シドニー雑記帳





イレギュラー処理システム(その2)




    (承前)

     日本の社会が、イレギュラーな事態/予想もしてなかった事態に出くわすと、機能停止に陥りがちであるということですが、この原因は社会の仕組というハード面だけでなく、僕ら自身のメンタリティなどのソフト面にもあるように思います。これまで生まれ育ってくるまでの間にそのスキルを身につける機会が極端に少なかったのではないか、と。





     イレギュラー処理スキルというのは、基本的にアドリブであり瞬発力だと思います。予想もしてなかった、「げ!」というような事態に直面しても、なんとかその場の判断でうまく処理する能力です。だから、本来的に事前に準備するという類のものではないのですが、それでもそれなりの「スキル」というものはあるでしょう。

     例えば、本当かどうか知りませんが、人間の思考能力というのは、「拡散思考」と「収縮思考」の二つがあるというのを聞いたことがあります。前者は、投網をバッと広げるように、ありとあらゆる事を、連想ゲームのように考えていく方法。「「水」という単語から思い付く言葉を1分以内に出来るだけ多く上げなさい」という問題がありますが、それなんかもそうでしょう。収縮思考は、頭の中にブチまけた沢山の思考の断片を、今度は相互に脈絡をつけつつ、一本の線でつないでいく思考形態です。

     いわゆる「頭がいい」「回転が早い」というのは、この「拡散→収縮」を、猛烈な速さで頭の中で展開できるかどうかだと、僕は思います。同時に、これを何時間にもわたって継続させることが出来るかどうかという頭の「強さ」というものもあると思います。

     まあ本当かどうかは知りませんが、それなりに言えてるかなと思います。実戦現場では、無意識的にこのような思考法を取っているのではないでしょうか。

     例えば、皆さんの仕事の「現場」を考えていただきたいのですが、この種のイレギュラー事態は日常茶飯事に起きるでしょ?やれ主賓が交通渋滞に巻き込まれて遅刻しそうだとか、やれ来るべき物が来ないとか、いきなり停電するとか、「げ!」ということは幾らでも生じます。そのとき、瞬時に、対応策の選択肢を出来るだけ多く思い付き、いろいろ検討してベスト案を選択するという思考方法を無意識にとっておられると思います。

     ちなみに、このとき数ある選択肢のうちから、何がベストであるかを判断するためには、常日頃からプライオリティ(優先順位)を考えておく必要があるでしょう。そうでないと「なぜそれがベストであるか」がわからないし、判断も出来ない。



     ただ、そういうスキルというのは、あんまり学校で教えてないような気がします。むしろ、その逆をいってるような懸念もあったりします。「それはそういうものなのだ」という思い込みを、一つ一つブチ壊していくところに思考の柔軟性というのが出てくるのだし、「どうしてそうなるのか」という部分をとことんこだわり倒すところから構造的・立体的理解というのが出てくるのだと思うのです。

     ちょっと前に、ひょんなことから今の日本の中学高校の教科書を見る機会がありましたが、これがおっそろしいほど退屈なものでした。「こんな詰らんもん俺らやってたんか?」と愕然とするほどでした。それはもう「それはそーゆーものなのだ」のオンパレードであり、「どうして?」という疑問には殆ど何も答えていない。

     僕らは円周率が3.14であることは知っていますが、「そもそも円周率ってなんじゃ?」と言われると分かりません。なんでそんなものが必要なのかも分かりません。「円の面積を求めるとき必要」とかいわれても、学校を卒業してから今日まで、僕は実社会で「円の面積」なんて求めたことなんか一度もないです。これは「実際に役にたつことだけやれ」と言ってるのではないです。建築設計や測量のこういう場合に役に立つよとか、人工衛星打ち上げるときのこういう計算に必要なんだよとか、そういうリアルな感覚が欲しいのですね。それがあると、「あ、なるほどね」と思いやすいし、「じゃあ、こうした方がいいじゃん」という発展も出てくる。

     あるいは、「どうして昔の日本人はチョン髷をゆっていたのか?」という疑問があります。なんでわざわざ前頭部を剃り上げて月代(さかやき)というハゲ頭にせなならんのか、あれって一体いつごろから出てきたのか?とか。僕はよく知らんけど、絶対なんらかの理由があるはずです。「江戸時代に刀は1本幾らくらいしたのか」「昔の侍が仕官といって就職するとき履歴書みたいなものは提出したのか」「いったいいつから日本人は箸を使っていたのか」とか、いくらでも疑問は出てくるし、面白そうな話もあるのですが、そういうのは殆どない。そんな「日本史面白クイズ」的な雑学じゃなくても、「どうして頼朝はわざわざ京都ではなく鎌倉を選んだのか、じゃあなんで足利尊氏は京都にしたのか」とか、それにはそれないりの理由があった筈です。

     そういうこと考えながらやれば、詰まらん勉強も少しは面白くなるでしょう。また、そうやって考える訓練をしておくと、実社会に出たとき「今回のミスの場合、担当者を謝りにいかせるだけでいいか、部長が出ていくべきか、あるいは社長自ら謝るべきか、なぜか」という判断も少しは上手く出来るでしょう。「どうしてこの商品は売れないのか」「ここは一番早期退職金をたんまり貰ってとっとと辞めた方がいいかどうか」などの諸問題にも役に立つでしょう。「浮気をしてきたあと、どう言い訳すればいいか、しない方がいいのか」とか(^^*)。クリントンは最初から認めておいた方がよかったのかどうかとか、実戦で使うんだから。




     例えば、あなたがお使いに行ったとします。1個40円のコロッケを2個買ってくるように言われて100円持っていきました、という設例で、まあ普通の学校では「お釣はいくらでしょう?」という問いが来ると思うのです。これだけやってたら「イレギュラー迎撃スキル」は身につかないでしょう。身につけようと思ったら、

      @店の主人が間違えて10円しかお釣をくれなかったらどうしますか?
      A店の主人が子供だと思ってナメてきて「今日から一個50円に値上げしました」と言われたらどうしますか?
      B知らないおじさんが店先で包丁を振り回していたらどうしますか?
      Cお店が夜逃げして閉店してたらどうしますか?
      D「今日は特売日なので3個で100円」と書いてあったらどうしますか?
      EDの事例で、「2個60円にオマケしてよ」とお願いする場合、どのような理由で交渉しますか?
      Fこのように「考えうる事態」をあと各自あと30事例挙げなさい。


     こういう具合に教えられていたら、予期しなかった事態に直面しても、比較的冷静に対処できるんじゃないかと思うわけです。しかし、まあ、こういうこと教えていると、人をあんまり「選別」できませんよね。だから入試に困ると。誰にも文句が出ないような客観的な選別となると、デジタル的に合ってるか間違ってるかという年号みたいな問題がイイんでしょうねえ。結局そこに行き着くのかなあ。





     さて、以上が「頭のスキル」だとすれば、もうひとつ「心のスキル」というものがあると思います。

     ひとことでいえば「大変なことになってもビビらない」という、「根性」「性根」みたいなものなのです。「急場における数ある選択肢」といったって、所詮は100%完璧な案などあるわけないです。どの方法を選んだところで、不十分なところは出てくるでしょう。それなりに血を流さないとならない。Aという方法を選べば○○さんが可哀相だし、Bという方法を選べば△△さんが怒るだろうなと。

     あとでメチャクチャ文句を言われたり、マズイことになることを百も承知しながらも、しかしそれでもベストだと思えば、断じてそれを実行するという剛毅さ、要するに根性ですけど、それがあるかどうかというのが、結構重要だと思います。「止むを得ない!」「責任は俺が取る!」とバシッと言えるかどうかですね。





     この頭と心の「強さ」が乏しいと、イレギュラー処理が難しくなるでしょう。で、どうなるかというと「咄嗟の判断が出来ない」、だから「予想外の事態を避けようとして準備や情報を欲しがる(マニュアルが欲しい)」、また「失敗すること、失うことを恐れる」「何を得たかではなく、何を失ったかの方に関心が向い」「恥をかきたくない、人に批判されたくないという意識が主導する」などの諸特徴がオトモダチのようにダンゴ状態に固まって出てきちゃうのでしょう。

     で、よく若い世代は「指示待ち人間」「マニュアル世代」とか非難されて久しいですが、総理大臣を筆頭にオエライさんからして皆さんそうだと思います。だいたい国会質疑からして想定問答集という「マニュアル」を官僚に作って貰わないとろくすっぽ質疑の形にならないというくらいですから、ひとり若者だけ非難するには当たらないでしょう。

     ただ、政治家だけ嘲笑って済む問題でもないでしょう。株主総会しかり、記者会見しかり。なんで総会屋がはびこるのかというと、総会席上で「イヤな質問をされて恥をかきたくない」という経営トップの意識があるからでしょう。そりゃ気持ちは分かるけど、でも意気地なしと言われても仕方ないし、自分が恥かきたくないから会社の金を暴力団に渡していいわけもないでしょう。そんな「カッコつけたい」という意識は、違法行為をしてる分、「失敗を恐れるひ弱な若者」以下とも言えるでしょう。

     でも、僕だって笑う資格ないです。結構イレギュラーには慣れていたつもりでも、オーストラリアに来てから、自分の持ってる咄嗟のときの決断力、機転、瞬時に切り替えす機知に富む言い方など、やっぱりまだまだ弱いなあと思います。目の前で誰かが車に撥ねられたとき、間髪入れずに駆け寄って救急車の手配や応急措置が出来るか?窓口でダメと言われながらも、時には怒り、時にはユーモアを交えつつ、きわめて説得的に交渉を展開していく力。後で考えれば、「もっと瞬時に身体が動かなきゃ駄目だわ」「ああやって言い返せばよかった」「なんで○○という方法を見落としたのか」と反省ばっかです。

     常日頃から、イレギュラーなことは起こるのだと当たり前のように思い、ベタッと安心せず、いざ事が起きたら、クールに情勢を把握してベストと思われる方策をガンガン実行していく、冷静な決断力と実行力。なによりも「全責任を背負って全部自分が決める」という「腹の括り方」でしょう。



     ただ、まあ、そんなに誰もが「パニック映画の主人公」みたいに沈着冷静でいられるわけもないです。それが出来たら苦労はいらんですわ。

     でも、これらのことは持って生まれた資質というよりスキル・技術の問題だと思いますから、やってやれないことはないと思います。「イレギュラーに強い」=アドリブに強い=現場処理に強いというのは、上は大統領から下は宴会の幹事に至るまで、人前でなにかを仕切る立場の人、「現場」に立つ人だったら、大なり小なり求められる技術だと思います。日本人だけ資質面でそれが劣るとは思いませんし、「そういうもんだ」と理解して、仕切らせれば、遜色ないだけ出来るでしょう。

     だから、問題は、ごくリラックスしている日常生活においても、こういった「緊急事態配備」という覚悟がナチュラルに立ち上がっているかどうかです。




     そして、それをナチュラルに立ち上がらせるには、頭の中を「全てのことは変更可能である」という具合に世界観レベル、OSレベルで書き換えてやらないと駄目なんじゃないかと思います。「世の中NOと言われても交渉次第ではなんとかなる」「NOと言われてからが本当の勝負」「万事上手くいくことなんかあるワケないじゃないか」「破綻のひとつやふたつあって当たり前」という具合に。

     「世の中そういうもんだ」と思えば、異常事態が発生しても、それなりに対処できます。少なくとも対処しようという意欲は失われないでしょう。ところがその認識が足りないと、「うわ、どうしよ、どうしよ」でウロがきます。慌ててるだけで何にも出来ない。

     いまの日本だったら、「一生の間に、中退・離婚・失業・破産、このうち一つも経験したことない人生は退屈で詰まらない人生なのだ」くらいに思っていて丁度いいんじゃないでしょうか。




     例えば、「ケンカするほど仲が良い」という言葉がありますが、これは大袈裟にいえば一つの「人間関係論」「世界観」といっていいでしょう。これがインストールされている人の場合、あまり衝突を恐れず、友達や家族にも「なんじゃ、そりゃあ!」と言って本音でぶつかっていくでしょう。面と向って罵ったり罵られたりしても、「こういうこともあって当然」「こんなのはワン・オブ・ゼンに過ぎないさ」で受け止められます。でも、これがインストールされてない人の場合は、「アンタなんて最低!!」と言われただけで、もうこの世の終わりみたいにガーンとなって、「ああ、もうこの人とは友達でいられない」となってしまう。

     この種の「駄目なんだけどOKなのさ」というダイナミックな世界観は、古来いろいろなフレーズになって残ってます。「嫌い嫌いも好きのうち」「七転び八起き(それだけやり直しのチャンスは沢山ある)」とか。欠陥品同士だけど(だからこそ)上手くいくのだという「割れ鍋にとじ蓋」。あるいは「一人口は食えないが二人口は食える」など。特に男女関係の「不可思議な化学反応」をもとにしたものは多いです。逆に「OKなんだけど駄目なのさ」というパターンでは、「女心と秋の空」「七度探して人を疑え」とかありますね。

     いずれも共通するのは、「世の中そんな理屈通りいかんのじゃあ」というダイナミックでフレキシブルな、生命力あふれる世界観でしょう。人間というのは、もともと体内に大矛盾を抱えている存在なのでしょう。理屈通りキチキチやられると駄目で、ちょっとぶっ壊れているくらいのアバウトさが丁度いいのでしょう。アバウトとかいい加減とかいうと悪いイメージありますが、「ゆらぎ」とか「ファジー」とかいうとちょっとカッコ良さそうです。

     だもんで、人間にとって「イレギュラー」というのは、本来的にお友達、それも「幼友達」みたいにお馴染みの事態なのでしょう。「70点取れたらOKにしよか」というスカスカなスタンスでいけば、妙な事態になっても何かと対応しやすい。ところが「絶対100点取らなきゃ」と思ってると、やっぱガチガチなってしまうから、ワケわからん事態になったときに崩れてしまうのでしょう。最初から70点でいいと思っていたら、イレギュラーな事態が出てきて「あ、これは100点は無理だな」ということになってもまだ余裕ありますが、100点!と思ってると100点は無理となった時点で、パニックになったり、絶望しちゃいますもんね。




     ここで思うのは、なんだか知らないけど100点にこだわってしまう日本人の性癖です。これ、伝統的にこだわってるような気がします。完璧を求め、一点の汚れがあっても駄目という。神道のケガレやミソギの思想が源流とかいろいろ言われてますが、なんかあるみたいです。

     しかし一方では、「ひょうたんから駒」とか「笑う門には福来る」とか「座って半畳寝て一畳」「出たとこ勝負」とか、ファンキーでラテン系の世界観をもってると思うのですね、日本人は。緊張して100点とらなきゃというガチガチさから程遠い、「なんとかなるさ」的な、いー加減な処世訓もたくさんあります。だからそんなに四角四面の国民性じゃないと思うのですが、なんでなんだか、完璧主義がメインに押し出されてしまう。


     それが良い方向に転がれば、不良品率限りなくゼロの高品質になりますし、水も漏らさぬ完璧なサービス、1分と狂わぬ鉄道ダイヤやTV番組とかになります。

     しかしこれ悪い方向に転がるケースも多いです。金メダルプレッシャーでガチガチになってみたり、結婚前にSEXしたらその娘は「キズ物」だったり。会議でも記者会見でも政府発表でも、「一部の隙もないような完璧なシナリオ・答弁」をしようとするから、毒にも薬にもならないような紋切り型のものになる。

     イレギュラー事態に弱いのもこのあたりに深因がありそうな気がします。役所が前例のないケースを恐れるのも、「100点取れない」ことへの恐怖があるからだと思います。




     またそれを助長するように、誰かがちょっと間違っただけで、鬼の首を取ったように批判するという。総会屋とか談合とか、そんなもん存在するに決まっているのに、表向きはそんなもん「無い」ということで、100点なのよということにしている。そんなん誰が考えたって嘘なんだけど、そういうことにしている。だから、1点でも取りこぼしが発覚したら、マスコミは大騒ぎするわ、直接関係ないような上役も責任とって進退伺いを出すという。

     それだけならまだしも、100点取れなかった、失敗しましたということを、可能な限り認めようとしないという態度が問題です。「ごめんなさい」って絶対言わない。100点取って当然という秀才が、あるとき80点を取ったら、恐くなってそのテスト用紙を隠してしまうように、100点取れなかった事態は「なかったこと」にしようとする。

     こんな例いくらでもありますよね。例えば、子供が100人いたら絶対どっかにイジメがあっても不思議じゃないのに、「我が校はイジメはありません」といい、で、問題があったら校長が記者会見する。ちなみに、もと小中学生のひとりして素朴に思うのですが、「学校の校長先生って何やってんの?校長先生に分かるの?」と。別に担当クラスがあるわけでなし、そんなもんイジメの有無なんかわかりっこないんじゃないの?あなたの会社だってイジメがあるかもしれないけど、社長さんそれ知ってます?どっかフィクションっぽいのですね。

     このメンタリティこそが、日本社会で一歩イレギュラーな事態に陥った時、絶望的なまでに回復を困難にするのでしょう。不祥事、不手際が大きければ大きいほど、つまり被害が甚大であるほど、間違いが巨大であればあるほど、逆により強硬に「あれは正しかったのだ」で強弁しようという皮肉な結果になってくるのでしょう。戸籍謄本頼んだら違う人のが出てきたとかいう可愛いミスなら、「あ、すいませんね」であっさり解決するのですが、諫早湾の埋め立てにせよ、河口堰にせよ、十数年規模で大きく間違えちゃったものは、口が裂けても「間違ってました」とは言わない。証拠を捏造してまで無実の人を殺人犯にしちゃったというムチャクチャは、「検察の威信」とやらの為に何十年も、あるいは永久に回復されない。

     ひいては、第二次大戦で悪いことを沢山すればするほど、「いや悪いばっかりじゃない」「相手も感情的過ぎる」とか、強弁したり、問題をすりかえたりする輩が出てくる。

     この「ミスがでかければでかいほど開き直ろうとする」というケッタイな精神傾向は、日本人が何故だか知らないが持っている完璧主義と無縁ではないのでしょう。と同時に、ミスったとき、失敗したときの立居振舞のスキルが乏しい、というより腹を切るくらいしか無い。だから、「帝国兵士は生きて捕虜にならない」という無茶苦茶に非現実的な、宗教的といってもいいくらいの前提でやってるから、国民は無駄に死ななければならなくなるし、映画の「大脱走」のように「生きて捕虜になったら出来るだけ敵の後方を撹乱する」「脱走して敵の内情を知らせる」という有効な戦術も打てない。




     これに比べてオーストラリアの場合、ハナから100点なんか取ろうと思っていないフシがあります。不良品なんかあって当たり前、窓口で嘘教えて当たり前、遅刻して当たり前という70点主義だと思います。だから、100点主義に慣れている日本人は、これがとんでもないことにように思え、ブツクサ文句をいうわけです。

     ただし、「第一段階ではどうせ70点しか取れないだろう」ことを前提に、第二、第三のシステムを考えてる部分もあります。例えばクーリングオフ制度ですが、こちらでは訪問販売でなくても、そこらへんのスーパーで買ったものでも返品可能です。法律で保護されているので、返品に行っても別に嫌な顔もされませんし、その処理もルーチンワークで淡々としたものです。「店員がいい加減なことを言って間違った買物をさせるかもしれない」し「客がそそっかしくて間違ったものを買うかもしれない」という世界観、「そんなのあって当たり前じゃん」という前提に立ってるから、「じゃ返品OKということにしましょうか」という補完システムが出来てるのかなと思います。それだけが理由じゃないにしても、有効な補完機能は果たしていると思います。

     日本は一発目にほぼ100点がきますけど、もしそのときズッコケたら後がないから死ぬほど大変。オーストラリアは、一発目に100点来ないことが多いけど、2発目、3発目というリカバリーの機会も多いと思います。まあ、2発目、3発目も相変わらず70点がくるわけですけど、それを繰り返していけば何とかなるでしょという方式でしょうね。だから融通がききやすい。レギュラーが駄目な代りにイレギュラーに強い。多少型にハマらない申請であっても、「ま、いいか」と窓口が思えば通しちゃう。これは日本じゃほぼ無いことでしょう。

     学校の入学でも、窓口ではわからないようなイレギュラーケースだったら責任者の所に連れて行かれます。で、そこで話し合って、「規定によれば駄目だけど、まあ○○を持ってくればいいことにしましょう」とポンと即決で許可されたりもします。例えば、入学資格に「高校卒業以上」とあっても、「高校は出てないけど、こっちの専門学校に3ヵ月通ってますから、いいんじゃないですか」と言えば、「じゃあ、その卒業成績が良かったらいいことにしましょね」とすぐ決めてくれる場合もありました。実質論とか理屈が通り易いです。どんなに理屈が通ろうが「規則ですから」の一点張りの日本とは、そこが違う。

     同じように、「あらゆる政府機関は腐敗する可能性がある」という前提で、それをチェックするためのオンブズマンやら、独立委員会がやたら多いです。今度のシドニーの水問題でも、OKをだすかどうかの権限をシドニー水道局や厚生省から即刻剥ぎ取って、独立チェック委員会をすぐに発足させてますし。日本の場合は、「あらゆる官僚は清廉潔白」という前提で動いているのと正反対だと思います。

     突き詰めていけば、「イレギュラーこそがレギュラーなのだ」という世界観が根底にあるような気がします。オーストラリアに住んでる人のなかに「英語が出来ない人がいる」ということも、もう当たり前の前提でシステムが出来ている。そのため重要な告知は16ケ国語に翻訳されたパンフを刷り、要所要所に各国の通訳を配備しておくという。まあ、それも70点なんだけど。

     家主が保証金をネコババするかもしれないよねということで、全ての保証金は国が代わって保管する制度にする。家庭内暴力があるという前提で、母子のための駆け込み寺のような避難所を作ろうと。教育においては、「人はみな違うのだ」ということを基調にして教えようとする。第二外国語で日本語が選ばれているのも、エコノミックな理由以上に、言語体系もカルチャーも全然違う日本を取り上げることによって、「ね、世の中いろいろ違うのがあるでしょ」ということで、視野を広げさせるところに本当の教育目的があるのだと言われています。


     それらの社会制度やら人々の発想を見て行くと、その底に流れているのは、「人間なんだから100点なんか取れっこないじゃん」「違って当たり前じゃん」という人間観があると思います。イレギュラーだらけで矛盾ばっかりの人間、千差万別の人間、という前提で組み立てられた社会であるから、僕らも結構気楽に呼吸が出来るのだと思います。




1998年10月08日:田村

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