シドニー雑記帳
近況雑感99〜2000
思いっきり間隔が開いてしまいましたこの雑記帳であります。すいません、バタバタしてました。おまけに2000年になってしまいました。
読み返して見ると昔の雑記帳って、結構ライトに書いてたんですね。今から思うと、「え、これで一本」というくらいの軽さで書いてる。それがいつしか、どんどんヘビーになってきて、一本書き上げるハードルが高くなってきてしまってます。これは雑記帳だけではなく、「今週の一枚」ほか全てのコンテンツに言えることなんですけど。
それはさておき、ご無沙汰の近況です。
巻頭近況でも書きましたように、福島=ラースコンビがめでたく独立しました。前々からそーゆー話はあったのです。というか、ホンマのこといえば、福島の家、僕の家、そしてAPLaCの事務所と3つあって当たり前だったりします。でも金がないもんね、しょーがないもんね、近いと何かと便利だもんね、そんなにお客さんもいないもんねってな感じで推移してたわけです。
ところが昨年後半くらいから、おかげさまでそこそこ賑わいをみせてきまして、月間メールのやりとりも、7月536通、8月618通、9月671通、10月700通、11月711通、12月749通と着実に増えてきてます。しかし月間700通書いたり貰ったりしてると結構大変です。それも一通一通、全部個性のある質問だったりしますから、集団処理というのが出来ません。
でも、これもホンマのこと言えば、2000通くらい来てようやく人並みの零細企業に入れてもらえる程度の採算ベースに乗るって感じでしょう。インターネットビジネス等をお考えの方への参考として申し上げますが、ホームページをチャッと開いて、メールがチャッと来て、はい毎度あり!なんてこたあないです。
ある意味では普通に就職してる方が遥かにお金にはなりますねえ。なんせサラリー貰ってる限りは「ただ働き」ってのが殆どないですが、自営でやってると「たまにはお金を貰えるときもある」ってな感じですもんね。でも、ま、それでいいんですわ。僕だって本屋に入れば買わずに立ち読みしますからね。同じことですね。立ち読みスペースだって本屋さんにすれば経費かかってるんですからね。
お客さんがいらっしゃって賑やかになるのはいいのですが、福島ラース組の自室がゲストルームに近いというAPLaCの家の構造上、どうしてもプライベートライフが浸蝕されていくのは止むを得ないです。いや、来られる皆さん、どなたも紳士淑女でいらして、って別にゴマ擦ってるわけでもなんでもなくて実際そうなんですが、だから特に騒がしいとかそういうことはないです。そうであったとしても、「人がいる」という存在感自体が、長いこと続くと疲れてきますわね。またあの二人は新婚以来二人だけで住んだ事ないし。
そんなわけで、もうそろそろ潮時かなあという感じだったのですが、年末にいい場所が見付かりまして、そこから先はイッキカセー(一気呵成)でありました。クリスマスイブも皆してヒーコラ引越してました。
で、僕は従来どおり今のAPLaCの家に残ってます。どっちが独立しても良かったのですが、福島がアロマ方面に進行すればするほど、語学学校サポートは僕の担当になっていきます関係上(車の運転もするし)、また客慣れ人慣れしてるという性格(正確にいえば全然気を使わないB型気質)からも、僕が残った方がいいだろうということですね。庭も手入れもあるし(庭担当は僕でありました)。
で、僕はあの大きな6BR+2の家にぽつねんと一人でいるかというと、今このクダリを書いてる瞬間はそうです。ただ、カミさんもいます(いま仕事で日本に帰ってます)。そこらへんシェアメイト募集の関係もあって、人数構成を明らかにしようと「カミさんもいます」とトップページの巻頭にちょろっと書いておいたのですが、これが意外と反響がありまして、「結婚おめでとうございます」とか色々いただきました。それはそれで、ありがとうございます。
ほんでも別に昨日今日結婚したわけじゃないっす。長期的にカミさんが来るようになったのは昨年の11月だったかな、ですが、それ以前、去年の早いうちからチョコチョコ来てましたし、たまたま居合わせて会った方も結構おられますし。だから別に隠してたわけでもなく、かといってAPLaCホームページ3年余の歴史で「独身です」とか書いた記憶も特にないし、要するに「別にスターじゃあるまいし、一身上のことなど大したニュースバリューもないわな」ってな感じでありました。大体、ホームページの”about us”のページでのラースの紹介も、ただの「シェアメイト」としてしか書いてませんし(もうシェアメイトでもないから、更新しなくちゃね)、雑記帳で福島の結婚話が出てたのはネタ&情報として面白いから書いてるだけだし。
そこらへん、自分らでも自覚してますが、あまり日本人チックではない独特の「水臭さ」がありますわね。「プライベートのことは、自分が言いたいときは言うが、言うべき義務は(特に合理的に必要性がない限り)一切ない」ということで。
ちなみに、オーストラリアでは(西欧一般の傾向かもしれないけど)、他人に向って年齢とか既婚未婚(マリタル・ステイタス)を聞くってのはマレだと思います。話の脈絡でどうしても聞かざるを得ないときとか、本人から自発的に話す場合を除いて、そもそもあまり話題になりません。僕らも、何年もつきあってるけど、未だに既婚未婚も知らんし、年齢も知らないというオーストラリア人の知人は結構います。人間関係を構築するにあたって、そんなに必要な情報じゃないってことでしょうし、ま、確かにそんなに必要な情報でもないです。
でも、一方では僕は日本人ですので、日本流に、年齢、少なくとも既婚未婚の有無くらいを知らないと「友達」とは感じにくいとか、周囲の人間のマリタルステイタスくらい知ってて当然という感覚も分かります。わかるんだけど、でも「そのくらい知ってなきゃ」って感覚も、オブセッション(強迫観念)というか、「錯覚ちゃう?」という気もします。だって、既婚未婚って、知ったところでそれほど決定的な情報って気もしないんですね。既婚っつても実は離婚同然かもしれんし、未婚っつっても明日式を挙げるかもしれんし。
逆に、それを知ることが人間関係構築にどのような具体的意味があるのか?とメンチ切って問われたらどうですか?
まあ、結婚相手を探すとかいうなら別ですけど、別に結婚相手は相手が既婚だって構わんでしょう?今後のプロセスが多少は面倒臭くなるかもしれんけど、好きかどうかには直に関係せんでしょ。あなたは関係するかもしれんけど、僕は全然気にせんです(^^*)。
だもんで、結婚未婚が情報として意味を持つということは、結婚してる人としてない人とで、ライフスタイルも発想もかなり違ってるような社会においての話なんかなって気もします。宗教上の理由などから、イスラムなんかでは結構峻別するみたいですけど、あんな感じに、結婚した人の生き方と、してない人の生き方とで「かなり違う」ってくらいに違ってたら、聞く意味ありますよね。
日本はどうなんですかね。既婚と未婚とでそれほど生き方違いますか。
なお、オーストラリアだって、ビザ取得とかになると、マリタルステイタスうるさく聞きます。「なんでそんなに?」とか思うけど、不法移民対策として必要なんかな。なお、日本では最強の身分証明として戸籍謄本がありますが、オーストラリアには戸籍謄本に該当するものがありません。住民票もないです。出生証明とか結婚証明とか証明書は全部個別ですし、通例は免許証で間に合います。別にこれで殆ど間に合ってますので、戸籍とか住民票とか、日本にいると頭から「無くては困る」と思いがちですが、実はそれほど必要なもんかいな?って気もします。もっとも、遺産分割とかで家系図を調べるには便利かもしれませんが。
ことのついでにプライベートな話になりましたので、もう少し自分のプライベートなことを言いますと、僕は今度で結婚二回目です。つまりは離婚歴があり、バツイチなわけですが、この「バツイチ」という言い方がちょっと気に食わない。どーせ言うなら「マルイチ」といってくれいっと。だって、自分の中で前の結婚したことについては、後悔なんか1ミクロンもないですもん。「いやあ、やってよかったなあ」と今でも(おそらく終生)思いますもんね。それを「バツ」呼ばわりされるのは、そんなに不愉快ではないけど、単純に「わかってねえなあ」ってボソッと思ったりもします。ま、わかるわけもないんだろけど。
でも「バツ」なんて言葉が広まるということは、要するに皆さんそう(離婚=結婚の失敗)だと思ってるからなんでしょう。からなんでしょうけど、、、、うーん、ほんと? ほんとに、マジにそう思ってんのかな? 僕が実際に見聞きしてきた現実では、必ずしもそうではなかったけどな。結婚と離婚は全然別個のイトナミで、「結婚の失敗=離婚」というほど単純なものでもなかった。
よく、「結婚は数ある恋愛のなかのチャンピオンである」という発想があります。仮にこれまでの半生で10回恋をして、うち1回結婚したとすれば、その結婚が他の9回を凌駕して素晴らしく実り豊かだったという具合に一般には思われるかもしれません。結婚に至らなかった恋愛はあたかも「孵化しなかった卵」扱いになるという。
でも、僕は全然そうは思わない。10人付き合ったとして、そのうち「自分に大きな実りを残してくれた人」「とてもプレシャスだったもの」というベッタな観点からカウントしますし、それで10人中5名が「スペシャルサンクス」に価するとして、その5人に結婚相手が落選することだって充分ありうるだろうと。
それに人間関係というのは、人の個性に応じて万華鏡のように変化し、その関係の濃淡はあれど、「淡い関係だったからこそ素晴らしい」というのもアリでしょう。一回夜を共にしただけで、あとは数年に一回くらいしか会わず、会ってもコーヒー飲んで世間話してるだけなんだけど、それでいいという。そーゆーのもあるの。あるんだから仕方がないの。あるからこそ、いろいろ文学とか小説とかが成立するんでしょうが。その昔流行った「マジソン郡の橋」とか、あれなんか出来すぎだと思うけど、それに類することは長いこと生きてれば、誰だって一度や二度はあるんじゃないですか?
まるで前世で何か強烈な結びつきがあったかのように自分と波長が合う人がいたとしても、必ずしもその人への気持が恋愛という形になるとも限らない。熱烈な恋をしたからといって必ずしも結婚という器にハマるとも限らない。好き過ぎて駄目ってケースもあるし。結婚を向わせる原動力と、それを維持する力とは別個のものだと思うし。
赤い糸の伝説のように運命的なピピピがあって、激しい恋に落ちて、そのまま結婚して、一生幸せに暮しましたとさ、めでたしめでたし、、、というのは、一つの理想的な定型ではりましょう。しかし、そんなこと滅多にないんじゃないのか?そんなタイルとタイルをハメこむようにピシッときれいにはまり込むには、実際の人間というのはもっと凸凹してるのではないのかな。ほんとに「なまもの」って感じで、もっとプニュプニュ、ピクピクして、とらえどころがないのが人間なんじゃなかろか。
とまあ色々ゴタクを並べているわけですが、これって別に理念先行的に、頭でっかちにそう思ってるわけではないです。
そもそも僕はタイプとして色恋沙汰は苦手というか、高校までは、柔道やってキングクリムゾン聴いてるような人間であったわけで、要するに恋愛という観点からすれば全然イケてなかったわけです。男の友達は掃いて捨てるほど出来ても女性との接点があんまりない。だもんで、当時としては、世間のいわゆるメディアの世界での恋愛なんたらなんて、「木星の衛星イオで氷河と思われる存在が発見されました」くらいに遠い遠い世界の話でしかなかったわけです。別に彼女と一緒に帰りたいなあとかいう憧れも不思議と全然なかったし。
それが大学以降いろいろ滑ったり転んだりしたわけですが、それまでそっち方面には無頓着で、否応なく硬派で来た人間からみると、実際に眼前に展開されるイトナミというのは、「随分世間でいってるのと話が違うじゃないか?」と思ったもんでした。あれよあれよと展開される眼前の風景を咀嚼するのが精一杯。だから理念的に「これが正しい」とかいう感じではなく、「だって、事実そうなんだから仕方ないじゃないか」という感じです。
例えば、僕の前の結婚&離婚でも、僕がオーストラリアに行く際に、僕にとってはオーストラリアに永住権取って行くということが人生上どうしても必要に思えたし、カミさんにおいては日本でやるべきことがあった。人間、その時期その時期で、なすべきことは違うのだけど、それがハッキリした時点で両立しえないとなれば、互いは互いの道を行こうやって話になった。別に互いに相手にそんなに不満は無かったから、結構そこらへんは自然にそうなった。10年も一緒におったら分かるわね。勿論話はそんな簡単じゃないんだけど、大筋ではそうです。
そんなんで離婚するのか?といえば、そもそも「結婚」の捉え方が人と違ってたんですね。正確に言えば、戸籍上の処理については、僕が語学留学する前、つまり収入が途絶えて税制年度上配偶者控除の特典が必要でなくなった時点でとっとと籍は抜いてます。最初からあんまり籍入れたくなかったんです。夫婦別姓も出来ないし、彼女には野望がありその野望には旧姓によって貫徹されるべきという意向もあったし。僕らにとっては、結婚というシステムをあくまでシステム以上のものにしないという点で、価値観の共通性があった。要するにお互いそーゆー奴だった。20代前半から30代にかけての10年間、若気の至りで社会に突っ張っていたかった年頃の、それはそーゆーカップルだった。だからこそ、戸籍においては正しくそのように始まりそのように終わった。
逆にいえば戸籍上の変動というのは、あんまり大した基準になってない。だもんで、いつ実質的な意味で離婚したのかというと、自分らでも実はよく判らない。もしかしたらまだ離れてないのかもね。
で、余談なんだけど、誇らしくも恋多き彼女は、とっとと他にいい人を見つけてるわけで(って別に年中そうなんだけど、って人のことも言えないわけだけど)、その相手の方がね、嫉妬するみたいなのね、僕らのこと。別に嫉妬されるようなことしてないんだけど、離婚したのに平然と一緒にメシ食いにいったりしてるのがイヤみたいで(そりゃそうだろうな)、しまいにはこっちが不倫してるような気分になったもんです。電話は二回鳴らして切って、、とか(^^*)。
そのうちどっちも引越したりして互いに連絡手段も無くなったわけだけど、まあ、彼女の野望が達成されればイヤでもマスコミとか載るだろうから連絡先は自然と判るだろうと思ってほったらかしにしてます。「どこで何をしてるやら」みたいな感じ。そんなわけでここ数年とんと会ってません。何してんのかな、妙なオバサンになってたら哀しいし、ケツぶっ叩きにいかなきゃね。「TIMEの表紙を飾るまで気合抜くんじゃねえ」って。誇大妄想狂でも何でも、自分の可能性が無限だと思えなくなった時点で終わりだもん。
だもんで、これを「バツ」とあなたが言うならば、それはあなたの価値観でしょう。でも、僕はそうは思わない。僕らの場合は、言うならば「同志婚」みたいなものだった。それが10年の月日でいつしか兄妹のようになり、兄弟がいつかは独立して離れていくように離れた。こーゆーのって異常なのかな?ある意味普通じゃないのかな?
重ねて言いますが、「結婚してそのまま終生継続する事が良くて、途中で離婚する事は『失敗』とかネガティブなことである」という発想には、僕はあんまり同意できない。そのこと自体の理解は、まあ出来ないわけでもないし、実際に長続きしてる夫婦には末永くお幸せにって心底思いますし、ヴィンテージワインのような滋味あふれる境地に対する敬意も持ち合わせております。でも反面、「続くことが全ての価値ではない」とも思います。
それは、ダラダラ惰性で続けてるくらいならスッパリ止めた方がマシ!なんて乱暴なこと言ってるわけではないです。
人間というのは良くも悪くも変わります。例えばある女性は、今はもう全国的に有名なNGO団体の長として活躍しておられますが、もとはといえば箱入り娘の見合結婚、専業主婦でケーキ焼いたりオリジナル考案の家計簿をつけてたような人ですが、ある日、ひょんなキッカケから「ライフワークを見つけてしまった」わけです。40歳過ぎてからの話ですが、献身的に活動に取り組んでいった挙句、たった一人で都会に出て徒手空拳で組織を立ち上げ、以後10年余走り回っておられます。名前言ったら知ってる人もいると思うけど。
その方とずっと前一杯やったときに、「田村さん、せっかく弁護士やってるのに振り捨てて海外に行くなんて、随分思い切ったことをしたわね」とか言うから、「そんなん、あなたが主婦をブッチして、都会に出てきて旗振り廻すのに比べたら全然暴挙度は低いですよ」なんて笑ってました。で、この方の場合、やっぱり離婚になっちゃったわけですが、結局ダンナさんが付いてこれなくなっちゃったのでしょう。無理ないですよ。もう人が変わってしまったんですもん。「今日のオカズは〜」とか言ってた人が、「日本の制度疲労を起こしたシステムに風穴を空けるためには〜」とか言い出すわけですから。それも聞きかじりの受け売り喋ってるわけではなく、自分が当事者として修羅場を駆け巡ってるんですから。ライフワークを見つけちゃうと、人はこうもスーパーマンになりきっちゃうもんかという良い見本のようなものですが、でも、この人にとって過去の結婚は失敗とか間違っていたのか?といえば、全然そんなことないと思います(本人もそういってる)。
人というのは死ぬまで変るものだし、また向上心というのは持ち続けていた方がいいでしょう。自分が何かに目覚め一つ視界が広がったときに、相手が旧態依然としてたらやっぱり脱力するものはあるでしょう。自分が変わらなくても、相手が悪く変わっていくこともあるでしょう。生意気な青二才だけど志だけは高かった相手が、他人の悪口ばかり言うようになり、目が腐ってきたらイヤでしょう。レベルの高低だけでなく、方向性が変わってくる事もあるでしょう。
そうやって噛み合わせがズレてきたら、離婚というのは一つの前向きな選択肢になるでしょう。それまでの結婚生活が別に問題なかったとしても、今後の話として出てくることはあって当然だと思います。
もちろんお互い高めあったり、維持しあったり、常に触発しあっていい関係を継続してるカップルもいるでしょう。それは素晴らしいことです。でも、お互い低めあって悪慣れして、傷を舐めあってるから続いてるっていうパターンだって、そりゃあると思いますわ。ワガママで辛抱が足りないから破綻しちゃう場合もあるだろうけど、反面、忍耐力といえば聞こえはいいけど、勇気も才覚もないからズルズル続いてるってパターンもあるでしょう。
総じていえば、「いろいろある」ということです。そこには良いとか悪いとか単純に言い切れないくらい、色んな組み合わせの色んなパターンがある。もう、そうとしか言いようがないです。それなのに、なんで「バツ」という価値判断をするのか、そこはちょっと不思議ではあります。でも、想像力と可能性を展開することによって事態を改善させようという方法論よりも、想像力と可能性を削減することによってツジツマをあわせて調整しようとする日本社会の方法論を考えてみれば、無理のないことかもしれません。
過去、弁護士としての職務上、離婚事件は沢山やりました。
偶然ですが女性側に立つケースが多かったのですが、そこで見てきた風景は、単なる結婚生活の破綻という寒々しい光景だけではなかったです。それは、あたかもサナギが蝶になるような、脱皮・変態、生まれ変わりのプロセスでもありました。
結婚はわりと周囲に背中を押されて祝福されてやる場合が多いですが、離婚は、天上天下味方は我のみって感じで孤軍奮闘するケースが多いです。結婚生活のなかで、これまでとは違った確固たる自我が芽生えてきて、それがどうしようもなく抑え切れなくなって独立していこうというプロセスです。いわば一種の「独立戦争」のようなものでした。だからそれはイメージでいえば、「破綻」というよりは「誕生」に近いものでありました。
今の日本で女一人で食っていくのはそれなりに大変です。子供さんの問題、不況になれば真っ先に首を切られるカジュアルワークの問題、年金でも税制でも専業主婦をスタンダードにしてやっているモデル不適合の問題、いろんな問題が押し寄せてきます。それを百も承知で離婚するのは、それなりに覚悟あってのことですし、それなりのパッションあってのことでしょう。だもんで離婚相談というのは、その実質において「今後の生計相談」であったりもします。
あの大変さを考えるならば、継続性が尊いためには、その大前提として「断絶の自由」、つまりイヤになったらとっとと止められる自由が100%保証されてなければ意味も半減するだろうと思います。離婚したいのに出来ないという抑制力のもので結果的に継続していても、それはそんなに素晴らしいとも思えない。
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離婚を申し立てた原告である妻側の代理人として、そのあたりの心情は詳しくお聞きし、また法廷で訴状、準備書面の形でいろいろと代弁しました。暴力だの不貞だの、いわゆる「わかりやすい」離婚原因がなくても、多くの人は離婚を求めた。一般に「性格の不一致」とか総称されたりする、それらつかみ所のない離婚へ踏み切らせた心情経緯を聴取しながら、あーでもないと文章にまとめました。例えば、ほんの一例ですが、こんな感じに。
「被告(夫)は反問する、「なぜだ?」と。なるほど、被告は十分な収入も得てきたし、家計を支えてきた。ここで被告を失うことは、原告(妻)にとって今後多大な生活の困難を招くであろう。しかし、敢えて原告は言う。そんなことは問題ではないのだ、と。
夫婦喧嘩においてなされる被告の悪意による原告への中傷、悪口、これらはまだ我慢できた。いかに、妻として無能、母として失格などと罵られようと、そこに悪意がある限り、原告はまだ我慢できたのだ。我慢できないのは、被告の善意による、まったくの善意にもとづく蹂躪である。
積年原告を苦しめ、悩ましてきた想念。それは原告が、人間が人間として成立するための、その魂を構成する大きな柱であった。その魂を被告は踏みにじった。それも一片の悪意もなく、何度も。屈託のない笑顔で語られる被告の言葉、「そんなの、くだらないよ」「よくわからない」「え、そんなこと言ったっけ?」。
これらの無邪気なまでの残酷な無関心が、原告の心をいかに傷つけたか、そして深い絶望においやったか、おそらく被告は自覚あるまい。その自覚の無さがさらに原告を追いつめる。無視は、敵視よりも絶望的である。
未だに何のことかわからぬであろう被告のために、さらに多言を費やせば、被告はついに原告を対等独立の人格として認めなかったのである。愛すること、可愛がることと、独立の人格として尊敬することは違う。徹底的に違う。原告は、被告といる限り、自立した一個の人たることを許されなかった。被告の頭の中に構築された「理想的な家庭」といういわば絵物語の登場人物、操り人形として愛されはしても、そのシナリオを共同執筆することは遂に許されなかったのである。
原告は、ここにいたって被告に切に願う。それは被告だけでなく、男性一般の通弊かもしれないが、願わくば人間に対して、生命に対して、魂に対して、もっと深い畏敬の念を持ち合わさんことを。世界はあなたが一人で頑張って作っているだけではないのだ。その労苦に対する謝意は惜しまないが、その独善性を原告は強く憎む。」
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文章は、今適当にデッチあげたようなものですが(でも耳が痛いっすよね)、それはもう千差万別。30年連れ添ったあとになされる熟年離婚のケースでは、その理由はさらに深くなりますし。いや、ほんと、沢山のことをお教えいただきました。そして、シャレや酔狂で離婚する人なんかいないわけで、それぞれが深いところで真摯に戦っておられる。これらの現実を目の前にしてきたら、「離婚=失敗」なんて、そんな簡単に言えなくなりますし、それを見てたら、「不幸」だなんて傲慢な決め付けもできなくなっちゃいます。
ところで、今のカミさんですが、これがまた前回とはイチから10まで違います。かといって「前回はこうだったから、今回は〜」って感じでもないし、あれも結婚、これも結婚だとしても、これらを『結婚』という上位概念で括っていいんだろうか?っていうくらい違います。
じゃどんな感じ?っていうと、だからそれを今作ってる最中です。もう「擦り合わせ」というには、ガチンコで火花散らしてます。鉄の精錬過程みたいな。そんな別にハッピー一色なんてこたあないです。そりゃあ、自分の人生に、生まれも育ちも違う巨大な「異物」が出現するんだもんね。楽しいことばっかじゃない。それどころか、お互いぶっ壊れますわ。でも、ぶっ壊れたくて結婚したんだから、それでいいんです。ムカつくことばっかですが、そのムカつきがほしかったんだからそれでいいんです。そんなもんは織り込み済みです。
別に身を固めたくて結婚したわけでもないし、身が固まったとは全然思ってないし、生活楽になるわけでもないし、手料理が食べたいわけでもないし(料理は僕の方が好きだし得意だし)、子供が欲しいわけでもないし、家庭を築きたいわけでもないし、特に話し相手が欲しいわけでもないし、仕事を手伝って欲しいわけでも、価値観を共有して高めあっていこうというわけでもない。
じゃなんで結婚したのよ?というと、うーん、なんでやろね?
なんか、今の自分には想像もできないような物が欲しいんですね。
自分の手持ちの材料だけでもそこそこの世界は築けると思うし、それなりに調和と論理は構築できると思う。切り回していけると思う。これまでそうして来たし、その自信はある。自分が出来てしまうようなことには、そんなに興味はない。傲慢な言い草なのは百も承知ですが、でも本当にそう思う。
しかし、それじゃ足りないんです。でも何が足りないのかよくわからない。というか、わかってしまうよなものだったら、所詮自分の世界の範囲内のことだったりします。ある意味、恋愛の狂気も不条理も、自分の理解できる世界の中だし、いわゆる世間一般の結婚というイトナミも範囲内。そんなすぐに達するようなハッピーが欲しいわけではない。
全然上手く言えませんが、その上手く言えないようなことが欲しい。上手く言えちゃったら駄目なんです。
なぜ想像できないようなことが「欲しい」として認識の対象になるかというと、それはたまに感じるから。もう一階梯、ハシゴを登ると、また違った世界が開けているという直感的な感触はあります。それが正しい感触だというのも分かる。でも、自分の手持ちの素材をいくら積み上げてもそこには到達できないということもわかる。ソースとケチャップだけでは絶対に味噌汁を作る事が出来ないのと同じように、それはハッキリと分かる。
雑記帳を読んでるあなたには一読了解でしょうが、僕はかなり偏ってます。ただ、偏った地点にいながらも、それなりに接点と普遍性を持つ世界を構築するだけの視界と腕力は持ち合わせていると思う。今日はつくづく傲慢なことばかり言ってますが、話の脈絡上、妙に謙遜してたら核心に進めないのでお許しください。ただそれでも一歩足りないというのもよく分かってます。所詮「それなり」でしかないという。その「それなり」がイヤなんですね。本物じゃないなって
。
もともと上手く言えないことなので、すごい遠回しの比喩になりますが、例えば−−−そうだな、
いっくら鋭くて面白くても、サブカルチャーは所詮サブカルチャー。メインカルチャーになるには、今一歩足りない。というか、サブの地点に立てば、「鋭く」なるのは、実は簡単なことだと思うんです。そうではなく、一見ドン臭く見えるけど、ドドドと押し流すパワーのあるメインカルチャーになりたい。「王道」をいきたいわけです。でも、角を削って小さな球形になるくらいなら、やらない方がマシです。王道はいきたいけど、「小王道」なんかに興味はない。例えていえば、ヒットチャートを賑わして、人々に多く受け入れられるとしても、小室哲也的にそうなるのではなくして、ビートルズ的にそうなりたいわけです。言ってる比喩の意味わかります?なにも有名になりたいとかそんなこと言ってるんじゃないっすよ。
自分が偏ってトンガってる部分はそのままに、それを思いっきり偏らせてもOKなくらい、巨大な球形を描いてしまえばいいわけですよね。ビートルズって、実はメチャクチャ変態的な曲も沢山あるのだけど、全然サブカルチャーっぽくならなくて、それをもメインストリームにもっていってポップなものとして人々に受け入れさせるだけの強大な腕力がありますよね。あのバンドのスゴイのは、あれだけヒットしてながら、「いかにも売れそうな曲」ってのを殆ど作ってないことだと僕は思います。リスナーが期待してるストライクゾーンのど真ん中に投げて、それで売れるっていうのではなく、ほとんどビーンボールみたいなクソボールを投げるんだけど、それが実はど真ん中よりも気持いいことにリスナーは気づかされるという。リスナーとしても実際に聴くまでは、そこにそんなツボがあるなんて想像してないんだけど、聴いて初めてわかるという。
「自分が想像できないような物が欲しい」というのは、その感覚にちょっと似てます。王道を行きたいとは思うけど、王道に擦り寄りたいとは思わない。もっといえば自分の地点を王道になしうるだけの、マイティなパワーが欲しいという感じですか。でも、そんなの人は誰でも持って生まれてると思います。ただこれまで生きてくるにあたって、生き方のクセみたいなものが染み付いていて、沢山の扉が埋没して隠れてしまう。
カミさんは別に万能でもないし、僕と同じく不完全な人間です。どこが不完全かという場所も違うのですが、その不完全な凸凹が、往々にして僕をムカつかせたりもするのだけど、ときたまその扉をノックすることもあるわけですね。そこで何らかの「魔法」がかかるというか、化学反応が起きる。もちろん、直ちに、パーッと扉が開いて、「そうか、そうだったのか」みたいに全てが分かるなんてことはないです。精々が「今、なんか見えたような気がする」程度です。
彼女とは、実は10年来の飲み友達ではあるのですが、それまではただの友達として推移してきて、ここにきて結婚とボコンと突出するのは何故かというと、年齢的人生的にそーゆー化学反応が起きるような巡り合わせになったのか、今まで見えなかったものが見えるのようになったのかでしょう。
だもんで、何というのかな、「全く新しい人との付き合い方」をやってます、みたいな感じです。だから結婚だからどーのという意識は僕には殆どなくて、ましてや二回目だからどうという感じでもないです。
しかし一方では、二度目ともなれば、「いわゆる結婚というのはこういうもの」という、ある程度の見通しというか構えも違います。
余談というか与太話として言いますと、例えば「女は男の2倍寝て、5倍トイレットペーパーを使うもんだ(別に全てがそうだとは言わないが)」とか、それとか「実家の悪口を言い合うと救いのない喧嘩になる」とか、「誰しも子供時代のトラウマその他から、ある特定の物事に信じられないくらい理不尽なまでに固執する部分がある」とか、「喧嘩も何度も繰り返す事によってパターンが共通認識になり、「以下同文」のように簡略され、しまいには喧嘩にならなくなる」とか、「自分の人生を正確に判断できるほど聡明な人間はいないし、そんな聡明な瞬間もない。そんな気がするだけの話で、実体は絶えず気が変わる動物でしかない」とか。「結婚したらこうしようとかいう目論見はほぼ実現しない、したとしてもそれ以上の交換条件がついてくる」とか。「よく空気のようなものというが、空気には酸素もあれば二酸化炭素も入ってるという意味で正しいと思う」とか。
でもこんなことは、「金曜の午後に国道一号線を走ると渋滞するからやめた方がいいよ」というのと同じような、単なる物理的経験的知識にすぎず、そんなに大したことではないです。そんなことより、その「想像もできなようなこと」が、いつか空から降ってきて分かるようになるのか、それともやっぱり判らないままなのか、そもそも最初からそんなものはなかったのか、そのあたりですよね、核心は。
しかし、日々の生活においてそんなに核心的なことが次々に生じるわけもないです。そんなに生じたら疲れてしまうわ。ほんと、虹がかかるのを待つともなく待ってるような感じ。いや、別に待ってもいないかな。日頃はそんなこと忘れてますね。でも、核心部分を掘り下げていくと、結局そういうところで結びついているのかなって気がします。
2000年 01月10日:田村
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