シドニー雑記帳



日本に行ってきました(その2)




     前回に引き続いて、日本見聞録です。前回述べたことの他、久しぶりに日本に戻った印象は、「なんか妙に疲れるな」ということでした。そりゃあれだけ強行軍をしてれば疲れて当然ですが、そういう話ではなく、ただ居るだけ、空気吸って存在してるだけで奇妙に疲れるという感覚を持ちました。

     最初は特にそうは思わなかったのですが、後半戦になるにつれて、「うーむ、なんかこう、スッキリせんな、落着かないな、妙に疲れが残るな」という感想を抱きはじめ、「ああ、早くシドニーに帰りたいな」とも思ったもんです。で、この奇妙な感覚の正体or原因を探ってみたいと思います。





     一つは町の風景。

     視界に映る画像の情報量が多いのではないか?というのが仮説その1です。オーストラリアの風景というのは、シティであってもアバウトなものでして、「道がありました、建物がボンと建ってます。おわり」という、大雑把でシンプルなものなのですね。ところが日本の風景は細かい。特に家が小さいとかは思いませんが、オーストラリアだったらまず建てないでほったらかしにしておくような敷地の合間にも、几帳面にビルが建ってたりします。ペンシルビルとか顕著な例ですけど。






     それに日本の場合、4〜5階建以上の建物が非常に多い。どんな田舎行っても駅前とかには建ってます。シドニーの場合、一握りのシティ中心部や観光エリアのアパートメント(コンドミニアム)系以外は、フラットや商店街などに時々3〜4階建があるくらいで、大多数は2階どまり。平屋も数多くあります。だから空がよく見えるし、空という「余白」部分が多いので情報量も少ない。どこ見ても空が見えるから、気分的にもリフレッシュします。ああ、オーストラリアで車を運転しているとやたら眩しくサングラスが必需品なのは、単に陽射が強いからだけはないかもしれない。



     写真左は日本(神奈川県大和市)の風景。のどかな郊外の風景なのですが、よく見ると5〜6階のマンションなどが並んでいます。写真右はシドニー(Coogee)の風景。フラット(マンション)が立ち並んでいますが、高いといってもこの程度。





     日本とオーストラリアのありふれた町の風景をペンで描くとしたら、日本の方が線の量は倍以上必要になると思われます(しかも定規を使う直線が多い)。で、日本の風景をずっと見ていると、非常に小さな細密画や製図図面を見つめているときと同じく、頭が疲れてくるのではないか。日本の風景を絵で描こうと思ったら、かなり気合をいれて線を書き込んでいかないとならないような気がします。

     写真左は東京赤坂の町並。写真右はシドニー(Glebe)の風景。Glebeは都心から直線距離で1〜2キロ。この写真も一番の「目抜き通り(Glebe Point RD)。


     ここでまた、小学生時代漫画家志望だった(一瞬ですけど)僕は、ああ、日本の漫画家の人は背景描くのが大変なんだなあと思ってしまいます。日本に劇画というものが生まれたのもここらへんに遠因があるのでは?なぜなら、ありのままに日本の町の風景(特に繁華街の風景など)を描いていくと自然と劇画タッチになるんじゃなかろか?また、劇画タッチではない「サザエさん」「天才バカボン」の背景というのは、平屋や二階屋が多いのですが、あれって昭和30〜40年代の日本の風景であって、実はリアルタイムの風景ではないのかもしれません。






     これに加えて、日本の風景をにぎやかにしてくれるのが、看板、自動販売機、自転車や原チャリの類です。

     識者の方がおっしゃるように、これらが特に「醜い」とは思いません。だって、看板などを全部撤去したらモルタルの壁面や配線があらわになるだけで、より寒い光景になるかもしれないですから。ただ、歩くにあたって、気を遣わされることは確かでしょう。オーストラリアのようにボケ〜っと歩いていたら、立看板を蹴り倒すわ、自転車にぶつかるわ、放置自転車に接触して将棋倒しの悲劇に見舞われるわするかもしれません。そうそう、「海外では治安に気をつけて油断のないように歩かねばならない」といいますが、治安に気をつけていても、自転車や看板に気をつかわなくてもいいから、注意度の収支勘定ではまだ楽かもしれません(写真は東京西日暮里)。

     看板の他に「人」が邪魔ということもありますか。日本の都会には、人酔いしそうなくらい人が多いのですが(これだけの大人数を一遍に見たのはやはり2年8ヶ月ぶりでした)、その割には、意外と歩くのが遅かったりするのですね。セカセカしているようでいて、進行スピードそれ自体は遅い。シドニーではこの逆で、呑気に歩いているようで、スピードそのものは早いので、前がつかえてイライラしたという経験は案外と少ないです。




     前がつかえるで思い出したましたが、一般に日本の方が歩道が狭いような印象を受けました。シドニーでも都心部は悲惨なものですが、大多数の住宅地はもう少し広いのではなかろうか。だって、歩道の半分が芝生になってるところが多いし(僕らの今の家も、昔の家の前の歩道も芝生部分があった)。その狭い歩道を自転車が走りぬけるから、ますます大変(こちらでは自転車の数が少ないうえに歩道を走れない)。写真は、シドニー(five Dock)付近の住宅地。

     ついでに言うなら、道もシドニーの方が広いかもしれません。正確に測ってみないとよくわからないのですが、少なくとも、そこらへんの住宅地のマイナーな道(住民以外使わないような道)が日本よりも広いでしょう。両脇に青空駐車して、それで二台楽勝で離合できるという広さの道は結構ありますから(だから全部4車線以上の広さになるのですが、別にセンターラインも引いてない)。

     この狭いスペースで、看板、自転車、歩行者などに囲まれて、いつもいつも「障害物競走」をしているような状況が、神経を疲れさせるのかもしれません。

     シドニーの場合、オーストラリアで一番の巨大都市ではあるのですが、大体どこを見ても(シティ以外は)、ゆったりとした、というよりもガランとした感じで、これが気持をリラックスさせてくれるのでしょう。






     妙に疲れた二番目の原因として考えられるのは、どこを見ても日本人ばかりという環境が挙げられると思います。本来、同民族に囲まれていれば安心しそうなものです。確かに、ほっとする部分はありますが、それ以上に気疲れする部分もあります。なぜかというと−−

     日本人ばっかりということは、車内で赤の他人を見ても、人相風体・態度物腰で大体のところは察しがついてしまうということでもあります。これがシドニーでは、まず地元の人かビジターか分からんし、200を超える民族がゴチャマゼになってるから、人相風体を見てもあんまり見当がつかない。他人の会話だって英語以外でやってるから分かるはずもない。だから、別に関心もなくなるし、特に考えることもない。でも、日本の場合、なまじ分かってしまうし、会話も聞こえてしまうから、ついつい余計なこと考えてしまう。それが面白くもあり、メンド臭くもあります。

     問題は、こっちが相手を考えてしまう/半ば理解できてしまうということは、相手もこちらを意識するなり理解しうるということを意味します。いや、別に、電車に乗ったら互いにジロジロ見るということはしませんし、むしろ表面上は知らんぷりします。それがまあ礼儀でもあるでしょう。

     それでも、理解されてしまう鬱陶しさというのは多少なりともあるような気がします。 ごく普通の恰好して、ごく普通の佇まいでいる分にはそうそう気にならないのですが、ちょっとユニークなスチュエーションになると色々かぶさってくるのではないでしょうか。

     例えば、そうですね、よく言うじゃないですか、「見るからに不倫カップルがやってきて」とか。年が不釣合いとか、態度が違うとかあるのでしょうが、初対面の男女の二人連れが不倫であると推測されるということは、その二人が「恋愛関係にあって」、「二人のうち少なくともいずれか一人は結婚している」というすごくパーソナルなことまで周囲に分かられてしまうということです。仮にそれが真実でなかったとしても(本当は年の離れた兄妹とか)、「勝手にそう思われてしまう」という鬱陶しさはあろうし、真実誰もそう思ってなかったとしても「そう思われてるのではないかと思ってしまう」という鬱陶しさからは逃れられないわけです。

     よく考えてみたら飛んでもないことで、こんな超個人的なことまで赤の他人に見透かされるというのは(間違った推測をされるということは)、精神的に重いのではないでしょうか。

     シドニーならば(オーストラリアも田舎にいけば事情は違うでしょうが)、人種、年齢、身長、体重、みなさんおっそろしくバラバラだから、見た目でそれがカップルなのか友達や兄弟なのかさっぱり分からん。分からんもん考えてもしゃーないから考えない=気が楽という具合になると思います。

     そういえば、相棒福島とそのダンナさんのラースが連れ立って歩いていてもシドニーでは何の違和感もないけど、身長差40センチ、体重差2.5倍の金髪碧眼とのコンビで日本を歩けば、それは相当に目立つだろうなあ。まあ、そんなこと気にするタチではないからいいけど、そういう差ってあると思います。

     もう一つ、これは聞いた話ですが、日本人女性と結婚したオーストラリア人男性が日本に行って「温泉なんか大ッキライだ!」となったという。なぜなら、風呂に入る度にジロジロ見られるし、あまりにもジロジロ見られるので挙句の果てには子供も泣き出すしで散々だったそうです。




     これは結局、日本人ばかりということで、かなりカッチリした「社会通念」「常識」というものが日本にはあるということなのでしょう。常識とかコモンセンスはどの社会にもありますが、もっと細かいもの。将棋や麻雀、サッカー、野球、何でもそうですが「ルール」というものがありますが、日本の場合「日本ゲーム」という大きなルールがあって、それが四六時中のしかかってくるような感じがします。各自勝手に生きているのではなく、日本人が日本で生きていくパターンというのは、大体決まった類型があり、他人であっても見れば大体どの類型のどういうスチュエーションかすぐに分かってしまうという。まだ若いネクタイ姿の男性が、昼間から桜の下で大きなビニールシートを広げて、一人でぽつねんとしている姿を見れば、「ああ、新入社員が花見の場所とりさせられているのだな」とすぐに分かってしまうという。

     僕は今、日本のどの団体にも日常的に属してないし、単に「通りすがりの旅行者」に過ぎないのですが、それでもそのルールの重量感というものを感じます。それはどういう所で感じるかというと、例えば、いきなり靴を脱いで裸足で商店街を歩き出すとかいう行動はとりにくいですよね。やりはしないけど、シドニーだったら割と抵抗なく出来るのに。

     実のところ、僕も日本に帰るにあたって、カジュアルながらもGパンや皮ジャンを買いました。なんか日頃シドニーで着ている恰好で、日本の街歩くのはちょっと勇気が要ります。だって、今なんか、Tシャツの上にトレーナー着てますが、このトレーナーがくたびれまくって、首まわりなんかヨレヨレで下のTシャツがだらしなく覗いてるという。これでシドニーの街を歩くのは全然問題ないです。比較的キメてるシティでも、電線しまくったパンストはいてる女性とか結構いますもんね。

     これに比べれば日本の皆さんは身奇麗にしてはりますわ。これはブランドものがどうのというレベルの話ではなく、「外に出るなら一応キチンとしよう」というその「キチン」のレベル設定が高いということですね。これは女性においては、結構面倒臭いハードルになるでしょう。福島も日本に帰ると、いちいち着るもの考えなくてはならないのが面倒臭いと言ってましたし。

     ちなみに、オシャレそのものでいえば、シドニーで見掛ける人の中に、本当にお洒落なんだなと思わせる人の方が多かったりします。どういうことかというと、英国紳士風あるいはイタリア系のおじいちゃんが、さりげなく、しかしビシッとキメてたりするからです。クソ暑いのに、シャツのボタンをキチンとつけていたり、なにげに赤い帽子をかぶってたりという類のオシャレです。シドニーの場合は、オシャレ偏差値が70の人もいれば、30の人もいて、だからどうということもないという状況になってるのに対し、日本の場合は偏差値55位に皆集まってるという感じですね。

     で、この「キチン」が、結構つらかったりします。もともと、典型的なB型である私ですので、それほど他人の視線を気にするタチではないのですが、ちょっと面倒臭かったという部分はあります。これも最初はどうってことないけど、日頃こっちでは考えないことをコチャコチャ考えていると、やっぱり溜まってくるものがあったりします。




     余談ですが、電車に乗ったり、街歩いていて、大声で独り言をいったり、誰ともなく意味不明なことを話かけたりしているケッタイな人がいたりしますね。この場合、つまり「話し掛けられたりして、面倒な目にあう危険」がある場合、正しい日本的礼法ではジロジロ見るのではなく、知らんぷりすることになってますよね(危険がないときはジロジロ見ます)。

     オーストラリアでも、大声でブツブツ言ってるオジサンとかいるし、皆それなりに知らんぷりしてるけど、その許容度がやっぱり違うと思います。「町中を、上半身裸でアイスクリーム舐めながら歩いてるオジサン」の場合、こちらでは別にジロジロ見たり不必要にシカトしたりしませんが、日本ではちょっと敬遠されるでしょう。

     それで思い出しのですが、今回帰省中、その手の人とは結構、話相手にさせられました。だって皆さん知らんぷりして車内でシラっと座ってたり、目を合わせないようにしてんだもん。こっちは、オーストラリア暮らしで免疫が出来たのか、習性になってしまっているのか、目が合ったらニコッとしちゃうもんだから、妙に親しまれてしまいました。

     例えば、道歩いてたら、いきなり見知らぬ人から「ねえ、ねえ、5月ってどのくらい遠いの?」と話し掛けられて、つい「5月いうたら、すぐやん。来月やんか」と答えてしまい、以下「わーい!!じゃ、9月は?」「9月は、ちょっと遠いんちゃうかなあ」「へー、じゃ10月は?」「もっと遠いなあ。10月まで半年くらいあるで」「ぐわ〜!!じゃ、5月は?」「自分、それさっき聞いたやんか?」「あ、そっか!!」「ま、なんにせよ、頑張ってくださいな」「はい、頑張りまーす!!」てな調子で、やたら大声で喋るお兄さんと延々と歩いていたのでした。彼には日本は住みにくいかもしれん。






     総じて言いますと、日本に居ると、空間的、心理的に息苦しい部分があります。実際には、そうやって分析的に認識するわけではなく、宿に帰れば「なんか疲れたなあ」というダルさを感じ、町を歩いている最中は「なんかどこ行っても逃げ場がないなあ」という圧迫感として感じられました。

     「逃げ場」というと意味不明かもしれませんが、自分の部屋にいるようにリラックス出来るようなスペースや雰囲気が少ないということです。地理的には、オーストラリアのように「ちょっと外れれば人のいない(少ない)所に出られる」「ガランとしたところにいける」というエスケープゾーンが少なく、あの角を曲がってもその次を曲がっても、びっしり建物が詰っているのだという感覚は、やっぱりかなり息苦しかったです。

     そして精神的な部分では、重複になりますが、見知らぬ人々の意識波というか思念波みたいなものが追いかけてきて、なかなかリラックスできない、と。実際、日本では、普通の電車のなかで、長いイスに座りながらソックス穿き替えるのも結構勇気いりますもんね。

     そんなこんなで、「妙に疲れた話」でした。

     日本の土産話、実はまだ続きます。次はもう少しシリアスなこと、日本の30代〜50代男性の話をしたいと思います。次の日本のキーポイントとなるべきなのは、この人々ではないかという感を深くしたからです。もう20代女性の動向なんか追っても何にも将来は分からないと思います。トレンドセッターにもならない。沈黙せる30〜50代男性の動向が一番興味をひかれました。そしてこれには二つの流れがあるようで、一つはしたたかに分岐して次の時代のマグマとなりうる方向、もう一つは「死」です。後者は、死、とりわけ自殺のリアリティが3年前よりもすごく高まってるように思いました。そのへんの話を。



1998年05月06日:田村

★→シドニー雑記帳のトップに戻る

APLaCのトップに戻る