今週の1枚(03.03.03)
ESSAY/今ここにいるワタシ
さて、もう二月が終わってしまいました。毎年同じようなことを言ってますが、「二月は逃げる」というのは本当ですね。3-4日少ないだけなんですけど、3月3日というか、”2月31日”というかで随分感じが変わりますね。
こちらの気候ですが、わりとカレンダーに忠実に、ここ2週間ほどで、だいぶ変わってきました。
暑くて、雨が降らなくて、山火事が暴れていて、、、という夏は徐々に終わりを告げ、かなりまとまった雨も降りましたし、芝生の緑もだいぶよみがえってきました。ここ数日、朝晩はぐっと涼しく、というよりもどうかすると「寒い」という感じすら受けるくらいになりました。もっとも晴れた昼間の太陽はまだ健在ですけど。その反面、「メチャクチャ寒い」と来る人来る人言っていた日本の冬もそろそろ終わりつつあるのでしょう。春めいた陽射しもちらほら出てきているのではないでしょうか。
ちょっと近況ですが、日本ではそろそろ統一地方選挙ですが、シドニーのあるNSW州でも3週間後に総選挙が予定されています。現政権は8年続いてレイバー(労働党)、党首&知事も不変のボブ・カーです。連邦政府がずっとハワード率いるリベラル(自由党)なのと対照的ですね。でもって、今回の選挙もボブ・カーのレイバーの圧倒的な優勢が予測されてます。確かに、リベラル、旗色悪いですよね。そもそも党首が誰なのか、僕も気にもしてなかったです。
最近の新聞にもこう書かれていました。
”State elections once fought on policy, policy, policy are now being fought on the US model of personality, personality, personality. The image of leaders has buried policy differences.
Premier Bob Carr enters the final three weeks of the election campaign with a personal approval rating of 69 per cent, which places him up there with former prime minister Bob Hawke in the rare status of politician as celebrity.
His opponent, 33-year-old Coalition Leader John Brogden, rates a mere 39 per cent in popularity while he has a more pressing and crueller disadvantage - 39 per cent of voters don't know who he is."
ということで、対立候補の自由党党首であるジョン・ブログデンの支持率39%、もっと可哀想なのは「誰、それ?」と答えた人も39%ということですね。だいたい、ブログデンという名前も、僕自身こういう発音でいいのかどうかすら知らないですから。
確かにボブ・カー、安定してますよね。学者肌の理性派で、顔つきからして「博士クン」みたいなのですが、リーダーにありがちなエキセントリックさ(長野知事の田中さんのように)、ナイーブさ(鳩山さんのように)、アロガントさ(傲慢さ=石原都自治のような)がなくて、「堅実に実務を処理してます」的な雰囲気があります。
「あの」ポーリン・ハンソンが、(よせばいいのに)今度はシドニーにやってきて、NSW州の上院選挙に出るそうです。シドニーの南部のシルベニア・ウォーターにいくそうですが、なんか彼女が選挙基盤に選んだというだけで、「ほー、あそこはそんなに差別意識が強いエリアなのか」と思ってしまいそうですね。
ちなみに州選挙では上院選挙も同時に行われるのですが、これがすごい複雑な投票・集計方法らしいです。僕も選挙権持ってるわけではないからやったことはないのですが、まず投票用紙が異常にデカいです。通称「テーブルクロス」と呼ばれるくらい、1メートル四方の投票用紙です。投票方法も変わっていて、線がひいてあって、そこから上を使って投票するか(政党名にチェックする)、線から下にずららと居並ぶ候補者個々人に、1番から15番までの優先順位をつけるという、通称"above the line""bellow the line"という二つの方法があるようです。
投票用紙がデカくなるのは、異様に泡沫候補、泡沫政党が多いことによるのでしょう。そして、プリファレンスと呼ばれる独特な集計方法。選好票とか訳されているようですが、第二順位、第三順位につけた投票が順位に応じてそれぞれプラス加算されるという複雑な方法をとっています。このため結果が出るまで相当時間がかかるようです。確かにバラエティに富んだ選挙結果が出てるようで、NSW州の上院は、レイバー16議席、リベラル9議席、ナショナル4議席の三大政党のほか、「アウトド・レクリエーション党」なんてのが一議席を獲得してたりします。面白いですな。
さて、前回書き忘れたことについて簡単のフォローしておきます。
日本人の特徴として全体把握力に優れていること、さらに進んで全体が見えないとなんとなく落ち着かないことなどについて書きました。その傍証、というほどのエラそうなことでもないのですが、2点ほどあります。一つはデーター表記の方法、もう一つはSOVの言語構造。
データー表記というと堅苦しいようですが、なに、住所とか日付の書き方です。日本の住所の表記の方法は、日本国・東京都・千代田区・○○町○番地、○○マンション○○号室、そして最後に名前がくるという形で、大きいものから小さいものに向けて徐々に「降りて」きますよね。これが英語圏(西欧一般だと思うけど)だと逆になります。まずしょっぱなに名前がドーンときて、それからUnit7/124 ○○ Street, Bondi Junction, NSW, Australia という具合に、7号室→124番建物→○○ストリート→ボンダイジャンクション(町)→NSW(州)→オーストラリア(国)という具合に、小さいところから徐々に広がっていきます。
この発想は、僕から見てると、「まず全体構造があって、その中のある特定の位置にあるワタシ」という認識パターンを取る日本に比べて、西欧方式は、「まず自分がいて、それを取り巻く周囲が徐々に明らかになっていく」認識パターンをとるのだと思われます。
単なる慣習の差といってしまえばそれまでかもしれませんが、「何から先に述べるか」というのは結構重要なことだと思います。なぜならそういう慣習になっているということは、その社会の人々の自然な発想として、「その順番で言ってもらえると一番しっくりするし、分かりやすい」ということを表すからだと思います。
僕ら日本人の発想や感覚でいうと、「住所教えて」といって、いきなり「えーと、215号室」なんて始められたら、「ちょっと、それどこのマンションよ?」とイライラしますよね。「○○マンション」「それってどこにあるのよ?」「28番地の3」「どの町の?」「○○町」「それってどこにあるのよ」「彦根市」「ってどの県なの?」「滋賀県」、、という具合にやっていくわけで、苛立たしいことこのうえないです。このことから推測できるように、日本人というのは、まず全体状況がクリアに見えてないと非常にイライラする民族なのでしょう。これとは逆に西欧系の人というのは、まずそのものズバリを認識し、それをベースとして徐々に同心円的に「付帯情報」を広げていくという発想なのでしょう。だから、日本的に全体から説き起こすような言い方をされると、イライラするのでしょう。
氏・名の順番が逆なのも、同じ発想に基づくのかもしれません。まず個人の名前がきて、その次に「付帯情報」としてファミリーという所属情報が来る。日本はまず個々人の個性よりも所属ですから、家の名前が先にきて、「○○家の○○」という構造をとるのでしょう。
これは単に氏名表示の慣習だけではなく、自己紹介などでも表れてきます。電話でも、日本では「もしもし、こちら○○商事営業部の田中と申します」と所属が先に来ます。英語の電話は、"Hello, this is Peter speaking from ○○ real estate"(○○不動産のピーターです)という具合に、まず名前が来て、それから from で所属という付帯情報がやってくるという。ただし、こちらでも個人の個性なんか特に重要視されないスチュエーションでは(警察の110番とか、大企業の大代表とか)、個人名は省略ないし最後に廻されることが多いですが、一般論でいえばまず個人名が先にきます。
余談ですが、こちらでは他人の名前というのは日本以上に重要で、他人の名前をしっかり覚えるというのは社会人として要求される最低限のスキルのようなのですが、僕ら日本人には中々そこらへんが充分に適応できないです。受話器を取った途端、いきなりペララっと流れてくる個人名を覚えろ、というのは難易度高いです。所属から順番にいってくれれば、聞いてるこちらも徐々にフォーカスを合わせていきやすいのですが、いきなりカクシンから入られるとつい聞き流してしまって、受話器を置いた後、「えーと、誰っていったっけ?」ともう覚えていないという。余談の余談ですが、ガイジンの名前というのは聞き取りにくいし、覚えにくいですよね。もうピーターとかマイケルとかド典型の英語名前できてくれたらまだしも楽ですが、クライヴ・コンクリン、ニクワナ・ウォンボシなんて言われたら、聞いたそばから忘れます。そのピーターとマイケルですら、現場の発音では「ぴら」とか「まいこぅ」とか聞こえたりしますからなおさらです。
あと、日付なんかもそうですね。日本は、”2003年3月3日月曜日”という具合に年から先に書き、月、日、曜日になります。こちらでは、Monday, 03/March/2003と、年は最後にきます。
なおご存知のように、英語圏でも、オーストラリアやイギリスのように日/月で書く場合と、月/日で書くアメリカ式があって、ややこしいです。06/28 だったらまだ分かるのですが、12/11とか書かれると、12月11日なのか、11月12日なのかそれだけでは分かりません。ビジネスなんかでも、どっちの方法でいくのか確立している間柄だったらいいですが、相手がどっちの方式なのかわからないうちは、月は算用数字ではなく、NOVやJUNなどと表記した方が無難でしょう。しかし、これ、統一して欲しいですな。
これと同じ流れだと思うのですが、英語と日本語の文法構造なんかも対照的ですね。よく語られるところですが。
英語はご存知のとおり、SVO構造ですから、主語→述語(動詞)→目的語ときますが、日本語は、SOV構造で、最後に動詞がきます。「僕は君が好きだ」(日本)、「僕は好きだ、君を」(英語)ということですね。
こんな3単語レベルだったら戸惑うことも無いのですが、長い長い文になってくると、日本式情報処理システムの頭で英文を読んでると、途中で破綻したりします。これは何度か述べてますが、長い文章になるにしたがって、一文を一文で処理するのは不可能ないしは極度に不自然になってきます。途中で切って、何文かに分けた方がいいです。翻訳技法としてはあまり認められないのかもしれませんけど、でも、無理ですよ。情報処理システムが違うんだから。
特に、いわゆる「カンマwhich」という非制限用法とか、関係副詞系が入ってきたら、日本語にする時点でそこで一回文を切って、新たに「ということは」「そこでは」と説き起こした方がずっとわかりやすいでしょう。関係代名詞とかそのあたりの文法技法というのは、もともと「最初に核心を述べ、そこから順次周辺情報を付加していく」という英語的発想に基づくアタッチメントアイテム、コンセントの延長コードのようなものだと思います。それをそのまま日本語構造に取り入れていくと、「僕と昔の幼馴染み達が学校帰りによく寄り道をして暗くなるまで遊びまわっていた、まるで地中海のオリーブの木の緑を彷彿とさせる一種独特の不思議な緑色に縁取られ、そして今はもう取り壊されてショッピングセンターに成り果ててしまった公園」という具合に、「公園」という単語に沢山の修飾節がかかってきますから、もう単語が頭でっかちになってしまって重たくってやってられない。だもんで、短文に区切っていった方が日本語的にはわかりやすいです。
あと、和文・英文は「逆にする」ということの難しさがとかく言われます。それはそのとおりだと思いますが、「逆にすると何が困るの?」「どうしたらいいの?」というと、喋ったり書いたりするときのモノの考え方が変わることだと思います。特に十分に推敲する時間的余裕がない、一発勝負のスピーキングの場合では、単語とか文法とかも大事ですが、それ以上に「何をどの順番で言うか」であり、それを自然に出来るようになるため、「どういうモノの考え方をするか」だと思うのです。
日本語的にモノを考えていたらあとで英語にしにくいです。「訳」というのは基本的に難しい作業です。だから「訳」さないで済むように最初から英語でモノを考えておけばいいのですね。で、「英語でモノを考える」という作業の眼目は、全体→個別の日本パターンから、メイン→周囲という英語パターンへの発想パターンの転換だと思うのです。その場合の最大の急所は、「いきなり核心に入るかどうか」→「核心を把握してから喋り始めるかどうか」だと思います。
例えば、「君はさっきから彼女のここが嫌いとか、あそこがダメとか欠点ばっかりあげつらっているけど、その種の問題というのは、別に結婚してるとか恋人同士でなくても、誰と一緒に暮らしても、大なり小なり出てくる問題であって、それは彼女の固有の問題というよりは、一般的な生活習慣のズレに過ぎないんじゃないか?」という日本語を英訳せよとなると、結構大変です。
適当に今訳してみますと、It seems to me rather common problem which is mainly caused by the difference of lifestyles happend between not only married couple or lovers but also anyone who lives together, although you've been counting her shortcomings endlessly. みたいな感じになるんでしょうね。細かな英訳作業はともかく、大事なのは、一連の文章の中の「何がメインに言いたいことか」をすっと抜き出してくる作業だと思います。メイン・ステイメントですね。ここでは、「それって一般的な問題じゃないの?」ということですね。
日本語というのは最後になるまで結論を言わなくてもいいし、時には単なる周辺描写だけで結論を言わなくても許される言語だったりします。なんで許されるかといえば、それは日本人の基本的興味が全体構造をクリアに認識することであって、誰それさんの意見を知ることではなかったりするからなのでしょう。ともあれ、核心になるメインステイトメントを明確に認識していなくても、日本語というのはとりあえず喋りだすことは出来ます。そして、喋ってる間に段々明確になっていくとか、言いたいことが向こうから歩いてくるというか現象があったりします。でも英語の場合は、往々にして「何を最も言いたいのか?」という核心部分を冒頭でバーンとぶつけないといけないから、喋る前にそれなりに言いたいことや結論をまとめておかなければなりません。それが難しいといえば難しいです。結論を出さずにあーだこーだと言ってるわけにはいかない。
日本語的に「喋ってる間に考えて結論を出す」「より的確な表現を探す」というのは、具体的に言えば、こんな感じでしょう。
「そーねー、まあ聞いてたらそれなりに君のいうこともモットモだといういう気もするんだけどねー、でもねー、それって恋人だったら誰だってあるんじゃないの?ていうか、別に彼女だけが特別に悪いというより、なんというのか、そりゃ確かに良くない点も沢山あるんだろうけど、誰だってパーフェクトじゃないし、そのパーフェクトじゃないことを責めてたってそりゃ無理じゃないの?って気もするんだよねー。なんてのか、それって彼女の問題っていうよりも、まあ人はそれぞれ違うんだから、違ってくるのは当然じゃないかっていうか、うまく言えないんだけど、うーん、ズレ?ズレみたいなものは、もうナチュラルに生じるわけでさ、それは恋人とか夫婦とかだけじゃなくても、誰かと四六時中暮らしていればそれなりにズレが気になってくるわけでさ、、、」
日ごろからこういう喋り方をしている人、モノの考え方をしている人に、英語的に「それは普遍的な問題だ」という核心的結論をイキナリ思いつけ、いきなりそこから喋り始めろ、というのはかなり難しい注文なのかもしれません。英語を喋ること、英語でモノを考えることの難しさはまずもってココだと思います。全体や周囲をウザウザなぞったり、描きなおしたり、いったりきたりをして段々考えをまとめていくという作業が出来ない、許されない、いきなり結論を言え、というのはツライです。
グッドニュースは、僕ら日本人でも、カジュアルにズケズケ喋りあえるような間柄では、「いきなり結論」パターンでポンポン言ってることです。上記の例でも、「いや、それは違うでしょう。それって普遍的な問題じゃないの?ライフスタイルのズレから来る問題。それは他人と暮らしてたらどうしたって生じるよ。別に夫婦とか恋人とかに限らず。君はいろいろ彼女の欠点を言うけどさ」という具合に、細切れにして重要な結論から先に述べ、徐々に広げていくような喋り方、発想の仕方というのを、実は僕らもやってます。
ただ日本語の場合、そういうパターンで喋り始めると、一文では喋りにくいです。やろうとしたら、国文法でいう倒置法を多用することになるでしょうが、それも面倒だし、場合によってはすごい不自然だから、パキパキ文章を切っていって、短文でまとめていく言い方になるということですね。
いずれにせよ、日本人でも、自分の意見がかなり明瞭にあって、しかもそれをズケズケ言うことが許される場合では、英語的な発想や表現でやってるわけです。だから、自分がそういう喋り方をしているときの感じをよく覚えておいて、それを英語を喋るときに意識的に当てはめるといいと思います。
コツとしては、あまり深く考えずに思いついたことをポンと述べてみることでしょうね。とりあえず直感的に抱いた結論めいたものを述べてみる。そして英語の便利さは、あとでいくらでも情報を付加して、修正していくことができるということですね。日本語的には、むしろ取っ散らかった「まとめて喋れよ」といいたくなるような、情報の「後出し」みたいな言い方も、英語ではそれが許され、それが普通だということです。英語の「仮主語」「形式的主語のit」なんてのも典型的でしょうね。"It is not good that -"というのも、「それは良くないよ。何が良くないかっていうとー」というような言い方でしょう?考えてみればスゴい語法ですよね。
しかし、この「いきなり結論をいってみる」という発想&行動パターンというのは、全体状況を把握してからでないと自分の出処進退が決まらない日本人にとっては、けっこう「冒険」だったりするのでしょうね。この「とりあえず(後先考えず)自分を出す」という行動ですね。日本ではあまり許されない行動パターンですしね。
そのあたりの気持ちの切り替えが出来るかどうかがキモだという気がします。
なお、英語でも「ウダウダ周辺を述べて結局結論を言わない」というスチュエーションは当然あります。英語を喋る人はなんでもかんでもパキパキ明瞭かというと、そんなわけはないです。特に、政治家とか官僚とかが、ニュース解説などでインタビューを受けてますが、キツいところを突かれたら、やっぱり誤魔化そうとしてますもんね。言質を取られないように注意しながら、周辺事実をもっともらしく繰り返していて核心には触れないという。
例えば、政府が鳴り物入りで導入したシステムが全然機能していないことを示している統計数値を指摘しながら、インタビュアーが「だから全然ダメってことじゃないんですか?」と鋭く突っ込んだとします。これに対する政府の答弁はこんな感じですね。「ただいまご指摘にあった点は非常に重要な問題であると、政府においても重々認識しているわけで、この統計結果に関しては、各方面からの精密な検討作業を進めている最中でありまして、これらの精密な検討結果に基づいて実戦的で効果的な行動指針を早急に出すべきであることは党内でも異論の少ないところであり、、、、」という感じで、全然結論を言わない。
いきなり結論、の英語表現で、これだけ言語明瞭・意味不明瞭にやるのは、なかなかのワザだと思います。このテクニックを分析すると、要するに、話の主題を巧妙にすり替えてしまうわけですね。「言い切っても差し支えない安全なこと」を探してきて、それを「明瞭に断定する」というだけの話です。英語が明快で歯切れが良さそうなのは、単純に語感や言い切り方がそうだというだけであって、それは内容の明瞭さをも保障するものではないです。自信ありげに、明快に、話をすり替える、と。
こちらに来た日本人が、語学学校の教室やオーストラリア人などから、日ごろからあまり考えたことのない問題をいきなり "Yes or No"で突きつけられて、面食らったり、口をモゴモゴさせるだけでろくすっぽ答えられなかったりします。これは日本人的には当然だったりします。「原発は賛成か反対か?」とか「中絶は賛成か反対か?」「死刑制度は廃止すべきか?」とかね。問題としては知ってるけど、自分の結論を出してないような、そうそう簡単に結論なんか出せそうもない問題、それをいきなりイエス・ノーで言えといわれたら、誰だって戸惑います。
ですのでそーゆー場合は、「自信にあふれた態度ではぐらかす」というテクニックを知っておくとよかったりするのでしょうね。例えば、「こういう重大な問題を、イエスノーという二者択一で考えるというその思考方法そのものが、そもそも問題なんだよ。それは物事を異常に単純化しすぎるし、危険ですらあるんだ。原発について言えば、エネルギーが必要だから賛成で、でも危険だから反対だというのは、こんなことは世界の誰もが認めているんだ。たまたまその論者がどっちにより多く目を向けているか、心をひかれているかという、言ってみればただの偶然、ただの「好み」でしかないんだ。そんなものを積み上げて何の意味があるというのだ?」という具合に。
住所表示で小さいところから書いていくこと、まずいきなり核心を述べるのに適した文法など、通底するのは、「今、ここにいるワタシ」というのが全ての基本になっているということなのでしょう。まず、自分がここにいることを確認し、そこから周囲に認識を広げていくという認識パターン。
そして、その認識パターンというのは、慣れてみたら案外気持ちイイものだったりします。
全体からの位置付けというナビゲーションを経ないで、つまり自分の居場所や求められる「あるべき自分」ということをあまり考えすぎないで、「とりあえず今、ここに自分はいる。それで基本的にOK」と思ってしまうことですね。自分へのOK出しを、周囲との調和関係に求めるのではなく、単に自分が存在しているという、存在そのものからダイレクトにOKと思えること。まずはそこから始めていくと、意外とすんなりと馴染むかもしれません。
写真・文:田村
写真は、ダーリングハーバーにて。1月に行われるシドニーフェスティバルのときに撮ったものです、シドニーなんだから「(左から)ハーバーブリッジ、シドニータワー、オペラハウスを出すっきゃないでしょう」みたいな安直な馬鹿馬鹿しさがイイですね。
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