シドニー雑記帳



日本に行ってきました(その3−前編)




     前回、前々回に引き続いて、日本見聞録です。


     今回帰ってみて、そこはかとなく感じたことは、数年前に比べて「女性に元気が無いな」ということでした。今から数年前、とりわけバブルの頃は、女性は元気でありました。少なくとも、元気であるかのように取り沙汰されていました。キャリアウーマンという言葉も定着し、おやじギャルや、イケイケギャルなどが生息しておりました。OL文化も盛んでありました。

     今もそういった傾向や文化はあるのでしょうが、過去あるものがそのまま存続してるだけの話で、その頃「新類型」のような生き方が続々と登場していたのに比べれば、そういった新規参入は少ないです。時代を象徴し、先取りし、切開いていくという感じではなかったです。



     思うのですが、これはそうなって当然じゃないかな、と。キャリアウーマンや女性上司の存在も段々と広がっているのでしょう。で、女性が結婚せずに(or結婚しつつ)ずっと働き続ける事も別に珍しくもなくなってくる。それはそれでイイことです。門戸は閉ざされているよりは開かれていた方がいい。しかし、その門戸を通ってどこに行くかというと要するに「サラリーマン」「給与所得者」であり、キャリアを積めば何になるのかといえば「中間管理職」だったりします。それほどキラキラした現実というわけではない。

     最初から門戸が開かれている男の場合、就職したり恒久的に勤めたり出来ることは当たり前の話であって特に喜ぶべきことでもない。そうやって勤めはじめて何が待ってるかというと、仕事という現実です。「一流企業の○○部長」という、女性だったらキャリアウーマンとか希望の星とかいわれるポストも、男の場合どうってことない、むしろ通勤電車でハタから見れば「ただのくたびれたオッサン」扱いもされるわけです。もともとそんなフラッシーな、ハデハデしいものではない。

     でもって、キャリアウーマンの次に来るのが女性起業家だったりするのでしょう。自分でオフィスを持ち、自分で仕事をする、と。僕が留守にしていたこの3年間くらいに、それが結構ブーム(というほどのものではないにせよ、雑誌の特集などに見られる一つの流れ)になっていたのではないかなと推測されます。なんでそう思うのかというと、女性だからと考えるのではなしに「普通のサラリーマン(になった女性)」と考えれば、話は簡単なわけで、「独立」はサラリーマンの一つの夢というか発展的な方向性でもあるからです。女性だけが、そういった指向を持たないままでいる理由もないですし。



     要するに男も女もなく、ごく当たり前の「日本の勤務労働者」としての性向なり文化だということだと思います。

     そうなってくると、「仕事に疲れを感じはじめてきた中年男性」の嗜好文化が「仕事に疲れを感じはじめた30代以上の女性」の間に芽生えてきても不思議ではない。だもんで、「年下のカワイイ彼氏が欲しい」「仕事に疲れちゃった私をねぎらって欲しい」というメンタリティをフィーチャーしたロンバケみたいなドラマが流行ったりするのでしょう。

     いずれにせよ、当たり前のことが当たり前に起きているだけのことで、数年前「女性が〜」といっていたのは、一種時代の転換点で物珍しかったからでしょう。でも、時間が経てば当たり前のことになっていく。




     ところで、当たり前のように社会に進出した女性が、これから全く新しい社会を築いていくのならば、女性は尚も「元気」であり、注目すべき層として見るべきですが、どうもあんまりそういう感じではなかったです。

     思うに、仕事とかビジネスとか政治とかいうものは、男がやっても女がやってもそんなに変わらんのではないでしょうか。もとより理系の世界では、男女なんか関係ないです。女性がいじくったからといって、電子の流れが逆になるわけでもない。で、社会系の事柄も、やはりジェンダーには左右されないんだろうなと思います。ヒラリー夫人がクリントンに代わって大統領になったからといって、国内の人種差別はなくならないだろうし、フセインが大人しくなるとも思えない。誰がやっても、切羽詰まった関係者間の利害の調整・交渉という作業の面倒臭さは変わりようがない。

     だから女性がビジネスに進出したからといって、ビジネスのやり方それ自体が大きく変わるとは思えない。そりゃ、飲ませる抱かせるの接待攻勢は多少変わるかもしれないけど、大手の取引先に頭下げて仕事貰って、無理も聞いて、煮え湯を飲まされても顔だけ笑ってとかいう、そこらへんの構造というのは変わらない。

     医師国家試験や司法試験で女性の合格者が着実に増えているという傾向はありますが、合格して仕事に就いても、仕事の内容が変わるわけではない。マルサに女が入ったからといって脱税が減るわけでも捜査の仕方が変わるわけでもない。女性上司がいっくら増えても、極端な話、国会議員が全員女性になったところで、やってることが同じだったら社会そのものの新しいトレンドにはならない。

     結局のところ、資本主義や資本の論理に男も女もないし、そもそも優勝劣敗を基本OSとする資本主義は本来的に男性原理で動いていると思うからです。女性が進出して本当の意味で世の中が変わるとしたら、資本主義にとって代わる何か新しい社会システムを創造したときでしょう。それが何かというと未だ誰にもよくわからない。



     かくして、これまで男どもが散々通ってきた仕事の悲哀なり人生の疑問や疲労の道を、女性もまた歩くということになるのでしょう。これじゃ元気になりようもないし、また新しい方向を築こうという動きも出にくい。

     また、折しも時期がよくない。就職難だわ未曾有の失業率だわリストラだわで、仕事に生き甲斐や夢を、なんて言ってる場合ではない。就職さえ出来たらそんでええわという具合になりがち。「カッコイイ仕事」なんてのも、例えばバブルの頃はカタカナ職業がカッコ良いと思われてたわけですが、不況になればカタカナ職業では「銀行が金貸してくれるかしら」みたいなことを心配しなきゃいけなくなる。もう「仕事=生計の手段」という、ゴツゴツとした現実骨格がむき出しになってきてますので、なにかとやりにくいのでしょう。




     さて、そういった状況下において、女性よりも一足お先に仕事現実に揉まれてきた30代〜50代男性はどうなっているかというと、その次のステップに進みつつあるようにおもいます。というより追い立てを食らっていると言うべきか。

     これまでこの層は、社会の行く末についてそれほど大きな影響力を持ちませんでした。いや、本当のことを言えば、この世代こそがビジネスや経済活動を通じてメッチャクチャ大きな影響を与えていたわけです。だって戦後日本の影響の大部分はこの人達のおかげといっても過言ではないわけで、この層こそが技術革新を成し遂げ、商売で世界を飛び回り、結果日本を経済大国にしたわけでしょ。もしこの層が何にもせんでボ〜っとしとったら、日本は今でもベトナムや中国本土くらいの生活水準だったでしょう。そうなれば、飽食もブランドもヘチマもないです。コギャルの援助交際なんてまどろっこしいこともなく、貧しい親が娘を売春窟に叩き売るという世の中になっていたかもしれません。だから、影響力は超巨大。

     でも、個々の人々、要するに通勤電車に乗ってるオッサン達一人ひとりですが、これらの個々の人々のライフスタイルなり文化が、日本の新しい方向性を示すという意味では、影響力は全然なかったりします。影響力どころかOL百人委員会に笑われたりしてるわけです(ところで、日本帰ったらNHKで「おじさん改造講座」をやってたりしてビックリしました。今どきこんな時代遅れなことやってるというセンスがスゴいですね。ギャグでやってるのかな)。

     そんでもって、そのオッサン達(当然僕も含めますが)こそが、次の時代の方向性をビビットに指し示すようになっているのではないかと感じました。これは「眼前に展開する明白な現実」というほどクリアな感覚ではなく、すごく射程距離の長いカンみたいなものですが。



     そう思った発端は何かというと、電車の吊広告やら、シートにもたれて座っている人々の姿やらの他に、やっぱり会って話をしてきた感触というものが大きいです。ここんとこの日本は暗い話が多いのですが、サッカーや長野オリンピックやら明るい話題も多いです。で、今回帰ったなかで、このサッカーやらオリンピックの話題を持ち出したのは女性に多く、男性の場合殆どなかった。よ〜く思い出してみれば、もう0対100位に違っていました。

     今回、誰に会っても「最近日本はどうですか?」ということを聞いて廻ったわけですが、オリンピックでどんな感動的なストーリーが展開されようが、基本的には現在から将来に流れる日本のベクトルにはあんまり関係ないわけです。まあ「一服の清涼剤」といったところで、ほんまのところは長期的に悪化していく失業率であるとかそのあたりの問題が大きく横たわってると思うわけです。失業率といえば、シドニーに帰った直後の発表では3.9%とまた最悪記録を更新し、若年失業率はついに10%を越えたりして、アメリカが4.4%まで下がってきてるので日米逆転するかもしれない。こんなこと10年前、誰が予想しただろうか。

     で、オッサンたちはこのあたりの現状をシリアスに捉えています。オリンピックで金メダル100個とったって自分が失業するかもしれないリスクは殆ど変わらないわけだし、ジャンプの選手がいかに感動的なストーリーを紡いだとしても、自分もまた自分なりのストーリーを紡がないとならない。他人の話に喜んでる場合ではない、と。だから、男連中と話したときは、オリンピックの話なんか殆ど出ませんでした。




     こういうシリアスな展開というのは男連中にとっては得意分野だと思うのですね。逆に女連中にとっては不得手。山一証券が破綻したことの意味を想像する力、氷山の一角が露呈したときにその氷山全体を推察する視野などについては、一般に男の方が長けているでしょう。ごく平均的な40才男性と女性をサンプルにとれば、「劣後債を発行してBIS規制をクリア」ということの意味を知ってる人は男性の方が多いでしょ。

     勤めている会社も長くないかもしれない、少なくとも一生安泰なんてことはないだろう、ではどうする?自分にどういうスキルがあるか?スキルがなくても金は稼がねばならない、女房子供を養わねばならないという、生活の基礎に関する第一次的、そして最終責任を負っている思っているのは、やはり男の方が多いでしょうから、いきおい敏感にならざるを得ない。女性だって色々考えてはいるのでしょうが、「不景気よねえ、困ったわねえ」で終わって、「じゃあどうすんの?」になると確たる青写真があるわけでもないし、それを真剣に情報集めて模索するという風でもない。




     現在のところ、女連中よりも男連中の方が状況をシリアスに捉え、危機意識も身近に感じているようであり、それなりの対応について頭を巡らしているのではないのかなと思ったわけです。だからオッサン達の動向を注目してた方が時代の流れはわかるんじゃないかと思ったのですが、ここで疑問。今の世の中、そんなにシリアスに捉える必要があるのか、あるなら何故なのか?で、どうして男の方がシリアスになっているのか?などです。

     これについては色々な見方が出来るのでしょうが、例えばこういう仮説はどうでしょうか。

     まず状況はシリアスなのかということですが、これは日本に限らず、いわゆる先進国においては、やっぱり日増しにハードでシリアスになってきてると思います。オーストラリアなんか、レイジーオージーで仕事しなかったのが、統計的にもどんどん勤務時間が増えてきているし、仕事に疲れつつあります。でもって、これはもう地球全体がハードでシリアスになっていってると言ってもいいと思います。なんでかというと「人口が増えるけど資源や環境は劣化している」という誰にも否定できない大現実があるわけで、そうなれば生きる為のサバイバル合戦が熾烈になるのは必定。水槽の大きさと餌の量が同じだとすれば、中に入ってるオタマジャクシが5匹のときと500匹のときとでは、生存競争の激しさは全然違ってくるのと同じ。

     日本を含め先進諸国が、第三世界に比べてノホホンとしているのは(餓死も内戦もないという意味で)、地球の中でものすごい不平等、富の偏在があるからに他ならない。地球が社会主義になって皆均等にゴハンを食べるようになれば、日本の生活水準はドカンと落ちるでしょう。飽食やらグルメやら言ってる場合ではなく、単純に「一日のカロリー摂取量」という形で話が進むようになるでしょう。

     現在そうなってないのは、大航海時代→植民地時代→帝国主義と400年くらいかけてせっせと地球上の富を偏在させてきたその貯金があるからということでしょう。ただ、1000年スパンで考えてみれば、浸透圧みたいなもので、ゆっくりと均一化に向かうかもしれません。低開発国は徐々に開発され、生活水準は上がっていく、と。もしそうだとしたら、既に美味しい思いをしている日本を含めた先進諸国は、先進性がどんどん薄れて、長期低落していくと。これ、世界中を植民地にしていた帝国主義時代から考えれば、確かに長期低落してると思います。それが嫌だから、やっぱり常任理事国の立場にしがみついたり、非難覚悟で核実験やったりするのでしょう。

     先進諸国は当然このリードをキープしたいですから、先行者利益をもって、どんどん走り続けなければなりません。そうでないと追いつかれる。ガンガン資本主義を先鋭化させ、新しい合理的な経営体制で臨むということになるでしょう。アメリカなんか顕著な例ですが、国際競争力をつけようとするため、バサバサとリストラはするわで、貧富の二極分化は益々激しくなってくる。一握りの連中は年収数十億で羽振りいいけど、あとの大多数は時給1000円以下で頑張らざるを得ない。かといって立ち止まるわけにもいかない。ヨーロッパだって、EU統合で、自国通貨を無くしたり自分の国のアイデンティティすら代償にしてまで競争力をつけなければならない。

     で、日本の場合、戦後50年でとりあえずトップ近辺まで近づいた。世界の上層部までやっと辿り着いたと思ったら、その上層部というのは下り坂をおりてくる斜陽族であったと。これ哀しいですよね。それでも一応達成した頃はやったやったでパーティーを開いていたわけで、それがバブルの頃だとすれば、バブルが一段落したら、皆と一緒に長い下り坂を下りて行くだけの将来が待ってたりします。それが今。

     そして、下り坂といってものんびりやってるわけでもなく、皆さん目の色変えて必死に生き残り競争をやってるわけです。日本の自動車産業だって、呑気にやってたら韓国勢に追いつかれる。事実、オーストラリアでは1200ccクラスの小型車だったら韓国の現代(何故かこちらでは「ヒアウンダイ」と読む)のエクセルに食われちゃってるし。

     というわけで、景気がいいかどうかとかいう循環的な話はおいておいても、全体として状況はハードでシリアスだったりするわけです。ましてや世界に通用しないシステムを大々的に変えていこうという局面にあるわけでしょ。その割には全然遅々として進まないなか、それでも一枚一枚ウロコが剥がれるように、大企業は潰れ、当り前だった取引慣行は違法と断罪され、地価は下げ止らず、住宅ローン破産数は毎年新記録になり、銀行も信組レベルの統廃合なら一面記事にもならず、つい先日も付け焼き刃の措置で救済したみどり銀行もやっぱり付け焼き刃だから潰れ、高齢化は進み、財政赤字は膨れ上がり、年金も保険もアテにならず、子供の数は減り、少なくなった貴重な子供たちがまた荒れているという、暗くなる話だったら幾らでもあります。

     やっぱり状況はハードでシリアスなんだと思います。




     上昇カーブも緩やかになりつつも、なお将来に不安のない頃は、社会全体が余裕ですから、いきおい消費文化というものが盛んになります。エピキュリアンになるわけでしょう。基本的に社会のトレンドは、いかに楽しく金を使うかというベクトルで語られ、グルメやらブランドやらが幅をきかすようになる。

     で、これは僕の偏見かもしれませんが、消費文化になると女性の方が一日の長があると思います。ショッピングにあれだけ楽しく時間をかけられるというのは女性の特技でしょう。野郎はというと、彼女のつきあいでブティックの外で所在なげに煙草ふかしてたりするわけです。海外旅行の行先の情報、どこそこが美味しい情報は、圧倒的に女性の方が強い。女性の中でも、比較的自由で可処分所得の多いOLさん達が、時代の中枢を担っていったというのはよく分かる話です。

     でも、それもこれも、社会全体の基礎構造が変われば=堺屋太一さんの言葉を借りれば「うつむき加減」の世の中になっていけば、話は自ずと別です。消費文化の内容も変わるでしょう。今も日本ではブランドブームはあるでしょうし、実際それっぽい風景も見ました。でも、数年前のバブルの前後の頃とは全然違う。「ああ、次の時代はこうなるのかなあ」という力強さというか確信というか上り調子の勢いというか、そういうものが全然ないもん。不況といったって金持ち日本が一朝にしてどうなるもんでもないので、まだまだ余力はありますから、それなりのゼータク遊びはできます。だからやってますという感じでしょうか。コギャル連中がブランド品持ってたりするのも、「豊か」というより「そんなことしかやることなくなっちゃたのね」ということで哀れを誘ったりもします。

     余談ですが、日本のパッパラパー化や拝金指向(古いけどコマダム的なそれ)がつとに指摘されてたりしますし、実際そういう局面もあったりしますが、ふとボイルシャルルの法則みたいなものを思い出しました。閉じ込めると中の圧力は高くなるよというアレです。僕がコギャル連中的立場にいたとしたら、上見てもあんまり希望がない。だってキャリアウーマン=サラリーマン、サラリーマンもリストラで大変、そもそも不況で女性の就職難、玉の輿といってもそもそも日銀理事まで自殺する世の中では何が玉の輿なのかもわからない、「どないせえっちゅーんじゃ」といったところでしょう。一部の頭脳明晰な人々はMBAとか資格を目指したりするなどまだ幻想がありますが、並だったら展望がない。そうなれば「この世は闇ぞ、いざ狂へ」的な梁塵秘抄的な世界になってしまうのかな、天井にパカッと蓋をされてしまえば、アホ圧力は高まるしかないのかな、という気もします。余談でした。





     長くなりましたので、ここで一旦切ります。

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1998年05月17日:田村

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