シドニー雑記帳



芸術とは拡張子の如し?




     最近風邪がぐずついて困っています。治ったと思ったらぶりかえし、決して高熱を発するとか嘔吐に至るとかいうハデな事態には至らないまま、ぐずぐず煮え切らない状況が続いています。あー、鬱陶しい。

     ベッドのなかで、妙に痛む頭の置き所に困りながらうだうだしたり、起きたり寝たりしてると、ふと日頃読んだことのない本が目についたりします。家をシェアしているメリットというというのはこういうときに発揮されるもんで、他人が持ってる本などを物色できたりするのですね。

     で、手当たり次第に読んだら、これが結構面白かった。当地では日本語の本が貴重品ですから、そう気安く手に入るものではないのですが、反面だからこそ友人間で流通もします(オーストラリア滞在を終え日本に帰国する際に手持ちの本を友人に上げるなどして処分するわけですね)。そんなこんなで、メチャクチャな取り合わせの本が棚に並ぶことになるわけです。病気のときにはいいですよ。




     子供の頃から本は好きでした。
     小学校の頃から中学にかけて、司馬遼太郎と松本清張等はほぼ全部読破しちゃってました。たまたま家に置いてあった本を「この漢字なんて読むんだろう?」とか四苦八苦しながら100ページほど読み進むと、何となくストーリーが分かってきてそこはかとなく面白くなってきて、また「ここまで苦労して読んだんだから最後まで頑張ろう」と別なモチベーションが出てきたりして、そんなこんなで遂に一冊長編を読み終えると、これがまた充実感というか達成感があったりしたもんです。で、調子に乗って、近くの図書館に行ったりすると、「○○全集全32巻」とかいうスゴイのがあって、その圧倒的なボリュームが何やら自分を挑発してるかようで、とりあえず一冊手をつけはじめたら、あとは意地のようになって「読むために読む」みたいな状況に陥ったりしてました。

     あれはもう門前の小僧のようなもので、知らない字でも無理矢理に読んでいくと何となくカンが出てきて、結構読めるようになるものです。小学生で「裾を翻(ひるがえ)す」「瓦斯(ガス)」とか読めるようになると、以後国語の漢字問題で苦労はしなくなります。

     それでもガキは所詮ガキでして、「○子の秘所はすでに濡れていた」「絶頂を迎えた」とかいう濡れ場シーンになると、なんだかさっぱりわからん。挙句の果てにオフクロに聞いて、「そんなん知らなくていい」と言われたり。それにガキが読むには難しすぎるものも多かったわけで、松本清張の「北の詩人」だっけな、朝鮮38度線をテーマにした政治小説なんか全然分からず苦しかったのを覚えています。

     しかし、全然分からんながらも、「ここまで来たものを途中でやめられるか」という、まるで遭難しそうになってる登山隊のような気分で読み続けるという索漠とした作業は、後々法学部で「刑法概説」などを読むときに役にたったものです。あるいは、パソコンの習熟とか。全く分からんという時間が100時間、200時間続いても、そして結局最後まで何がなんだか分からなくても、ひたすら盲目的に進むアホみたいな所業は、これはこれで人生で結構必要なのかもしれません。そういえば、こっちに来た当初、一冊2ドルくらいのペーパーバックを古本屋で買って四苦八苦して読みましたが、途中「あー、もう全然分からん、誰こいつ?」というのが100ページくらい続いても、構わず読んでいくと何となく大意は掴めたりします。

     分からなくてもやる、楽しくなくてもやる、頼まれたわけでなくてもやる、何のためにやってるのかよく分からないけどとりあえずやる、というのは、案外重要なのかもしれません。だって、その無意味さにメゲない根性がないと、こんなホームページなんかやってられませんもん。人間、立案するときはクレバーである必要はありますが、行動するときはアホにならねば続かない。そうですよねえ、こんな雑記帳なんか書いて、誰が読むというのよ?というレーセーな醒めた意識も時折頭をもたげますね。「ばっかじゃねーの、俺」という気にもなりそうですよね。でも、とりあえずやるもんね、というわけでやってます。話、逸れました。




     で、本です。思えば、小学校から高校、大学と随分読んでました。別に本の虫とかいうこともなく、外出てごく当たり前に野球もやってたし、虫取りもしてたし、マンガも読んでたし、また描いていたし、高校は柔道部だったし、でも、本も読んでました。

     相棒福島は、子供の頃あんまり読んでなくて「本を読むのはエラいこと」「本読まなきゃ」という強迫観念があったそうですが、僕の方は、基本的にはレンタルビデオ借りて見るのと同じ感覚の娯楽だったし、半分「ここまで来たら〜」でやってる意地でもありましたから、もともとそんな大したものではない。本なんぞ読んでもちっともエラクないと思ってましたし、いまでもそう思ってます。ビデオ見る奴がエライと思わないのと同じですね。

     ほんと、どこまでいっても娯楽どまりで、そんな文芸趣味は芽生えませんでした。クラスの中に一人はいる、外国の難しげな本、例えばランボーの詩集とか、を読みふけるという感じじゃないです。そういえば、遥か昔に「愛と誠」という無茶苦茶な学園漫画がありましたが、その中にツルゲーネフの「初恋」がどうしたこうしたという会話を主人公達高校生がするシーンがあったように覚えてますが、「マジでそんな面倒臭そうな本読んでる高校生なんかおるんか?」と疑わしく思った記憶があります。はたまた旧制中学の人々が、十代でヘーゲルをドイツ語の原書で読んだとかいいますが、あれも本当に面白くて読んでたかどうかは怪しいもので、カッコいいから、皆もやってるからでやってただけではあるまいか。コギャルがルーズソックス穿いてるのと基本的には同じだと思う。

     ところで、僕の場合、どこまでも娯楽本位でありまして、あまりその世界に耽溺することはないのですが、この指向は本に限らないようで、音楽もメチャクチャ聴いた方でしょうが、それでも基本的にはロック畑で、ジャズとかクラシックとかにはいかなかった。

     そっち方面を聴いてる人というのは、なんか人種が違うというか、何となくエラそうで、カッコイイような憧れもあります。その反面、何が面白くてあんな辛気臭くてカッタるいの聴いてるんだろという気もしてしまうわけです。映画なんかでも、絵とストーリーが面白いかどうかで見てるだけで、俳優や監督の名前なんか気にしたことなんかないし、たまに気にしてもすぐに忘れてしまう。




     そういう意味でいえば、例えば村上春樹という人などは、ジャズや文学が本当に好きなんだなあ、本当に「好き」というのは、ああいう感じなんだなあ、あぁじゃ俺は全然違うわと思ってしまいます。なんか、もうちょい上だかナナメだかに、自分の知らない面白そうな世界が広がってるのでしょう。でも、どうもそのとっかかりが掴めない。ちょっとスノビッシュで、高尚っぽいサロン的な「あの世界」。あの世界に入る入り口が見つからんのですね。

     ただ、あの世界を好きな人というのは、こっちのヒガミかもしれないけど、なんとなく鬱陶しい雰囲気を漂わせている人がいるような気がします。「ロックなんかガキの聞くもの」とか「○○なんか格下で〜」とかいう、なんつーかスノッブな自己完結しちゃってる人々。もちろん、村上春樹氏のように、ピュアな愛情がほんわか気持ち良く伝わってくる場合も多いのですが。




     APLaCの柏木も、好きな映画、画家、音楽家などが、僕からしたら「誰、それ?全然知らんわ」という、筋金入りのクラシック系「あの世界」の住人だったりするのですが、別に全然嫌味はないです。それどころか、自身その世界の嫌味に嫌気がさして、ポーンとオーストラリアに来ちゃったクチですから、まあ、その対極にあるのでしょう。僕は彼女にせっせとマンガやらロックやら下世話な世界を紹介したりするのですが、僕が彼女の薫陶を受けて、せっせとオペラのCDを聞きまくるという具合にはならない。なんか、どうやって楽しめばいいのか、その入り口がよう示されないのですね。

     いや意地悪で教えてくれないのではなく、巧いこと説明できないのでしょう。でも、物事には、「なんでこれがいいの?」「これ、どうやって楽しむの?」という、切り込み口のようなものがあると思うのですね。味わうコツというか。例えば酒だったら、最初は誰だって「苦〜い!」と思うでしょう。しかしその苦さを当然あるものとしてやり過ごすと、今度は微妙な味の奥行なり色彩なりがかすかにあるような気がしてくる。あるいは音楽のように舌に、喉に残る長さや、途中で音色が変わる感じがあって、それぞれにシャープであったり、ほんのりしてたりするわけで、その形の違いがなんとなく分かると面白くなってくるし、体もそれに慣れてきて、単なる「苦い」が「旨い」に変わっていくのでしょう。これ、べつにグルメぶってるわけではなく、こっちの人に「ワサビの入ってる寿司はなぜ美味しいのか」を説明しようと思ったら、誰だってそれらしきことを言わなきゃなんないと思います。

     それまでキライだったのが、ある日突然好きになったりしますが、あれは、その楽しみ方のコツのようなものを、ある日、ひょんなことから体得するのでしょう。「へえ、なかなかいいじゃん」と。自転車に乗れるようになった瞬間のように。

     ポップミュージックの世界やハリウッド映画の世界なんかはこの切り口が非常に分かりやすい、切り口なんてもんを意識しなくても、パッと見ただけで「あ、面白そう」とキャッチーだったりします。いうたらポップなのですね。



     でも「あの世界」には、その分かりやすさがない。「おお、この魂を揺さぶるような感動」とかその手の解説は沢山あるんだけど、それは結果であって、登山道でも道標でもない。クラシックの名曲でも、ロックの耳に慣れた僕からすれば、「ここ、要らんのじゃない?しつこい」とか「ここはシンセベースでも打ち込んでおいた方が輪郭がハッキリして良くないか?」とか「ヨーロッパの田園風景っつっても、そりゃキレイだろうけど、オレは見たことないのでイマイチ共感できないし、別に1時間も時間割いてそれを疑似体験したいほどの興味はない」とか思ってしまうわけです。そういう切り込み口で聴いてるから面白味が分からんのだろうけど。

     僕が言ってる「切り口」というのは、「いや、これは退屈な曲なんだけど、日曜の昼下がりにこれかけて昼寝すると最高なんだよ。音がひょこひょこやってきて、脳味噌の肩もみをしてくれるような感じですごい気持ちいいんだよ」とかいうことです。



     人というのは、音楽が「いい」とかいう観念的なことでは気持ち良くならず、また脳内快楽分泌物質は出なくて、「気持ちいい」状態というのは、何かしらもっと生々しい身体感覚とつながっているのではないかしらと思うのでした。

     文芸でも、例えば「静けさや、岩にしみいる蝉の音」という俳句で、暑い夏の木陰の涼しさの気持ち良さ、濃密でいて透き通るような緑の色の目に染みる鮮やかさなどが再現されて、ホログラフのようにその場にいるような疑似体験をさせてくれて、それが身体的な気持ち良さを思い出させ、アルファ波のような気持ちいい状態になるのだと思います。技術的に巧みであるものを見るのはそれはそれで快感ですけど(サーカスやスポーツのように)、でも第一次的には身体感覚の気持ち良さだと思うのですね。

     でも、一方では、自分自身の体験と重ね合わせ、その記憶を賦活させることで気持ちいいというパターンも多いと思います。懐メロなんか典型的にそうですが、その曲が流行ったとき俺は彼女と一緒に旅行をして、でもその秋に別れてどーしたこーしたという、個人的な甘酸っぱい、貴重な記憶があるわけで、懐メロを聞くとそれが甦ってくる。だから気持ちいい。でも、これ、その音楽そのものが気持ちいいというよりは、自分の記憶や体験が気持ちいいんですよね。思い出し笑いのように、思い出し快感というか。

     ジャズやブルースとか聴いても、僕自身そんなブルーな気持ちになったりはしません。そもそもブルーな気持ちということ自体よう分からん。まあ、自分自身とか周囲とか人生とかに対する何となくやるせない気持ちなんでしょうが、そのやるせなさを呼び起こし、優しくそれに向き合い、あたかもヒーリングのようにそれを癒すのかどうかは知りませんが、僕はあの種の音を聴いても、その種の感情は起きてこない。でも起きてくる人もいるのですね。で、それは、先天的に波長が合ってるということもあるでしょうが、本当にやるせなかった青春時代にその音楽が常に鳴っていて、頭のなかでその音楽とその自分の気持ちとがコネクトし、シンクロしているから、マイルス・デイビスがブォ〜っと吹いたら、シュワワワ〜っとその気分が広がるのではないでしょうか。違う?




     そんなこと考えていくと、結局、表現といい芸術といっても、思い込みひとつ、刷り込み一つじゃないかという気もしますね。実際、大概の場合、そうなんじゃないかと思ってます。僕らの脳に膨大にメモリされている様々な感情のストックがあって、ある刺激(音とか絵とか文章とか)によって、そのメモリが賦活されて、立ち上がってその感情を追体験すると。大掃除していて昔の恋人のラブレターを発見して、当時の気持ちが甦ってくるように。パソコンの拡張子のようなもので、とある拡張子をつけるとある特定のアプリケーションが立ち上がってくるかのように。だから生まれてから全くなんの感情記憶も感情経験も持たない人(生まれてからずっとカプセルに入れられていたとか)にとっては、ヒットすべきメモリがないから、芸術も無力のような気もしますが、どうなんでしょうか。

     ただまあ持って生まれた感情というのはあるでしょうから(よう分からんけど、青系統の寒色を見て温かさよりも冷たさを感じるなど)、ある作品がそういった人間の普遍性の高いものに訴えるならば、それだけ普遍的に受け入れられるということでしょう。どこまでが先天的でどこからが後天的なのかなんて分からんですけど。

     そういう意味で言えば、「二人の人を同時に好きになってしまって引き裂かれる思いに苦しんだ」とか「好きあっているのにワケあって別れなければならない切なさ」とか、そういう体験をして、感情メモリーを増やしてからだと、同じ曲を聴いても全然リアリティが違ってくるのでしょう。ああ、そういえば、僕、チビッコのど自慢とかで、8才くらいのガキが着物着て演歌歌ったりするのって、キライです。だって、歌詞の意味全然分からんで歌ってるわけで、どんなに技術的に巧かろうが、いや巧ければ巧いほど、すごいシラけた気分になる。「あなた、死んでもいいですか」なんか小学生のガキに歌われたってまるっぽ嘘じゃないかよと。




     「芸術」なんてのもある意味、胡散臭いものだなあと思います。それに携わる人が胡散臭いのではなく、そんなあやふやな実態があるんだかないんだか定かではない、もしかしたら単なる錯覚かもしれないようなものに従事しようというのは、これは大変なことだと思います。エラいなあと思う。

     芸術が、客観的実在のように、誰の目にも明白に「いいものはいい」と理解されるのかどうかは、すごい疑問です。人類史上最高の天才が出現して、そいつが奏でる音楽なり、絵画によって、人みな魂を抜き取られるように感動するかというと、僕はしないと思う。美術の教科書に出てくるような古今東西の名画を見ても、別にそんな感動なんかしないし、展覧会で実物見ても、まあ「ふーん」ですわ。「あ、わかる!」と思えたのは、ムンクの「叫び」くらいじゃないですか。「モナ・リザ」のホンモノを呉れるといっても、実際に自分の部屋に掛けて楽しむかどうかというと、掛けないんじゃない?ルノワールも、「やたらデブの女だな」とかしか思わんかったもん。

     それは僕の芸術的素養がお粗末だからと言われれば反論するつもりもないです。でもその芸術的素養って何なのよ?と聞いてみたくもなります。それは、結局のところ、脳内細胞の気持ちいいコネクションを培養する刷り込み準備作業とどこがどうちがうのか僕には分からんのです。

     別にケナしているのではなく、その気持ちいいコネクションを教えてくれんかなあという話であります。




     さて、本ですが、うだうだ病床でパラパラめくっておりますと、昔とはまた違う「気持ちいいコネクション」を発見しました。

     例えば、村上春樹が登場しているので村上春樹についてですが、彼の「中国行きのスローボート」という短編集を読みました。で、筋とかテーマとかに関していえば、「あーん?何ゆーとんじゃい、おどれ?気は確かか?」というくらい、ワケわからなかったです。「ははあ、これは○○を暗喩してるのだな」とかいう構造が見えないと気持ち悪いとか、ちゃんと理解できないと嫌という観点からすれば、すごい気持ち悪い小説群であります。

     ほんでも面白かったです。同じように「それがどーしたっちゅーんじゃ」と言いたくなるような、筋立てとしては全く他愛のない川端康成の「伊豆の踊子」も読みましたが、良かった。何で良かったかというと、全体の筋書きやら、ストーリーの完結性やら、起承転結の面白さ、意味の明瞭さや深さなんて、それこそ「どーでもいい」と思って読んでたからですね。そういった部分ではなくて、個々の描写の的確さや、発想の大胆さが、「はー、こんな風に言う?」という巧みさで楽しめたのが一つ。サッカーでオーバーヘッドキックが奇麗に決まったのを見る快感というか、スポーティな快感ですね。「こんな比喩の仕方、逆立ちしたって思い付かんわ」という。

     もうひとつは、ここが子供の頃と違う部分ですが、なんだか掴まえ所のないよなグニャっとしたこと(気持ち)って世の中に実際にあるよなあということが薄々わかってきてますので、その「なんだかワケの分からんもの」をワケわからんままで許せるというところですね。昔はこれが許せなかったのですね。「分からん」と行き詰まってた。だから推理小説のように、論理性の強いものだとコドモにとっては取っ付きやすかったのでしょう。逆に純文学のような世界は、コンニャクに切れ目を入れて妙な形に折り曲げて、「これが愛だ!」と言われているみたいな感じで、「あーん?」と取っ付きにくかったのでしょう。

     でも、最近は分からなくたっていいもんね、作者もようわからんで書いてるんだろうし、書いてる本人もよく分からんという位のものの方が鮮度が高くて美味しいのではないかとすら思えるようになったということですね。意味脈絡が目茶苦茶な夢でも、結構楽しめるのと似てます。

     さらに、子供の頃とは違っていろいろ体験しましたので、一つひとつの描写で想起するイメージが豊富になったので単純に楽しめるという部分もあります。いろいろ「体験」とかいっても、そんな劇的なことではなく、「夕暮れの港」という言葉によって、頭の中から引き出される画像(or雰囲気、匂い、思い出などの)データーが昔より増えたということでしょう。早い話が、温泉宿の描写があったりしたら、「いいなあ、温泉かあ」と気持ちいい気分に浸れるということですね。




     そんななかで中原中也の詩集があったりするわけですが(ね、ほんとバラバラでしょ)、真面目に読んだことなんか今までなかったのですが、これが結構キました。 その昔、大槻ケンヂ氏がエッセイで、中原中也の「曇天にはたはたと黒い旗がはためいている」という詩のことを紹介していて、「漠然とした不安をここまで的確に表現したものは見たことがない」と書いていて、僕も「「黒い旗」ねえ、うまいこと言うなあ」と感心したもんです。

     ちなみに、大槻ケンヂ氏の筋肉少女帯というバンドの曲の一節に「中也のパクリはもう止めたのかい?」という自嘲的な歌詞が出てきますが、今尚結構読まれているのでしょう。また、コミックモーニングだったかに、中原中也のことを扱った漫画があって、これも面白かったです。

     で、この人、もっと抽象的でワケわからんことを感覚一発で詩にしてるのかと思いきや、意外にも直球一本のストレートで分かりやすいものが多く、そのあまりのストレートさ素朴さに、「うわあ」「そのまんまやん」と思ったりしました。特に、最愛の息子を病気で失い、悲しみのあまり神経衰弱に陥り、その翌年本人も死んじゃうのですが、息子を失った悲しみを歌った詩は胸をつくものがありました。「まだ来ん春」というタイトルです。

     また来ん春と人は言う
     しかし私は辛いのだ

     春が来たって何になろ
     あの子が返ってくるじゃない

     おもえば今年の五月には
     おまえを抱いて動物園
     象を見せても猫(にやあ)といい
     鳥を見せても猫(にやあ)だった

     最後に見せた鹿だけは
     角によっぽど惹かれてか
     何とも言わず 眺めてた

     ほんにおまえはあの時は
     此の世の光のただ中に
     立って眺めていたっけが・・・


     新仮名づかいに改めてますが、後半の死んだ子供の回想シーンがスゴイですね。「象を見せても猫(にやあ)といい」の生き生きとしたリアリティのある描写からラストになるにつれ、段々と音が消え、シンとなり、半現実的な記憶のなかのピュアな映像になっていく。「此の世の光のただ中に」というフレーズが、もう、メチャクチャ効いてる。どう感じるかは人ぞれぞれでしょうが、僕にとっては、もう「泣け」といわんばかりに暴力的な一節でありました。最初なにげなく読んだ時、マジに涙が出そうになった。すごい拡張子です。




1998年06月01日:田村

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