シドニー雑記帳





イレギュラー処理システム





     そんなわけで、福島・ラースコンビが帰宅し、長かったヤモメ暮らしも終止符も打つことができ、「人がいるっていいな」と噛み締めている今日このごろです。皆様いかがお過ごしでしょうか。

     おいおい福島から土産話が出るでしょうが、彼女から日本で運転免許の更新をするときの異様な面倒臭さと対応のお粗末さを聞かされました。海外居住のため住民票を抜いておくと、いかに種々の行政手続が面倒臭く且つ無責任か(タライ回し地獄)ということですが、そういう話を聞くと、「ああ〜」と思ってしまいます。

     「ああ〜」のあとに何が続くかというと、「こんな調子じゃ、多分この先ずっと日本には住まないだろうなあ」と続きます。日本の自然も日本人も、どっちかと言えば僕は好きです。ずっと前にも書きましたが、僕が日本を後にしたのは、日本がキライだったからではありません。単に「冒険がしたかった」「未来予測ゼロというムチャをやってみたかったから」に他なりません。だから、一般的な日本在住の日本の人よりも、「日本好き度」でいったらおいそれとヒケを取らない自信はあります。

     その僕をして、「ああ、このまま一生母国に住まないかもしれないなあ」と思わせるのは、国土が悪いわけでも、人が悪いわけでもありません。そのうえに乗っかってるシステムが良くないなと思うからです。

     何が悪いか。あらかじめ結論めいたことを言ってしまうと、イレギュラーなことに弱すぎる、ということです。日本の社会システムのハードもソフトも、ベルトコンベアのような単線・規格・ワンパターン状態で、まるで自動販売機のようです。「普通」にやってる分にはいいのですが、ちょっと平均から外れると極端に未整備になる。すごく整備された高速道路はあるのですが、そこから外れた裏道は狭くて未舗装でしかも行き止まりが多い。

     あたかも、新幹線「のぞみ」の接続は非常にいいのだけど、「こだま」に乗ると通過待ちばっか、在来線の乗り継ぎになると、「わざと意地悪してるんじゃないか」と思われるほどボロボロなJRのダイヤみたいなもんです。というか、あの姑息なJR商法が象徴してるのかもしれません(GWに格安チケットが使えないとか、青春18切符を使いにくくしたりとか、貧乏学生で遠距離恋愛してた旧国鉄時代からいいたいことは山ほどありますが、それは別の機会に)。





     オーストラリアに住まわれた人は、誰もが日本に比べてオーストラリアの「いい加減さ」に、驚いたり、憤慨したり、面白がったりします。日本の方がずっとシッカリしてるといいます。でも、僕はずっと異論を持ってます。オーストラリアがいい加減なのは判ります。でも、日本がキチンとシッカリしてるというのはハッキリ言って幻想やと思います。キチンとしているのは、「現場の末端の人が対応して」且つ「王道の一般平均パターンを辿ったとき」の話で、この2つの条件から外れたときは、オーストラリアよりももっとヒドイと思います。日本がキッチリしてると思うのは、それだけアナタが日本で「ごく普通のパターン」でやってこれたからでしょう。

     僕も個人的には、まあ「ごく普通」の日本人だと思います。が、仕事柄「普通じゃない」ケースは散々見てきました。で、一旦普通じゃないパターンに入り込んでしまうと、もう「鏡の国のアリス」かブラックホールかというくらい、当たり前のことが全然当たり前にならない。そこを進むためには、文字どおり岩山に穴を開けるくらいの根性がいるということを思い知らされるわけです。

     例えば、銀行に1億円以上の返済をしたのに、銀行のコンピューターの処理のミスで未済になってたので、また請求され家屋敷を競売にかけられたという嘘みたいな事件もありました。役所が不都合を隠蔽するために情報を隠したりするのはもう日常茶飯事レベルです。早い話が薬害エイズなんかもそうです。あれだって、ときの厚生大臣の鶴の一声がなければ、「知らぬ存ぜぬ」で終わってたでしょう。

     この種の話を挙げてみろと言われたら、幾らでもあります。ニワカには信じられないようなヒドイ話がぞろぞろ出てきます。僕だって弁護士になるまで、そこまでヒドイとは思ってもなかったです。でも、交渉に赴き、「担当者が転勤してしまいましたし、当時のことはもう、この記録にあるだけで〜」云々というミエミエの嘘を何度も聞かされているうちに、「これが日本なんかい?」という具合に認識も変わります。ああ、思い出すだけで腹立ってきた。

     そんなに特殊なケースでなくても、似たような話のひとつや二つ、あなた自身ないし身近に聞いたことあるでしょう。もし無いなら、今までラッキーだっただけでしょう。




     これらの問題の根源にあるものの一つは、「イレギュラーなパターンに対する処理システムの未整備」でしょう。

     ルーチンワークはキビキビこなせるが、前例のないケースにブチあたると、もう混乱してしまう。下手すりゃ証拠を隠滅してでも「なかったこと」にしようとする。神戸の地震直後の不手際、その後に起きたトンネルの土砂崩れの救済の不手際、原発事故の処理、7年経過しても先送りを続けようとする銀行の不良債権処理。これはひとえに政府や関係機関の無能を示すだけではなく、日本の社会そのものにおかる「イレギュラー処理システム」というものが非常に弱いことを示していると思います。

     「縦割り行政の弊害」「官僚主義」とか言われますが、それは現象というか結果に過ぎず、問題は「なんでタテワリになっちゃうのか」だと思います。また薬害エイズや冤罪事件は一部局内の問題ですので特にタテワリは関係ないでしょうし、民間企業、私立学校にも似たような問題は出てくるので「官僚」だけの問題でもない。

     そのあたりを掘り下げていけば、やれ「画一化教育の弊害」「規格大量生産」「単線型ライフスタイル」とか、「創造力に乏しい」「量的拡大は得意だが質的飛躍ができない」とか、もう散々ぱら論じられているところですので「何を今更」の話になっていくのでしょう。

     「今更」の話を今更持ち出すのは、社会評論としての「画一」なんたらだけだったら「うーん、そうそう」と呑気に構えてればいいけど、「今度の免許の更新、面倒臭そう」という身近な話になると不快感もリアルになってきますので、何ごとか言いたくなります。それが起爆剤になって、前々から鬱積していた部分に火がついて、「そろそろ、もうええ加減にせえや」と吠えたくなったりもするわけです。




     なお、今のべたのは事件というイレギュラーな「ケース」ですが、存在や身分そのものがイレギュラーだった場合の不都合というのは、そらもう大変なものだと思います。

     僕は、日本国籍を有する男性であり、長男であり、(視力を除いて)五体満足、生まれも育ちも(ほぼ)東京23区内であり、高校も普通科、大学進学して、資格もとって、働いて自分の金稼いでました。ですので、身分なりポジションなりでおよそ「引け目」というものを感じる必要のない、いわば「日本のWASP」みたいなもんです。また「普通こそが最強」という日本社会においても最強だったと思います。違和感あるのは性格くらいで(^^*)。

     これが、女性に生まれ、身体にハンデを受け、親が外国人であったり、辺境地に育ったり、学校は不登校、バイト以外勤労経験なし、、とかいうことになると、話も随分変わってきたと思います。つまり、何らかの意味で「イレギュラー/少数者」ないし「ワリを食う存在」という部分がどっかにあれば、それが生まれ育ち、人格形成や人生設計において強烈な「ひっかかり」になった可能性は大です。

     だから、ほぼレギュラー一本の苦労知らずの僕には、たかだか「住民票がない」とかいうイレギュラーに基づく些細な苦労が、「なんでじゃあ」とムチャクチャ理不尽に映ったりします。と同時に、これまでの人生でいかに不当に得をしてきたか、いかにゲタ穿かされてきたかということも分かるわけです。このあたりの話は、ずっと前の雑記帳「不器用な男達」で話したことと重複します。母国の「優勢種」として殿様やってた男性は、海外に出てドマイノリティになり、「英語のへたくそなアジア人」という殆どゴミ同然の立場に突き落とされると、換言すれば真の底力が試される局面になると、途端に脆くなるという話ですが、あれと同じです。要するに、「俺達は不当に優遇されてんだぜ」ということです。人の不幸の上でアグラをかいてるようなもんだよと。

     白人であるリンカーンが命を張って(本当に殺されちゃったし)奴隷解放を成し遂げたように、社会の理不尽は、それによって得をしている強者的立場にある奴が動かないと中々変わらない。損している少数の人達だけが騒ぐよりも、得をしている多数の人がほんのちょっと動くだけで、世の中なんかガラリと変わると思います。今まで得させてもらって、下駄はかせてもらってきた奴には、その分借りを返す義務があるのではなかろーか。



     ところで、いま「女性」も一つのイレギュラー要因に入れました。人口の過半数を超える女性(長寿ゆえに絶対数では男性よりもずっと数が多い)をもって「イレギュラー」というのは変なのですが、新幹線の「のぞみ」か「こだま」かといったら「こだま」的立場の方が多いでしょう。

     「こだま」的立場=「未整備のために種々の不都合が生じる」ということを、生活実感に置き換えて言うならば、「やりたいことをやらせてくれない」「外野にウザウザ言われる」という不愉快・不都合の頻度&強度ということになるでしょう。で、やっぱり女性の方がこの種の不快頻度は多いと思う。

     いわく、結婚しないとウザウザ言われる。昨今大分変わってきたといいながらも、オールド・カスタム・ダイ・ハード(古い慣習は中々死なない)。「コトブキ退社」なんて言葉が死語にならん以上は、濃淡はあれど存在はする。結婚したらしたで、今度は子供が出来ないと何だかんだ言われる、一人作っても二人目がまだだと「二人目は?」と言われる。妊娠中の福島が感じた、日本社会の出産・育児に関する違和感の元凶は、今から思えば、このワケのわからん外圧だと思います。出産がクリアしても、今度は「良いお母さんにならなきゃプレッシャー」が待っている。

     いわく、女性の(特に中高年以上の)の賃貸は嫌がられる、一人旅では宿を断られる、女が社長だと舐められる、、、、幾らでもリストアップできるでしょう。

     絶対数で優る女性ですらこんな調子ですから、圧倒的少数であるその他のイレギュラーな人々の苦労はいかばかりか。身体のハンデを負ってる人、被差別部落出身の人、外国(それもマイナーな国)の人。

     イレギュラーの不利益がより一層際立つのは、イレギュラー×イレギュラーという「乗数効果」が出てくる場合でしょう。外国籍の人が警察沙汰になったときとかですが、極端なケースでは「被差別部落出身の人が在日韓国人の人と結婚し、産まれた子供が障害を負い、長じて警察沙汰になったような場合」などです。





     不当なこと、理不尽なことが大手を振って罷り通ってる社会は、未開・未成熟だと思います。まあ何でもかんでも進歩すりゃいいのかという懐疑もあるのですが、素朴な原始感情において、「ひどいじゃねえか」というようなことは無い方がいいし、少ない方がいい。

     食うのが精いっぱいという原始社会においては、荒っぽくイレギュラーを無視して、「優勢保存」の自然法則でやっていくでしょう。産まれた子供に障害があるのが分かればその場で間引く(殺す)。足手まといの老人は姥捨て山に運ぶ。戦場で負傷者を置き去りにするように、イレギュラーな人を同列に扱ったら全員共倒れになる。船が沈没すれば、泳げない人、弱い人の順に死んでいく。

     しかし、この「適者生存の自然淘汰」という強烈な「自然の法則」にタテつくところから人間の文化や文明というものは始まっていると思います。「自然主義」は言葉はキレイですが、自然に善悪も正邪もない。「強いものが正義」という言わば「ケダモノの法則」に則れば、強姦も殺人も「正義」であり、日本の政府は山口組になったりするかもしれない。




     ここで思いっきり寄り道しますが、「人間は自然なのか」という問題があります。

     前頭葉連合野が異様に発達し、要するに「いらんことを無茶苦茶一杯考えるケッタイな生き物」としての人間は、「生殖目的以外にSEXをする」という言語道断の不自然なことをし、それを前提に「男と女のカルチャー」を築き、ラブソングという名の「反自然の変態讃歌」を聴き、それを楽しんでるという、自然界の超イレギュラーな存在だったりします。だって「子供を作ろう」という歌ってないじゃないですか(^^*)。

     こんな「自然と人間の関係」なんて途方もないテーマに首をつっこんだら抜け出せなくなるので適当に切り上げますが、何が自然で何が不自然なのか、人間は自然が好きなのか、不自然が好きなのか、ようわからんです。ゲイとかレズビアンが「不自然」だという考え方がありますが、じゃあ「生殖を目的としないSEX」は不自然じゃないのか?というと考えてしまいます。さらに、生まれてくる子を「家の跡取り」とかいう「人工的な付加価値」をつけて、その付加価値ゆえに喜ぶ(女の子が産まれると落胆するとか)いうのは不自然ではないのか。そもそも一夫一婦制なんか不自然の極みではないのか。そんなこと言い出したらキリないです。

     この問題は「人間は動物なのか動物でないのか」という問題にも置き換えられますが、部分的に動物(自然)であり、部分的にそうではないというミクスチャーであるということでしょう。

     で、繰り返しになりますが、人間がこれまで「正しいこと」「文明的」として築き上げてきたことを一言でいえば、「自然のケダモノ的な欲求にタテをつき、治水管理していこう」ということでしょう。いい女を見て「犯したい」と思うのは、ある意味とても「自然」なことでしょうが、「でも我慢しなさい」「ダンドリ踏みなさい」というのが文明でした。「殺人の自由」も認めないよと。

     このように「力による殺し合い」の社会にNOを突きつけて、どんな価値原理に基づく社会にするのかといえば、簡単にいえば「他人の嫌がることはすな」ということでしょう。アンタが強姦したくても、相手の人がされたくないと言ってるなら「すな」と。暴力的な弱者にも強者と対等の立場と権利を与えましょうと。これを理論武装すると、「皆同じ人間」「天は人の上に人を作らず」であり、「人間であるというただそれだけで自動的に権利が与えられるのだ」ということになります。「間ゆえの利」、英語で言えばヒューマン・ライト、日本語で略して「人権」。近代人権思想のオサライですけど。



     一応日本もこの価値観に立ってます。それは単に憲法に書かれているというだけではなくて、みなそっちの方がいいと思ってるからでしょう。それとも、絶対王政みたいに王様がおって、全ては王様の胸先三寸で自分の生死を決められちゃうような社会、それが「正しい」とされる社会の方がいいか?と言われたら、誰だって嫌でしょう。自分がその王様になれるならともかく、まあ99.99%の確率でアナタも奴隷の人生になります。どっかの国のように、食事の席上、ゲラゲラ笑いながら召使を射殺して遊んでるよな王室なんか要らんでしょ。そういうアホな王室が出現しても原理的には何にも言えないのが絶対王政なんだから。

     だもんで、日本でも高齢化問題に「ちゃんと」頭を悩ましているわけで、間違っても「面倒臭いから役にも立たない老人なんか皆殺しにしちゃえば?」なんてことは言えない。口が裂けても言えない。なぜかといえば、「人はみな等しく尊い」からです。等しく尊い人を「メンド臭いから殺せば」なんて扱いには出来ない。本当にみな等しく尊いのか、それが客観的に真実なのかフィクションなのか偽善なのかは、そんなことはどーでもいいのです。「そういうことにして」システムを作っていくのが一番フェアだろうと思われているからです。テクニカルな問題としてそうしているのです。僕もそれ以上に巧妙な原理は思い付かないし。

     とするならば、どこまでキッチリと原理に忠実にケジメを通すか、その価値観に実践がどれだけ追いついているかどうかが、その社会のバロメーターになるのでしょう。




     しかし、キレイゴトをいうのは簡単です。マイノリティーの人や「普通のパターンじゃないケース」に対しても、人はみな「人たるがゆえに尊重される」のであるから、出来るだけキメ細かく、公平な取り扱いをしなさいというのは簡単だし美しい。

     でも、実際にそれをやるのは異様に面倒臭かったりします。一人ひとりキメ細かくみていこう、その人に最大に適した方法をとっていこうというのは、おっそろしく手間暇がかかります。そりゃもう、全てを同じように扱う方が効率的だし楽チンですもんね。ベルトコンベアに載せてパンパン判子押していけば一件終了ですから安上がり。

     教育だって、ひとりひとりの子供の個性に応じたベストな方法を模索するよりは、十把一からげにして数十人を同じ教室にブチこんで、同じ授業受けさせてる方が楽です。で、出来の悪い奴はパッパと切り捨てていけば簡単。人数調整も面倒臭いから、「この地区の人はこの学校」と強制的に割り当ててた方が楽。身体や心にハンデを負った生徒なんか出てこようものなら、「あーあ、もう、また面倒くせえのがきやがった。そこらへんに適当にまとめてほうりこんでおけ」と。

     介護保険でも、要介護のレベルを強引に6段階に分割し、しかもその認定は国がやる。病院でも大部屋に入れる。食事も作る便宜から、メニューもないし、メチャクチャ早く出てくる。生活保護でもなんでも、「面倒くせーな」と言わんばかりの窓口の応対に出くわしたりもします。




     だもんで、「全ての人を人として尊重する」というのは、もうおっそろしく手間暇が掛かるし、金もかかるし、精神力も必要で、相当腹括って取り組まないとならないことなのでしょう。しかしその手間暇を掛けましょうというのが元々の出発点だった筈ですし、それだけの手間暇をかけられるというのが、また国富・国力であり国民の成熟度だと思います。

     「身寄りのないお年寄りがミジメな老後を過ごすくらいなら、多少俺の税金が上がっても仕方ないな」と思える人がどれだけいるか、「そんなジジーのことなんか知らねーよ」という人がどれだけ多いか。「税金が1円の無駄もなく使われている」という自信があるか?それだけ有能で透明な政府を選んでいるという自負があるか?それをチェックしうる体制を作り上げる方法を知っているか?そのために一市民としての自分が何をすれば一番効率的なのかを知っているか?そして実践しているか?それがその国の「国力」であり「国富」であり「国民の成熟度」でしょう。

     そういう意味でいえば、ノーマルパターンには強いが、イレギュラーパターンに弱いという日本社会は、全然駄目とまではいいませんが、まだまだやるこた沢山ありそうです。




     あんまり自分の国をこんな具合に言いたかないし、100点満点の国なんか未だこの地球に出現してないけど、それでも「とにかく食うので精いっぱい」というだけの余裕のない未成熟な社会なのだろうなあと思ってしまいます。だって、住宅ローンとか教育費とか老後の備えとか、とかく自分の頭の上の蝿を追ってたらそれだけで力尽きちゃいますもんね。それ以上他人のことまで考えられないというのが実状でしょうし、まあ、突き放して言ってしまえば「その程度の国力」ということなのでしょう。

     「飽食日本」とか言われているけど、あんなのはハシタ金の日銭稼いでパッと使ってるだけの話であって、ベースとなる本当の意味での社会資本は少ない。全ての国民の通勤時間を30分以内にして、一人あたりの居住面積を今の2倍にして、入院患者の占用スペースを今の3倍にして、医療費を半分にして、生徒一人あたりの先生の数(それに質)を今の3倍にして、「老後のために貯金する」という人がいなくなって(全部楽勝で国が面倒をみる或いはそのくらいの個人資産は特に貯めなくてもある)、、、、なんてことを本気で実現しようと思ったら、一体どれくらいの富が必要でしょうか。気が遠くなりそうなくらいでしょう。

     脱線して、ちょっと超アバウトな計算をしてみましょうか。例えば「30分以内の土地に今の倍の家を買えて、差額ベッドに余裕で入れて、超名門私立学校に行かせられて、老後はバッチリ」を個人的に実現しようと思えば、幾らくらい金がいるでしょうか。ざっと1億円くらい貯金が増えたらOKでしょうか(全然足りない?)。このいい加減な数字をもとにさらにいい加減に計算しますと、日本全国では、1億人×1億円ほど金が必要ということになります。ざっと一京円。こんだけ金があったらまあ何とかなるかな、と。

     ところで日本の国家予算はたしか50〜70兆、GDPが500兆、個人資産合計が1200兆とかいうくらいですから、全然足りないですね。なんせ1京円ですから。1万兆円。国家予算全部を社会福祉資本に回したとしても、あと100年から200年ほどかかる計算になりますか。飲まず食わずで死にもの狂いで働いて、35世紀か40世紀くらいになったら何とか形になるかな〜というすごい計算になりますね。

     でも、正味の話、そこらへんが駄目だったら、いくら新車買ったり、ブランド品買ったり、高級料理食ったって、本質的に貧しいことに変わりはないと思います。日本人は忙しくアクセクして働いているといわれますが、好きでやってるのではないです。貧乏なんだからしょーがないのです。皆が余裕で老後が過ごせ、大した苦労もなく庭付きに家にすめ、失業保険も一生でるならば、ここまでアクセクせんでもいいはずです。




     今、「あと100年」みたいな絶望的な話をしましたが、別にこんなのは「やり方」ひとつで幾らでも短縮できると思いますし、それをやるのが政治であり経済なのでしょう。だって50年前は事実上ゼロだったのにここまで来たんだし。

     例えば、僕らの上の世代に人々が頑張って35年掛けてローンを完済して家を取得できたとします。で、子供の数が平均2名であり、子供がみな結婚すると仮定すれば(=要するに世帯数が増えないのであれば)、理論的には、今現存している住宅の数で将来的には足りる、つまりこれ以上住宅なんか買わなくても良いという話になります。全部相続すれば足りると。ということは、次の世代以降は誰一人住宅ローンを負わないで済むことになります。これは実はドエライことで、「将来35年にわたっての強迫的な勤続」を免除することを意味しますし、一人(世帯)あたり3500万円くらい無条件に貯金が貰えることを意味します。

     だいたい不動産価格が上昇してマイホーム願望なんてのが出てきたのも、戦後の復興過程で、産めよ増やせよでベビーブームが起きて人間が増え、大都市に人口が集中したからでしょう。人間の数に対して入れ物(住宅)が圧倒的に足りなかったら、猫も杓子もマイホームということになり、建築業者もメチャクチャ増えた。だもんで、もともと「永年勤続×35年ローン×マイホーム取得」というライフパターンは、歴史の一点で生じた一過性の話ともいえるわけです。今後は「マイホームなんて親からタダで貰うもの」というのが常識になるかもしれないし、既にそうなりつつあるでしょう。「マイホームという課題」がなくなったら、ローン分を別の消費に充てられるわけですし、もうライフスタイルも何もかも根本的に変わるでしょう。

     もっともこれは机上の計算ですから、上の世代が皆さん完済住宅を持ってるとは限らないし(その代り一人で2つ以上の家を持ってる人もいるけど)、現在の住宅では理想とするには程遠いのでやっぱりヴァージョンアップしなきゃならないとか、日本の住宅は何十年も耐用年数がないとか、シングルの人が増えているとか、家があっても過疎化しててそこに住んでも仕方がないとか、いろいろなマイナス要因はあるでしょう。

     だからそこが「やり方」だと思うのですね。地方でも十分食って行けるように産業構造を変えてやれば、いま見捨てられている土地建物も復活するでしょう。今の東京の地価を前提に「全員に30分通勤庭付一戸建」なんてのは絶対無理ですもん。もう物理的に無理。だから前提を変えればいい。今の日本は国土のわずか3%の土地に人口の70%が住んでるというのを読んだことがありますが、むちゃくちゃ無駄な土地の使い方をしてるわけで、そこを何とかできたら話は根本的に変わっていくでしょう。しかし、遷都だ地方分権だといいながら、現在東京の首相官邸を超豪華に改築してるとか聞きますから、先は長そうですね。以上は余談でした。

     だけど、そこらへんの本質的な「貧しさ」を何とかクリアしないと、ケースバイケースの手間暇かかるケアなんかやる余裕なんか生まれてこないだろうなあとも思うわけです。だからこそ、最もマネージしやすい平均パターン中心主義でやってくことになるし、「高速道路は立派だけど、裏道はいつも行き止まり」的な状況が続くでしょう。かくしてイレギュラーなものに対するケアの道も遠い。




     ところで、イレギュラーなものに対する不寛容性は、ハードなシステムだけでなく、ソフトなメンタリティにも強固に浸透していて、殆ど不可分みたいになっているように思います。

     それはもうイレギュラーケースに対する役所の窓口の「面倒臭げな態度」に全て表れているような気がします。よくお役所で「前例がない」ことを理由に取扱を拒否されたり、遅延したりしますが、あれも妙な話です。前例があることばかり機械的にやればいいんだったら、全部機械でやれば良いです。戸籍とか住民票とか、カードと暗証番号でATMみたいに出来ないのか、インターネットでやれんのかという気もします。不動産登記簿なんか万人に閲覧自由なんだから、データーベース作ってインターネットで誰でもアクセスできるようにすりゃいいじゃんと思うわけです。

     決まりきったルーチンをこなすだけなら、わざわざ人件費かけて公務員なんて雇う必要ないでしょうに。前例のないケースを的確にマネージできてこそプロであり、それでこそ税金使って人を雇う意味がある。前例がないときこそ「君の出番だ!」と思うのですが、それが処理の拒否や不許可の言い訳に使われており、それを全然不思議に思わないというカルチャーを考えると、またしても「ああ」と思うわけです。

     というわけで、イレギュラーに冷たいという日本の特徴につき、今度はメンタリティ、ソフトな部分を考えてみたいと思います。




1998年9月24日:田村

★→シドニー雑記帳のトップに戻る

APLaCのトップに戻る