シドニー雑記帳
「安全」と「安心」という名の呪縛
おひさしぶりの雑記帳です。最近殆ど書いてないので、書くたび「おひさしぶり」とか言ってますな。
さて、いきなり本題。
日本人はとかく「安全」と「安心」を好むと言われます。加えて言うなら「安定」も。
ともあれ、「安」という字は良く見掛けます。「安全第一」「安心のブランド」「安定した収入」「安らぎのなんたら〜」などなど。
もっともこれは悪いことではなくて、そりゃあ誰だって、危険よりは安全な方がいいし、不安よりは安心がいいし、不安定なのよりはガッシリ安定していた方がいいでしょう。それは、もう、日本人だけの特性ではなく、人間一般の特徴です。
しかし、これは僕の偏見かもしれないけど、近年の日本の安心/安全好きは、そういった一般論を超えてるような気がする。なんか「安心/安全マニア」というか、度が過ぎて、不健康ですらあるように見えます。
何をもって僕は「度が過ぎて」とか「不健康」等とネガティブに言うのか?
それは、何でもかんでも安心/安全でないとやっていけないというヒヨワさ。裏を返せば、危険・不安に満ちた環境の中で巧妙にバランスをとっていくスキルの欠如、そのスキルを裏づける精神の偏り。総じていえば、「たくましい野性の生活力」の乏しさだったりします。
人間というものは、いや生物というものは、ほどほどにリスキーで不安定な環境のなか、全神経や器官を緊張させておいた方が、その生命力は円満、円滑になるんじゃないかと思います。それが、安心や安全に偏向してしまうと、かえってバランスが崩れて、妙なことになっていくんじゃないか。実際、気づかぬうちに妙なことになってないか?
オーストラリアで生活を始める日本の人は、車を買い求めようとして、こちらの車の高さに驚きます。しかし、それよりも、「かなり大枚はたいて購入したとしても、まあ、年に数回は故障しても不思議ではない」という現地の人の言葉に、もっと驚いたりします。車の故障−−、「それは絶対に避けたいこと」という反応をされるのが大方です。
かくいう僕もそうでした。というか、あまり故障なんか考えてもみませんでした。故障なんかされたら、もうどうしていいのか判らない、そんなことだけは起きないで欲しい、と。そんなことが起きたら、もう目茶苦茶困るじゃないか。だからもう考えたくない、、、で思考停止してしまっていました。
しかし、段々現地での生活が長くなってきますと、いやがおうでも故障にも慣れてきます。故障に遭遇しても、「あちゃ〜、またかよ」てなもんです。もう村上春樹の小説の主人公みたいに、「やれやれ」と呟いて肩を軽くすくめるくらいのリアクションで済むようになります。
これは故障に慣れて、メカにもそこそこ詳しくなったからというよりも、より根本的には、「どうしていいのか判らない」という「目茶苦茶困った事態」に慣れてくるからだと思います。
車だって機械なんだから壊れて当たり前、壊れない方がおかしい。別に壊れなくても、消耗品のパーツは多々あります。エンジンオイル、タイヤの交換はもとより、バッテリー、ブレーキパッド、ワイパーブレード、サスペンション、タイミングベルト、、、消耗品じゃない部分の方が少ないくらいです。毎日靴を履いてれば、そのうちヘタって寿命が来るのと同じことで、別に珍しいことでもなんでもない。
壊れたら、直せばいいんです。それだけのことです。そのために修理工場は沢山あるし、NRMA(JAFのようなもの)のサービスもあります。靴をはき潰したから新しい靴を買いに行くだけのことです。洗剤がなくなったから新しい洗剤を買うのと一緒です。別に全然困ったことでもなんでもない。そりゃ多少の出費は嵩むし、面倒臭くはあるけど、要するにそれだけのこと。順を追って段取を踏んでいけば、誰にでも出来ること。誰にでも出来るようになってるわけです。
そりゃ確かに最初の故障は、目茶苦茶困るし、焦るけど、人に聞いたり、調べたり、実際やったりしてるうちに段々とわかってきます。それを繰り返すうちに、ものすごく困った事態なんだけど、「別にやりようは幾らでもある」ということをカラダで覚えていくわけですよね。
この、「絶体絶命のように見えるけど、やってりゃそのうちなんとかなる」ということの体験、そして体験を通じての「体感的確信」、これが「生活力」と言われているものの一部だと思います。
それがどうして、「絶対に避けねばならない、絶体絶命の異常事態」のように感じていたのか?ココですよね、問題は。
現地に住んでいて段々わかってきたこと。オーストラリアには豊富にあって、日本に乏しいもの。そのひとつは、この「困るんだけど、まあ、なんとかなるべ」という体感的確信じゃないかなと思うようになりました。
ところで、昔の日本は、特に終戦後などは、この体感的確信にもとづく逞しい生活力は、人々の中に豊かにあったと思います。
これはもう、オーストラリアなんかメじゃないくらい、世界で一番豊富にあったかもしれない。と言っても、戦争直後は僕は生きてなかったから実際に見聞したわけではないけど、多分そうだと思います。なぜなら、僕が生まれた昭和30年代からこっち、この体感的確信は、年を追うごとに希薄になってきているように思うので、過去においてはその逆だったろうと。それに、そもそも自宅も財産も全て塵芥に帰した焦土に焼け出されたら、「安心」もクソもないでしょう。「なんとかなるべ」と思ってなきゃやってられないワケですし、実際なんとかなってきたわけです。「なんとかなる」どころか、経済大国までいってしまった。公園のダンボールのおっさんが、いつのまにか長者番付に載ってるわけです。そんな出来事が、せーので全国的に生じたわけですから、今から考えると嘘みたいな話です。魔法のような生活力。
さきほど車の故障を例に挙げましたが、その昔、日本でも車は故障して当たり前でした。東京近辺の人が、休日に箱根にドライブにいけば、坂でかならず誰かがエンコしてましたもん。オーバーヒートしてボンネット開けて冷ましていたり、下り坂で押しがけスタートをしたり。おそらくパンク修理の出来ないドライバーなんか居なかったと思います。それが、いまではタイヤ交換ひとつしたことがないドライバーもかなりいますし、「エンコ」なんて言葉は死語でしょう。
これは一面では素晴らしいことです。技術の進歩。生活は日に日に便利になっていきます。でも反作用もあって、便利になればなるほど、人はその分アホに、無能になります。
いや、なにも僕はここで、いわゆる文明批判をしたいのではないです。車がない時代は皆歩いていたから健康だった。車が出来て便利になった分、人々の健康は損なわれた、、とかいう話は、それはそのとおりだと思います。オーストラリアに来る日本人は、車の高さや公共交通機関の乏しさから止むをえず徒歩バリバリのWalkerになって、足腰が思いっきり丈夫になります。ここでは、「文明が退行して、健康を取り戻すの図」が展開されてます。が、それは、ここでの本題ではないです。
僕がここで言っているのは、肉対面での健康云々ではなく、精神面、メンタリティに対する影響です。
便利になって何が起きるかというと、便利じゃないとやってられなくなること。安全じゃないと、安心じゃないと、生きていけないような気がすること。これはあくまで「気がする」だけの話で、客観的には全然OKで生きていけます。客観的には大丈夫なのに、大丈夫じゃないような気がすること。さらに、「困ったらどうする」という危機対処能力が乏しくなるばかりか、考えられなくなる。「なんとかする自分」という自信すらもなくなってくる。
これは錯覚であり、幻想です。見えるべきものが見えなくなる。本来出来ることが出来ないように思えてしまう。自分に対する過小評価。ココです、僕が言いたいのは。文明なり技術の進歩は、同時に人々の精神に、一種の「呪い」をかけるのでしょう。呪いをかけられた人は、生きものが生得的にもっている筈である、野性的なカンと視野の広さ、さらには絶妙なバランス感覚と自信を失い、呪いをかけられた方向にのみひた走ってしまうという。
聴いた話ですが、僕の知人が夜に家に帰ってくると、真っ暗な台所にシェアしてた日本人のワーホリの女の子が膝を抱えて座っていた。どうしたの?と聞くと、照明の電球が切れたらしい。「だったら、とっとと交換したらいいじゃん」と思われるわけで、知人もそう言ったら、「そんなの大家さんが替えてくれるんでしょう?」と。知人は−彼はイギリス人ですが、かなり唖然としたそうです。
「なに考えてんねン?こいつ?」と思いますけど、彼女にとっては「電球は自分では替えられないもの」という「呪い」をかけられていたのでしょう。そのうち、車の故障のように、「絶対に切れない電球じゃないとイヤ」と言いだすかもしれませんな。
さて、この呪縛をかけられるとどうなるとかというと、要するに「やりゃ出来ること」が「絶対に避けたいこと」に思えてくるわけですので、行動の選択肢は異常に狭くなってきてしまいます。本来、値段の高い車を買って故障率を少なくする選択肢もあれば、故障はいいメカ習得の機会と割り切って安い車を買い余った分を他に廻すという選択肢もあるんですけど、もう「高い車を買うか、しからずんば買わないか」の二者択一になっちゃう。
こういった行動の選択肢の制約は、積もり積もって人生の選択肢の制約に発展していきます。老後の心配→年金や貯蓄の必要→どんなにイヤでも今の職場にしがみつく→ストレスで身体を壊すか、中高年鬱病で自殺、、、なんてことになった日には、まさに「呪い」というべきでしょう。
老後の安心のために今死んじゃうのは、どう考えても間尺に合わない。合わないことをやってしまうのは、どっか呪縛をかけられているからだと思います。そもそも「老後の心配」に対する解答/対処は、別に「十分な貯え」だけでなく、実は無数にある筈です。例えば、「それはそのときに考える」「そのときは潔く困る」という対処(?)もアリだと思いますし、「高齢者になっても稼ぐ、むしろ高齢時の方がより稼げるようにする」という対処もあるでしょう。お金で解決ということでも、何も自分で溜めなくたって、周囲がほっておかないというケースだってあるでしょう。
はたまた「オーストラリアで永住権を取る」という方法だってある。オーストラリアの年金は積立式ではなく税金から支出されますから、別に「継続何年」なんて制約はないです。別に一セントも払わなくたって年金は貰えます(※スーパーアニュエーションという自己の才覚でやる上積みの投資ファンドは別ですが)。だから日本でアクセク25年とか35年も年金を払わなくても、こっちで永住権を取ってしまえば死ぬまで年金貰えるのですね(国籍を取らなくても可)。だからこちらの永住権は、年金という観点から資産価値でいえば数千万から億の価値があることになります。でも、そんなの今から数十年後に規定がどうなってるかなんてわかったもんじゃないですが。
そりゃ確かに、自分で老後に必要なお金を貯めておくというのは、もっとも安全で安心な方法に見えるでしょう(まあ、盗難にあったり、インフレが起きて目減りでパーとかいうこともアリですけど)。しかし、それしか方法がないわけではない。多少安全性や安心度で落ちるかもしれないけど、方法なんか無限にある筈です。でもそれが見えなくなってしまう。見えなくなった挙句、フレキシビリティを失い、硬直的で不本意な生き方を強いられてしまうならば、それはもう「死の呪い」みたいなもんです。
さらに、この視野狭窄には「二次災害」があります。
前述の車の故障でいうならば、「よし、もう故障OKでいこうじゃないか」という「不安」な選択肢をした場合、当然故障比率も多くなりますが、それだけ多く修理工場に出向いたり、自分で四苦八苦したりして直したりしますから、それだけ経験値が高まります。人との出会いもあるでしょう。実際、僕もこちらの修理工場に、もう何度となく足を運んでますし、故障箇所に応じて10ヶ所以上行ってますが、その過程でいろんな物が見えてきたりします。ぼけーっと待ってる間、働くオージーの生の姿も見られますし、バリバリのオージー弁で話も聞きます。意外と懇切丁寧に説明してくれたり、一つひとつのパーツを「これは中古にするか、新品にするか」と聴いてくれたり。
と同時に、他人の車が壊れたときも、「ははあ、コレはこの前の俺と同じパターンじゃないかな」と有益な示唆ができたりすることもあるし(外れてるときもありますが)、なによりも段々車の構造に親しみを覚えてきますし、ある程度予防的なこともできるようになります。
でもって、「うわ、もう、泣きそう」というような体験を乗り越えると、妙な自信も出てきますし、それがまた生活力UPにつながったり、後日のフレキシビリティに寄与したりもします。ところが安全に固執してると、こういった豊かな現実の実相に触れて、自分の枠も広がっていくという機会を逸するデメリットがある。これが、いわば二次災害。
車よりも、もっと分かりやすい例で言えば、パソコン。
皆さんはいまパソコンを使ってこれを読んでると思いますが、パソコンが出来る人って結局、前述の「車の故障」的な体験を数多く積んできた人でしょ?インストールやりなおしたり、ハードディスクがぶっ飛んだり、それなりに四苦八苦したからこそ、大いなる自由度を獲得してきている筈です。この過程を経ないと、ワープロとメールしか読めないだけで、新しいソフトをダウンロードするなんてことも出来ないし、ちょっとハングっただけで、もう「この世の終わり」になってしまったり。
確かにパソコンのトラブルは堪らんですけど、あれを経験して今のようにそこそこ自由自在にパソコンを操れるようになるのと、とにかく「絶対故障しないパソコン(そんなの無いですけど)」に固執して何年たってもメールの読み書きしか出来ないのと、どっちがいいですか?
パソコンの例でもまだ納得できないパソコン音痴のアナタのためにもう一つ例を挙げると、最近の子供(でなくても別にいいけど)、他人と衝突して傷つくのが恐くて、引きこもっちゃうとか、異性とつきあったことがないとか、異常に表面的にだけつきあったりとかする人が多いと聞きます。そのくせ耳年増だったりして、ネガティブな話はよく知っている。でも、やったことはないという。
あなたがこれまでに異性とつきあってそれなりに色々あった人だったら、このテの人をどう思います?「フラれるのが恐いから」「カッコ悪いことしたくないから」「傷つけられるのがイヤだから」で、要するに「絶対安全じゃないとイヤだから」、いい年して今まで一度も恋愛経験をしたことがない人?
僕だったらこう言う。そんなもん、「安全」とかそんな問題じゃないでしょ。何もレイプされろとか、逆ギレにあって殺されろと言ってるわけじゃなくて、そんな異性→レイプ、友達→逆ギレみたいに極端な例にばっかり結び付けて考えるのは間違ってる。もう道徳論や生き方論としてじゃなくて、単純に現実論・確率論でおかしい。そりゃそういうことも無いことはないが、無い場合の方が圧倒的に多い。もしほんとにそうなら、日本人は全員、殺人、強姦、暴行罪の前科者になっちゃうよ。一人残らず刑務所にいる筈じゃん?というか誰がつかまえて誰が裁判すんのよ?メチャクチャ珍しいからマスコミネタになるわけで、本当の氾濫してたらネタにもならない。
ちょっと話がズレ気味だけど、これは海外と聞けばすぐに「治安」が出てくる日本のワンパターン的反応にも関わるので言いたいところなんですが、こういった危険度、リスク度というのは、現場に出ないとその本当の感覚はわからんです。1000回に1回というリスク値は、安全率でいえば、99.9%安全ということです。駅前に自転車停めてて盗まれる確率が1000回に1回だったら、3年間毎日停めてれば一回くらいは盗まれるということです。もちろん停めた初日に盗られる人もいれば10年盗られない人もいる。それが確率。その危険度がどの程度なのかは、実際に毎日停めてる人がよく知ってるわけです。
でも、ひきこもってマスコミ情報ばっかり頼りにしてたら、この正しい確率感覚が狂ってくる。正しい確率感覚の歪みは、健全な生活感覚を破壊する。圧倒的大多数の、もう無限に続くんじゃないかと誰もが思うくらい「全然大丈夫」な機会の集積のうえに、ごくマレに悲惨な出来事が起きるわけです。この「全然大丈夫」ということを、実際に日常で体験するのが大事で、それなくして正確なリスク感覚は養われない。ある意味、我々の生活に本当に必要な「情報」は、我々の生活の中にある。この「なんでもない日々」の集積こそが実は大事であって、本質的に「珍しいこと」が載っている新聞だけ見て判断してたら、致命的に何かを外す。
海外治安だって、そして恋愛だって、この「全然大丈夫」な日々の積み重ねがないとわからない。そして全然大丈夫どころか、天にも至る歓喜のときもあるわけで、それこそ町の風景が全然違って見えるとき、公園の草花や鳥までが自分に話し掛けてきてるかのようなおめでたい錯覚をするときもあるわけです。そのときばかりは、「ああ、この人に会うために生まれてきたんだ」なんて思っちゃったりもするわけです。もう暴力的なまでの歓喜と幸福感にボコボコにされちゃう瞬間もあるわけ。その逆に、内蔵を全部抜かれたような喪失感、膝から下が無くなったような失墜感、目玉が溶けて無くなっちゃうようなときもあります。これ、「全部ひっくるめてなんぼ」のモンだと思いますし、ひっくるめた全部が素晴らしいのでしょう。だから、性懲りもなく、人々は同じ事を繰り返す。最初からそういう具合に作られてるんだから。
それを、わずかばかりの悲惨な例を取り出して、「だからやらない」というのは間違ってる。やる/やらないはアナタの自由だが、やらない理由が間違ってる。その理由を基礎付ける事実認識が間違ってる。数字でいえば二桁くらい間違ってる。それは、パンの耳が嫌いだから(白いところは好きだけど、全部が耳で出来てるかのように誤解して)パンは食べないというのと同じくらい。
その確率認識の歪みを正したうえで、それでも「やりたくない」って人には、そこはもう個人の流儀だから「ご勝手に」と言います。でも、まあ、僕だったらそうしないけどな。折角生まれて、大損ぶっこいてるようなもんだもん。
ところで、過去に何らかのトラウマがあってそれが障害になってる場合は、もちろん話は別です。精神医学的な妥当な措置も必要でしょう。ほんでもね、それを大前提としつつ一言余計なことを言うと、マーシーが歌ってたように「トラウマの大安売りだ。そんなに大したモンかよ?」って気分も多少はあります。そんなにトラウマが大変なことなら、発展途上国の人は大半が自殺してるんじゃないのか、戦争を体験した上の世代の方々は皆発狂してても良さそうなもんじゃないか?って気もしますし、そうやって大袈裟に考えることによって却って事態は悪化してないか?って気もするから。でも、これは余談。
この世界の出来事は、大なり小なり理不尽な要素を含んでいます。様々な要素が複雑に入り混じって、現実を作ってるのだと思います。
なんの落度もないのに、犯罪や天災の被害に遭うという不運は常はありますし、長いこと生きてりゃそんなことあって当たり前だったりします。他人を信じて騙されることもあれば、逆にその恩義を百倍にして返してくれるときもあります。
騙されて人間不信に陥ることもあるし、騙されたからこそ多くを学ぶこともある。また意図せず、結果的には他人を騙してしまったという経験もする。目茶苦茶落ち込んだからこそ、落ち込んでる人の痛みがわかるということもある。
そういった、滑った転んだ、擦りむいた、また起き上がってまたコケた、、、を繰り返してるうちに、うすらぼんやり全体像ともいうべき「触感」がわかってくるのでしょう。この触感こそが、体感的な生活力とも言うべきもので、これこそが本当の財産なのかもしれません。
いくら安心や安全を求めたとしても、100%完全なんてことはありえない。また、安全が常にベストであるかというと、長い目で見てれば、別にそんなこともない。安全呪縛から解かれることによって、安全を求めるが故に失ってきた物も見えてくる。また、リスクを犯すときも、どの程度リスキーなのか、取り返しがつくのかつかないのかも、おぼろげにカンドコロが見えてくる。取り返しのつかせ方、というのも解ってくる。そういった、何が原因で何が結果なのか判らないくらい錯綜した現実を、大づかみでありながらもかなり正確に把握することが出来るようになってくる。砂糖と塩が入り混じった白い粉を、ペロリとひと舐めしてみて、「砂糖七分に塩三分ってとこかな」と大雑把であるけど、わかるようになる。
これは何も経験万能主義を言ってるのではないです。たった一つの経験であっても、あるいは一つも経験しなくても、それを織り成す数々のエッセンスというものを考えていけばいいわけですし、逆に固定された視点で何度同じ経験をしても広がってはいかない。
これらのリクツを、より身近な感覚に置換えてみると、結局のところ、いい意味で「テキトー」になってくるのだと思います。それは、「ま、何とかなるでしょ」という腹の括り方でありますし、「何とかする」ための現場のノウハウだと思います。幾ら緻密に計算しても、計算しきれない要素は常にあるし、いいとこ70%くらいまでしか目論見通りには事は運ばないでしょう。あとの30%はどうするかというと、それは、もう、「現場処理」です。
オーストラリアは、このテキトーさが日本よりもずっと発達してるように思います。オーストラリア人の口癖の ”No worries”も、あれは「100%大丈夫」といってるのではなく、「まあ、70%大丈夫だろうけど、駄目だったらあとの30%は現場処理で何とかすればいいよ」ということだ思います。
で、実際、なんとかなったりするんですよね。最初から「駄目で当然」と思ってるし、慣れてるだけあって、臨機応変なリカバリーというのは、上手なもんです。
それはつまり、駄目だったときのための、車の家の故障の修理技術であったり、交渉技術であったりします。あるいは選んだ政治家やオエライさんが駄目だったときの対処−−次の選挙で政権を替えたり、すぐに街頭に出てデモやったり。あるいは、見知らぬ困ってる他人に対する、親切さだったり。山火事などの災害が起きたときの、協力体制であったり、それを指導する者が無能であった場合、即刻クビにしちゃうことだったり。
一方、日本では、このいい意味でのテキトーさがどんどん減ってきてるような気がします。常に目論見どおり達成されるのが当たり前という、この現実社会ではありえないことを前提にしてる。「100%大丈夫じゃなきゃ許さない」というムードが漂っているよな気がします。だから、オーストラリア人の「70%OK。あとは現場で何とかすりゃいいじゃん」という態度は、許しがたく「いい加減」に見えたりします。
しかし、日本の無謬神話というか、完全主義は、もうマイナス面の方が多くなりすぎてきているように思います。100%完全なんて、非人間的でありえない事を前提にするから、まずもって生きていて目茶苦茶にストレスがかかる。役所や企業では、一つでも失敗があったら困るから、何がなんでも揉み消そうとして、それが度重なるにつれて段々現場で嘘をつくことを何とも思わなくなるというモラルハザードが生じる。
学校でイジメがないなんてありえないけど、誰かが自殺したり事件になるまで、「ウチではイジメはない」という。どこの家庭だって、親子でギクシャクする時期があったりするけど、そんな身内の恥はひた隠しにしようとする。で、どうしようもなく明るみに出てしまったら、実は皆やってることだったりするんだけど、キレイゴトでヒステリックに批判する。どっかの学校の校長が、「そりゃ人間なんだから、イジメの一つや二つはあるでしょうよ」などと言おうものなら、原発関係者が「そりゃ人間なんだからミスだってあるでしょうよ」なんて言おうものなら、大変な騒ぎになる。
かくして誰もがいつでも100点取って当たり前になっちゃったりする。他人に百点を期待し、期待されてる自分を感じること、これを「世間体」とか言ったりするが、しかし、いったい日本人のうちの何人が、生まれてこのかた100点以外取ったことないなんて超優等生だったりするのか? 大方は、100点取った方が珍しいってなもんではないのか。それがむしろ自然ではないのか。それを失敗を取り返しのつかない悪であるかのようにしてたら、身がもたんでしょうに。
どうも離れて見てると、ここんところの日本の悲劇的な事件って、安心とか安全とか100点という「呪い」に縛られてストレス溜めて、壊れて、切れちゃったようなものが多いような気がする。学校の子供たちが、罵りあったりケンカしたりぶつかったりという事を恐れて、妙に建前的に「いい関係」なんてものを作ろうとしてストレス溜めたり、逆にコミュニケーションの仕方がヘタクソになったり、閉じこもったり、「皆と楽しく付き合ってるけど、でも本当は孤独」なんて面倒臭いことやったりしてるんじゃないのか。
人間なんだから駄目なときは駄目。でも、そんなの当たり前じゃんって、ならんかな。なんでも絶対安全で、100点満点なんて、それこそ「絶対」にありえない。絶対にありえない世界でしか幸福になれないとしたら、絶対に幸福になれないですよね。三段論法でいえば。世界は最初からナチュラルに壊れるものなのに、それを無視して「壊れてはイケナイ」と思ってたら、自分の方が壊れてしまう。
現実なんて恐ろしくダイナミックなもので、魔法のように伸縮自在だから、仮にいっとき少年院に入ってようが、中学生で出産しようが、一回くらい夜逃げしようが、倒産しようが、無一文になろうが、そんな事とはお構いなしに、いっくらでもハッピーになることはできるし、そのチャンスは幾らでも転がってる。というか、そういうことを通り抜けないと、むしろハッピーになりにくいように作られてるんじゃないかって気がするくらい。
そんなにナーバスに安心だの安全だの言うのは、一種の宗教、それも比較的最近の話だろうから、新興宗教だと思います。新興宗教 安心教団。なんかそんな違和感を感じます。僕が日本に居る頃よりも、もっとひどくなってきてるような気がする。社会は、前にも増してますます百点とりにくくなっているにも関わらず、いやだからこそ百点以外に生きる道がないかのように。
最後に、相棒福島のラースが、これらのことを上手くまとめたデンマークの諺を教えてくれたことがあります。ほんとはデンマーク語なんだけど、英語で。
If it didn't kill you, it makes you strong.
直訳すれば、「もしそれがアナタを殺さなかったら、それはアナタを強くする」。要するに、死んでしまったらオシマイだから、死なない限りどんな経験も無駄ではなく、あなたを強く鍛えてくれるよ、って意味でしょう。デンマーク人も思うことは一緒なんだな。
もうひとつ、これは日本の諺、、、諺じゃないな、なんかのフレーズだけど、僕の好きなフレーズ。
−−−−−−−−−−生きてるだけで丸儲け。
2000年09月05日:田村
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