今週の1枚(03.01.27)
ESSAY/ 風の抜け道
時として思うのですが、心の中に風の抜け道が一本通っていて、そこからいつも新鮮が空気が通り抜け、向こう側に突き抜けている人は素敵だな、と。
逆に風の抜け道がなく、外気が入ってこない人は、仮にその人がどんなに素晴らしいことをやっていたとしても、常にある種の息苦しさを感じてしまうな、と。
この世には、素晴らしい物事や人物が無数にあります。同時にイヤなことも無数にあります。この世に生息している僕らは、否応なくこれらの物事にブチあたり、なにがしかの経験をし、なにかを思います。データーは蓄積され、分析され、学習されます。それら無数の経験の集積で、僕らは「この世間はこんなところ」という世界観を育みます。無数にある好き嫌いの感情の集積が、趣味嗜好を形作ります。
子供の頃、家族で旅行したとき、突然車の窓に広がる海のあまりに青さに、ある人はガビーンとなるかもしれません。「なんじゃこりゃあ?!こんなキレイなものがこの世にあったのか?」と感動するかもしれない。その幼い頃の原体験が、その人の「海が好き!」という趣味嗜好を形作り、その後の人生に少なからぬ影響を及ぼすのでしょう。
あるいは、頭ごなしに理不尽なことを押し付けられ、「この世にこんなに悔しいことってあるのか」とまたガビーンとなり、「こういう大人にだけはなるまい」と心の中で堅く誓う人もいるでしょう。その悔しさ、猛然と巻き起こる反発情念を、第三者が的確に音として凝縮して鳴らしてくれると、「そう、そうなんだよ!」と魂が揺さぶられるほどの感動を覚え、音楽にハマっていく人もいったりもするでしょう。
ルーチンを繰り返し、「俺の人生、なんだかな」でぬるい生活をしているときに、「ああ、こういう生き方もあったのね」とガビーンとさせてくれる他人に出会い、その日から生活がガラッと変わってしまい、ひいてはライフワークを見つけてしまう人もいるでしょう。
逆に、他人や異性に手ひどく裏切られたりしていると、「とても信じられない」という不信感が芽生えるでしょうし、場合によってはその不信感は巨木にまで育つでしょう。世界のイヤなところばっかり体験していると、世界は本当にイヤなことしかないように思えてくるでしょうし、たまにイイ人がいたりしても偽善者のようにしか映らなかったりもするでしょう。
そうかと思うと、そんな劇的なガビーンはないのだけど、これまで生きてきた経験データーで、「ま、世の中、こんな感じ」と思ったりもするでしょう。
いずれにせよ、僕らがこれまで生きてきた無数にある体験と記憶とで、僕らは世界のありようをおぼろに察知し、また自分の好みというか価値観、世界観を育んできます。それはきわめて自然なことでもあり、健康なことでもあるのですが、それだけで塗り固められてしまうかどうかという視点もあると思います。それが今回書こうとしている「風の抜け道」です。
風の抜け道は、僕らが抱いている価値化や世界観のなかに一本とおって向こうの世界につながるものです。これまで生きてきたさまざまのデーターに影響されないで、ぽっかり空のままスカッと抜けている部分です。
あなたはライフワークを見つけてしまったと思うかもしれない。それは、この世のために何ほどか、ささやかな、しかし確実な貢献をもたらすものであり、その作業は誰が考えても意義も価値もあることだとします。それは環境保護のためのボランティア活動を組織したり、継続したりすることかもしれないし、政治活動であるかもしれないし、後進の育成かもしれない。あるいはもっとパーソナルに、子供をきちんと育てることであるかもしれないし、あるいは高村光太郎のように病弱なパートナーをいたわりながら日々を過ごすことかもしれない。対象は何でも良いです。あなたがそれに打ち込む以上、そこには何かしら素晴らしいものが宿っているでしょう。その素晴らしいものに触れつづけることによって、あなたの生きている時間もまた輝くでしょう。
その素晴らしいものを素晴らしい!と感じる度合が高ければ高いほど、あなたの人生もまた素晴らしく感じられるでしょう。それは素敵なことであるし、幸福なことでもあります。マザー・テレサやガンジーやリンカーンほどではないにせよ、おのれの信ずべき価値があることはイイコトですし、その価値観にしたがってまっすぐに生きていくことは何物にも代え難い充実感をあなたにもたらすでしょう。
ここまでだったら別に問題ないのですが、その素晴らしく感じる度合が高くなればなるほど、あなたの価値観は絶対性を増し、使命感のようなものを帯び始めるかもしれません。このあたりから段々息苦しくなってきたりします。
誰の世界観も、どこか歪んでいるのだと思います。
神様でもない限り、世界各地に同時に存在することが不可能である以上、そして時間を自由に操作できない以上、誰にとってもこの世の全ての出来事を同時に体験することは不可能です。そりゃそうですよね。今あなたがこの駄文を読んでいる瞬間にも、アフリカでは内戦が起こり、インドネシア沖にはサイクロンが起こり、ニューヨークの小さなアパートで移民のプエルトリコ人の家族がゴハンを食べてるかもしれないんだけど、そんなの知ったこっちゃないですよね。というか、壁一枚隔てた隣人が何をやってるかなんて、あなたが覗き魔でもない限りわかりませんよね。
だから僕らが遭遇する出来事なんか、世界の森羅万象からしたら「一部」と呼ぶのもおこがましいほど微細な一滴に過ぎません。不均一に混ざり合った、、というか混ざり合ってすらいない混沌としたスープの何十億分の1だけを味見して、甘いとか酸っぱいとかいってるだけに過ぎません。たまたま3回連続して甘かったら、そのスープが全部甘いかのように早とちりししちゃうのでしょう。
今自分がこう思っていることも、たまたま過去にそれを裏付ける出来事にしばしば遭遇した、という偶然のタマモノに過ぎないともいえるわけです。その意味では、僕らの世界観、価値観、ひいては自分が自分であること=人格なんてのも、そんなにエラそうなものではなく、単なる「早とちり」でしかないという見方も出来るでしょう。だから、誰の世界観も歪んでいて当然。
医者は、医学部に入る頃より人間の健康と病魔の世界に入ります。普通の人間よりも数百・数千回多く、他人の生死の境を見ることになるでしょう。だから、彼は普通の人よりも遥かに多く人間の健康や生死を見聞し、考える機会が多くなるでしょうから、その分野に関しては普通の人以上の見識を持つでしょう。それはそれで素晴らしいことでしょう。だけど、限られた分野で豊かの経験と見識を蓄積することが、同時に彼のトータルの世界観を歪ませる原因にもなるのだと思います。
僕がその昔やっていた法律の世界は、社会の病理現象を扱うことでした。破局した夫婦、破綻した会社、争い合う隣人、犯罪、朝から晩まで、争い、喧嘩、確執、闘争の世界です。だから、その病理現象については普通の人よりも詳しくなりますし、それなりに造詣も深くなるでしょう。だけど、それが僕個人のトータルの世界観を歪ませもします。なぜなら、あまりにも朝から晩まで病理をやってると、数的には圧倒的に多いはずの「生理」がわからなくなるのですね。早い話が、喧嘩のテクニックや原理、必勝法なんかには詳しくなっても、仲が良いときになにをやったらいいのか分からなくなるという。
お医者さんもそれと同じで、病気になった人間のことは詳しくなるかもしれないけど、逆に健康なときの人間が何をやってるのかがわからなくなる。多くの人は、医者がかりになってる時間よりも、健康に過ごしている時間の方が長いです。100日あったら病院にいってる日なんか1日あるかどうかでしょう。だから1対100くらいで、圧倒的に健康な時間(少なくとも医者の世話にならない程度の)が多いです。その圧倒的に多いはずの時間のことが(相対的に)よく分からなくなったりするのは、やっぱりバランスが悪いし、「歪んでくる」といっていいと思います。
健康関係のエキスパートは、よく「健康が一番です」といいます。それには異論はないのですが、それでは話が解決しない場合もあるのですね。早い話が、アメリカ・ブッシュVSフセイン・イラク問題は、「健康が一番」といっても何の解決にもならんわけです。北朝鮮拉致問題でも「健康が一番」といってても解決しません。真剣に離婚を話し合ってる夫婦、手形決済金の工面がつかずに苦悩する経営者、とりあえず明日の試験のプレッシャーに押しつぶされそうな受験生、学校のイジメ問題、日銀の景気浮揚策、道路公団民営化問題、僕の家の下水が最近詰まり気味だからどうしよう問題も、もうそろそろ車のバッテリーを交換したほうがいいかな問題も、「健康が一番」って言ってるだけでは解決しません。要するに「健康が一番」という指針だけでは、何も解決しない物事も結構ある、、、というより殆どそうだといっても過言ではないでしょう。なんだよ、健康なんか全然「一番」じゃないじゃん?という気もするわけです。「健康が一番」という哲学は、なにか一つの価値観に凝り固まって自分の健康すら損ねているような人に対して、「人生そればっかりじゃないでしょう?」というカウンターパワーとして語られるときに一番効果があるともいえます。
同じように法律だけで世の中廻ってるわけではないです。法学部なんぞに行きますと、この世界を網の目のようにめぐらしている法律を知り、その原理を知り、詳細を知りますから(ちゃんと勉強してたら、の話だけど)、この世の全ては法律によって規定されているように錯覚しがちです。でも、実際にこの世界を規律しているのは法律だけではないです。と言うよりも法律なんぞが出てくる場面など極めて限られています。違法性阻却事由に関する刑法理論をいかに理路整然と弁じられたとしても、虫歯一本治せません。近代市民法の生成をいくら唱えていたって、彼女から電話がかかってこない悲しい現実は何も変えられない。相続での骨肉の争いばかりを見ていたら、「遺言は大事です」と言いたくなるでしょう。だからといって、毎日毎日遺言ばっかり書いて生きてるわけにはいきません。
同じようにファイナンス方面に進んだ人は、この世はいかに老後の備えをするか、その一点のみに収斂されるかのように勘違いしてしまうかもしれません。格闘技や軍隊方面に進んだ人は、要するに世界の原理は「強いか弱いか」だけになってしまいがちです。はたまた、「美しいか美しくないか」、「成功するか失敗するか」、「珍しいか珍しくないか」、「ウケるかウケないか」、「信心深いか深くないか」、、、この世界を計るモノサシというものは無数にあります。逆にいえば、「モノサシが複数ある」という事実は、それらのモノサシのどれもが不完全であるということの証拠にもなるうるでしょう。
これほどまでに専門的にスペシャライズされていなくても、僕らはひとりひとり自分のたまたま遭遇してきた経験によって、自分だけのモノサシを持っているでしょう。それには多分に自己正当化欲求も入ってくるでしょうし、その反作用もあるでしょう。たとえば、サラリーマンを思い切って辞めて独立した人の世界観は、ともすれば「一国一城の主になるかどうか」的なものになるかもしれない。逆に、定年までひとつのところを勤め上げた人は、「継続は力であり、継続こそが尊い」という価値観にいくかもしれません。はたまた、その逆に、「隣の芝生は青い」的に、自分の出来ないエリアがすごくよく見えたりするかもしれません。結婚した人は、結婚生活が生み出す人間相互の触れあいの深さに人生の意義を感じるでしょうし、独身の人は自由な環境での自己実現の尊さを語るかもしれませんし、その逆かもしれない。
繰り返しになりますが、僕らはこれまで、時には自らの意志で選びつつ、しかし多くの場合は単なる偶然で、いろいろな物事に遭遇してきました。で、結果として今にいたっているわけであり、自分なりの(意志と偶然の産物である)世界観やら価値観を持っているのでしょう。
多くの人は、賢くも、自分の世界観が結構スカスカで根拠薄弱であることを知ってると思います。そもそもこの分業経済社会では、誰もがなんらかのスペシャリストになることが求められ、スペシャリストになるということはその分「偏る」ということでもありますから、それを普通に認識できるだけの知能を持ってる人だったら、「ああ、俺、多分偏ってんだろうなあ」と思うでしょう。
でも、時として遭遇した出来事のガビーン度が高すぎて、「もう、それきゃない」みたいになっちゃう人もいるでしょう。特に宗教方面に多そうですね。熱心な信仰を抱きつつも、「神様もねー、いるんだか、いないんだか」とか「俺、もしかしてまるっきり間違ってるかも」なんてクールに思いにくいですからね。あと、宗教的になりがちなのは、いわゆる「イイコト」系ですね。ボランティアのNPOとかやってたりすると、どうしてもそこに価値の源泉があるかのように思いがちで、人によっては唯我独尊になったりもします。
「こんなにイイコトやってるんだから」「こんなに人のために頑張ってるんだから」という言い訳を持ち出す人って結構います。ボランティアだろうが、慈善事業だろうが、日々の具体的な内容は、99%普通の営利団体と変わらないと思います。電話の受け答えはハッキリする、メモはしっかりとる、伝言はしっかり伝える、帳簿はしっかりつける、コピーはちゃんと取る、アポイントは守る、交通法規は守る、、、などなど。イイコトやってるんだから多少仕事に手を抜いても許される、なんてこたあないです、絶対。
実際、僕もその昔NPOなどにちょっとタッチしたことがありますが、ああいう団体というのはむしろ一般企業以上にクールで切れるマネジメントをしないと成り立たないよなあと感じました。対外PRにしても、「イイコト言ってるんだから皆も聞くべきだ」みたいなスタンスでは何もはじまらない。「イイコトって大体において詰まらないもんね、NHK教育といっしょで」というクールな認識がまず必要ですし、詰まらないものをどう世間に売り込むかということで、広告代理店ばりの戦略とかセンスがいると思います。それに大体において万年金欠だから、それだけにクレバーな金銭処理が必要。
一番面倒なのは人事。ゼニカネでやってた方がなんぼか楽かもしれない。多くのNPOは入社試験とかやらないし、志を同じくする者は拒まず的にオープンにやろうとしますが、そうなると構成員の能力の差がバリバリ出てくるし、「善意なんだけど使えない」という人も大量に出てくる。「使えない」という表現はキツく聞こえるかもしれないけど、本当のこといったら「居るだけ邪魔な人」だっているでしょう。抽象的な善意だけを高らかに語りながら、コピー一枚取ろうとせず、華やかは仕事ばかりやりたがり、皆の邪魔をしてるとか。ハッキリいって、NPOの現場の苦悩は、こういった邪魔な人々にどういう仕事を割り振るか、それを考えるだけでエネルギーの大半を費やしてしまうという現実だと思います。オーストラリアでボランティアをやってみたいと思っておられる方も沢山いるでしょうが、肝に銘じておかれるといいです。使えない奴が現場にいることくらい邪魔なことはない、と。それは皆が自分の時間を削って無償でやってるボランティア事業においてこそ厳しいと。これが仕事だったら、「やってもやらなくても給料出るもんね」という逃げ道が現場にあるけど、ボランティアは逆にそういう面がないだけ大変だと思います。
ところで、イイコトをするのって結構難しいですよね。イイコトをしようと思った瞬間に、「イイコトをしているワタシ」という妙な自意識が芽生えちゃって、ある人はそれに酔い、多くの人はその自意識の置き場に困ったりします。「なんの気なしに」出来たら自然で一番いいんですけどね。
イイコトというのは、実はそれほど他のコトとキッチリ区分がつかないように思います。いわゆるイイコト以外の、例えば会社などの営利団体の行為は全部悪いことか?というとそんなことはないです。企業は全て詐欺まがいのことをしているわけでもないです。「商品」だって、人々が求めているものでなければそもそも売れません。麻薬とか武器とかでもない限り、人々が求めている物を供給するということは基本的にはイイコトとも言えるわけです。対価報酬をもらわなかったらイイコトで、報酬をもらったらいきなり営利事業になるかというと、世の中そんなに簡単でもない。組織を運営する以上絶対経費はかかるわけだし、実費程度は受益者負担にしてもらわないと廻っていかないケースも多々あるでしょう。その「実費」に、会計的に言うと営業経費/営業外経費に、構成員の人件費を含ませていけば、収支トントンで廻っている一般企業と経済的実態で言えば殆ど同じでしょう。そしてそのイイコト活動を持続性あるものにしようとすれば、専従職員への適正な給料は絶対払うべきでしょう。カスミを食って生きろみたいな無茶な要素が含まれている経営は、経営としては失格だと思いますしね。収支の足りない部分は「国から補助を受ける」という道もあるのですが、国のお金だってもともとは皆の税金だし、他者に負担を求めていることに代わりはないでしょう。
NPO(Non Profit Organisation)とPO(Profit Oraganisation)の区分は、実は非常に難しいともいえます。両者の区別は、抽象的に言えば、その組織の究極の目的が利益の極大化であるか、そうでないか、ということになるのでしょう。もっといえばNPOの正確で積極的な定義は不可能だともいえるでしょう。「究極目的が営利でないもの」という消極的な定義でしかない。インターネットでばーっと巡回してみても、これといったものには当たらなかったです。「公益性」という観点も重要なキーワードになりそうですが、営利企業だって公益に反するものは許されないですから(必殺仕事人みたいな殺し屋請負業とか)、公益といっただけでは区別にならない。強いていえば「究極目的の」公益性ということでしょうが、「究極目的」といっても、ぱっと見てわかるものでもないですしね。
この曖昧さは、特に日本においては顕著でしょう。欧米、特にアングロサクソン系の「ハッキリしている人たち」の場合、株式会社などを典型とする営利企業は、会社は所有者(株主)のものであり、インベストメント(投資)のマシーンであるという認識がハッキリしてますし、株主総会も活発だし、配当を出さないとガンガン経営者の首が飛びます。でも、日本の場合、そこまでドライに乾いた認識で会社やってるわけではないです。株式は持ち合っているし、配当目的で一般投資家が投資するという風土は、まあ無いですし。企業の自意識にしても、例えばパナソニックで未だに受け継がれているという松下家家訓なんかも、非常に倫理的ですし、それを聞いてる限りはまんまNPOみたいです。
また「正直」「勤勉」「倹約」を基本とした「人の人たる道」を説いた江戸時代の石田梅岩心学あたりから、日本の「商道徳・勤労哲学」は日本の民衆に広く深く染み渡っています。これは21世紀の現在においてもまだまだ深く染み込んでます。だから日本人の仕事に対するプライドと美意識の高さは世界でも突出してるでしょう。実直な鉄道員を描いた健さん主演の「ポッポや」でも、健さんがああまでストイックに働くのはなぜかというと、「金のため」じゃあないですよね。日本人だったらこのあたりはすっと理解できます。「あれだけ働くんだからよっぽど給料がいいいんだろうな」と思う日本人はいないでしょう。むしろ「まあ、大した高給ではないだろうな」と思いますし、「安月給で実直に働くこと」に価値を見出したりします。だもんで、日本古来の「営利活動」というのは、「商人道」という倫理性の高い哲学と二人三脚でやってきてますし、営利と公益とが矛盾なく同居したりしています。それだけに、営利団体と非営利団体というのは、そーんなにスパッと割り切れないです。
現在NPO法案とかで議論されているのは、むしろその類似性に着目して、NPOも営利企業と同じように法的に整備されるべきだというのがポイントだと思います。なんせ日本は明治維新でいきなり西洋法体系をドカンと移植しましたから、日本古来のカルチャーにあってない部分も多いです。西欧的な「公益はまず第一に国家が、そして教会組織が行い、営利企業は投資のため」というハッキリした区別が日本はないです。それは未だにそうです。だって「老後の面倒は子供はやらず、国が行い、きちんをそれを行わない為政者はさっさとクビにする」というカルチャーは、無いでしょ?そういった土壌の日本に、営利企業の会社法だけ移植したもんだから、それ以外の団体の手当が非常に立ち遅れています。技術的に言えば法人格が付与されにくい。公益法人もないことはないけど、もう財団法人とかそういう何億円単位の団体くらいしかないですもんね。だから、NPOをやりたくても株式会社にしないんだったら、預金通帳ひとつ団体名義でつくれない、事務所の賃貸も代表者の個人名義・責任でやらねばならない、ドメインも取れない、という面倒くさい現実があるわけですね。「権利能力なき社団」という最高裁の昭和39年判決で述べている定義でカツカツやってきているのが実情だったりするわけです。ちなみに、日本では平成10年から特定非営利活動促進法(NPO法)が制定され、12月から施行されているのは周知のとおり。ところで、平成10年っていつだ?1998年ですか。もひとつちなみに、この法律去年にも一部改正されてます。
話はどんどん逸れてますが、イイコトというのはそれほど自明ではないです。営利=悪人、公益=善人なんて子供じみた二元論なんか入り込む余地はないです。イイコトというのは、実は皆さんがお金貰って働いている職場でこそ、もっとも効率よく出来たりすることもあると思います。心学的にいえば、接客中、ちょっとばかり素敵な笑顔で誠実に対応するだけで、接客された人は一日いい気分で過ごせるわけで、充分にイイコトだと思うのですね。さらに上級職にあがって、より決裁権が広がれば、それだけイイコトパワーも広がるでしょう。別にわざわざボランティアなどに行かなくても、今ある仕事をキチンとやるだけで、随分違ってくるとは思います。
ところで、充分な日本語読解力をもっている皆さんには断るまでもないとは思いますが、僕は別にボランティアとかNPOを揶揄したり、ディスしてるわけではないです。営利VS公益という、イイコトにまつわる概念弁別が、ともすればナイーブでチャイルディッシュになりがちだから気をつけようねと言ってるだけです。もともと営利企業であっても公益性を目指しちゃうという日本カルチャーの特殊性があるのですから、その風土、そのヴァージョンにあわせた方がいいのでしょう。だいたい「きちんと仕事をする」というだけでもう充分イイコトになってしまう日本の場合、それ以上に「イイコト」と考えると、もう「滅茶苦茶イイコト」になってインフレ化しますからね、妙に晴れがましくなって、居心地悪くなったりする場合もあるでしょう。
ですのでNPOやボランティアやってる人は、もうガンガン、クールにマネジメントしたらいいと思うのです。給料もガンガン高給を取ったらよろしい。民間企業に負けないくらいの高給を払うことで、よい人材を得ることができるならば、結果としてその効果は数倍になりますからね。本旨に反しない限り、ガンガン他人から金もとったらよろしい。キャラクターグッズもTシャツも作って高値で売ったらよろしい。イイコトって、ある意味イイヒトだったら出来ない部分もありますからね。もっともNPO法に基づくNPO法人化の手続を概観した限りでは、株式会社作るよりも難しそうだから、それなりに現実事務処理能力がないと出来ないとは思いますが。
逆にボランティアなんてのは、アナタの職場でもいくらでも出来るのだと思います。ボランティアの本旨は「自発性」ですし、「やってもいいし、やらなくてもいいんだけど、他人のためを思ってやること」がボランティアだと思います。だから、店頭にいるアナタが、商品購入にお悩み中のお客さんに、「これ一見良さそうですけど、○○という機能がイマイチという声も多いですし、あと3ヶ月まったら上位機種が出ますから、もうちょっと待った方がいいですよ」とこっそり耳打ちするのも充分ボランティアになってると思います。あなたはそう思わないかもしれないけど、僕はそう思います。
話は放物線を描きながら逸れていきました。
話をもとにもどします。風の抜け道です。
ということで、所詮は「たまたま」にすぎない自分の価値観や世界観をそれほど過大に思わないほうがいいと思います。多少、スカスカ気味に。だからといって別にシラけた方がいいよと言ってるんじゃないですよ。「これだあ!」と思って寝食忘れて没頭するのは素晴らしいことです。これに一生を賭けようと思える物事に出会えるのも素晴らしいことです。ガンガンやったらいいと思います。まずそれが前提。
ただ、ガンガンやりつつも、風の抜け道一本だけ残しておくと、風通しがよくなって良いのではないか、ということです。めちゃくちゃ盛り上がってやってるんだけど、「でもねー、所詮は俺が思ってることだから、もしかしたら全然違うのかもね」という部分ですね。抜け道はそんなに太くなくていいです。壁の上にある空気抜きくらいでいいです。
理想の「抜け道」は、本当に子供のままの「空」になってるものです。Aという価値観を選んだけど、いちおうBの余地も残しておこうというBという抜け道ではなくて、本当に何にもないカラッポの道です。今僕がここでツラツラ書いていることは全部理屈です。理屈に引っ張られて、「ああ、もっと視野を広く持とう」と思うことも悪いことではないですが、できればもっと純度の高い風の抜け道の方が好ましいように思います。
バイアスゼロ、先入観ゼロ、3歳のときと同じように感じられる感性ですね。そこを残しておける人はいますし、そういう人は、やっぱり「いいなー」と思います。
写真・文:田村
写真は、icecream vanと呼ばれるアイスクリームの巡回販売車に群がる人々。ロックスの先っぽ、オーストラリアデーの暑い日の午後。このアイスクリームヴァン、いつも同じカラーですよね。巡回して走るときはなぜかグリーンスリーブスを流します。なんかキマリでもあるのだろうか。
★→APLaCのトップに戻る
バックナンバーはここ