今週の1枚(03.02.03)
ESSAY/郷に入って郷に従わず
オーストラリアに長く住めば住むほど、どんどんオーストラリア風の生活に染まっていく、と一般に思われているのでしょうが(僕も昔はそう思っていた)、これって必ずしもそうではないように思います。半分正しくて、半分間違っている、という。
僕自身を省みても、オーストラリアに長く居ればいるほど、生活の周囲の日本テイストはむしろ増えていっています。
たとえば食器。来たばかりの頃は、箸も茶碗もありません。物珍しいからまず現地の食物を率先して食べます。一段落してから、「たまには和食も」「久しぶりに味噌汁でも」という気になって、スープ皿で味噌汁をスプーンですくったりするわけです。「なんか、調子狂うなあ」となって、チャイナタウンにいって箸だのお椀だのを買ってきます。そのうち、フィッシュマーケットなるものの存在を発見したり、こちらでも行くところへいけば日本酒がそこそこリーズナブルにゲットできることを知るうちに、和食が食卓をにぎわす機会も増え、そうなると「日本料理は器で食べる」といいますから、いい和食器が欲しくなり、キチンとした出刃や柳刃包丁も欲しくなり、、、となっていきます。
そんなこんなで、今は和包丁も4本に増え、お椀も徐々にグレードアップして本格漆器になったり、40センチくらいある備前の大皿を帰国した際に買い求めて背負って帰ってきたり、小鉢やら角皿なんぞも増えてきます。日本に住んでた頃よりもずっと充実したラインナップになってきてます。それに歩調を合わせるように、料理の腕も上がります。
同じように毎日の食卓で和食を食べる機会も増えます。これは年を追うごとに増えているかもしれません。今日はそんなにお腹が空いてないから、シシャモと納豆と冷奴くらいでサラリと、という感じになったりもします。ザルそばに、軽く一品、例えば鶏の香草焼きあたりを添えて、あとはビール、とかね。
これは日本回帰の傾向が段々強くなるとか、この傾向の行き着く先が帰国になるとか、そういうことでもないのですね。ここが肝心なポイントなのですが、要するに「オーストラリアにいるということを段々意識しなくなっていく」ということだと思うのです。来て数年は、「せっかくオーストラリアにいるんだから」という「せっかく」ファクターが力を持っています。でも、その「せっかく」感は薄れていきます。次第にそんなことはどーでも良くなっていきます。今どこにいるかなんてことは別に気にならなくなり、自分にとって何が気持ちいいかで決めるようになっていきます。
この傾向は、食事に限らず生活全般にわたって生じます。
英語だって、最初は必死に勉強します。必死にやらないと生活できない(ことはないが色々面倒臭い)ので、やります。日本語を喋ったり、日本の物を見聞きする分、せっかくよじ登った「英語山」からズルズルと落ちていくような気分すらします。わからなくても、つまらなくても、一生懸命現地の英語のTVを見たりします。こちらでも(行くところに行けば)日本の映画やTVビデオは借り出せるのですが、それはあくまでも「一服の清涼剤」的なものに押しとどめられます。
でも、TVや新聞を読んでだいぶ何言ってるのかわかるようになってきますと(それでもまだまだ分からないし、勉強も地道にやってますが)、日本語喋っちゃダメだとはぜーんぜん思わないです。別に英語が出来ることがエラいとも何とも思わなくなります。もちろんこちらで生活するに当たって英語の必要性が無くなるわけではないですし、それどころかその重要性は年を追うごとに痛感しますから、来たばかりの人には「鼻血が出るほど勉強するといいよ」とは言います。言葉がわからんというのは、海で溺れているようなものです。昔は自分も溺れてましたから、溺れてる同胞を見ても「おお、お互い頑張ろうぜ」と思ってます。それが自分が半溺れくらいになってきて、全溺れの人をみると「ああ、大変だなあ。俺もそうだったんだよ」という気分になります。さらにそこそこ泳げるようになってくるにしたがって、「溺れる」という事態は結構異常なことなんだなあと再認識したりします。英語そのものの評価は、「別にできたってエラかねーよ」という具合に下がっていくのですが、出来ない事態の悲惨さの認識は逆に「やっぱりそれじゃツライよなあ」と深まったりします。
これって、車の運転でも、スキーでも、パソコンでも、なんでも同じだと思います。パソコンもねー、自分が出来なかった頃は、出来ない人をみても「おお、同類」と思うだけだし、出来なくたって「別に」とか思ってたりするけど、いざ自分がだいぶ出来るようになってくると、パソコンが出来ることがエラいとも何とも思わなくなりますが、同時に「電子メールって何?」って言ってる人をみると、「それじゃあ不便でしょう」と痛々しい気持ちが逆に深くなってくるという。言ってる意味わかると思いますが。
思うに、来た当初は、オーストラリア人の、というより日本人以外の人達のカルチャーなり、やり方なりを数多く経験した方がいいのでしょう。あれこれ考える前に、とりあえず一回くらいはやってみる、トライしてみる、と。ワケわからん食べ物でも、ワケわからないからこそ食べてみると。ほっといても最初は物珍しいですし、何をみても新鮮ですからトライはすると思いますが、早くて3ヶ月、大体半年もすれば自分なりの生活のパターンというのが出来上がってきますから、そこで一旦ほっと一息ついて保守的になったり、そこから先に出て行かなくなったりするのですが、それでも自分の機嫌の良いときにちょっと遠出してみるという具合に、広がっていかれたらいいとは思います。
それは、オーストラリアに来たらオーストラリア風に暮らさなければならない、からではありません。「郷に入れば郷に従え」と言いますし、それは一面真理でもあるのですが、強迫観念にまでなる必要はないと思います。日本に来たガイジンさんは全員味噌汁と納豆を食えなければならないというものでもないですし、オーストラリアに住んでいるイタリア人にパスタを捨てろというのも変な話です。ましてやサラダボウル型マルチカルチャリズムのオーストラリア、ましてやそのメッカであるシドニーでは、母国のカルチャーを捨てろなんて野暮なことをいう奴の数は少ないです。
いろいろなカルチャーを広く知った方がいいよというココロは、「あとでチョイスの幅が広がるから」です。
いずれは物珍しい季節もフェイドアウトしていきますし、どこに住んでいるかなんてこととは関係なく、自分に合ったライフスタイルを選択し、構築するようになっていきます。そのときに、自分の知っているスタイルが多ければ多いほど、よりしっくり合ったものを作り上げられるからですね。
さきほど和食の機会が増えたといいましたが、和食以外の場合は、日本では全然作らなかった、というよりその存在を知らなかったり自分で作るなんて思いも及ばなかったモノを作ってます。トマトソースはアンチョビーを使ってやってみるとか、ローストビーフを作ってみるとか、フィッシュソース(ナンプラー)とコリアンダーをふんだんに使ったバラマンディ(という上品な白身魚)の中華風清蒸とか、ベトナム風の生春巻とか。これらは全て、来た当初1−2年の好奇心にまかせて「これ、なに?なに?」でトライしてた頃の蓄積から派生してたりします。
なお料理する機会でいえば、やっぱり和食が増えてきますが、これはまた別の理由でそうなってます。日本料理以外でも、とりあえず料理法をみればある程度は出来ますし、最初はそれが珍しくてうれしいのですが、やっぱりその国の人が作った方が美味しい。もう段違いに美味しい。自分でやっても、どうしても「あの味」になってくれない。これは、その料理の「構造」が分かってないからだと思うのですね。イタリア料理におけるオリーブオイルの存在とか、タイ料理におけるフィッシュソースの意義とか、インド料理におけるスパイスの力学みたいなものがあると思うのですが、どうもそれがピンとこない。
いつぞや聞いた話ですが、シェアしているオーストラリア人のおっさんが、「味噌汁は健康にいいんだよ、わしゃ毎朝飲んでるよ」といいながら嬉しそうに毎朝味噌汁飲んでるそうですが、作り方をみてると、ボウルに水と味噌をいれて電子レンジでチンしてるだけだそうです。そんなもん、ダシを入れなければ不味くて飲めたもんじゃないだろうと思うのですが、ご本人は健康食だと思っているのかいたってご機嫌だそうです。これは、そのおっさんが味噌汁の論理と構造を知らんのですね。味噌汁というのは、まずベーシックにダシがあります。昆布、カツオ、煮干など、それぞれ独特の風味と海のエキスをもっているモノを、あるいは単独であるいは合わせで入れ、その旨みを最大限に引き出すように注意深くダシを取り(決して沸騰させないとか)、基本的にはそれで充分美味しく飲めるくらいに基礎構造をしっかり固めた上で、味噌独特の深みと野趣を加えハーモナイズさせる。味噌を溶いたら一気に飲む。そのときに葱をハスに切って新鮮なピリリとしたほのかな苦味を加える。もちろん具に何をいれるかも重要な問題です。油揚げにほうれん草、ワカメに賽の目に切った絹ごし豆腐などなど。ダシ(の種類)×味噌×具ということで、日本全国味噌汁なんかおよそ数百数千種類あるわけですし、極端な話、家々によって全部違うともいえます。これが味噌汁の構造。おっさんは、ここがわかってない。
同じように、僕もイタリア料理やタイ料理がわかってないのです。男というのは、大体理屈っぽくて、メカ好きですから、料理本なんかも理屈で書いてくれるとわかるのですが、そうやって書いてくれている本は少ないです。イッコイッコの料理の作り方は書いてあっても、「なぜ、そこでそうするのか?」が書いてない。これって、トラベル英会話をいくら覚えても、基礎となる英文法がダメだったらいつまでたっても上達しないのと似てます。構造がわからないと試行錯誤ができない。試行錯誤が出来ないと、一番大事なカラダで覚えるカンドコロというのが発達しない、だからいつまでたっても伸びない、ということですね。
というわけであれこれトライした時期もありますし、今でもあきらめてはいないのですが、多くの場合、自分で必死になるよりも(食材も特殊だたら常備してるわけでもないし)、美味しい店に食べに行った方が早くて安いということになり、どうしても自分で作る段になると和食に比率が年々高まるということです。
そうそう、外国の料理を考えるときの頭で日本料理も考えるようになりますから、日本にいるときよりも和食の構造を考えるようになりますよね。最近のデベロップメントでは、日本に帰省していたカミさんが買ってきてくれた塩。十勝かどっかの塩ですが、これが美味しいです。鯛の塩焼きは簡単ですので、人が来たときよくやりますが、これなんか塩しか味付けしませんから、塩が良いか悪いかで最後の味わいが全然変わってきます。これねー、こちらは鯛が安いから(30センチモノで1000円ちょっと)、日本にいるときの十数倍の頻度で食べ慣れるようになったから特にそう思うのかもしれませんが、塩が違うと「こうも違うか」と思うくらい違います。同じように、味噌、醤油、砂糖という基本調味料が良いといいですね。日本料理の構造は(と僕が勝手に思っているのは)、いかに味を加えるかではなく、いかにして素材本来の味を引き出してハーモナイズさせるかだと思います。そこで調味料がイチイチしょぼかったり、ケミカルなトゲトゲしい味をしてたら台無しになっちゃうという部分はあります。ですので、もし日本からなにか日本食を持ってきたかったら、ラーメンとか一般的なインスタント物を持ってくるよりも(そんなものはこっちでも買えます)、キチンとした本物の調味料を持ってこられるといいと思いますよ。最近空港の検査は非常に厳しくなってますが、基本調味料だったら調べられてもすぐわかるし、その意味でもいいとは思います。
余談ついで言いますと、和食の再認識が深まるに連れ、「あ、こりゃ素人には無理だわ」と思う部分もいっそう広がります。やればやるほどプロの偉大さがわかるという。なんでもそうですけど。シドニーで日本食レストランはメチャクチャ沢山あります。どうかすると日本における中華料理店くらいあるかもしれない。どの町にも一つはあるくらいのイキオイです。ただ、その多くの部分は、日本人以外の人のための日本人以外の人が作った日本料理だったりします。日本における、日本人が作って日本人が食べるイタリア料理みたいなものです。もっとも日本で本格的にイタリア料理と銘打ってるところはかなりきちんと修行してきて美味しいとは思いますが、僕がいってるのは、日本の弁当によくつけあわせでケチャップ味のスパゲティがちょこっと入ってたりしますが、ああいうモノですね。このアルデンテもヘチマもない、オリーブオイルもガーリックも使ってないケチャップまみれのスパゲティを見たらイタリア人はどう思うだろうか?と思ったりしますが、そのイタリア人の気持ちが少しはわかるんじゃないかな?という日本食レストランもけっこうあるとは思います。もって廻った言い方ですけど、わかりますよね(^^*)。あ、でも、寿司ロールは美味いですよ。寿司だと思って食べないで、ああいう食べ物なのだと思うと結構イケます。アボガド巻きとか、チキン巻きとかそんなの。でも、握りに関して言えば、信頼が置ける店以外ではテイクアウェイしないほうが無難だと思います。
でも、きちんとした和食の店もちゃんとあります。ちゃんとしたプロの仕事をしてくれる店で、お値段もそこそこという店も、探せば結構あります。そういうところで食べるとですね、「あ、こりゃあかんわ」と思うのですね。寿司なんかも来た当初は自分で魚捌いて、キッツケにして自分で握ってましたけど、もう食べにいった方が早いですしね。種類も多いし。ダシもしっかりとってるし、油であげるにせよ大きなフライヤーで揚げた方が美味いに決まってるし。で、段々家で料理するのは、ありあわせの適当なモノになったりします。そうなると、「ちょっとしたモノ」に関する知識とレパートリーは、圧倒的に日本食の方が広いですよね。だから和食が増えるという傾向になったりもします。
あ、一応確認までに書いておきますが(こんなこと書いてるから長くなってしまうのだが)、僕はくだんの電子レンジ味噌汁のおっさんや、日本料理もどきのレストランやそこに通ってる人々を馬鹿にしているわけではないです。「日本料理の何たるかを知らない可哀想な人たち」と思うのは簡単ですし、ついつい軽んじてしまいがちですが、それって傲慢ですよね。料理でもなんでも最終目的はハッピーになることであり、どんな料理を食べようともそれでその人がハッピーになるんだったら、その心がピュアに満ち足りているんだったら、それは超本格派の和風料理を食べて喜んで日本人のそれと価値的には同じだと思います。ハッピーになる手段なんて無数にあるのであり、自分が思っている道筋だけが正しく、あとはインチキだなんて思うのは、文化的ファシズムなのでしょう。
話が横道に逸れました。食いしん坊なもんで。
で、本題ですけど、別にオーストラリアに来たからといってオーストラリア人ならんでもええんちゃうの?という話です。何処にいっても自分は自分です。最初は新しい環境を貪欲に学べばいいと思うけど、それを幅広く取り込んで、最終的に取捨選択するのは自分だと思うのですね。それで結果として日本テイストばっかり残ったとしても、それはそれで全然OKだと思います。別にオーストラリア人度が進めば進むほどイケてるってもんでもないでしょう。
ただ、何度も言いますが、最初に学ぶというところを面倒くさがって、一歩も外にも出ない、冒険もしないんだったら、これはこれで勿体無いです。オーストラリアにきて、特にシドニーにやってきて、ゴハンが美味しくないという人がいたら、それはかなり自分のテリトリーを制限してるキライがあります。まあ食の好みもあろうかとは思いますが、僕から見たら、わざわざ不味いところばっかりピックアップして食べてるんじゃないか?と思ったりもします。来て1年以内に、最低20以上のサバーブのレストランにいったら、結構見えてくると思います。特に西部方面。
また、「郷に入れば郷に従え」で、そのエリアでの独特の流儀というものはあり、その流儀が発生してくる社会構造的な必然というものはあると思います。それらのものに対する、深くて広い理解は必要だと思います。そして、その社会の構成員として求められる最低限の義務の履行も。そうでないと、「日本人はウサギ小屋に住んで、過労死するまで他人の目を気にしながら働きつづけて死んでいく、個たる自分をついにはもち得ない可哀想なアリ型ロボット」という、どっかのあまり頭が良いとはいえないガイジンさんの物の見方と変わらないと思います。「お前は、日本に来て何を見てるんだ?キミの目は節穴か?」という。
それは単に自分の知ってる「やり方」と違うというだけで、あっさり他者を馬鹿にするという傲慢さの戒めであると同時に、生活していくための環境適応力という生き物として最も大事な能力・態度あり、さらに選択の幅は広ければ広いほどハッピーになりやすいというプラクティカルな姿勢でもあると思います。そして、それこそがこの一連の駄文エッセイを書いている本当のモチーフでもあります。「なるほど、こういうやり方もあるのか」「最終的にこうやって帳尻をあわす方法もあるのね」ということを一つでも多く知ることは、僕らの生活をなにがしか豊かにしてくれるでしょう。
そういった基本的な部分を押さえておけば、あとはどういう「やり方」をするかどうかは、すぐれてあなたのチョイスです。up to you です。だから別にオーストラリアに来たからといって別にオーストラリア人になる必要もないです。というか、なる必要も無いことをわきまえつつ自分なりにやっていくことが、本当の意味でのオーストラリア人なんだろうなとも思います。
僕個人でいいますと、僕は幼いときから引越しばかりしてましたから、その土地に土着色に染まるような生き方はしてきませんでした。言わばどこにいっても「よそ者」であり、そしてそのことを悲しいともイヤだとも思ったことはないです。それどころか、そのちょっと30センチばかり引いたポジションが、生来の自分の生理体質に良くマッチしていて、良かったですね。東京の下町に住んだからといって、祭りの日にはハッピ着て神輿を担ごうとは思いませんし、京都にはかなり長く暮らしましたが(今も実家がありますが)別に自分のアイデンティティとして「京都人」だと思ったことは一秒もないですし、なりたいとも思いません。
それと同じように、オーストラリアにいるからといってオーストラリア人風に暮らしたいとか、オーストラリア人になりたいとか、そういう具合に思ったことはないです。別にオーストラリア人の知り合いが欲しいと思うこともないです。人の好みでいえば、僕は、ちょっと屈折して陰影のあるキャラが好きですから、どっちかというと生粋のオーストラリア人的な人よりも、他所からオーストラリアにやってきて複眼的思考が出来る人の方が話していて楽しいです。
オーストラリア人の美点もよく理解しようと勤めたいですし、レスペクトすべきところは充分にレスペクトしようとは思ってます。このエッセイはもっぱら日本人のために書いてますから(日本語で書いてるし)、僕らの目から見て学ぶべき部分を主にピックアップしてますが、逆にいえば学ぶべきではない部分はピックアップしてません。
オーストラリア人、ひいては西欧人独特のアホさというのもありまして、これはこれでまとめて書いたら面白いとは思いますが、ちょっとオマケにここでも書いておきます。
概して西欧人とその他のエリアの人々(とくにアジア人)とを比較しますと、西欧人の方がなにかにつけて、スクスク、伸び伸び育ってきてるように思います。だから、健康な自我の強さや、素直なモノの考え方、ためらいの少ない行動力を持ってますし、物怖じ人怖じしません。言わば、坊ちゃん嬢ちゃん的なのびやかさと、その裏返しの陰影の少なさと、世間知らずがゆえの明るさと傲慢さがあるように思います。アジア人の世界観は、それはたとえ日本のように経済的に発展した国であっても、なおも塩辛いですよね。「この世には、どう頑張っても自分の思い通りにならないことがある」ということを、身に染みて知っている度合が高い。ある意味世間の怖さを知っている。それが、まあ、怖がりすぎとか、自己主張の少なさになってしまってマイナスになることも多いのですが、同時にモノの見方が一筋縄ではいかず、何事も額面どおりに受取らないです。なんか裏があるんだろうなと思うという。
そのひねくれ方が、味わい深い陰影になって僕のテイストに合うことも多いです。例えば、今こういう話をしても、日本人やアジア人だったら、僕が何を言おうとしているのかおそらくそう苦労なく理解してくれると思います。でも、西欧人に同じ話をしても、わからんだろうなーって部分はあります。それなりにインテリの人、思慮深い人はよく通じると思いますが、バーベキュー食ってビール飲んでガハハとやってるオージーには分からんかしらんですね。キミら、そういう具合にモノを考えたことないでしょ?という。
だから、物珍しさというファクターを取っ払ってしまったら、話していて本当に面白いなと思えるオージーは意外と少なかったりします。パーティも詰まらんしね、はっきりいって。一生懸命皆さん話すんだけど、自分が英語がわかるようになって何喋ってるのか聞こえるようになってきたら、実に下らんことを喋りつづけてますしね。英語がわからんときは、英語で喋られると何でも賢そうに聞こえるんだけど、わかるようになってきたら、「しょーもな」というのが分かるようにもなります。
どうも西欧人は西欧人で、なにかこの世のダークなものから必死になって目を背けているような感じがします。いや、直接的にはダークな事柄に日本人以上にコミットしたり、なんとかしようとするのですが(国連やNPO的なヘルプとか)、でもそれって彼らかして「何とかなる」ダークさについてであって、「何ともならない」ダークさについては考えないようにしているという、妙な強迫観念を感じているように思います。感じてるといっても無意識で、ですけど。
日本人はすぐに本番で「あがる」ことが多いですが、オーストラリア人はそもそも「あがる」という心理感情がないという話を聞いたことがあります。だから本番に強い、と。「あがる」というのは何を恐れているからそうなるのでしょう。日本人があがるというのは、人間社会に潜む得体の知れない闇と怖さを身体的に知っているのでしょう。オーストラリア人はそれを無意識レベルでもシャットアウトしてるんじゃないか?と思うこともあります。
だから、西欧的な陽性ポジティブでやってると、どっかで闇に食われちゃいます。どっかでしわ寄せがくるよ、と。そのしわ寄せを埋め合わせるために、昔から心理学とかカウンセリングとか言うものが逆に発達してるんじゃないかなとニラんだりもします。昨今のニューエイジ系の発展とかね。アジア的世界観は、最初からその闇の世界も織り込まれています。だから、生活のどの瞬間を切り取っても、100%ポジティブということはなく、どこかしら陰影があったりします。西欧は、これはキリスト教の影響なのかもしれないけど、ダークな部分は宗教的に妙に整理されちゃってるのでしょうか。本当の恐怖とは、「なんだかよく分からない」モノです。全部わかるようにしちゃったら、そんなに怖くないですよ。
だから---、飛躍して思うのですが、アメリカとか、追随するイギリスやオーストラリアも(日本もだけど)、なんでああもイラクにムキになるのか?ですが、この世に「なんともならないモノがある」ということが、僕らアジア人には当たり前の日常風景なんだけど、彼らにはそれが生理的に許せないんじゃないかな?その許せない感情の、許せなさ程度が、特にアメリカに一番強いけど、どうにも僕ら非西欧圏の人々には妙にカンに触る部分はあります。それは非常に傲慢な発想であり、その傲慢さが鼻につく、と。「テロリストは犯罪だ、だから事前に防止するのだ」という理屈でいくのですが、彼らは「こんな簡単なことが何故わからんのだ」と思うかしらんのだけど、僕らからしたら「そんなに簡単に世の中割り切れるわけないじゃん」と逆に醒めてしまうという。でもって、この醒めた感じってのは、キミらには一生わからんやろね、という。
写真・文:田村
写真は、Cityの薄暮。あの野暮ったいモノレールもこう撮るとカッコいいですね。
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