救いなき寒き風景その1
シドニー雑記帳
中高生の留学現場から見える日本の問題(その1)
中高生留学は、「生活体験マニュアル」と並んでAPLaCの初期の取組みの一つです。実際にこちらに来られた中高生の方を何人かサポートしたこともありますが、はっきり言ってウンザリしております。「もう、中高生留学は止めようか」という。
もともとAPLaCは現地で細々日常のサポートをするのが本業ではなく、日本にいる人にシドニー周辺の現地校の詳細なデーターにはじまって、留学に関する様々な情報をお届けするのがメインでありました。自分に合う学校選びの参考にしてくれればいいわけです。「現地の学校や状況」、それこそが一番情報が少ないところでありましたから、我々がやる意義もあるだろうと思ったわけです。それ以上の話になると、教育の専門家でもない我々の出る幕もないだろうと思ってましたから、学校選びが終わったらウチの役目は終わりとなる筈でした。どころが、実際にはそこで終わらず、あれこれスポット的に頼まれてサポートする事も多くなってしまいました、というかそっちの方が分量的には多いくらいです。
で、こちらに留学してこられた中高生の生徒さんが、オーストラリアの学校でのびのびと開花してくれたならば、これに優る喜びはないのですが、そんなこと滅多にないです。絶対数が数人レベルですので、これが一般的傾向なのかどうかは判りませんが、大体が後味悪い、殆ど救いのないような終わりかたをします。
僕(田村)は、APLaCにおいてもあまり留学部門は担当しておらず、以前留学斡旋業者で稼動していた経験を持つ福島・柏木がもっぱら担当してるのですが、それでも門前の小僧的にいろいろ垣間見ることはあり、考えさせられることはあります。
正確な統計があるのかどうかは知りませんが、現在、中高生で日本からオーストラリア(or海外)に留学してくる生徒さんの、ある程度の部分は、いわゆる不登校児など日本の教育課程に馴染めなかった人だったりします。まあ、日本の教育システムそれ自体それほど素晴らしいものとも思えないので、それに馴染めなかったとしてもそれはそれである意味「普通の反応」とも言えるわけです。しかし、そのなかには、子供ないし親の側にもやっぱり何らかの機能不全を抱えてるパターンもないわけではないです。
ヒドいケースになると、姥捨て山のように、親が子供の面倒をみるのを鬱陶しがって体よく「海外留学」という形で追い払うというケースも耳にします。「昔戸塚ヨットスクール、今海外留学」というわけでもないのでしょうが、そういうパターンにおいては、子供自身留学したくて来てるのではありませんから、ほぼ大体途中でポシャるといいます。そりゃそうでしょう。
日本人なんか一人もいないような学校にいきなり送り込まれてやっていくのは並大抵の根性ではダメですから、本人にやる気や希望がなければ続くもんじゃないでしょう。で、ウチとしてはそういうケースは最初からお断りするようにしてます。まあ、実際そういうケースが来たことはありませんが、そんな姥捨てならぬ「子捨て」斡旋業みたいなことはしたくないですから。
余談ですが、子供を留学させるに当たって「できるだけ日本人のいないところがいいです」という親御さんが結構いるらしいのですが、そういう方々には、耳元で「お馬鹿さん」って囁いて差し上げたいです。この種のことを言う人というのは、自分が英語喋れない人だと思います。母国語が全然ない環境が一体どれだけハードなものなのか知らないからそんなこと言えるのでしょう。英語が出来なきゃ、早い話、読めない喋れない聞こえないの三重苦生活になります。本当にツライですよ、それ。
それだけではない。人間というのは言葉を道具にして頭のなかで思考するから、英語ベースのコミュニケーションになると、ろくな道具がないまま物考えることになり、結果ものすごく思考能力が落ちた気になります。「いい」「わるい」「すごい」くらいのことしか喋れないと、食事を出してもらって「おいしい?」ときかれて「うん!」と答えてそんで終わりになります。何やら自分がおっそろしく頭が悪くなったような気がしてぞっとします。
また、そうなると、恐いことに性格も変わるのですね。三才児なみの言語能力=思考能力=行動様式になってしまうと、頭の働きから立ち居振舞いから、ひいては性格すらも三才児なみになります。周囲の人も、出来るだけ善意に接してくれるから、馬鹿にはされないまでも、どことなく軽んぜられるような気がする。少なくとも畏怖はされないですよね。それでまた微妙に性格が卑屈に歪んでくる。英語に自信のない人が、英語で電話がかかってきたり、道端で英語で聞かれたら、軽度のパニックになるでしょう?日本語だったら絶対に取るはずのない、妙におもねったような態度や上っついた態度を取ってしまうでしょう?それが24時間休みなく続くのです。性格変わる人がいたって当然じゃないですか。
そんでもって困ったことに、英語というのは半年一年必死にやったところで、そう簡単に身につくものではないです。英語やったことない人ほど、「半年もすれば日常生活くらい」と楽観視しがちですが、そんなことない。確かに日常生活は送れますけど、それは「ミジメな」日常生活が送れるだけのこと。
僕なんかも最初の頃は大変でした。まあ、ミジメなのは、思春期でもないから、適当にクリアする程度のノウハウはあります。が、やっぱり頭が腐ってくる。相棒福島がいたから、日本語でいろいろ込み入ったことも話せたりして、何とかバランスは取れます。でも、自分の考えうる最高難度の思考なんかはしなくなりますからそれがどんどん錆付いてくる。たまに日本語で書かれているちょっと難しめの論理的な本などを読むと、しばらく使ってなかった脳細胞がピキピキ賦活するのが分かるくらいでした。
ですので、まだ年端もいかない多感な子供を(3〜4才なら逆に自然になじめるけど)、それも自意識が芽生えてその置き場所に四苦八苦している思春期の子供を、そんな環境においたら、ちょっとした人格破壊が起きても不思議ではないです。「出来るだけ日本人のいないところ」で上手くやっていける人は確かにいます。でも、そういう人は、生来的に人間的魅力に満ちていてどこ行っても人気者になるとか、他人とコミュニケーションを取るのが抜群に巧いとか、自我がこのうえもないほどバランスよく確立しているとか、そういう人でしょう。
ここらへんのことは現地で苦労した経験のある人はお分かりでしょうが、知らない人は全然知らない。「厳しい環境でビシビシ鍛える」つもりで子供を行かす親御さんは、一日30分でもいいから孤立無援で英会話してみたらいいです。例えば、各国大使館の情報センターでもどっかの国際インフォメーションセンターでもどこでもいいから、とにかく全部英語で会話しなきゃいけないところに電話しましょう。1日30分。それを一週間も続けたら考えも変わるでしょう。自分が出来ないもん他人にやらさんように。
さて、留学の話に戻りますが、APLaCがお世話した何人かのケースでも、やはり構造的な問題を抱えていたのでありました。とはいっても最初の印象はごくマトモでありまして、「こんな素直な子が弾き出されるとするなら、やはり日本の教育システムは良くないのかなあ」と思ったものですが、月日を追うごとに「あちゃ〜、こらアカンわ」という具合に認識が変わっていきます。最終的には、親御さんと意見が対立して、終わりという。
あ、予め言っておきますが、ごく少数のケースで一般化することは非常に危険ですし、また溌剌と現地生活を送ってる生徒さんも沢山いるので、妙な先入観を与えたくありませんので、適当に割り引いて聞いて欲しいです。そこんとこよろしく。
で、なにがアカンのかというと、最終的に行き着くのは子供自身ではなくて「親」です。最近では、もう留学を成功させようと思ったら、オーストラリアなんぞに居らずに、日本に戻って親の側であれこれサポートしなくちゃ、親のカウンセリングから始めないとダメなんじゃないかと思ったりするくらいです。「親のカウンセリング」というのは言葉のアヤや冗談で言ってるのではなく、現につい先日も現地のカウンセラーの先生からその旨の指示を受けましたし、実際にそうやって上手くいったケースもあるそうです。
親の何が問題か?ですが、大雑把に言ってしまえば、「甘やかしすぎ」ということなのでしょう。「甘やかしてダメにすること」を英語ではスポイルといいますが、そのスポイルですね。"Spare
the rod and spoil the child"(ムチを惜しめば子供をダメにする=可愛い子には旅をさせよ)という英語の諺があるくらいで。
甘やかされた子供はどうなるかというと、例えばまずホームステイが上手くいかない。知らない家庭に溶け込むのは、それなりの人間的努力を必要とします。気遣いも必要でしょうし、相互の思いやりも必要。どこを主張し、どこを引っ込めるか。どれだけ自立し、どれだけ甘えるか。そこらへんの人間関係を成立させるのは、それなりの成熟性が求められるわけですが、そこでまずコケちゃう。
例えば、ステイ先の家庭によっては、「洗濯は週1回だけ」「シャワーは10分まで」とかルールを設けていたりします。で、普段はそれで良くても、ときには週に2回洗濯したくなるときもあるでしょう。そのときは、「今週はいろいろスポーツをしたので汚れ物が多いのでもう一回洗濯してもいい?」と聞いて交渉すれば良さそうなものなのですが(言えばまず100%OKでしょうが)、甘やかされた子はそれが言えない。こちらの人は、子供相手にも互いの言い分を出し合ってきちんと話し合おうとする傾向があるのですが、そういうことが苦手だったりします。何でも受け入れてくれそうな人に甘えるのは得意でも、対等に交渉するということ、もしかしたらNOと言われるかもしれないという状況になると、何にも言えなくなってしまう傾向があるような気がします。
で、どうなるのかというと、言うべきことが言えないから、どんどん溜め込んでしまう。その挙句、ホストファミリーの悪口を言い出したりするわけですね。普段言えないだけに、僕らに会ったときに、ここを先途とクソミソに愚痴を垂れるわけです。「あのババア信じらんねーよ、不細工な猫なんか可愛がっちゃってさ、頭おかしいんじゃねーの」みたいな悪口が延々と続いたりします(ちなみに、これ女の子なんですけど)。その100分の1でも当のホストファミリーに面と向って言えばいいのに、それは言えない。言えない分、陰に廻って坊主憎けりゃ袈裟まで式に悪口雑言。
僕なんかは割と冷たいので、そんな話が出始めた途端、「俺相手に文句言ってもしゃーないやん。言う相手が間違ってるで」と突き放してしまう方なのですが、優しい福島や柏木は、「まぁまぁ」と言いながら聞くわけです。で、聞きながら、「とにかく一遍でもいいから自分で話してごらんよ」と諭すわけですが、全然やる気配もない。1〜2ヵ月ならいいですけど、何ヶ月もこの繰り返しになると、段々ヤになっていきますわね。最初は英語が不自由だから言えないんだろうと、ホストファミリーに電話をかけたり訪ねたりしながら、話を伝えてあげますが、それも度重なると「こんなことやってたら本人のタメにならんかも」と思って、極力本人の自助努力を促そうとします。時にはホストファミリーに「いつかあの子が○○についてお願いするかもしれないから、嫌がらずに聞いてあげてね」と裏からお膳立てを整えたりもします。
で、子供本人も自分に言う勇気がないというのは薄々は分かってますから、それでジレンマに陥ったりします。本来なら、ここが踏ん張りどころであり、一歩づつ勇気を持って頑張ってみて、徐々に人間関係形成の方法を学ぶのでしょう。ホスト側も慣れてますので、そうやってくれるのをじっとガマンして待っていてくれてます。でも、その勇気がない。そうなると、今度はそれを出来ない自分を正当化しようとする悪しきサイクルが芽生えてきます。
自分が言えないのは、自分に勇気がないからではなくて、強圧的に言わせてくれないからだ、相手がみんな悪いんだという具合に転がっていきます。子供に限らず、被害者意識が強い人というのは、大体において甘ったれた人が多いのですが、ここでもそうで、なんでもかんでも相手のせい、環境のせいにして、「自分は可哀相な被害者である」というストーリーを紡ごうとします。
で、「うちのホストはこんなに酷い奴なんだ」という話を作り上げるわけですが、最初は取るに足らないような些細な出来事を丹念に積み上げて訴えようとします。でも、一つひとつ見ていくと本当に取るに足らないようなことだったりして、どうも説得力がない。説得力のなさを指摘されるにつれ、その説得力を増すために、「やってはならないヴァージョンアップ」をします。つまり嘘を言いはじめる。「こんなヒドいこと言われた」「差別された」とか事実無根の話をデッチ上げるわけです。それも一つや二つじゃなしに、大人顔負けのシャレにならない誹謗中傷に発展してくるわけです。自分の弱さを正当化するために、ここまで無実の他人を陥れていいのか、「ほう、人間というものは、ここまで卑怯になれるもんかいな」と感心するくらいのところまでいったりします。それを国際電話でイチイチ親に訴える。
初期の段階から一個いっこ見ているこっちとしては、「こらマズイなあ」と思いますから、その都度日本にいる親御さんにも緊密に連絡を取ったりします。で、親御さんも最初は理性的なのですが、しまいにその子供が「もう、こんな家イヤだ。ステイ先を変えたい」と言い出す頃になると、もう子供ベッタリになってしまう。「あんな酷い家は沢山ですから、即刻変えてください」みたいな話になるわけですね。
で、こっちは問題の構造が見えてきてますので、「ステイ先を変えるのは簡単なんだけど、それでは本当の問題は解決しない、現実を変えるのはまずは本人自身の勇気と実行によってなすものなのだということを覚えて貰わないと意味がない、また同じことの繰り返しになるし、ここで妙な先例を作らない方がいい。変える前に一言だけでもトライするように言ってほしい。そもそも訴えてる事実の殆どが虚構ですよ」と意見を言うわけですね。で、ここでもう対立しちゃうわけです。最初は温厚そうに見えた親御さんも、「そんなこと無理に決まってるでしょう。あの家は全員嘘付なんです。○○ちゃん(子供)が可哀相です!」となって、「やってくれないならもういいです!」で終わりです。
これねえ、向こう側(日本側)の話だけで見れば、「留学生の子をもつ親の会」みたいなところで、「オーストラリアでひどいホームステイにあたった」という話をするのでしょうね。そんな話ばっかり流布するのでしょうね。寒いですわ。
このケースにおいて、後日、その子が通っている現地の高校の校長さんに報告がてら面談にいきました。それまでも入学手続以外にも、やれ「授業中泣いていた」となれば学校からこっちに電話が掛かってきて、本人から事情を聞いたり、学校に本人の気持ちを英語でニュアンスも含めて伝えるなど関係調整をさせられたりしてたわけですが、親御さんから「あんたらもうオシマイ」と言われてしまえば、学校側にも「今後我々はこの件にタッチできなくなりました」と挨拶せななりません。で、行ったわけです。
そこで見るからに優しげで、実際にも優しい、子供の世話をするのが好きで好きで仕方がないという天職のような校長さんから、「この際だから言うけど、あの子は非常に難しい」と言われました。なかなか友達も作れそうにないから、クラスの他の子にそれとなく「○○ちゃんとも遊んでみたら」と促したり、いろいろ気をつかってくれていたそうなのですけど、すごく過保護に育てられてきたせいか、ちょっとしたことですぐに心のバランスを崩してしまう。「他人と打ち解けた関係を作る」ということが非常に未熟で、これを習得していくためにはかなり時間がかかるだろうとのことでした。「私はこのことを親御さんにキッチリ伝えたいのだが、ご両親は英語は分かるのだろうか?できれば今週にも学校に来て欲しいくらいなのだが」とヤキモキしておられたのが印象的でした。
余談ですが、親御さんとの最後の電話で出てきた相手は、なんでも留学に関してちょっと知ってるらしい友人と称する人でありました。「どちらさまですか」と聞いても「代理人です」とかいって、高飛車な口調で「オタクも厄介払いができてホッとされてるでしょうな、はっは」なんて嫌味タラタラで言うもんだから、「そういう話をご所望ならば」ということで僕が電話に出て話しました。
弁護士というのは、その本質においてヤクザ屋さんと同じで「喧嘩して勝ってなんぼ」の商売です。もともと人一倍闘争心が強い人間が多いし、それが大阪の裏通りなんかで地回りのヤクザさんとか示談屋相手にギャンギャン揉まれるわけです。ですので、別に自慢にもならんけど、このテの半可通の「男が出てきて強い口調でカマせば女相手だったらビビらせられる」みたいな世間知らずのお兄ちゃんだったら、言っちゃ悪いけど屁みたいなもんです。少しばかりおっしゃることの矛盾や非礼さをご指摘申し上げたら、何にも言えなくなって「とにかく、終わりなんです。オシマイ!!」と絶叫されて電話をガチャンと切ってしまわれました。その程度の世間智で他人様の代理人をやろうなんて百万年早いわ、この人マトモに社会人としてやっていけてるのかなと心配さえしてしまったのですが、それはともかく、あんな手合が又日本では留学について何かエラげなことを言ってるかと思うと、またそれを有り難そうに聞いてる人がいるかと思うと、またまた寒くなるのでした。
そんなことが一度ならずあると、やはり考えさせられるものがあります。僕らは教育の専門家でもありませんし、教育問題に特に深い関心があるわけでもない。また、柏木はともかく、僕も福島も子育て経験はありません。要はろくすっぽ何も知りはしない僕らであっても、「これは非常にマズい状況ではなかろうか」と思ったりします。そして、根本的には何がアカンのか、ついつい考えてしまいます。
その辺の話をもう少し述べます。
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1998年06月13日:田村
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