オーストラリア・シドニー版
現代用語の基礎知識(キーワード)
アボリジニ編(その3)
★Stolen Children(Generation)
97年6月現在、ホットな論点になっております。
「盗まれた子供たち」というのは何かというと、オーストラリアでは1930年から70年まで、アボリジニの子供たちを親許から離れさせ、白人家庭のもとで養育するということが行われていたそうです。当初は"good intention",つまり「善意」に基づいて、非文化的で貧困な環境にあるアボリジニの子供達を、「文化的」な白人家庭で立派に育てようということで、政府や教会が音頭をとってやってたそうなのですが、最近ではこれを"genocide(大虐殺)"であるとする表現まで出てくるほどに見方が変わってきています。
なぜかというと、まず、アボリジニの親から子供を連れてくるのに、強制的にこれをやったという事実が段々と明らかになってきて、「じゃあ、こんなものはただの誘拐ではないか、犯罪ではないか。我が子を強制的に連れ去られ、一生居場所も教えない、また子供にも実の親のことを教えないというのは、人道に反する大罪ではないか。またアボリジニ古来の文化を断ち切ろうとした意味では文化的大虐殺である」という意見がオーストラリア社会で強くなってきたようです。ある統計によれば、10人に一人の子供が連れ去られたそうで、その意味でも組織的計画的であり弁解の余地はない、と。またこれによって素晴らしい効果があったかというと、統計上殆ど何の効果もなかったり、幼年期にかかえたトラウマがその後多くの悲劇を生み出したり、政策としてもロクなもんじゃなかったという反省も出されています。
この問題を詳細に調査したレポートが先日、やっとこさ政府に提出されたわけですが、ハワード政権はこれに対して及び腰だったりします。このレポートでは、オーストラリアが国家として行ったこの過ちにつき、直ちに公式に謝罪をすべきであり、しかるべき補償を行うべきだという勧告を結論としているわけですが、「はい、そうですか」とは簡単に言えないのが与党政府だったりします。理由の一つには死にもの狂いで財政赤字削減にとりかかっているのに、これ以上膨大な国費の支出なんかできないという部分にあるのでしょう。実際それらしきこともハワード首相は漏らしているようです(うっかり認めたら今後賠償請求が来るかもしれないし、そこらへんの法的検討が足りないから、とか)。
余談ですが、「今後賠償請求が続々と起こされたら困るから、認めない、謝らない」というのは、どこかで聞いたような話だなと思ったら、従軍慰安婦などの戦後補償に関する日本政府の対応だったりします。
ハワード首相のこれらの態度に対しては、当然のことながら国民各層から反発が強く(「金がないから謝らない」というのは何事か、とか)、ある世論調査では、国家としてオフィシャルに過ちを認め謝罪すべきだという意見が圧倒的に過半数を超えていたとのこと。
野党レイバーパーティーも議会でこの問題を追及し、野党党首キム・ビーズリー、ナンバー2のガレス・エバンス議員は、席上、感極まって落涙、演説が途切れたりしました。これをもって「政治的なそら涙」と批判する声もありますが、エバンス議員の場合、学生時代のアボリジニの級友がやはりこのStolen Childrenで、長じたあと真相を知り、実の親に巡り合ったあと、それがもとで自殺してしまったという個人的な体験もあったと聞きます。もっともレイバーも自分達が政権にあったときは、やはり法的に補償の必要なしという意見であったことから、同罪だとされているようですが。
同じ"sorry”でも、相手によって全然言い方が違うというハワード首相の態度を皮肉ったマンガ。
左は、アボリジニの人達に対する謝罪としての"sorry"、「しようがないから、一応謝っておいてやるよ」という投げやりな態度に対して、右は、Wik判決をめぐって農村部の有権者に対しては、平身低頭して"sorry"と言ってるという(ネィティブタイトルを100%消滅させられなくてゴメンナサイということでしょう)。
ちなみに、右の腕組んでる男の図は、「ブッシュの農民」を典型的に表しています。一つは帽子。カウボーイハットにやや似てる、つばが広い柔らかな帽子でAkubraといいます(もとは商品名。転じて農民そのものを意味して使われる場合もあります。もう一つは、帽子から垂れ下がってる蝿よけ。この2点の「記号」で、オーストラリア人だったら「ああ、ブッシュの農民の人ね」と分かるわけでしょう。
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★black-armband view
直訳すれば「黒い腕章(葬式のときのアレでしょう)の視点」ですが、勿論意味は違います。誰でも知ってるように、オーストラリアの歴史は先住民族アボリジニーの人々への迫害の歴史であります。これについて強く反省を求め、罪の意識を感じようというのがこれまでの、まぁ主流的論調であったわけですが、96年総選挙で政権についた保守党与党連合のジョン・ハワード首相は、「何でもかんでも過去の歴史が全てguiltyであるとするのは行き過ぎじゃないか」というような発言をして、物議を醸しているわけです。その際に使われた言葉が、この「ブラック・アームバンド・ヴュー」で、「葬式じゃあるまいし、いつまでも黒い腕章をつけて俯いて神妙にしなくてもいいのだ」というあたりの意味だと思います。新聞のコラムなどで、「いわゆる〜」という意味で“ ”つきで引用されることがよくあります。97年の新語ですね。
ちなみにこれは国家として過ちを犯した国(殆ど全ての国がそうだと思うが)にある種共通するメンタリティでしょう。日本でも先の戦争での残虐行為などについて反省、謝罪すべきというメインの論調に対して、「いつまでもペコペコするこたないんだ」という強硬な論調もあったりしますが、似たようなものでしょう。その国の保守層、右がかった人々にだけ支持され、利害関係のない外国人や第三者から見てると「なに、開き直ってんだよ」としか見えず、やられた被害者側からすれば「やっぱりそれが本性か?反省なんか最初からしてないんだろ」と猛反発を招き、事態が益々こじれてくる、、、というあたりも、共通した特徴だと思います。他人の国だと、よく見えるんですけどね。
ちなみに、97年5月に、リコンシリエーション30周年記念という式典が行われました。出席したハワード首相の演説中、聴衆の一部は抗議のため起立しハワード首相に背を向けたというハプニングもあったわけですが、ともあれアボリジニとの和解ステップが本格的にはじまってまだ30年。それまでは選挙権すら与えられてなかったわけです。だが、その30年でオーストラリアはかなり変わった(本質的には何も変わってないという見方もあるけど)。APLaCの柏木が高校時代オーストラリアにいたときは、授業でもアボリジニーのことなんか全然やらなかったし知らなかったと言います。でも、現在では、どこの学校でも、アボリジニの歴史、それに対するオーストラリアの過ちについてはかなり徹底的に授業しているようです。多くの学校ではオーストラリアの国旗とともに、アボリジニーの旗(図案は日の丸に似てて、中心に黄色の太陽、上半分は赤、下半分は黒。オーストラリアの荒野に立って日没を臨むとこう見えたりする)を掲げていたりもします。
小さな事件ですが、この学校にアボリジニの旗を掲げるのに、RSLという退役軍人のクラブ(会員制の安くて気軽な社交場としてあちこちにある)が異議を出したりしてます。オーストラリアの国旗は一つでいいのだ、余計な旗など掲げさせるなという。前述のWik事件もあり、リコンシリエーションの帰趨が微妙になってるこの情勢に、人の神経を逆なでするような意見をいうというタイミング最悪のセンス(もっとも今だからこそ言おうというのだろうが)もさることながら、こういう人達が話をややこしくするのだなあと思ったりもします。
余談ついでに言うならば、アメリカも退役軍人組織が強大な発言権(組織票など)を持っていて、大統領もなにかとやりにくい。1997年現在の国際情勢で政治しなきゃいけないのに、太平洋戦争とかベトナム戦争の頃の世界観で止まってしまってる人達がいて、それがまた「国の英雄」としてそれなりに扱わなきゃならないだけに面倒臭い。ああいうのを見てると、戦争も勝ったら勝ったで後が大変だなあと思う反面、考えてみれば日本だって遺族会とかあって(橋本龍太郎氏はそこの会長だった)、特定郵便局長会と並んで日本の政治権力構造(要するに集票マシン)の一角を占めてるのだから同じかという気もする。ほんとうっかり戦争なんてすると、後々まで祟るもののようです。
※アボリジニに関する問題は、勿論これに尽きるものではないですが、またおいおい補充していきたいと思います。
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