

     海外旅行の激安パックなんかもすごいものがありますね。旅行業界も大変でしょう。一人海外に送って利潤が数百円とか、業界3位の日本旅行がJR西日本と統合とか憶測が流れたり。日本におったら、海外旅行って待てば待つほど安くなるんじゃないかって気になるんじゃないかな。パソコンみたいに。

     でも、現地にいる人間にしたら話は逆です。日本がデフレだと何となくデフレ的に考えてしまうのも無理ないけど、こっちはインフレ。煙草の値段のように着々と上がってます。シドニーなんかハッキリいって不動産バブルだから、宿泊料金にしても何にしてもインフレしてます。2年前に比べたらかなりあがってます。これからオリンピックに向けてまたどんどん上がるでしょう。




     「何かっつーと激安ばっかじゃん」という違和感を出発点にしてちょっと考えて見たのですが、僕の感じた違和感はもっと構造的なもののような気がします。こう言ってしまうとエラそげですけど、日本人の消費感覚に一抹の危惧を感じちゃったわけです。恵まれ過ぎてナマってるというか、どことなくアンバランスであるというか、なんかヘンだなと。

     一つは日本で売られているものの品質の良さです。最高級機種ばかりの品揃えをするという「ハイエンド・ジャパン」とか言われたりしますが、どんなに安くても最低限の品質はクリアしてます。それが日本の良さですし、日本の産業の凄みでもあります。

     そこへいくとオーストラリアは油断できないですよ。賞味期限前でもしっかり腐ってたりするし、魚も肉も野菜もそれなりに目利きができないと損します。日本で流行ってる百円ショップみたいな1ドルショップなんてのもこっちには昔からありますが、あれこそ「安物買いの銭失い」になるリスクは非常に高い。日本の感覚では信じられないような粗悪品が混じってます。一回も使わないうちに壊れたとかね。壊れないけど全然使えないとか、とても不味くて食えないとか、ザラです。同じジャンルのものでも、ゴミ同然のものから最高級品まであります。イスひとつにしても、北欧の最高級品からフリーマーケットで5ドルで売ってる脚が一本欠けてるものまである。

     煙草もビールも、ガソリン並にショップによって値段が違うし、さらに同じショップでも毎日値段が違う。オーストラリアは生活費が安いといいますが、日本の消費者感覚でやってきたら、最初はエラい苦労するんじゃなかろか。同じ物でも、場所と時間を工夫すれば随分違います。ここで日本だと激安ガイドとかそこらへんの情報誌が出版されるのだけど、こっちはその種の活字情報は非常に乏しい。年一回のショパーズガイドがあるだけだし(しかも最近この本もあんまりアテにならなくなってきてると思う)。じゃどうすんの?というと、他人に聞いたり、自分で必死こいて探すしかないのです。また、TVやラジオのバーゲンCMで超早口で開催場所の住所を言うから、瞬時に聞取って覚えるとか。




    ←左の写真は、ラジオのCMでやってたファクトリーセールの様子。一瞬アナウンスされる住所を聞き逃したらここに辿り着けないわけですが、さすが地元の人は知っている。新品のクッション類がほぼ半額で買えました。機械作動させてその場で作ってるという本当のファクトリーセールです。



     また、商品の種類も少ないし、工業製品は物品税が異様に高いから(30%を越えるものもある)思ってるほど生活費は安くならない。”shop around”という英語もあるくらいで(安いものを探してお店巡りをすること)、車の修理にしても、害虫駆除にしても、獣医にしても、合い見積もりを取る。「見積もり無料です/free quote」なんて看板も出てます。車の修理をするにしても、部品一つ一つについて値段とともに説明され、「この部品は新品を使うか中古で間に合わすか?」を聞かれたりします。歯医者にしても「二つのオプションがあります」と値段を細かく言ってくれます。余談ですが、だから英語(車の修理用語や歯医者用語など)ができないと損するんですけど。

     というわけで、オーストラリアでの消費生活は、アバウトなんだけどそれなりに大変でもあるわけです。これだけだったら日本の方がずっといいということになります。そうなんです、日本で買い物してる方がずっと楽なんです。だからそれが皮肉なことに問題なんです。

     オーストラリアでは、頼れるのはオノレのみですから、ぼけっとしてたら損します。考えなきゃいけないことが色々ありますし、そうやって考えているうちに、「本当にこれ必要なんだろうか」、この値段に見合うベネフィットは本当にあるんだろうか?とか考えます。さらにどうしてこの値段になるのかという仕組も考えたりする。僕もこちらに来てから、魚の目利に始まって、いろいろ鍛えられました。安くあげようと思えばどこまでも切りつめられる反面、日本ではおよそありえない「大ハズレ」ってのも地雷のように結構あるから、そのへんのメリハリとか悩みますよね。でも、日本におったら、オーストラリアにいるほどシビアに詰めて考えないんじゃないですか?



     海外旅行も、今は日本の旅行会社が殆ど破滅覚悟で安値戦争してるから、基本的には「買い」でしょうが、本来あんな値段で海外旅行なんか出来るわけがないというのを知っておいた方がいいと思います。パック旅行はどうしても最大公約数の初心者セットだから、修学旅行みたいなもんで、あなたの趣味に100%合うわけではなく、感動のレベルもそこそこにならざるをえない。後々個人旅行もしたくなるでしょうが、激安パックばっかやってると、いざ自分で全部旅程たてるときの組み立てとかが全然出来なくなってしまいかねない。パック旅行はホテルも航空券も一括購入してるから非常に安く、単品で予約していったらずっと高くなってしまいます。でも、そこで予算オーバーするから、初めて「戦略」というのが出てくるのだと思います。とにかくのんびりしたいのか、それとも下町のザワザワした感じを味わいたいのか、将来の下見なのか。それによって、どこを削ってどこを強調するか、旅程も予算編成も変わってくるでしょう。

     激安パックで海外旅行が身近になったといわれますが、僕は逆だと思います。実体にそぐわない価格感覚をして、しかも自分で段取立てられない、その情報収集のスキルもない人は、結局どこまでいっても自立できない。だから、ちっとも身近になってない。むしろ妙な誤解をするだけ遠ざかってるように思います。




     何処の国だってそれなりに妙な偏向がかかっており、何がスタンダードかなんて基準もないのでしょうが、日本の消費社会の場合、指摘しうる特徴としては、

     @最低品質がしっかりしてるので、必死になって目利きしようとしなくなる
     A業者が何でもやってくれるから、自分で消費プランを組み立てることが出来なくなる

     という点が挙げられると思います。多分、いまの日本で、中古車を個人売買するにあたって、ボンネット開けてチェックして、「OK、20万だったら買ってもいいよ」とやれる人はそんなに多くないと思います。




     これに加えて、日本の商品構造というのは、何でもありそうにみえて実はそうではないと思います。あるものはメチャクチャ豊富にあるんだけど、ないものは誰もその商品の存在自体を知らないというくらいにない。あるレンジのバラエティはすごいんだけど、レンジ自体は狭い。

     例えば、日本は世界の食文化があるといいますが、確かに同一民族でこれだけ雑食なのは珍しいし、誇りに思ってもいいでしょう。でも世界の食文化があるというのは言い過ぎやわ。だって、トルコ料理、デンマーク料理、ペルー料理、ギリシャ料理とかいっても何なんだか想像つかんでしょ。僕と福島の好物のタボーリとかムサカとか日本で食べられるとは思わんもん。

     イタリア料理は広まってるようだけどオリーブオイルも何種類もあるし、オリーブの漬けたものにしてもこれまた沢山種類があるけど、オリーブの実の食べ方なんかそんなに広まってないと思う。右の写真はイタリア系のデリカデッセンやスーパーでよく見る光景ですが、オリーブやらサンドライドトマトやら色々売ってます。中国料理にしても、神戸の南京町で食材店みたけど、こっちで売ってる10分の1も品数がなかった。僕の大好きなラータイチがないわ、こっちで150円くらいのオイスターソースが900円もするわ(輸入するにも日本の方が中国より近いのに何で?)。スパイスの種類も少ない。こっちに4年暮して、あれこれトライする方だけど、それでも未だにどうやって食えばいいのか見当もつかない食べ物が沢山あります。





     でもこれはしょーがないと思うのですね。単一民族なんだから。シドニーに居る奴だって、基本的には自分の文化の食い物が基本で、そんなに他の文化の食べ物を知ってるわけではない。民族単位で考えると日本民族は貪欲に吸収する方だけど、JAPANというエリアには、圧倒的に日本人ばっかり居るからどうしても偏ってきてしまうというだけのことだと思います。実際、日常的に「なんじゃ、こりゃ?」と得体の知れない商品に遭遇する機会ってそんなにないでしょ。

     そうなると、売る側でも日本人の味覚や好みに合せて売るようになります。だってそうしないと売れないんだもん。同じパンでも日本人の感覚に合わないであろうものは棚に並んでない。よくラースが焼いてくれる、二切れ食ったら腹一杯になるよなヘビーでズシリとしたパンなんか全然ない。こっちのパン屋と日本のパン屋を並べたら同じパン屋とは思えないくらい商品構成もテイストも違う。

     それでも売る方としてもちょっとずつ日本人の味覚を拡大するように、「ちょっと冒険しませんか」的に新しいものを売ろうとしてるから、一昔前に比べれば随分レンジは広がったと思います。

     これも、消費者としては楽な話で、知らない物に取り囲まれて、それしかないから強引にそのテイストを理解できるように自分を慣らしていく(納豆嫌いが好きになるように)という苦労はせんでいいです。でも苦労せんでいい分、そんなに広がらない。理解出来ない物に囲まれるという知的刺激もない。

     だから何でもあるようにみえて、パソコンの部品のように「日本人対応」のものだけが並ぶ。そして対応商品に関しては、その範囲では目茶苦茶バラエティに富んでいる。ラーメンはものすごいバラエティあるけど、アジア全般でポピュラーなラクサなんか一種類もないんじゃないかな。日本は物があふれてるというけど、ある物はあるけど、ないものは全然ない。コマメに探せばあると思うけど、普通に売ってるレベルでは、無い物の方が多いと思う。これは、日本に住んでる外人さんに聞いたらそう言うんじゃないかな。



     何度も言うように、これは日本人が悪いのではないです。それどころか民族単位ではすごい頑張ってる方だと思う。しかし、惜しむらくは単一民族だから自分の嗜好に合わないものが割り込んできて否応なく存在するという状況に慣れてない。

     だから一民族でいくら頑張ってもダイナミックレンジは限られてくる。それに加えて、優秀な工業生産力と凝り性な性格、高い人口密度での競争で差別化を図ろうとするから、その少ないレンジの中では、驚くほど豊富で、品質的にも優れた商品群が店に溢れることになる。これはとても幸福なことだと思います。自分の好きなものが沢山あるんだから。

     久々に日本に帰ると、その目を奪わんばかりの豊富な商品群に嬉しくなります。「わ、こんなのもある、お、こんなのも出たのか」みたいに。デテールにおいてこれでもかと工夫を詰め込んだワクワクするよな商品。そういえば、最近では、弁当についてる醤油の袋に切れ込みがなくて、「どこからでも切れる」ようになってて、これも感心しました。ほんとねえ、オーストラリアなんかねえ、切れ込みついてても全然切れやしないし、ポップコーンの袋を開けようとして大爆発して飛び散らせてしまう世界ですからね(そういうのがマンガのネタになったりするという、なんという後進性)。ほんと、こういうことやらせると、日本は世界一かもしれん。

     このような状況の下、さらに長引く消費不況の下、さらに差別化して売ろうとすれば、もう価格競争しか残ってないのでしょうね。で、価格ばっかり目がいってしまう。





     上記のことをまとめると、@品質は優秀だわ、A業者が全部やってくれるわ(解説本も死ぬほどあるわ)で苦労要らず、だけどBレンジは狭く、その狭いレンジのなかでCバラエティは異様に豊富という構造になっている。そこで、消費者が主体的に選択するとなると、あんまりもう選択肢が残ってなくて、結局価格とかそういうことになっていっちゃうのかなと思います。

     勿論品質にしても競争はあるんだけど、オーストラリアみたいに分かりやすい悲惨なラフさはないから、「アルカリイオン飲料」とか有機農法やら自然農法やら、どうしても頭デッカチの、情報先行の差別化になりがちだと思います。

     その昔、80年代から90年代のマーケティングについての話を聴いた事がありますが、これまでは商品にスチュエーションという「場」を付けて売っていた、しかしこれからは「物語」をつけて売ることが必要ですとか言ってた。単に紅茶を売るんじゃなくて、「午後の紅茶」となづければ優雅な場所で優雅なひとときを過ごしているような感覚を売れる。さらに、「手摘みイチゴ」とか名付けて、生産されてくるまでのストーリが見えるようにするとかなんとか。そういや「紅茶物語」ってのもありましたね。

     僕も日本にいるときは、「ほーう、なるほどね」とか聞いてたけど、今半分オージーになっちゃった目から見れば、bullshit!ですよね、ほとんどクソです。そんな180円で物買ったくらいで、「物語」なんか手に入るわけないじゃん、幻覚じゃん、妄想じゃん、子供だましじゃん、というか子供が考えても嘘じゃん。阿呆ちゃうかと思えてしまうのです。だから「気分」ですよ「気分」、ということなんだろうけど、そんな幻覚みたいな「気分」で嬉しいか?そんなに物語が欲しかったら、とっとと荷物纏めてどっかに旅立てばいいじゃん。健康なんたらも、そんなに健康したかったら、早寝早起きして走った方が数千倍効果あるのは見えてるじゃんって、そんな具合にも思えてしまうわけです。

     物語といえば、実家にいるときも、両親がいろいろ食べ物を買ってきて食卓に出してくれたのですが、それはそれでありがたく戴いたのですが、いちいち「これはビンチョウマグロでなんたらかんたら」「これは○○県でやってる特産のどうしたこうした」と、能書きが入るのですね。まあ、確かに不味くはないけど、そんなにミラクルに旨いというものでもないです。なんか能書きを食ってるような気がしてきて。僕に必要な能書きというか「物語」は、「両親がわざわざ買ってきてくれた」ということで十分なんです。それが一番大事。

     自然農法やら名産やらありますが、食べる側からいえば、「お母さん(お父さんでもいいけど)が一生懸命作ってくれた」という部分が一番「有機」で「自然」な「物語」なんじゃないのかな。こういうと妙な精神論を言ってるみたいでヤなんですけど、でも、彼女が作ってくれた弁当は旨いでしょ、マズくても旨いでしょ。そーゆーことってあると思う。そーゆーいい加減な錯覚をするのが人間なんだと思うし、そーゆー錯覚をコンスタントにできるというのがシアワセということでしょ。レベルが全然違うって言われるだろうけど、要するにシアワセになるためのワンステップとして買い物してるわけでしょ。

     もちろん有害物質その他のチェックは官民合せてキッチリやるべきですし、そのシステムを構築すべきです。でもそれは政治や行政の問題でしょ。家庭の食卓に影響は与えるだろうけど、家庭の食卓で解決すべき問題ではないでしょ。記憶も薄らいできたけど、ガキの頃の食卓というのは、そんな話してなかったような気がする。どこかで誰かが言ってたようなことを鸚鵡返しでリピートするよな、能書き垂れのオンパレードのような食卓を、それを僕は「食文化」だとはあんまり思わないです。




     何でそんなファンシーな方向に行っちゃうのかな?と思います。自分がシアワセになるために本当に必要だと思うものを、あってもなくてもどっちでもいい付加価値なんか取っ払って(結局価値は付加されてないんだから)、必要な本質部分だけを、リーズナブルで売ってるところを必死こいて探して、目利ちゃんとやって、買うというのが、本来の分かりやすいスジだと思うのですけどね。それが消費者でしょ、と。

     また細かな工夫と付加価値がテンコ盛りになってる商品、僕はこういう「ちょっとウレシイ」という日本の商品特性を「980円のコチャコチャ快楽」と名付けましたけど、確かにウレシイんだけど、でも「ちょっとだけ」です。ハッキリ言ってなくても全然構わんし、醤油の袋なんかついてなくてもいい。なんでそうファンシーな部分ばっかり発達すんだろうなと、そこに違和感があるのです。

     ちょっとエキセントリックにいうと、視野狭窄の末端肥大の能力低下の集団催眠といったところでしょうか。これが特徴だなあと思いました。粗野で不親切で品質音痴で嗜好爆発状態の国から来ると、ちょっとそう見えるということでした。どっちもすごーく良く分かるんですけど。

     でも、やっぱり、なるべくしてこうなってるんだと思います。その社会の文化や特性というのは、どういう方法でシアワセになるかという、方法論というかユーティティというか環境というか、そういうフォーマットみたいな部分にあると思うのですけど、そこが違うからなんだな、と。そーゆー環境におかれたら、そーゆー方向にシアワセを見出すという形に自然となっていってしまうんだなと。そのあたりをまた述べたいと思います。






1999年03月04日:田村


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